思い出の酒場
シャーティア湖でのボート遊びを堪能した後、私達三人はヴァンデルガントの町に戻り、夕食の店をどこにしようかと話していた。
「お店、私が選んでもいいですか?」
「……ええ。好きになさい。食べたいものでも、店の雰囲気でも」
レティシアが店を選んでみたいと言うので、夕暮れ時の街路を歩きながら、見繕っている。
「――あの店はどうですか?」
レティシアが指さした先は、酒場だった。
看板は、黒々とした鉄の棒を曲げて、ビールジョッキを持った二本足で立つ猫が形作られている。
ユースタシアにおける看板にはいくつか決まりがあって、たとえば、ジョッキのモチーフを看板に使えるのは、酒を出す店だけだ。
別にそれを取り扱っているからといって、関連モチーフの看板を掲げなくてはいけない決まりはない。
しかし、客と店、お互いの利益のために、大抵はメインで取り扱うものをモチーフにした看板が使われる。
今では全国的に識字率も高いが、昔はそうではなかった。看板にアイコニックな物が多い理由の最たるものだ。
しかし、この看板は。
「この、店は……?」
シエルを見ると、彼女は黙って頷く。
看板に視線を戻した。
「……知ってるお店ですか?」
「ええ」
レティシアの問いに、看板から視線をそらさずに答える。
よく……知っている。
店主が替わっていなければ……だが。
「昔、『実家』を出て、シエルとこの町で暮らしていたことがあるのよ」
貴族としての立場をぼかしながら語る。
「……シエルさんと? 二人きりで?」
レティシアが私達二人を交互に見る。
「十四の頃……路銀を稼ぐために長期滞在中の旅行客という設定で、一定額を稼ぐ……という課題を、父から与えられたの」
最初、シエルが設定した課題かと思ったら、ヴァンデルヴァーツ家当主に課せられる貴族教育の一環だった。
父も、今も本邸で勤めてくれている執事と共にやったらしい。
補佐が付き、特に期限がないこともあり、生活を体験するという意味合いの方が大きい。
それでも、ほとんどの令嬢・令息は一生体験しないだろう内容だ。
とはいえ、ユースタシア王国の公爵家に限ってはそうではないかもしれない。
男女問わず戦士団での修行を課されるハルガウ家に、自家の商会に身分を隠して勤めるヴィルツシャフト家など、それぞれの領分を、それぞれのやり方で教育されるようだ。
王国に三家ある公爵家は、一人ずつ娘がいて、同格の家に生まれた同士ということで親近感はあるのだが、お互いに名前を知っている程度だ。
家自体、仲が悪くはないが良くもないので、個人的な交流もない。
他の二家は当主が健在で、二人はまだ令嬢であるという立場の違いもある。
シエルが、レティシアに向けて補足した。
「湖で食べた魚の燻製を作ったのも、その時ですね」
「ああ、なるほど……」
レティシアが納得顔になる。
「……懐かしいわね、あの部屋。狭い二人部屋で、食事なしだけど調理場と、共用の洗濯場があって……」
「はい。懐かしいですね」
シエルが、かつての教育係としての立場で、昔を懐かしむように目を細めて微笑んだ。
レティシアが戸惑い顔になる。
「二人部屋……ベッドは一緒だったり?」
「え? そりゃ別よ、もちろん」
なぜそんなことを聞くのか。
「……他の所でも働かせてもらったけど。ここが拠点だった……わね」
厨房で洗い物と、夕方から夜にかけて、酒場が忙しくなる時間には接客。
……初日には皿を五枚割り、二日目はよろけて客に酒をぶっかけ、三日目は尻を触ってきた客に酒をぶっかけ……クビにこそならなかったが、シエルのフォローがなければどうだったか。
そっとひとり枕を濡らすほど純朴ではなく、しかし自分の非力さが情けなくなってどんよりと落ち込む私に、シエルが優しい言葉をかけてくれて、なんとか持ち直した。
そんな私も一月後には、酒場の看板娘として可愛がられるようになった。
初回は反射的に運んでいた酒をぶっかけていた酔客のセクハラも、すねに蹴りを入れてから、悶絶する相手に「お客様。領軍に通報されたくなかったら相応の誠意をお見せください」と言えるまでに、成長した。
ユースタシアの王国法では不埒な行為は犯罪だし、私は公爵家の令嬢だ。
ギリギリまで立場を表に出さないというのが条件だったが、乙女の貞操と誇りをないがしろにする輩に膝を折れるほど、ウォールリザードの血筋は安くない。
なにより私の背後にはシエルがいた。
私の安全に責任を持つ身として、かなり本気で怒っていた――と思う――ので、ある程度入った財布の中身で済ませるのは、むしろ温情。
そういう背景があっての死ぬほど強気の対応と、たまのシエルの実力行使の甲斐あって、客の筋がかなり良くなった。
用心棒がいないこともあって、そういう手合いの客には苦労していたらしい。
私のような世間知らずの貴族令嬢が自然に溶け込めたのは、看板娘・兼・用心棒のような存在として、店主や同僚が受け入れてくれたからだろう。
「じゃあ、このお店で決まりですね!」
明るいレティシアの声に、私はうつむいた。
妹が心配そうな表情になる。
「……なにか、あったんですか?」
「……いいえ。なにも、なかったのよ」
何も、なかった。
無事に目標額を貯め、旅を再開すると告げた時、酒場の女性店主のカミラは、ここでもっと働かないか……いっそ、この街に留まらないか、と言ってくれた。
ヴァンデルガントの領民としての申請をするなら手伝うし、望むなら養女にして、将来は店を譲ってもいい、とまで。
そんな未来が、あったろうか。
シエルと二人で旅をして。気に入った街に留まって。
亡くなった母とまったく違う、けれど、ポンコツな日雇い娘を見捨てないでいてくれた、土地の者に慕われる酒場の店主を義母と呼んで。
まあ、七割方シエル目当ての勧誘だったとは思っている。
用心棒役を完璧に務めたシエルは、同時に、私以上に看板娘だったし、日に十回は酔客からアフターに誘われていた。……たまに女性にも。
でも、三割ぐらいは。
シエルのオマケでも、あの時くれた言葉は、本当だったと思う。
――そんな道は、なかった。
私はヴァンデルガントの領民にはなれない。私がなるのは、『領主』だ。
受け継がれてきたものを、守らねばならない。
私の肩にのしかかるのは、彼女達のような土地の者の生活だ。
他領、そして他国の干渉を許さず、王家の庇護から外れず、いざとなれば戦う。――領軍の血を流してでも。領の金庫を、ヴァンデルヴァーツの財布を空にしてでも、我が領に手を出した対価を支払わせる。
その決意を支える一つが、私がほんの少しだけ体験した、領での生活だ。
……私は、シエルの許可を取って、店主に全てを話した。
私がヴァンデルヴァーツ家の令嬢であること。
今回の旅は次期領主としての視察の一環であること。
……全部、嘘だったこと。
私のしたことは、人の心をもてあそぶような、貴族のお遊びに似ていた。
彼女は、驚いて、けれど納得して、口では許してくれたけど。
本当に許されたのかは、分からない。
私は彼女に対し、何かあれば一度だけ領主として便宜を図ることを誓った。
私はまだ領主ではなかったので、当時の領主だった父への事後承諾になった、彼女に与えた特権は……まだ使われていない。
私と彼女の間には、本当のことなんて、何一つなかった。
今さら、どの面下げて会えるというのか――
「行きましょう、お姉様」
それでも、妹が手を引いてくれた。
店に近づくにつれ、にぎやかな声が大きくなる。酒の臭いもするが、食事時であることもあって、いい匂いもする。一際強いのは香ばしい肉と香辛料の香り。
扉が開け放されている入り口の前で足を止めると、妹も立ち止まった。
レティシアが、つないでいた手を離す。
私は、かぶったままだった麦わら帽子を取ると、それに視線を落とした。
もう日は落ちて、帽子の要らない時間帯になった。
時間は過ぎていく。
変わらないものなんて、何もない。
ここはまだ、私が勤めていた『カミラの店』なのだろうか?
看板は変わっていない。けれど、居抜きの物件はよくある。
あれから、八年以上が経った。
店主が同じ保証など――温かく迎えてくれる保証など、何もない。
私にとっては、あの日々は大切な思い出。
でも。
カミラが私と同じように、あの日々の記憶を思い出として、大切に持ち続けているだなんてことが、あるだろうか。
妹に、そっと背中を押された。
振り返ると、にこっと微笑んでくれるレティシア。
……ここまでされて、まだ怖じ気づいていられるものか。
覚悟を決める。
ぐっと唇を引き結ぶと、一歩を踏み出した。