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空を  作者: 喜与海 凜
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プロローグ



 眩しい。太陽の光が強いんだ。きっと。

 もう9月だというのに、ここはまだ真夏じゃないか。

 全ての物の色が、強いビームを放つように僕の目に飛び込んできて、くらくらする。

「神さま……」

 絶望で天を仰げば僕を威圧する鮮やかな青。僕の知らない空……。





第1章 序



 バレエのレッスンから帰ってくると、じいじが来ていた。

「つばさ、おかえり」

 玄関まで迎えに来てくれてハグをする。

「ただいま。じいじ」

 じいじと私のいつもの習慣。

「うちに来るなんて珍しいね」

 じいじはあんまりうちに来ない。私がいつもじいじとばあばの家に行ってる。

「ケーキ買ってきてくれたわよ。つばさ、今食べる?」

 キッチンからママが聞いた。

「うん。あと、じいじの紅茶」

「…だって。パパ。よろしく」

 ママはじいじに場所を譲り、カウンターキッチンからダイニングテーブルに来て座った。

 だって、紅茶は生粋のイギリス人であるじいじが入れてくれた方が圧倒的に美味しい。


「つばさ、今度つばさのクラスに編入生が来るよ」

 お湯を沸かしなおし、ティーポットに慎重に紅茶の葉を入れながらじいじが言った。

「編入生?」

 じいじの青い瞳が私をじっと見る。

「それは、学長先生として言ってるの?父兄として言ってるの?」

 じいじは私が通う「光の原学園」の学園長だ。厳密にいえば、私がじいじが学園長をしている光の原学園中等部に通っている。

 祖父でもあり先生でもある。私たちの関係はちょっとフクザツになった。

「どっちも」

 じいじはそう言ってウィンクする。

「よろしくね」

 ――これを言いにきたのか。


 私が「光の原学園」(通称、光原)に進学することになったとき、じいじも私もそして、ばあばもパパもママも、「祖父と孫」が「先生と生徒」になることに対して自分たちがどういう感情を持つか、周囲がどう感じるか、ありとあらゆる想定をした。

 そしてルールを決めた。


 一.学校では「学長先生」と呼び、敬語で話すこと。

 一.周囲に祖父と孫ということを話さないこと

 一.学校では祖父母のことは話さないこと

 一.家では学長先生のことは話さないこと


 じいじは自分の娘であるママを光原には通わせなかった。でも自分の「理想の教育の場」を作ろうと光の原学園で仕事をしているのに、そこに自分の子どもを通わせないのは本末転倒だったと後悔していた。なので私には(もちろん私の意思があればだが)光原に入学させたいと言いだし、結果、私は光原に通っている。

 学校と家でのルールを最も実行しているじいじが家に学校のことを話しに来たって、なんかある……。きっと。





第1章


 クラウス・ルドルフス・クラヴィエ

 黒板にカタカナで名前を書く。

「よろしくお願いします」

 ぺこりと頭を下げる。教室中の視線が自分に集まっているのを感じながら。

「では、席は白川さんの隣、あそこです。白川さん、教科書とか見せてあげて下さい」

 先生に示された席に移動する。

 あ!あの子だ。サッカーやってた子。

「皆さん、1時限目の授業は国語ですね。先生がいらっしゃるまで、席に着いたまま準備して待つようにしてください。では、朝のホームルームは以上です」

 担任の先生が退出する。教室内の空気がゆるむ。

「白川つばさです。よろしくね」

 隣になったあの子が、にっこりとほほ笑みながら、右手を差し出す。

「よ、よろしくお願いします」

 僕はその手を受けて握手をする。

「教科書、見やすいように机くっつけるね」

 彼女は自分の机を動かそうとするので、僕は慌てて「こちらの机を動かします」と、言って自分の机を大きく隣へ動かした。

 彼女はちょっと戸惑いつつも、僕の意図を理解してくれたようで「ありがとう」と言い、机の中から国語の教科書を出した。二つの机の真ん中に置く。それからまるで独り言をつぶやくように「日本語、上手いね」と言った。

「祖母が日本人なので」

 僕は淡々と答えた。

「ああ!それでか――」

 彼女はそこで改めて僕に顔を向けると、何かがピンときたような顔で頷いた。

 たぶん僕の髪の毛が黒いので納得したのだろう。ドイツでもよく言われる。僕の祖母が日本人だと知ると「じゃあその髪はおばあちゃん譲りなんだね」と。

 だが、父方の祖母はドイツ人だけど黒髪だし、日本人の血だけはないはずだ。まあ父方でも母方でも、おばあちゃん譲りというのは間違ってはいないのだろう。

「白川さんは」

「つばさでいいよ。皆、そう呼ぶし」

「つばさ…さんは、サッカーが得意なんですね?」

 僕はあの日のことを思い出して聞いてみた。

 彼女はちょっと驚いたような顔をしてから笑った。

「得意っていうか……。名前が『つばさ』だしね!」

 名前がつばさだからサッカーが上手い?どういうことだ?

「えーと……」

 どういうことか聞こうとしたところで、国語の先生が教室に入ってきて授業が始まってしまった。


 僕の父はオーケストラでヴァイオリンを弾いている。父が所属しているオーケストラと日本のオーケストラの交流プロジェクトがあり、父は日本のオーケストラで指導と演奏をすることになった。それがここに来た理由だ。

 母はドイツ人の父親と日本人の母親の間に生まれたハーフで、日本で生まれ育った。母の両親は離婚してしまっているので、現在母方の祖母は日本で暮らしている。

 父が日本に行くことになったとき、母はめちゃくちゃ喜んでいた。

「だって、久しぶりにお母さんに会えるし、友達にも会えるじゃない!何よりも実家天国だし‼」

 ん?「実家天国」ってなんだ?

「え~っと。親孝行できるってことよ」と、ごまかすように言ってたけど。


 ヴァイオリン奏者の父は、当然のように僕にヴァイオリンを習わせた。物心がついた頃には……というか、ヴァイオリンを習い始めた時のことは憶えていない。気が付いたらヴァイオリンを弾いていた。  まるでおもちゃのようにヴァイオリンに触れていて、そこにあるのが当たり前だった。

 小学校の入学と同時に、父は新しいヴァイオリンの先生を僕に紹介した。白髪で姿勢が良く、いかにも紳士といった老人。

「クラウシィー、こちらハインリヒ先生。今日から君のヴァイオリンの師匠になる。私もハインリヒ先生にヴァイオリンを師事してきたから、私と君は兄弟弟子だな。パパじゃなくて兄貴って呼んでいいぞ」

 そう言って父は笑った。僕は緊張でちっとも笑えなかった。

 そんな僕を見てハインリヒ先生は言った。

「クラウシィー。君のママは日本にルーツがあるって聞いたよ。日本語ではMusikのことをオンガクっていうそうだ。知ってるかい?」

「知りません。」

「うん」

 知らなくてもいいんだよというように頷いてハインリヒ先生は僕の頭をなでた。そしてこう続ける。

「オンガクって言葉は、音を楽しむって書くそうだ。なんてすばらしい言葉だと思わないかい?」

 先生は優しい瞳で僕をじっと見つめた。

「ドイツ語のムージクという言葉はね、もちろん英語も同じなんだけど、女神たちの芸術技っていう意味だ。君はこれからきっと、この『女神たちの芸術技』に魅了され、夢中になったり、惑わされたりする。時には挫折も味わうだろう。真摯に向き合えば向き合うほど、傷ついたり嫌になることも多くなるはずだ。だが――」

 先生は屈んで目線の高さを僕に合わせ、そして僕の両手を取ってその大きな手で包んだ。

 先生の手の温もりが僕の手に伝わってくる。

「どんな時も忘れないで。オンガク、音を楽しむ、ということを」

 先生の優しい瞳に強い光が加わる。

「日本のルーツを持つ君だからこそ、この言葉をお守りにすればいい」

 そして僕は母から日本語を習い始めた。

「音楽」という言葉をお守りにするために。



 1時限目の授業が終わる。

「2時限目は体育なんだけど……」

 つばささんが教室を見渡す。

「シュート!」

 シュ、シュート?サッカー?

 一人の男子生徒に向って手を挙げた。

 ああ、なんだ。名前か。

「なに?」

 何人かの男子生徒と話をしていたシュートくんが、つばささんの方に来る。

「次の体育、クラウスをよろしく!更衣室とか体育館とか、教えてあげてよ」

 つばささんは気軽に申し付ける。

「あ、あの。でも」

「了解!」

 僕の言葉を遮るように、シュートくんは気軽に引き受ける。

「あ、オレ、柴崎脩斗。よろしくな」

「あの、柴崎くん」

「脩斗でいいよ」

「じゃ、じゃあ脩斗くん」

「だから、脩斗でいいって!呼び捨ての方が仲間って感じでカッコいいじゃん!」

 そ、そういうものなのか?

 日本人は礼儀とか気にするからきちんとしなさいって言われてたけど……。

「あの、しゅ…脩斗。僕は体育を見学するかもしれなくて」

「え?なんで?体操着持ってないとか?」

「もしかして、クラウス、体調悪い?」

 脩斗に続けてつばささんが心配そうに聞く。

「い、いや。あの。実は、僕はヴァイオリンを弾くので、手を痛める可能性が高いものは見学することになっていて……」

「手を痛める可能性が高いもの?」

 脩斗が聞いた

「例えばバレーボールとか。バスケットボールとか器械体操とか……」

「ああ。なるほどね~。脩斗、今日の体育、何やるの?」

 つばささんが頷き、そして脩斗に聞く。

「陸上。100mと200mの記録計るはず」

「じゃあ、大丈夫なんじゃない?脩斗、体操着クラウスに貸してあげてよ。脩斗は部活用のを着ればいいでしょ?」

「おお!了解!」

 二人は僕にかまわずどんどん話を進めていく。

 そして脩斗は布製の袋に入っていた自分の体操着を僕に手渡した。

「クラウス、これな。お前、背が高いから、ちょっと小さいかも。勘弁な」

「あ、ありがとう」

「更衣室、こっちだぜ。行くぞ」

 僕は慌てて脩斗の後を追う。

 靴は大丈夫か?とか、体育館はあっちだけど、今日は校庭で授業だとか、体育の先生の名前とか性格とか、脩斗は細々と教えてくれる。

 つばささんといい、脩斗といい日本人は親切だ。


 体育の授業は脩斗が言っていたように陸上の短距離走。タイムを計るため二人一組でスタートする。僕は脩斗と走ることになった。

「クラウスはどこに住んでたの?」

 100m走で順番待ちをしているとき、脩斗が聞いた。

「ドイツ。ミュンヘン」

「ワオ!ミュンヘン!バイエルン・ミュンヘンがあるじゃん!めっちゃサッカー強いじゃん!」

「サッカー、好きなの?」

「オレ、サッカー部だし」

 あ!いわれてみれば、この学校へ初めてあいさつに来たときつばささんとサッカーやってたのは脩斗だった気がする!

 そのことを脩斗に言うと

「ああ。あいつ、めちゃくちゃ上手いんだ。さすがつばさって名前だけあるよな~」

 ???

 まただ。名前でサッカーの上手い下手が決まるのか? なんで?

「あの……。なまえとサッカーって関係あるの?」

 思い切って聞いてみる。

「あれ? おまえ、知らない? 『キャプテン翼』。ドイツではやってないのか?」

「キャプテンツバサ?」

「アニメ!サッカーの」

 あ!「Die tollen Fußballstars」か!

 あんまりよく知らないけど主人公と同じ名前ってことか。

「まあ、あいつの本業はバレエだけどな」

 バレエ?

「次!柴崎とクラヴィエくん!」

 ちょうどその時僕らは先生に呼ばれた。

 スタート位置に着く。

「位置について!用意!」

 ピーッ!!!

 ホイッスルが鳴って、スタートを切る。ちらっと横を見ると、だいたい同じくらいの速さで僕らは走っている。やっぱり脩斗はサッカー部だけあって速い。


 ほぼ同時にゴールしそれぞれの記録を計っていた記録係がタイムを読み上げる。

「脩斗、12秒32。」

「クラヴィエくん――11秒89」

 先生が記録係のストップウォッチを確認するように覗き込む。

「うん。11秒89。すごいな。中学生の全国大会クラスの記録だよ。クラヴィエくん、陸上やってたの?」

「体育の授業でやってましたけど」

 ヴァイオリンを優先するために手を使う競技ができないので、体育ではずっと短距離走をやっていた。

「クラウス!スゲエよ!おまえ!」

 脩斗が感心したように言う。

「たぶん、僕の身長が高いからだと思うよ」

 ドイツでは、まあ速い方だったけど、僕より速いヤツがいたし、身長が皆より高いから歩幅が広いだけだ。

「よしっ!おまえ、今度の球技大会サッカーな!つばさとツートップで、めちゃくちゃ速い攻撃できるぜ!」

 脩斗が訳の分からないことを言う。足が速いだけでサッカーができるとは限らない。しかも、「球技大会」ってなんなんだ?

 でも、脩斗があまりにもワクワクした顔で僕に言うから、つい「うん」と頷いてしまった。





第2章 序


 玄関に見慣れないパンプスがあった。お客様だ。リビングからきゃいきゃいした声が聞こえてくる。 女子会ってやつですか?もう女子って歳じゃないんだろうけど。

「ただいま」

 お客様に挨拶をしようと、リビングに向おうとすると声がかかった。

「つばさ~!お帰りなさい!」

「つばさちゃん、始めまして。クラウスがいつもお世話になっています」

 背の高いきれいな女性。ママと同じくらいかもっと高い……っていうか、ん?今、クラウスって言った?

「ああ、つばさ、こちらクラウス君のママ。エリさん」

「わ~。アンに似てる~。あのアンがすっかりママだなんてね~」

「そういうエリさんだって、つばさと同い年の息子さんがいるじゃないですか~」

 …………。

 何⁉

 二人、元々の知り合い?

「そうなの~。エリさんは高校の先輩で、モデルのアルバイトもエリさんの紹介で始めたんだよね~」

 ママは学生時代、雑誌でモデルのアルバイトをしていた。

「そうそう。私がドイツに留学するって時に誰か代わりのハーフの子とかいないって?ってなったのよね~」

「あの頃、ハーフってあんまりいなかったし。

 あ、そういえば、エリさんってバレエやってましたよね?」

「留学するまでね」

「つばさもやってるんです。つばさ、今度、発表会あるんでしょ?エリさん、時間あったらぜひぜひ見にいらしてくださいよ~」

 ――って⁉ ママっ‼





第2章


 球技大会。文字通り球技をクラス対抗で競う秋のビッグイベントらしい。

 学年別のトーナメント形式で競技は行われ、各順位に応じて決められたポイントが付与される。そのポイントでクラス順位が決定する。

 また、各学年優勝チーム同士によるプレーオフによって、その競技のグランドチャンピオンが決定し、ボーナスポイントが加算される。

 3年生は最年長学年のプライドや意地があり気合が入ってはいるが、クラスの中には光原高等部へ進学せず、他の高校への進学を希望している受験生もいるので「クラス一丸となって」と大きな声では言いにくい。

 誰がどの競技に参加するか、内部進学組か受験組か、各クラスで戦略を立てる。球技種目はバスケットボール男・女、バレーボール男・女、サッカー男子、ソフトボール女子となっていた。各競技の部活所属者は人数が足りない場合のみ2名まで参加可能。「人数が足りない場合」というのがクセモノで、このスペシャル枠をいかに使うかが勝利への鍵らしい。

「クラウスはサッカーだろ?あと、つばさもサッカーな」

 ホームルームで誰がどの競技に参加するか決めている。

「ちょっと待ってよ!脩斗!つばさ、女子バレーに欲しいんだけど!」

「つばさいれば、男子サッカーで優勝確実だから、絶対サッカーだろ!」

「っていうか、つばさ女子だし!バレーだってつばさの高さ欲しいんだよっ‼」

 男子競技に女子の参加はOKだが、逆はダメ。サッカー部キャプテンの脩斗と女子バレー部キャプテンの高木さんが言い合っている。当のつばささんはちょっと困った顔をしていた。

「ねえ、高木。つばさを男子サッカーに入れれば、バレー部の高木とバスケ部のルーシー、スペシャル枠を2つ使えるんだけど」

 議長をしながら、何かをメモしていたクラス委員長の松本さんが、冷静に言った。

 一瞬、クラス中が静まる。「決まりだな!」という脩斗の声が響いた。

「じゃあ、女子は高木とルーシーが両方バレーとバスケをダブルエントリーね。脩斗、あんたサッカーの他はどこに出るの?」

 松本さんがサクサクと出場選手を決めていく。

 つばささんは少しほっとしたような顔をしていた。

「つばささん、すごいね」

 僕はぽつりと言った。

「何が?」

「い、いや。サッカーだけじゃなくてバレーボールも得意なんでしょ?」

「バレーは背が高いからなだけ」

 そういえば、つばささんは他の女子より背が高かった。

「っていうか、クラウス……。その『つばささん』って、言いにくくない?『ささ』ってなるじゃん」

「あ~。そう言われれば……」

 日本語は僕にとって言いにくい言葉が結構あるから、そんなもんかと思っていたけど。

「じゃあ、止めよう!」

「え?」

「もう、つばささんって呼ばないで。さん付けで呼ぶ人、いないし。前から『つばさ』でいいって言ってるじゃん」

 とは、言われてもなんかちょっと。

「じゃ、じゃあ、つばさちゃんにする」

「……まあ、いいか。まだちゃん付けの方がマシだから、とりあえずそっちでいい」

 そんなことを話しているうちに、球技大会の出場種目分けが終了した。

 バスケやバレーは手の怪我の確率が高いから、という消極的選択でサッカーになってしまったが、果たして上手くできるのか?本当にたまに友達と公園でボール蹴って遊んだくらいだけど……。

「大丈夫だって!オレとつばさがフォローすっから!」

 脩斗は気軽にそう言うけど。

「とりあえず、クラウスはフォワードな。ボールが来たらとにかくゴールに向かって蹴ればいいから」

 それができれば、みんなサッカーヒーローなんだけどな、と思うが、脩斗の笑顔を見てると素直に頑張ろうという気になってきた。



 球技大会はトーナメント方式で行われる。僕らは1回戦を無事に4―0で勝った。といっても僕はほとんどピッチに立っていただけだけど……。

「う~ん。クラウスは思ったよりもずっと足が速いから、もう少し速いボール出しても平気かな~」

「そうだな。クラウス、つばさがボール持ったら、とにかくゴールの方へ全力で走れ!」

 つばさちゃんの言葉に脩斗が頷き、僕にアドバイスをくれた。この2週間、脩斗の“特訓”のおかげで、なんとかボールを受けて蹴れるようになったけど……。

「次の試合、相手、A組だけど、タクヤいるから、すんなりパス通らないかも」

 脩斗がピッチを見ながら言った。

「タクヤ?――ああ、サッカー部のディフェンスだっけ?」

「ガツガツくる。味方だと頼もしいけど、敵だとムカつく」

「まあ、あんたも同じだけどね。脩斗」

 つばさちゃんが笑いながら言う。

「そう言うおまえもな!」

 脩斗がいつもの人懐っこい「ニッ」とした笑顔を見せた。

 なんか、チームっていいな。こんな風に感じたのは初めてだ。


「とにかく、オレとつばさを信頼してくれればいい。つばさは絶対おまえの足元にパスをくれる。逆におまえが受けられない状況の時に、パスは出さない」

 サッカー特訓を始めたとき、脩斗が僕に言った言葉を思い出す。

「あいつは自分一人でボールをゴール前まで運べるテクを持ってるし、パスはめちゃくちゃ正確で丁寧だ」

 1回戦はまさにその脩斗の言葉通りだった。脩斗がボールを敵チームから奪い、つばさちゃんにパスを出す。つばさちゃんはピッチの中盤からすいすいと敵をかわし、あっという間にゴール前までドリブルしていく。そのままシュートでゴールを決めたのが2本。脩斗にパスしてゴールが決まったのが2本。で4点取った。

 敵チームのディフェンダーが、つばさちゃんに気を取られて、僕の周りに敵がいなくなったその瞬間、バスっと足元にボールが飛んできた。

「そのまま蹴って!」

 つばさちゃんに言われて、慌てて蹴ったけどボールはゴールマウスから逸れてしまった。

「惜しい!」

「ドンマイ!」

 チームメイトがかけてくれた労いの言葉より、脩斗の言葉どおり、本当に僕の足元に吸い込まれるように入ってきたボールにびっくりしていた。

「本当に足元に来た」

 僕の言葉に脩斗は「だろ~」と親指を立て、いつものようにニッと笑った。そんな1回戦だった。



 前の試合が終わり、僕らの2回戦が始まろうとしている。脩斗とつばさちゃんは試合開始の笛が鳴るまで、細かい打ち合わせをしていた。1回戦とは違う空気を感じる。

「クラウス、ドイツ語で『蹴る』ってなんていうの?」

 突然つばさちゃんが聞いた。

「Tretenトゥリートゥン」

「トゥリートゥン、ね」

 僕の発音を真似た後、自分で自分に納得させるようにこくこくと頷いた。



 試合が始まってすぐ、脩斗がボールを受けるとつばさちゃんが僕の側にすぅっと走ってきて言った。

「クラウス、真ん中、ゴールに向かって走っていって。私がボールを蹴ってから、ダッシュね。それまでは適当に走ってて」

 脩斗の動きを目で追いながらも僕が頷くのを確認して、つばさちゃんは敵のディフェンダーのいないスペースへ走る。

 僕はつばさちゃんに言われたように、真ん中に向ってとりあえず走る。脩斗がつばさちゃんへパスを出した。パスを器用に受けたつばさちゃんは、めちゃくちゃ速いスピードでボールを前へ前へとドリブルしていく。相手チームのディフェンダーが、すぅっとつばさちゃんの前へ出たその瞬間、つばさちゃんがパスを出した。

「クラウス!」

 ダッシュだ!咄嗟に僕はゴール前にダッシュする。そこへボールが来た。

「トゥリートゥンッ‼」

 つばさちゃんが言った瞬間、僕はボールを蹴る。

 あっという間にボールがネットに吸い込まれていった。

「よっしゃあ‼‼」

 脩斗の叫び声が聞こえて、チームメイトに囲まれる。

「ゴール?」

 僕は近寄ってきたつばさちゃんに向って聞いた。事態を完全に把握しきれていない。

「ゴールだよ。ナイスシュー!クラウス」

 つばさちゃんが笑いながら言った。

 いや、でも、まるで蹴って下さいっていうボールがあっという間に足に来て、「蹴れ!」って言われたから蹴っただけだし。

 なんだろう。ふわふわとした感覚が僕を包む。現実なのか夢なのか……。でもとにかく、なんか嬉しい。

 この感覚――ああ、そうだ。ヴァイオリンのコンクールで自分の思った通りの音が出せて、快心のできで、客席の人たちの顔が「ぱあっ」と明るくなっていくのが見えたあの時――何度も何度も味わいたいと感じたあの感覚みたいだ。


 試合が再開されたが、両チームともゴールはなく、膠着状態が続いていた。脩斗からつばさちゃんへのダイレクトパスは、カットされることが多くなる。さすがサッカー部のディフェンダーというだけあって、タクヤ君はつばさちゃんの動きを封じるだけでなく、僕へのパスコースも塞いでくる。


 1―0のまま両チーム共にストレスが募ってきていた終盤、それは起きた。

 脩斗が僕にパスを出す。ボールに向って走る僕の目に、こちらへ走ってくる敵ディフェンダーの姿が映る。

 やばい!ぶつかる!

 次の瞬間、相手選手が視界から消えた。と同時に笛がピーッと鳴る。

「えっ?」

 つばさちゃんと敵ディフェンダーが倒れていた。

「つばさ!大丈夫か!?」

 脩斗や他のメンバーが駆け寄ってくる。

「大丈夫!」

 つばさちゃんは立ち上がって、手足をぶらぶらさせながら、体の痛みをチェックしているようだった。

「っていうか、クラウス、転んでない?」

 つばさちゃんが僕を見た。

「僕は何の影響も受けていない」

「なら、良かった」

 膝の土を払いながら、つばさちゃんが言った。

 つばさちゃんのファウルを取られ、相手の間接フリーキックで試合が再開される。そのボールを脩斗が上手く奪い、キープしたところでタイムアップ、試合終了となった。



「つばさがあんなファウルするの、初めて見たわー」

 ピッチから引き揚げてくるとき、脩斗が言った。

「うん。イエローもらわなくて良かった」

 つばさちゃんが頷き、そしてピッチの方を振り向きながら言った。

「えっ?イエロー覚悟してたの?」

 脩斗は驚いたようにつばさちゃんを見る。

「うん」

「さすが関東地区強化選手。なんか次元が違う」

 感心したように脩斗が言った。

「それ、小学校の時の話だし。今はスピードとか男子にかなわないし。3本もタクヤに取られたし……」

「いやいや。つばさ。うちのディフェンダー、ナメないでくれ。頼むから『3本しか取られなかった、ラッキー』と言ってくれ」

「ははは。…っと、ドリンク無くなったから買いに行ってくるね~」

 僕にはあまり理解できない話をした後、チームから離れつばさちゃんは校舎の方へ走って行った。


 グラウンド端に設置してあるベンチ座って、脩斗はサッカーシューズから普通のスニーカーに履き替える。

「脩斗、次も勝てよ」

 今、対戦していたA組の選手が脩斗の横に座わると言った。

「おう!タクヤ。絶対勝つぜ!」

 さっきから話題に出ていたサッカー部ディフェンダーのタクヤ君だった。

「久々だったけど、やっぱ、つばさとやるとワクワクすんな」

 サポーターを外しながらタクヤ君が脩斗と話し出した。

「つばさがタクヤに3本も取られたって悔しがってたぜ」

「あ~。やっと3本だよ」

「だよな」

「でも、最後のファウル、あれ、納得いかねえ。らしくないだろ?必要ないのに、なぜファウルもらいにいったんだ?」

 靴を履き替えようとしていた手を止め、タクヤ君は脩斗に聞いた。

 脩斗も手を止めてタクヤ君を見た。

「……たぶん……」

 脩斗はちらっと僕を見た。

「クラウスにディフェンダーぶつからないようにしたんじゃないかな?」

 タクヤ君が僕を見た。

「えっ?僕?」

 なんで?

 タクヤ君は脩斗に視線を戻すと

「なるほどな~。……むしろあいつらしいプレーか」

 そう言って脩斗の肩をポンポンと叩き、ベンチから立ち上がった。「じゃ」というように片手を挙げて、A組のチームメイトがいる方へ向かう。

 僕は状況が把握できず、脩斗を見た。

「脩斗、どういうことかよくわからないんだけど」

「……うん。たぶん、だけど……。クラウスはまだサッカーに慣れていないから、ディフェンダーとぶつかって、変な転び方して怪我とかしたら大変だって思ったんじゃないかなって……。オレとかつばさはそういうの慣れてるけど」

「でも、つばさちゃん転んでるし、ファウルとか」

 アセる僕に脩斗が冷静にきっぱりと言った。

「怪我はしてない」

 一瞬、空気の温度が下がった気がした。

「大丈夫。サッカーなんて試合中、何度も転ぶから。しかもあの時、つばさはファウルだと分かってやってる。状況を冷静に把握していたってことだ」

 脩斗はA組のチームがいる方を見た。

「タクヤとかオレはポジション柄、ファウルなんてしょっちゅうだけど、つばさはフォワードだし、体の使い方がめちゃくちゃ上手いから、ファウルなんて滅多に冒さない。だからタクヤはびっくりしたんだと思う。まあ、クラウスが気にすることじゃないよ」

 いや。でも、気にするだろ?普通!

 もやもやした気持ちを抱えながらも、球技大会はどんどん進み、男子サッカーで我がクラスは優勝した。





第3章 序



 校門の前に車が停まったので、後ろのドアを開け、慎重にゆっくり座席に乗り込む。

 バレエで右足首を捻挫した。たかが捻挫。されど捻挫。うっかり気を抜いて体重を掛けると、痛みが走る。

「おかえり。つばさ」

 運転席からパパが振り向いた。

「ただいま。パパ、今日は休みなんだ?」

「いや、さっき帰ってきたところだよ」

「えっ⁉ フライト明け⁉ 居眠り運転とか気を付けてよ」

 パパは国際線のパイロットをしている。長距離のフライトが多いのと時差の影響からか、仕事から帰宅するといつもすぐ寝る。

「大丈夫、大丈夫。車の運転は飛行機より難しいからな~。緊張で眠気も吹っ飛ぶさ」

 笑えない冗談だ。

 車が出発する。校門前の角を曲がったところの交差点にクラウスがいた。いつものようにヴァイオリンケースを持っている。

「パパ、止まって。クラウスがいるから、乗せていってもらっていいでしょ?」

 パパはハザードランプを出してゆっくり車を停車させた。

「クラウス!」

 窓を開けて呼ぶ。

「乗っていきなよ」

 クラウスが私に気付いた。

「え?車の迎えダメなんじゃ?」

「病院へ行くから、許可出てる。通り道だからパパが送ってくれるよ」

 光原は原則、車での送迎は禁止だ。

「パパ、クラウスは藤野台ね」

 藤野台は私の住んでる桐野台の隣町だ。

「ああ、彰太くんの家の方?」

「うん」

 彰太は同じ小学校の幼馴染だ。クラウスと同じ藤野台に住んでる。

「よくサッカーの帰りに送っていったなあ」

 パパが懐かしそうに言った。

 そうだ。彰太に誘われてサッカーやり始めたんだ。


「おまえ、名前『つばさ』なんだから、サッカーできるだろ?人数足りないから入ってくれよ」

 小学3年生の時だ。いきなり同じクラスの彰太がそう言って、私の手をぐいぐい引っ張って地区サッカーチームが練習しているグラウンドに連れて行かれた。ちょうどバレエでポアント(トゥ・シューズ)レッスンが始まった頃だ。サッカーやれば脚力が付き、早く立てるようになるかもとも思って、軽い気持ちでチームに入った。


 病院の入口前にパパは車を停止させた。

「じゃあ」

 カバンを持ってドアを開けようとすると、

「待って!」

 クラウスが言った。

 ん?なんだ?

 そして私の手からカバンを取るとクラウスの乗っていた側のドアを開けて車を降り、私側のドアを外から開けた。

 あまりの素早さにあっけにとられる。

「捻挫してるんでしょ? 無理しちゃだめだから。カバン、病院まで持っていくね」

 そして車から降りる私の腕をすっと支えた。

「あ、ありがとう」


 病院の入口の自動ドアも、先に立って開けるとさっと横に避けて私の進路を作る。ポケットのカード入れから診察券を出すと、さりげなく受取って受付へ出してくれる。待合室の椅子に私が座ってから、カバンを渡してくれた。

「じゃあね。お大事に」

「ありがとう」

 病院を出ていくクラウスの後姿を見送る。一連の動作があまりにも自然で、そのことに驚いた。そういえば学校に来た初日にも似たようなこと、あったっけ。





第3章


 遠慮しようとする僕を、どうせ通り道だからとつばさちゃんもつばさちゃんのお父さんも厚意の笑顔で制する。

「きみがクラウス君か~。つばさパパです。よろしくね~」

 やわらかい口調でつばさちゃんのお父さんが僕に挨拶をする。僕は恐縮しつつ、挨拶を返した。

 小さな沈黙が訪れる。何かしゃべった方がいいのかな?そう言えば、病院へ行くと言ってたけど、聞いていいのだろうか?

 僕は心の中で少し葛藤し、結局気になって聞いてみた。

「病院って?」

「ああ、ちょっと捻挫したから」

「捻挫っ⁉」

 まさかあのサッカーで転んだとき――。

「バレエでね。全然たいしたことないし、大丈夫なんだけど、発表会があるから長引かないように病院へ行ってるだけ」

 僕の考えを読んだようにつばさちゃんが答えた。


 車がスピードを落とし、病院の前に停まる。つばさちゃんがカバン持って降りようとするから、慌てて止める。捻挫してたら単純に歩くのだって大変なはず。

 普通にカバンを持つのを手伝って、車に戻ってくるとつばさちゃんのお父さんが言った。

「さすが! クラウス君、レディー・ファーストが身についてるね~」

 え?いや。そんなことはない。

「サポートしてくれてありがとう」

「い、いえ。つばさちゃんの怪我は僕のせいかもしれないので……」

 僕は申し訳なさから下を向いた。

「ん? バレエでって聞いてるけど、きみ、バレエやってるの? リフトで落としたとか?」

「いや。球技大会のサッカーで!」

 赤信号で車が止まったのに合わせて、つばさちゃんのお父さんが僕の方を振り返った。

「学校行事の球技大会でサッカーに出たんですけど、つばさちゃん、僕をかばって転倒したので……」

「ああ。そう……」

 お父さんは軽くうんうん頷くと、前を向いた。ちょうど信号が青に変わったので、車が動き出す。

「学校の球技大会でしょ? たぶん、つばさはそのくらいじゃ怪我しないと思うよ」

「え?」

「あの子は小学生の時、全国大会まで行ったチームでレギュラーだったし、関東地区の女子強化選手に選ばれていた子だよ。結構ハードな局面を何度も何度も体験してる。学校行事の試合くらいで転んで怪我してたら、そこまで活躍できないよ」

 つばさちゃんって、なんかすごいサッカー経歴の持ち主だったんだ。

「バレエの発表会に向けてムキになってオーバーワークしたんだよ。きっと。詳しいことは聞いてないんだけどね」

 お父さんは穏やかな声で、僕に全く気にする必要はないと説明してくれた。そして藤野台が近くなってきて、僕に道を尋ねながら思いついたように言った。

「そういえば、きみのママはうちのつばさママと友達だったって知ってた?」

「え? ええ~っ⁉ 」

「うん。今度うちへ遊びにおいでよ。バーベキューパーティやるんだ」

 ママとつばさちゃんのママが友達? なんで?

「ええと、確か来週の土曜日だ。空いてる?」

 毎週土曜日の午前中に、僕は英語の補習授業を学長先生から受けていた。光原は外国籍の生徒も多く、全カリキュラムの半分以上が英語だけで授業が行われる。僕はドイツ語が母国語なので、英語は他の生徒より遅れていた。

 そのことをお父さんに話すと笑いながら言った。

「ははは。大丈夫!じいじも来るから!じゃあ、じいじの車で一緒に来ればいい」

 え?じいじ?

「……っと、しまった!つばさに怒られる。ここだけの話にしておいてね。学校にも内緒にしてるんだけど、学長先生はつばさのおじいちゃんなんだ」

「え?」

 ……………。

「ええっ――――⁉」



 ヴァイオリンを職員室に預けて、教室へ向かおうとしたところで、登校してきたつばさちゃんに会った。

「おはよう。昨日は送ってくれてありがとう。それ、荷物、持つよ」

 僕はつばさちゃんが肩にかけていたバッグを指した。

「おはよう。荷物、大丈夫だよ」

「遠慮することないよ。階段昇ったりするのに荷物ない方が楽でしょ?」

 それでも躊躇しているようだったので、続けて言った。

「この前、サッカーでつばさちゃんは僕をサポートしてくれたでしょ? お互いできることをサポートし合うのに遠慮はいらないよ」

「ありがとう…」

 納得したのかつばさちゃんはカバンを肩から下した。それを受け取る。でも、どこか元気がないような気がする。いつもなら笑顔でお礼を言う感じがする。何かあった?

「あのね……クラウス」

 つばさちゃんが声を少しひそめながら聞いた。

「昨日、うちのパパ、なんか言ってた?」

「え?」

「い、いや。その…学校のこととか」

 学長先生のことか? でもお父さんが僕に機密事項を漏らしたことは内緒だし。

「つばさちゃんの華麗なサッカー遍歴を聞いたけど……」

「うわぁ~」

「そういえば、あそこで『Treten』ってドイツ語で指示出したのは、なんで? 日本語じゃなく……」

「あ~。タクヤは上手いから、いろいろ対応してくる前に、とにかく速いプレーで決めたかったんだ。いくらクラウスが日本語得意っていっても、母国語と違う言葉だと一瞬の差ってあるだろうな~って思ったのと、単純に相手チームはドイツ語分からないだろうっていう姑息な考え」

 つばさちゃんは事も無げに言う。でも、これが昨日つばさちゃんのお父さんが言ってたハードな局面を何度も経験してきたということの証明なのだろう。


「おっす!つばさ!クラウス!」

 ちょうど教室へ入ろうとしていた僕らに後ろから脩斗が声を掛ける。

「脩斗!」

 つばさちゃんが深刻な顔を脩斗に向けた。

「彰太のこと、脩斗、知ってたの?」

 脩斗がやばい!というような顔をした。

「い、いや……。詳しくは……」

 口ごもる脩斗と真意を読み取ろうと脩斗を鋭い視線で見つめるつばさちゃん。教室の入口で僕も二人と一緒に動けなくなった。



「彰太は小学校でつばさと同じチームのサッカーの選手で、まあ、とにかくすごかったんだ。ミッドフィルダーだったんだけど、もうめちゃくちゃ速いパスをガンガンつばさに供給して、つばさがめちゃくちゃ速いスピードでガンガン得点決めて……。誰もあの二人を止められなかった。あそこのチームとだけは対戦したくないって、みんな思ってた。本当に圧倒的にすごかった」

 昼休み、屋上で脩斗一緒にご飯を食べていた。ぽつりぽつりと脩斗は彰太くんのことを話し出した。

「オレはさ、たまたま市の選抜チームの選手に選ばれて、あの二人と同じチームになった。彰太とは同じポジションっていうのもあって、お互い考えてることがなんか分かって。特に打合せとかしてないのに、つばさ囮にして二人で点取りにいったりさ……。彰太とつばさとサッカーすんのが、めちゃくちゃ楽しくて仕方なかった」

 脩斗は紙パックの牛乳にストローを挿すと一気にゴクゴク飲む。ストローからズズズッと中身が無くなったことを示す音がした。

「膝前十字靭帯損傷――って。まさかあんな大怪我しちゃうなんてな……」

 脩斗は無くなった牛乳パックを片手でぎゅっとつぶした。

 つばさちゃんは昨日、捻挫の治療に行った病院で、同じく治療に来ていた彰太くんと会った。そこで彰太くんの怪我について知ったという。選手生命を左右しかねない大怪我だった。

「オレはさ、彰太やつばさと、また同じチームで一緒にサッカーやりたくて。彰太は中学生になったら、プロチームのジュニア組織に入るって決まってたから、じゃあつばさと、と思ってここに来たんだ」

 3年生で部活を引退してるとはいえ、彰太くんの怪我のことはうわさで入ってくる。詳細を本人に聞いていいのか、つばさちゃんは知っているのか、どうしようかと思っていたところで今朝のやりとりになったらしい。

「つばさのパス、本当に足元にきっちり来ただろ?」

「うん。びっくりした」

「彰太がいつもそういうパスをつばさに出してくれてたって、だから自分が活躍できたって、つばさはいつも言うんだ」

 脩斗はもう無くなってつぶした牛乳パックのストローをまた口に持っていく。ズズズと終了を示す無情な音が響いた。

「あんなパスを出せる小学生が二人もいるなんてすごいチームだね」

 僕は感心したように言った。

「まあ、全国大会にも行ったチームだし。でもオレの印象だと、彰太のパスはそんなに正確じゃない。つばさってバレエやってるせいか、めちゃくちゃ体の使い方が上手いんだ。だから自然と自分で調節してきっちり正面で受けて、正確なパスにしちゃうんだよ。ただ彰太はつばさのスピードに合わせられる速いパスが出せて、つばさはストレスなくシュートを打ててた。パスの正確さでは、圧倒的につばさの方が上だよ」

 脩斗は牛乳パックをゴミ入れにしていたレジ袋に入れた。

「……つばさってさ、一見、他人に気を遣わなそうだけど、めちゃくちゃ気を遣うだろ?」

「え? もともと気を遣うように見えるけど?」

 僕は正直に言った。編入してきた初っ端から、彼女は僕が困らないようにサポートしてくれていた。

「まあいいや」

 脩斗は彼女に対する僕との印象の違いをスルーした。

「学校で自分の本音を絶対見せない。どこか遠慮してるっていうか……。だから彰太も心配だけど、オレはつばさの方が心配なんだ」

 なんか脩斗って……。

「脩斗、つばさちゃんのことが好きなの?」

「え?」

「いや。なんか」

「あ~。ごめん。クラウス。誤解しないでくれ。オレ、彼女いるし。つばさは親友っていうか相棒みたいな感じが強くて……」

 彼女?

「え?ええっ―――⁉」





第4章 序



 やっぱりパパは話しちゃってたじゃん!

 じいじと一緒にクラウスがうちに来たので、どういう経緯か言わなくてもバレバレだ。

 睨みつけた私を見る「やばい」っていうパパの顔と、間に入って焦るクラウスの顔。

 なんだかなあ。

「あら、クラウシィー、おかえりなさい。こっちに来てちょっと手伝って」

 先に来ていたクラウスママのエリさんがリビングに入ってきたクラウスに気付いて声を掛けた。

 クラウスはエリさんに付いてキッチンへ行く。エリさんはソフトドリンクや酒類が入った大きなクーラーボックスの前に立つ。

「これ、お庭のテーブルまで持って行って。あと、あそこの椅子とテーブル、向こうまで運んで。それが終わったら、ここにある野菜、洗って切っておいて。あ! グラスと皿も向こうへ運んでおいて~」

「う、うん」

 クラウスは頷くと早速大きなクーラーボックスを運ぶ。

「ちょっと、ちょっと!エリさん!クラウスくん、帰ってきたばっかりなのに」

 うちのママが慌ててエリさんを制する。

「大丈夫、大丈夫。いつもやらせてるし。このメンツの中で一番若い男子なんだから、このくらいやるの当たり前! ただでご飯、食べれると思うなよって、子どもの頃から叩き込んでるから~」

 うわ~。エリさん、にっこり笑いながら、厳しい。

 クラウスは黙々と椅子やテーブルを庭に通じるリビングの窓の側へ移動させている。慣れてる感がハンパない。私はクラウスをサポートするため、側に行った。

「クラウシィー、手袋、持ってきてる?」

 エリさんが聞いた。

「ある」

 クラウスが答える。

「手袋?」

 私が聞いた。

「うん。手荒れしないように。ゴム手袋。いつも持ち歩いてる」

 クラウスが説明した。

「あ~。ヴァイオリン弾くから?」

「うん」

 もくもくとグラスや皿を運びながらクラウスは答えた。

「っていうか、クラウシィーって愛称?」

 一瞬、クラウスの動きが止まったように見えた。

「……そう…だけど」

 照れてるのかな? と、思った。男子ってそういうことよくあるから。

「なんか、カッコいいね。『クラウシィー』かぁ……。今度、私もそう呼んでいい?」

 軽い気持ちだった。理由は特にない。

「……ごめん。もし、つばさちゃんが僕をそう呼ぶなら、僕は君を『白川さん』って呼ぶことにする」

 完全な拒絶だ。

「……了解。大丈夫。ちゃんとクラウスって呼ぶ」

 気まずい空気が流れる。クラウスは黙って野菜を切り始めた。





第4章


 僕はクラウス・ルドルフス・クラヴィエ。「クラウシィー」って呼んでください――。

 家族も友達もみんなそう呼ぶし、僕はクラウスって呼ばれるよりもクラウシィーって呼ばれる方が好きなんだ。小さい頃からずっと皆にそう呼ばれてきたから、その方がしっくりくる。

 正直、「クラウス」って呼ばれると、パパやママから叱られるときとか、学校の先生に呼ばれるのを思い出して、ビクッとなる。ビクビクしながらだと、楽しくないし、仲良くもなれないよ。



 ――っと。しまった。音、外した。

「すみません。もう一度最初から」

 僕はもう一度、弓を構え曲の最初から弾こうとすると、先生はため息をついた。

「いや。もういいよ。いくらやっても無駄だ。全然集中できていない」

 僕は下を向いた。

「今日はもうやめよう」

 先生はため息をつくと、言葉を続けた。

「そろそろコンクールのエントリーについて考えなくてはいけないんだけど……」

「申し訳ありません」


 この曲。パガニーニ。カプリース第24番。パガニーニのカプリースの中でおそらく最も有名な曲。超絶技巧が必要とされ、テンポも速く、ヴァイオリニストにとっては難曲の一つ。

 でも僕にとっては、むしろ得意とする方の曲だった。超絶技巧も速いテンポも練習量で補える。ゆるいテンポのフェルマータとかあると、どのくらい音を伸ばしたらいいのか考えれば考えるほど分からなくなるから、そういうのに比べたら何十倍も弾きやすい。

 ――そう。あの時までは。



 ちょうど去年の今頃だ。クリスマスコンサートで演奏するヴァイオリン協奏曲のソリストを決めるコンクールが開催されることになった。僕の通う音楽学校では、頻繁に小さなコンクールが開催されていた。外部のコンクールに出場する生徒も多いため、その雰囲気に慣れされる目的も兼ねて。

「どうせ今回もクラウシィーだろ」

「ずるいよ。親父さんが名門フィルのコンマスなんて、生まれながらのヴァイオリニストじゃん」

 クラスメートのやっかみにも、もう慣れた。生まれながらのヴァイオリニストって、生まれてからずっと、僕の意思とは関係なしに、ヴァイオリンを弾かされてきたってことだし。

「クラウシィー、今度の学内コンクールさ、僕、バッハのパルティータ第3番の『ガヴォット』にしようと思うんだけど、どう思う?」

「ガヴォット?ああ、いいかもね。フランツには合ってると思うよ」

「クラウシィーは何にするか、決めた?」

「僕は、たぶん、パガニーニのカプリース24番かな~」

「さすがだね。クラウシィーの練習量には頭が下がるな~」

 クラスメートの中でも、彼、フランツだけは少し他と違う。僕が他のクラスメートより多く積み上げてきたものを、素直に認めてくれる。そして何より彼は素直な性格そのままの素直な明るい音を出す。

「僕はヴァイオリンを始めたのが遅かったけど、頑張ればいつかクラウシィーみたいに難しい曲も弾きこなせるようになるのかな~」

「うん。技術的なところは練習さえすれば何とかなるよ。大体は」

 僕はフランツを見た。

「でも、感性みたいなものは、いくら練習したって無理なものは無理。フランツはその点、感性がいいから、うらやましい」

 フランツの前では僕は本音が言える。他のやつらに「うらやましい」なんて言葉を言えないけど。

「――感性って、何?」

 フランツは不思議そうに僕を見る。

「言葉でするのは難しいけど。う~ん。アンテナみたいな感じ? 曲に対するアンテナ。ある曲を聞いたとき感じとれることが、フランツはきっと他の人より多いんだ。そしてそれをきちんと表現できる」

「僕が?――なんかよく分からないけど、とにかく、きみに認めてもらえるのは嬉しいや」

 フランツは笑った。


 コンクール当日、抽選で順番が決まると僕はいつものルーティンに入った。まずは爪の手入れ。毎日やっているからそのままでも平気なはずだけど、念のためやすりを掛ける。

 その後、手を洗いに行く。少しでも汚れた手で楽器を触りたくない。

 ヴァイオリンの手入れ。練習後に必ずヴァイオリンの拭き取りを行っているから、手垢ひとつ付いていないはずなのだが、ケースから出すと念のため拭く。肩当てを取り付け、さらにまた本体を拭く。弓も念のため棹を拭いてから張る。そして松脂を塗る。

 チューニングを行い、準備運動代わりに音階を弾いていく。コンクールが開始され、音が出せなくなると、右手の運指を確認しながらイメージトレーニングをする。他の参加者もそれぞれ自分の方法で、待ち時間を過ごしている。

「クラウシィー」

 突然、フランツが僕を呼んだ。

「どうしよう。……弦が…切れちゃった」

 真っ青になって声が震えている。

 もちろん弦が切れることは度々ある。だけど、まさかこんな本番直前に――。

「出番は?」

「……つぎ」

 今にも泣き出しそうだ。

 弦を張り替えてる時間はないし、たとえ弦の張り替えを待ってもらえたとしても、音が安定するようになるのにはしばらく時間がかかる。

「僕のを使って」

 僕はフランツに自分のヴァイオリンを差し出す。

「442で合わせてある」

 Aの音の周波数を伝える。フランツはチューニングをその時の気分で440にしたり、442にしたり、結構バラバラだ。

「でも」

「いいから! ほら! 出番だよ!」

 僕はフランツから無理やり彼のヴァイオリンを受取り、自分の楽器を押し付けた。

「ありが…とう……」

 フランツがステージに出ていく。

「がんばれ」

 僕はフランツの背中に向って声を掛ける。


「いいのかよ?」

 様子を見ていたクラスメートの一人が僕に言った。

「おまえの楽器、めっちゃ高いやつじゃん。もし、何かあったら」

「おい!やめろ」

 別のクラスメートが制した。

 僕は彼らから離れた場所に移動し、椅子に座った。

 自分の手の中にあるフランツの楽器を見る。たぶん量産されている、一般の楽器屋で売ってるやつだ。手入れはきちんとされているけど。

 ――この楽器であんな音が出せるなんて。改めてフランツのすごさに驚く。


 ふわっと春のような温かい空気を感じた。

 えっ⁉

 フランツの音が聞こえる。

 体に震えが走る。温かく、のびのびと、いつまでもこの音に包まれていたいような感覚。やわらかい陽射し。小川のほとりで小さな花のつぼみがほころんでいく。穏やかな心地よいひととき――そんな情景が見える。

 なんだ?これ?

「クラウス。おまえ、寝た子を起こしちゃったな」

 いつの間にか隣に来ていた2学年先輩のミハイルが、そう言って僕の肩をポンポンと叩いた。

 ミハイルは誰かとつるむタイプではなく、気まぐれで学校に来たり来なかったり、いつも神出鬼没なイメージだが、コンクールに出場すれば確実に上位入賞してくる実力者。そのうちいくつかは確か優勝している。

 このコンクールにエントリーしてなかったと思うけど、なぜここにいるのだろう?

 音が止むと同時に割れんばかりの拍手が鳴り響く。

「ミハイルはこのコンクールに出ないんですか?」

「ああ。俺は本番のコンサートでコンマスやることが決まっているし、他のコンクールの準備があるから」

 ちょうどその時、フランツが舞台袖に戻ってきた。

「クラウシィー‼」

 僕を見つけると駆け寄ってくる。

「よお!フランツ!お疲れ!めちゃくちゃ良かったぜ!なあ?クラウス」

 ミハイルがフランツに言う。

「あ、ああ。うん。良かったよ。すごく!」

「クラウシィーのおかげだよ。ヴァイオリンを貸してくれたから。このヴァイオリン、めちゃくちゃ弾きやすかった!僕の出したい音がどんぴしゃで出てくるんだよ!さすがクラウシィーのヴァイオリンだよ!」

 興奮気味にフランツは言う。

「本当にありがとう。クラウシィー」

 そうして僕の手に僕のヴァイオリンが戻ってきた。

 僕の名前が呼ばれる。

 ミハイルが同情気味の顔を僕に向けて言う。

「頑張れよ。クラウス!」


 指を回すのが精一杯だった。いつもなら指にすうっと馴染んでくる指板が、まるでアイスバーン上を歩いているように、カラすべりする。これはいつもの感覚じゃない。この違和感が気になって、ボウイングへの注意が甘くなる。

 こんな音が出したいんじゃない!この楽器が出す本来の音はこんな音じゃない! 

 なんとかミスをせずに演奏を終えたけれど、こんなに自分の演奏に納得が出来ないことは、初めての経験だった。


 結果は予想通り。フランツが1位だった。

 2位の発表で僕の名前が呼ばれると、ミハイルが言った。

「クラウス。おまえ、オケに来い。隣、開けといてやる」

 僕はミハイルを見た。

「次席ですか?」

 コンサートマスターの隣の席。コンサートマスターの補佐役だ。

「たまにはいいだろ?」

「はあ。まあ」

「オケ、楽しいぜ」

「そうですね」

 他人事のように、僕はあいまいに返事をした。きっと先輩なりに僕を励ましてくれているのだろう。


 表彰式を終えて、賞状を手にしたフランツは心なしか震えているようだった。

「クラウシィー。……僕」

「おめでとう。フランツ」

 フランツの言葉を遮るように、祝いの言葉を言う。

「ごめんね。クラウシィー」

 なぜ、謝るのだろう。僕は何かを言おうとして言葉を探す。その微妙な空気を壊すように、クラスメート数名が僕らを囲んだ。

「フランツ!すげえな~!」

「やったな!おまえ、すごかったよ!」

 フランツを口々に祝福する。

「い、いや。クラウシィーが貸してくれたヴァイオリンのおかげだよ。本当に弾きやすくて、いい音が出るんだ」

 それはたぶん、フランツの謙遜だ。分かっている。だけど。

「ってことはさ、フランツとクラウシィーは、今回同じヴァイオリンを弾いたんだから、フランツの方がクラウシィーより上手いってことだよね?」

 何が言いたい?

「クラウシィーはいつもヴァイオリンが良いから1位取れてたってことだろ?」

「オレにも今度貸してくれよ。クラウシィー」

「本番直前に弦が切れるなんて、フランツ、上手いことやったな」

 いい加減にしろ!心の中で叫ぶ。

 フランツは下を向いて微かに震えていた。

「行こう。フランツ」

 僕はフランツの背中をそっと押して、ステージ脇から楽屋口へと通じる廊下に出た。

「……クラウシィー。僕は…僕は…」

 フランツの目から涙があふれ出した。

「ごめん…なさ…い。本当に…」

 なぜ泣いている?なぜ謝る?事態が飲み込めない。

「弦、切れたの……わざとなんだ」

 え?

「…僕、駒の調整がうまく出来なくて、チューニングが決まらなくて……。とっさに」

 なぜ、今、そんなことを言う?

 なぜ?なぜ?なぜ?

 頭の中が疑問符だらけで整理できない。

 フランツは涙でぐしょぐしょになった顔を僕に向ける。

「……で、でも、まさか…、まさか…クラウシィーが…あんなに調子くるうなんて…思わなくて……」

 なぜ言わなくていいことを言うんだ?黙っていればいいじゃないか。

 だいたい僕はなぜ調子がくるったんだ?

 理由はいくつか思い当たる。いつものルーティンができなかった。フランツから戻ってきたヴァイオリンの指板を拭かずにステージに出たから、いつもと微妙に違う汗とか手の脂で指が滑った。チューニングにいつもより時間がかけられなかった……。


 ――――どれも違うだろ?クラウシィー。

 心の中でもう一人の自分が僕を質す。

 本当は――。

 「僕は、優勝の資格がない」

 フランツが言った。そして自分の手で涙を拭いた。

「優勝を取り消してもらうように、先生方に言ってくる」

「やめろ。フランツ。やめてくれ」

 僕は歩き出そうとしたフランツの腕をつかんだ。

 心の中のもう一人の自分が冷静に僕に告げる。

 ――本当は、フランツの音にショックを受けたからだ。

 つかんだフランツの腕に力を込めて彼を静止させる。

「そんな…恥ずかしいこと、やめてくれ」

 僕は絞り出すようにフランツに言った。

 そうだ。僕はフランツの音に嫉妬したんだ。僕がこのヴァイオリンで出したくて出したくて仕方のなかった音を、このヴァイオリンにふさわしい音をフランツが出していたから――。

「クラウシィー」

 後悔と懺悔が入り混じったような瞳でフランツは僕を見た。

 なぜそんな目で僕を見る?優勝にふさわしい演奏をしたんだ。素直に喜べばいいじゃないか。

 いや。僕が追い込んだんだ。

「もう――僕をクラウシィーって呼ばないで」

 僕は、フランツに言った。

 僕は君の友人でいる資格がない。



 僕が使っているヴァイオリンは父のものだ。黄色がかったボディが美しい逸品。父がオーケストラから更にランクが上のヴァイオリンを貸与されることになり、僕が使うようになった。本来は中学生が持つような代物ではない。

 父の前は祖父が使っていた。我が家では親しみを込めて「ゼルテニニャ」と呼んでいる。祖父の故郷の言葉で、意味は「黄色ちゃん」。

 父が予備器としてゼルテニニャを使うとき、僕は自分のヴァイオリンを使う。これも父がゼルテニニャの前に使っていたもので、良い音が出る。こちらは赤みがかった色のボディなので「赤色ちゃん」という意味の「サルカニニャ」と呼ばれている。

 僕はあの日以来、フランツと話すのを避けるのと同時に、ゼルテニニャを弾くのをためらった。僕ではゼルテニニャには役不足、というのは初めから分かっていたことだけど、改めて思い知らされた。そして何よりあの日のことを思い出すのが辛かった。

 僕の思っている印象は、ゼルテニニャは太陽、サルカニニャは月。ゼルテニニャの音は強い煌めくようなキラキラした音と温かみを感じる。対してサルカニニャは凛とした一筋の光のようなキラリとした音とやわらかみ、そんなイメージだ。

 僕がサルカニニャばかり弾くようになったのを父は気付いていたと思う。何も言われなかったが。

 父に聞かれたときのための言い訳をいくつか考えていたが、どれも父を納得させられるとは思えなかった。なので、父が日本での仕事を引き受け、家族で日本へ行くと聞いたとき、不安もあったが少しほっとした。

 父はきっと仕事でゼルテニニャを弾くようになる。今のオーケストラから貸与されているヴァイオリンを日本へ持っていくことはないだろうから。

 そして日本へ行けばフランツと顔を合わせなくて済む。





第5章 序


 バレエの発表会まで約1ヵ月。足首の捻挫ですっかり出遅れた。バレエ教室のレッスンだけでは足りないので、学校のスタジオを借りて個人練習をする。

 ドン・キホーテ第3幕キトリの友人のバリエーション、その1。大きなジャンプが続く踊り。

 音楽を流す。最初のポーズから、ステップを踏んでジャンプ。一度ポーズを決め、ステップからジャンプ、そしてジャンプ。ピルエット、ステップを入れて回転をしながら移動して、ジャンプを連続――。

 何回か繰り返すが、ジャンプからピルエットへ入るタイミングがずれる。連続のジャンプも、曲とのタイミングが気持ち悪く感じる。

 なぜだ?

 曲を少しずつかけて、一つ一つの動きを部分的にチェックしてみる。音楽を流して、少し踊って音を止め、再度巻き戻したり、早送りしたりしながら、チェックを繰り返す。

 気になる所は何度か繰り返し――。

 でもやっぱり部分的には上手くできても、通すとなんかしっくりこない。

「はあ~」

 汗を拭いてスポーツドリンクを一口飲む。

「つばさちゃん」

 スタジオの扉が開いて、誰かが私を呼んだ。





第5章


 家に帰りたくない。

 集中できてないからレッスンが途中で中断になったなんて、パパに知られたくないし、ママもびっくりする。

 だいたいなんで練習の課題曲が「パガニーニのカプリース24番」なんだ?パガニーニのカプリースは24曲もあるのに、よりによって24番なんて!

 難しい曲なら他にもあるだろ?イザイとか、パガニーニより難しいだろ?

 弾き足りないし、学校の練習室で弾くか……。

 僕は学校に戻ることにした。

 特別教室が集まっている共用棟の受付で鍵を受取り、練習室に向う。練習室と並んでいるスタジオは使用中で、微かに漏れてくる音楽は、再生と停止を繰り返している。

 みんな頑張ってるんだな~、などと思いながら、前を通り抜けようとした時、扉のガラス窓部分からスタジオ内部の様子がちらちらと目に入った。

 ん?つばさちゃん?

 ちょうど一息入れようとしたので、扉をノックしてスタジオに入る。まあ、防音扉なので、ノックが聞こえたかはわからないけど。

「つばさちゃん」

 つばさちゃんはちょっとびっくりしたように僕を見た。

「あ、ああ。クラウス」

「驚かせた?ごめんね」

「大丈夫」

 ふぅーと大きな呼吸をしてつばさちゃんはドリンクボトルを床に置いた。

「バレエ?自主練中?」

「うん。怪我で出遅れちゃってるから」

 そうだった。捻挫で病院行ってたことを思い出した。

「もう怪我は大丈夫なの?」

「うん。完治!」

 つばさちゃんは右足をひょいと上げると足首をぐるぐる回して見せた。その上がり方があまりにも軽々と、しかも尋常でない高さに上がったのでちょっとびっくりする。

「すごいね。さすがというか、体、柔かいね」

「そうお?」

 このくらい普通だよ、というような感じで驚いてる僕を見る。

 改めて、つばさちゃんはバレエをずっとやってきたんだと実感する。

「クラウスはどうしたの?」

「あ、ああ。練習室、借りようかなと思って来たら、つばさちゃんがいたから」

「ヴァイオリンかぁ~」 

 つばさちゃんはバーに足を乗せて体を曲げる柔軟運動をしながら言った。

「うん。…あ、ごめんね。練習の邪魔、しちゃったね」

「全然!ちょっと上手くいってない部分があって、気持ち切り替えたかったから」

「それで、音楽再生したり停止したりを繰り返しやってたの?」

「うん。でもなかなかタイミングよく音楽の再生ができなくて」

 つばさちゃんは照れたように笑った。ふと見るとグランドピアノがある。

「つばさちゃん、音楽聞かせて。僕、伴奏するよ」 

「え?」

 僕はカバンから五線譜と鉛筆を取り出した。

「早く!曲を再生して」

 僕の勢いに押されるように、つばさちゃんは曲を再生する。

「主旋律でいいよね?」

 僕は曲の主旋律を頭に叩き込みながら、五線譜に音符を書き込んでいく。1分くらいの曲。

「念のため、もう一度再生して」

「う…うん」

 自分が写し取った楽譜と曲をチェックして、僕はピアノの前に座った。

「ピアノだから、ちょっとイメージが違うかもしれないけど、自分で曲を再生して踊るより集中できるでしょ?」 

 僕は指慣らしにコードをいくつか弾き、その後軽くメロディをさらっと弾く。

 あっけにとられたような顔をしたつばさちゃんが僕に、まるで独り言のように言った。

「すごい。クラウスってピアノも弾けるんだ」

「まあ。ピアノは必修だから。上手くはないけど。……っていうか、ほら、いくよ。ワン、ツー」

 僕はピアノを弾く。後で知ったけど、レオン・ミンクスという作曲家の「ドン・キホーテ」第3幕の一部だった。

 つばさちゃんはピアノに合わせて軽々と踊っていく。ダイナミックなジャンプを連続で続けた後くるくる回転した動きや、片足で立ってポーズを決めたり、とにかく伸び伸びと踊っていく。背が高いからなのか手足が長いので、その動きの軌道に自然と目が行ってしまう。

 1分くらいの曲だからあっという間に終わってしまうのだが、つばさちゃんのバレエに合わせて弾いていると、めちゃくちゃ気持ちよくて、このまま永遠に曲を弾いていたい気持ちになる。

「なんか……上手く踊れた」

 曲の終了とともに最後のポーズを決める。そのポーズを解きながら、つばさちゃんが言った。ちょっと放心してるみたいだった。

 そして改めて僕を見て、

「めちゃくちゃ踊りやすかった」

 興奮気味に、感動したように言った。

「それは良かった」

「ありがとう!クラウス!」

「いや。こちらこそ……」

 こんなにピアノを弾くのが楽しいなんて、初めてだ。

「もう一度、始めから弾く?途中からでも大丈夫だけど」

「えーと。じゃあ、さっき気になっていたところ。最初のタタータタータの旋律、リピートに入る直前の所まで弾いてもらっていい?」

「リョーカイ」

 つばさちゃんの指示された所を弾き、つばさちゃんは踊る。

「うん。問題なく踊れるんだよね~」

「じゃあ、今度は元々のオケを再生して踊ってみれば?」

 単純な印象の問題かもしれない。ピアノの方が音の一音一音が聞き取りやすいし。

「うん。やってみる」

 僕はプレーヤーの再生の仕方を教えてもらい操作を手伝うことにした。

「いくよ」

 曲を再生する。つばさちゃんは踊り始めた。

 ピアノで伴奏しているときよりもじっくりと、つばさちゃんの踊りを見る。ジャンプから次の動作に入るとき、ほんのわずかだが窮屈そうだ。

 ああ、ここでリフのタタータが入ってくれば気持ちいいのに……っていうか、本当に本当にほんの少し、気持ちテンポを落としてあげれば、バッチリのタイミングになるのに……。ん?ということは?

「つばさちゃん……。たぶん、なんだけど」


 踊り終わった後、僕は思い切って切り出す。

「つばさちゃんはジャンプが高くて大きいから、滞空時間が長い。それで音と微妙なズレが出る……ような気がする」

 そうだ。さっきのピアノの伴奏で、僕は自然とつばさちゃんの動きに合わせて弾いていた。その方が気持ちよかったから。

「あ」

 つばさちゃんは思い当たるような顔をした。

「ということは、思いっきり跳んじゃいけないってことか……」

 がっかりしたように言う。

「テンポを原曲と合わせてピアノを弾くから、ちょっと待ってて」

 僕はバイオリンケースから電子メトロノームを取り出し、原曲のテンポをさぐり、イヤホンを装着する。

「いくよ。ワン・ツー」

 つばさちゃんの動きにつられないように、テンポのキープに細心の注意を払いながらピアノを弾く。全然面白くないけど、仕方ない。

「う~~ん。低すぎた。全然、美しくない。クラウス、もう一度お願い」

「了解」

 何回も何回もトライして、どのくらいの高さで跳べばいいのか、タイミングとともに調整していく。そうやってなんとかベストの高さが掴めてきた。

「うん。もう大丈夫。ありがとう。クラウス」


 気が付くと夜の7時近くになっていた。

「うわ~。もう、こんな時間だ!ごめんね。クラウス。しかも、全然ヴァイオリンの練習、できてないじゃん」

 そのつばさちゃんの様子が、いつもの凛としている彼女からは想像できない慌てようで、僕は思わず笑ってしまう。

「なんで笑ってんの?」

「ごめん、ごめん。大丈夫。ヴァイオリンを弾くより、僕にとって有意義なレッスンができたから」

 曲を奏でて、こんなに気持ちいいと思ったのは何年ぶりだろう?たぶんハインリヒ先生のレッスンが修了してしまってから、感じていなかったように思う。

「結構遅くなっちゃったから、つばさちゃんの家まで送っていくね」

 バーの片づけを手伝いながら僕が言うと、つばさちゃんが遠慮した。

「え?いいよ。私が練習に付き合わせちゃったんだし」

「いや。暗くなってるのに女の子一人で帰したら、ママにめちゃくちゃ怒られるし。たぶん、夕飯抜きになっちゃうし」

「あ~。エリさんならやりそう……」

 つばさちゃんはクスクス笑った。


「クラウスはさ、本当に音楽が好きなんだね」

 学校から駅に向かって歩いている時につばさちゃんが言った。

「どうかな。……わからない」

 僕は正直に言った。

「ヴァイオリニストを目指しているんじゃないの?」

「父がヴァイオリン奏者だし、祖父も音楽家だったから、生まれた時からそこに音楽があって……っていうか、それしかなくて、なんとなくやってるけど。……本当に心から望んでいるのか、たまに分からなくなる」

 つばさちゃんが戸惑ったような顔をする。

 しまった!僕はバカか⁉ いつものように、「うん。音楽、やっていくつもり」と嘘でも答えればよかったんだ。みんなそういう答えを期待しているんだから。

 でもなぜか、つばさちゃんの前で、嘘やごまかしを言うのは憚れた。

「つばさちゃんこそ、本当にバレエが大好きなんだね」

 僕は話題をつばさちゃんのことに変えた。

「うん!大好き!」

 つばさちゃんはうらやましいくらい堂々と言い切った。

「でも、本気でバレエやっていこうと思ったのは、結構最近だよ」

 にっこり笑いながら僕を真っ直ぐ見た。

「昔はサッカーの方が好きだったし」

 学校の最寄の駅に着いた。改札を抜け、ホームに立つとつばさちゃんが続きを話し出した。

「サッカー、小学校のチームで全国大会に行ったら、なんか女子の関東強化選手に選ばれちゃったんだ。強化合宿とかに呼ばれて……」

「でも、全然楽しくないの。サッカーが。シュートも決まらないし……」

「そこで初めて気付いた。私は他の選手に助けられて活躍できてたんだって。私がすごかったんじゃない。他の選手のお膳立てがすごかったんだって」

 つばさちゃんは電車が入ってくる方の線路を遠く見つめながらポツリポツリと話した。まるで、自分の過去を見つめるように。

 僕はつばさちゃんの話すテンポに合わせて、「うん」「うん」と頷きながら聞いていた。

「たぶん、バレエのお蔭で、最後にゴールへボールを置きに行くのだけは上手かったんだと思う。キーパーのいない所へさ。そういう器用さだけでやってたんだよ」

 電車がホームに入ってきた。僕らは電車に乗り、空いている席に並んで座った。

「ちょうどそんな頃にね、テレビでミハイル・バリシニコフっていう、世界トップクラスの男性バレエダンサーが踊っているのを見て、めちゃくちゃ感動したの。ジャンプがすごく高くて、キレっキレっでさ。見ててわくわくするの。あんな風に踊りたいって思った」

 つばさちゃんはちょっと照れたように笑って、そして続けた。

「私は女子だから、バリシニコフほどダイナミックなジャンプはできないかもしれないけど、でも男子みたいなジャンプができて、女子の優雅さ身につけたら最強のバレエダンサーじゃん!だから、そこを目指すことにした」


 ――ああ。つばさちゃんだ。つばさちゃんらしい凛とした言葉に清々しさを感じた。


「うん。なれるよ。きっと」

 僕は確信を持って言った。確信というか、希望――いや、彼女の言葉は強さがあって、きっと希望を確信に変えてしまうんだろうと思えた。

 僕はうらやましくなった。そして心から彼女を応援したいと思った。

「つばさちゃん、あのさ、つばさちゃんの自主練に付き合いたいんだけど、ダメかな?」

「え?別にいいけど。っていうか、クラウスの練習が出来なくなっちゃうんじゃない?」

「もちろん、付き合えない日もあるけど。つばさちゃんのバレエに合わせてピアノ弾くのって、なんかすごく良いピアノの練習になるって思った」

 つばさちゃんを応援していくことが、自分のためになるような気がした。









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