ボートの上のふたり
「ボートを一艘お願いします」
「はい、貸し出しは金貨一枚と銀貨三枚になります。金貨は保証金となり、ボート返却の際にお返しします。――ボートに乗られたことはおありですか?」
レティシアが首を横に振った。
私とシエルが頷くのを見て、女性係員が笑顔で続ける。
「はい。それでは簡単にご説明させていただきます。常に姿勢は低くして、急にお立ちにならないよう。オールを落とした場合、湖に転落した場合など、緊急の場合は、助けを呼ぶのと同時に、できるなら白い手旗が備え付けてありますので、それを振ってください。目を配っておりますので、担当の者が参ります。また、浮き輪、ロープ、ナイフが安全装備として積んでありますので、必要に応じてお使いくださいませ」
なめらかな説明に頷いた。
「『レティ』。いいですわね?」
「は、はい」
必死な顔で頷くレティシア。
「姿勢は低くして、急に立たないことだけは徹底なさい。普通にしていれば落ちませんし、落ちれば助けます。危険な生物もいません。海に比べれば波もないし安全ですわ」
「……はい」
レティシアが安心したように頷いた。
代金の支払いはシエルに任せ、私は白く塗られた木製のボートに乗り込んだ。
座席代わりに張られた板に腰かけながら、ボートと同じ白に塗られた二本のオール、赤と白の二色で塗り分けられた木製の浮き輪、ロープ、手旗、ナイフをそれぞれ確認する。
オールは二本共、細い紐で結ばれていて、そう簡単には湖に落ちないようになっていた。
水面に浸けないようにして軽く動かして確かめると、こぐ動きの邪魔をしない場所に結ばれていて、オール受けもしっかりしている。
事故の兆候はない。よく整備されている。
このあたりの規則は、ヴァンデルガントは他領より厳しく、それゆえに事故は少ないし、大きな事故になることも少ない。
言いつけ通り姿勢を低くして乗り込むレティシアに手を差し伸べると、妹はその手を取りながら微笑みを返してきた。
「っ……!」
可愛すぎて心が事故る。規則を厳しくして大きな事故になるのを防ぐべき。
「アデル姉様?」
「……なんでもないわ」
妹に言えないことばかり増えていく。
「それでは行ってらっしゃいませ。特に時間制限はありませんが、日暮れには戻られますよう。ごゆっくりどうぞ」
「二人共、行ってらっしゃい」
店員のお姉さんとシエルに見送られ、オールで桟橋を突いて離れ、こぎ出した。
白く塗られたボートが、風のない鏡のような湖面をゆっくりと滑るように進んでいく。
シャーティア湖は、ヴァンデルガント最大の湖というだけでなく、湖水の美しさでも有名だ。浅い場所は鮮やかな青緑で、深くなるにつれて緑が薄くなり、青が深みを増していく。
さらに今日は天気がいいために、湖のほとりを通る遊歩道の脇に植えられた木々の緑に、空の青を映し、緑も青も一段と美しく見せていた。
そんな光景を前にしながら、レティシアは、妙にそわそわした様子だ。
「……なにか?」
「いえ、別に……」
いつになく歯切れが悪い。
……やはり私と一緒では、楽しくなかっただろうか。
「おね……アデル姉様は、ボートをこぐのがお上手ですね」
「練習しましたから、ね」
レティシアが目をしばたたかせた。
「練習?」
「――私は、ヴァンデルヴァーツ家の次期当主として教育を受けた。その『成果』ですわ」
今は湖の上で、周りに他のボートもないので、演技の割合を減らして自分の過去を語る。
水泳に関しても手ほどきを受けた。
普通に水泳着で泳ぐのはもちろん、潜水に着衣泳まで。
「……いつ、どこでそんな?」
「シエルに教えてもらったことが中心ですわ。後は、成人後に、グランドツアー……同盟諸国への遊学の旅へ出た際に」
「グランドツアー……」
騎士練成課程の修了後、数ヶ月間に渡って行われた、時間も資金も贅沢極まりなく使った学びの機会。
まだ父は元気で、学ぶ時間はあるのだと思っていた頃のことだ。
「それで、ボートを?」
「海で帆船にも乗りましたわ」
救命ボートとして採用されることが多い、小型の帆付き手こぎボートの操船を基本に、グレイフィールド連合王国では、短期間だが帆船実習まで受けたのだ。
船員達には、割と可愛がられた。
船長から、新米船員だったら期待の新人だ、と言われるぐらいには。
「私、海に行ったことないんです。海の水って、本当にしょっぱいんですか?」
「しょっぱいですわね」
ユースタシアでは岩塩が主に使われてきたが、海塩も流通している。
近年は製塩技術の進歩もめざましく、また、国外からの輸入も増え、今では半々か、海塩の方が多く使われているぐらいかもしれない。
初めて海を目にした時は、目の前に広がるこれが全部、塩が溶け込んだ水かと思うと、宝の山かと思ったものだ。
「……ボートをこぐ技術って、貴族教育に含まれてるものですかね」
「……あれはちょっと特殊だった……と思うわ。うん」
泳ぎはもちろんとして、釣りに銛、素潜り漁に手づかみまで、海辺に一人流れ着いても、なんとか命を繋げる(かもしれない)技術も叩き込まれた。
広い視点が大事だ――とシエルは言っていたし、それは私の血肉になっているとも思うのだが、訓練内容は、妙にサバイバルに偏っていたような。
少し沈黙が落ちる。
レティシアは、じっと私を見つめた。
この湖のように、澄んでいるのに底の見えない青い瞳。
「――『お姉様』。何か、私に話したいことは、ありませんか?」
いっぱいある。
せっかくだからもっと海の話をしたいと思う反面、全部を語ると、何をやっているのかと思われそうで。
あくまで歴史と戦術の勉強の一環という名目だが、私掠船の商船襲撃……の対策の演習に『攻撃側』として参加した。
海上交易の重要性は年々増している。同時に、安全になりつつある陸の交易路より、海は危険性が高い。
盗賊――いや『海賊』側としては、当てればでかい『商売』だ。
帆船まるごと略奪に成功すれば、一味全員が、一生遊んで暮らせるぐらいの稼ぎになる。
しかし、悪銭身につかずとはよく言ったもので、大抵はいきなり手にした大金に振り回されて身を持ち崩すか、味を占めて実行した次の略奪に失敗する。
新しい造船技術に、新しい航海技術。海上の常識は日々書き換わっていく。
羅針盤の精度も天測の精度も上がり、航路を外れない、安全でスケジュール通りの航海が実現され始め……そしてそれは同時に、狙う側の精度も上げ、海上貿易のリスクを上げた。
毎日同じ道を歩く相手を襲撃するほど、楽なことはない。
なので、『防衛側』として攻撃側の戦術を知らねばならないのは、分かる。
ヴァンデルヴァーツ家は、攻撃側でもあり防衛側でもある、二面性を持つ家だ。それを学ぶことが無駄にならないのも、分かる。
しかし、一応は他国の公爵家、それも次期当主の筆頭候補である貴族令嬢に、ロープで敵船に飛び移らせてからの、船員用短刀での近接戦闘をさせるのもどうかと思う。
さすがに武器は木製で、当てたら終わり、という緩めの演習規則とはいえ。
なお演習後、船長には「食いっぱぐれたら海賊をやりな」と太鼓判を押され、船員連中からは"切り込み令嬢"のあだ名を頂戴した。
そういう異名は"冷徹非情のヴァンデルヴァーツ"だけでお腹いっぱいなのだが、私は仮にもヴァンデルガント領軍の騎士練成課程の修了者だ。腕を認められるのは悪くない気分だった。
同盟国だとしても、いや、だからこそ、我が領の騎士団の水準を低く見積もられ、舐められるわけにはいかない。
足技は卑怯、とか、足癖が悪い、とかなんとか言われた気もするが、蹴りを警戒しない方が悪い。
甲冑を着ての戦闘は、防御力が上がりすぎているがゆえに、殴打武器や長柄武器を使えない場合、足払いや蹴りなど崩し技を多用する。それを応用したまでだ。
仮にも騎士としての訓練を受けた者が剣を投げてくるとは思わなかった、とも言われたが、拾った剣、それも船員がいざという時に帆の綱や帆そのものを切断するために携帯する短刀に、そんな思い入れを求められても困る。
ちなみにシエルは、熱くなって事故が起きがちな演習を引き締めるための監督官として参加していた。
おかげでのびのびやらせてもらったが、万全を期すならその場の誰よりも腕利きでなくては務まらないのが、演習監督官というお仕事だ。
シエルなら務まるだろうなとは思うのだが、それをどうやって、同盟国とはいえ他国の軍人に認めさせたのかと思うと、彼女が自分の部下で良かったとしか。
指先でくるくると髪をいじる。
「……別に、話す必要もないというだけですわ」
こういうことを妹に話して、どうなるというのだろう。
まして、私が従おうとしている運命について、話せるはずもない。
「……必要が、なくても」
妹が、じっと私を見つめる。
全てを見透かすような凄みは、もう感じない。私より六つ年下の、十七という年相応の少女だ。
「私は、お姉ちゃんとお話したい……です」
『お姉ちゃん』。
妹が、どんな気持ちで、その呼び方を選んだのか。
いつもの言いつけでも、今日の視察の設定でも……【月光のリーベリウム】の公式ゼリフでもない――親しみのこもった呼び方を。
「お姉様、あるいは設定通りアデル姉様、と呼びなさい」
それは考えない。
考えてはいけない。
「レティシア。……私に何かを期待するのは、やめなさい」
「え?」
私のような女に、期待するものではない。
「『必要だから』。私とあなたの間に、それ以上のことは何もない」
【月光のリーベリウム】のシナリオ通りにするためには、主人公としての彼女が『必要』なのだ。
当主として、私はそのシナリオを否定できない。
【公式シナリオ】より素晴らしい未来を提示できない以上、私が選ぶのは定められた道を歩むことだけ。
「……知識を学びなさい。そして教養を修めなさい。いつか、自分で自分の道を切り開けるように」
当主としての椅子を用意された女が言うと、いっそ笑えてくる言い草だ。
けれど、願ってしまう。
【月光のリーベリウム】で語られない、【主人公】が幸福になった後の未来。
ハッピーエンドの向こう側で、レティシアが末永く幸せでいるようにと。
私のたった一人の妹には、幸せになってほしい。
自分ができもしないことを子供に望むのが、大人だとは思いたくはないが。
だからこそ……とも、年長者でお姉ちゃんとしては思うのだ。
「私があなたに望むのは、それだけですわ」
「……はい、お姉様」
レティシアが、静かに頷いた。
空気と共に、オールを握る腕が、重くなったようだった。
一転、ぱあっと笑顔になる妹。
「それじゃ、『アデル姉様』! それはさておき、今は仲の良い姉妹としてボートを楽しみながらお話しましょう。それが『必要』ですから!」
『レティ』が、設定を盾に切り込んできた。
……見えざる劇作家の設定したレティシアという主人公が空気を読めないのか、目の前の妹のメンタルが私の想像を超えて強靱なのか、判断がつかない。
必要という言葉を盾に妹にいじわるした身としては、突っぱねにくかった。
「……ええ、『レティ』。それが『必要』ですから」
「『必要』ですものね。『アデル姉様』」
妥協しあい、お互いにくすりと笑う。
――これは、本人には絶対に言えないが。
重くなった空気がどこかへ行って、オールを握る腕が軽くなって。
ボート遊びと会話を楽しむ余裕ができて。
妹と過ごす貴重な時間が、重苦しいものにならずにすんで、良かった。
絶対に言えないが。