9 『ありがとう』
お母さんのあとについて、僕はちづるの家に上がらせてもらった。
リビングに通してもらうと、キッチンカウンターに写真立てと、手の平で包めるほどの大きさの水晶の置き物が飾ってあった。
ちづるがどこかの美術館の絵の前で微笑んでいる写真と、ちづるの名前と日付が彫られた水晶。
日付は――生年月日と、もう一つは今年の日付だった。
僕はその水晶に目が釘付けになる。
位牌。
その言葉を知るのはあとになる。でも僕はその物体が、そういう意味を持つものだということを理解した。
ちづるは、もうここに、いない――。
「あなたがくれたカラフルな付箋のお手紙ね、あの子……すごく喜んでたの。
天国に持っていくから絶対棺に入れてねって……。あなたがもし訪ねてきてくれたら、教えてあげようと思って」
お母さんは、涙で目を潤ませながら、スマホの画面を見せてくれた。
僕が今までに書いたひとことメモが、ノートに貼られていた。
画面が小さくてよく見えないけれど、僕の書いた付箋の横に、ちづるが何かを書き込んでいた。
お母さんが次の画面にすると、拡大した画像になった。
『初めて男の子から手紙の返事もらえた! 超うれしー!』
久しぶりに見るちづるの文字だった。目にした途端、僕はうまく息が吸えなくなった。
もっと書けば良かった。
なんでもっと書かなかったんだ。
呆然となる僕に、ちづるのお母さんがそっと声をかけた。
「あのね、良かったら……もらってほしいものがあるの」
お母さんが案内した先は、ちづるの部屋だった。
女の子の部屋に勝手に入るなんて、しかもその子のお母さんに案内されるだなんて。
頭の中ではそんなことを考えているけれど、僕の体は操り人形みたいに、案内されるままちづるの部屋へと入っていった。
ちづるの部屋はきれいに片づいていた。
デスクの上には色とりどりのインクボトル。
ちづるの部屋からは、僕の知っているにおいがした。
僕の万年筆と同じにおい。
ちづるの部屋からは、万年筆のインクのにおいがした。
「万年筆のインク。好きな色があったら持って帰ってね。いくつでも……遠慮しないで。
あの子はあの子で、お気に入りのインクを万年筆と一緒に持って行ったから。
それと……」
お母さんが引き出しを開け、手紙を僕に渡す。
「もし、あなたに会ったら渡してって」
ちづるの絵手紙だった。
ちづるがよく描いていた、のほほんとした顔をした子供の顔。
男の子と女の子が並んで笑っている。
ちづると僕だ。
『一緒に帰ってくれてありがとう。楽しい思い出をありがとう』
書かれた文字がゆがんで、読めなくなった。あわてて顔を覆った。
自分の喉の奥がおかしい。苦しい。変な声が出た。
立っていられなくて、僕はちづるの部屋で膝をついた。
ちづるの手紙を床に置き、僕は両手で顔を覆った。
初対面の女性――しかも友人の母親を前にして、顔をぐちゃぐちゃにして泣いた。
恥ずかしい。泣き止まなくちゃと思っても、嗚咽は止まらなかった。
ちづるのお母さんは何も言わず、僕を一人だけにしてくれた。
ちづるのお母さんがドアを閉めた音が引き金になったかのように、僕はさらに壊れたように泣いた。
次回、最終回となります。




