ボート遊びのお誘い
しばらく、大袋に入ったマスチップスを交互に食べさせ合う私とレティシア。
そこでふと、じーっと私達を見てくるシエルの視線に気が付いた。
……しまった。羽目を外しすぎたか?
彼女は、無表情なので分からない。いや、薄く笑顔を浮かべているが、そういう無表情の一種だ。
怒っているのかもしれないし、逆に、本当に笑っている可能性もある。
歩み寄ってきた彼女が口を開く。
「アデ――」
「ほ、ほら!」
逆に、自分から距離を詰めた。
シエルが、目をぱちっとまばたきさせる。
「……これは、どういう?」
そして、自分の口元に差し出されたマスチップスを冷たい――のかどうかさえ、さっぱり分からない――薄灰色の瞳で見つめるシエル。
しどろもどろになりながら、どうにかこうにか言い訳をひねり出す。
「え、いや。その、深い意味はなくて……えーと、ほら。いつもお世話になってるから……?」
通るか……?
「ね? シエルお姉様」
通れ……!
「……ええ。ありがとう、アデル」
通った……!
差し出されたマスチップスを食べる姿も優雅なシエル。
私が初めて自由になる資金を得た時にプレゼントしたヘアピンこそ受け取ってくれて、その後も常用してくれているようだが。
彼女はそれ以上の何かを欲しがろうとしなかったし、彼女から私に対する私的な贈り物も、今も後ろで銀髪を留めている紺色のリボンだけだ。
けじめだ、と彼女は言った。
私は貴族で、彼女は使用人。しかし、養育係で教育係ということで、昔から頭が上がらない。
何かお返しをしたいと思い悩み、本人に聞いてみたことさえあるのだが、彼女は仕事をしているだけと譲らなかった。
そんなシエルに何かをあげられるのは、なかなか新鮮で、嬉しいことだった。
まあ、このマスチップス、さっきシエル本人が大袋で買ったものだけど。
後でいくらか出すべきか、銀貨一枚ぽっちでそんなみみっちいことを言えば、かえって彼女のプライドを傷つけるか……と、悩んでしまう。
シエルが、私が持ったままの大袋に手を伸ばし、すっと一枚を取り出すと、私の前に差し出した。
ほとんど反射的に食いつく私。
……今は視察中で設定の皮をかぶっているとはいえ、公爵家令嬢として正しい振る舞いだったろうか……とシエルを見ると、彼女は微笑んでいたので、ほっと胸を撫で下ろす。
レティシアも寄ってきたので、もう一枚差し出した。
「アデル姉様に食べさせてもらうと、美味しい気がします」
「ええ」
頷き合う二人。
「え、いや……味は変わらな……」
「そうしてもらえるのが嬉しいんですよ」
レティシアに笑顔を向けてもらえるのが嬉しくて、黙らされてしまった。
確かに、ちょっと楽しかった。
味が変わったかは分からない。
しかし、人間の味覚というものは、精神の影響を強く受ける。気分が良ければ安い料理も美味しいし、気分が悪ければどんな高いごちそうも美味しくない。
私は、昔は公爵家の令嬢、今は当主ということもあり、お歴々と会食する機会もあるが、まあ心の底から楽しかった食事など皆無だ。
一番豪華だったのは王城で、陛下やコンラート以下、王族に三公爵家の当主などが勢揃いした時だろう。あれは肩が凝った。
しかも向かいの席をコンラートにされたのは、せっかくの宮廷料理が不味くなる要素だ。
私が当主になってから、さすがに毒を盛られる前提で食事に臨んだことはないが、頭の片隅に置いておかなくてはいけない。
自分の屋敷ですら安心しきれているのかどうか。料理人のことは信頼しているし、シエル以下の毒味役も命を預けられる。耐毒訓練も真面目に受けた。
――それでも、心のどこかに、怯えがある。
私の妹には、毒に怯えない世界を与えたいものだ。
「ところで、レティはどうして湖に来たいと思ったの?」
「えっと……おススメされて……いいことがあるかもって……」
私の問いに対するレティシアの返答は、妙に歯切れが悪い。
使用人の誰かだろうか。
まあ領都の近郊にある、手頃な観光スポットではある。
ちら、とレティシアが湖面の方を見たので、私とシエルは、二人同時にその視線を追った。
白く塗られた手こぎボート。二人乗りで、オールが静かな湖面に差し込まれては水しぶきを跳ね上げて動いている。
「――お二人で乗られてはいかがですか?」
「え?」
シエルは何を言っているのだ。
ボート遊びにどういう理屈を――
「領民の中で人気のある娯楽を体験することも、無駄にはならないでしょう」
理屈は何にでもつけられるものだと忘れていた。
お遊びだ。茶番と言ってもいい。
こんなもので庶民の生活が本当に分かったりしない。上っ面で、上澄みだ。
……それでも、まったく知らないよりはマシだ。
そして、区分の上では『平民』だったとして、この上っ面や上澄みを知らなかっただろう、"裏町"育ちのレティシアが望むのならば。
妹が、真剣な表情で私をまっすぐに見つめる。
「――お姉様。一緒に、ボートに乗りませんか?」
応じなくてはいけない気がした。
――何かを、言わなくてはいけない気がした。
耳元で、ささやかれた気がした。
違う。頭の中で、音のしない声が聞こえた。
何を話すか考える時に、喋るほんの一瞬前に、頭の中に喋るべき言葉が思い浮かぶように。
そんな風に思い浮かんだ言葉を追うように、私は彼女の質問に答えていた。
「【ええ】」
私の素っ気ない返事を聞いた妹が、ほっとしたような笑顔になる。
「後、今はアデル姉様と呼びなさい」
「はい! ――アデル姉様」
嬉しそうに、名前を呼ぶレティシア。
……何がそんなに嬉しいのだか。
【イベント】でもあるまいし。