はじめに【プロローグ】
奈良時代から明治時代までの日本は、68ヵ国に区分されていた。
これを律令制度といい、当時は66州2島といった。
越後、とは「越の国」を指し律令制度により、北陸道に横たわる細長い地域を意味する。
それらが時代の移り変わりと共に3分割されていき、越前(福井県)、越中(富山県)、越後(新潟県)、となった経緯を持つ。
何故、越前、越中、越後、等と呼ばれるのか。
それは、単に「越の国」の中で都(京都)から最も遠い地域を指しているからである。
では、物語の舞台となる越後とはどのような国なのか。
単に越州と呼ばれたりもするが、あまり私たちには馴染みがない。
越後とは、7郡34郷から構成される国。
つまり現在で言い換えれば、7つのグループに分けられ、その中におよそ34の市町村があると考えられる。
国府は現在の上越市。ここに謙信・景勝が二代に渡って住み続けた居城、春日山城があった。
国府とは、現在で言うところの県庁所在地にあたり、春日山城が東京都での都庁である。
①上郡(現在の上越地方)頸城郡、魚沼郡。
②中郡(現在の中越地方)刈羽郡、三島郡、古志郡、蒲原郡。
③下郡(現在の下越地方)岩船郡。
ここで少し日本地図をもし開けるのなら開いて欲しい。地図を見れば一目瞭然だが、越後(新潟県)は南北に細長い国であることがわかる。
①は越中、信濃に隣接する。越後の国府は①の頸城郡に置かれ府内(現在の上越市)と呼ばれていた。
②は国境として有名な三国峠が待ち構え、それを越えれば関東平野が開ける。後に謙信はこの三国峠を辿って関東へ度々出陣することになるのだが、またそれは先の機会で説明しよう。
③は出羽国、庄内、陸奥国、会津国方面へと通じている。
要するに当時の政治の中心地は越後西部に偏っていたことがこれでわかってもらえたと思う。
当時の越後。先程も述べたが政治の中心地が西部に偏っていたがため、南北に延びた国土の気質から、越後北部への命令系統が如何せん疎か且つ緩くなってしまう。
それは何故か。携帯電話などの私たち現代人が扱う便利グッズを持っていなかった時代だから連絡は当然人伝である。
越後国府が置かれた頸城郡から北部の豪族が割拠する蒲原郡、岩船郡へはとある場所を通っていかなければならなかった。
そう、「阿賀野川」である。
単に「阿賀川」とも呼ばれるが、それは他県より流れてきた「阿賀川」が新潟県の峡谷に入ると「阿賀野川」へと名前を変えるそうだ。
この「阿賀野川」は、現在でもきちんと存在し国が定めた一級水系に認定され、福島県の荒海山を水源とし日本海へ流れる、日本人が誇るべき川である。
現在でもそうだが、「阿賀野川」が越後の西部と北部を調度分断していた。そのため、越後北部に住まう豪族たちを、当時は荒くれ且つ剛強な者たちであるという意味を込めて「揚北衆」と呼んでいた。
そう、この「揚北衆」が鎌倉公家の時代より纏まりに欠け、越後が「下克上の国」と呼ばれる所以を作り続けていたのである。
この「揚北衆」を代々の守護及び守護代は家臣に組み込むという難題が成し遂げられず野放しだったと言っていい。謙信もこの荒くれ者らを統率には大変苦労していたようだ。
「揚北衆」の特徴は兎に角、独立心が旺盛且つ反抗心の塊で、西部に根を張る守護及び守護代と非常に仲が悪く、豪族同士でも先祖伝来の土地がどうだかと因縁を押し付け殺し合い、気性が荒い武辺者揃いであった。
よくこんな粗暴・乱暴・横暴・狂暴を体現したような野郎らを家臣団に組み込んだと、筆者は常に感心してしまう。
だが、「嫌われ者」の代表格であるようなこいつらは、一度戦場に出れば越後西部の男たちよりも武功を挙げ活躍する。粗暴・乱暴・横暴・狂暴の塊だが、筋はきちんと通す心は持っていたことが記録からも伺え、こいつらの武勇が謙信・景勝二代に渡って上杉軍団の中核を担っていく。
さて、他にも物語を始める前にいくつか知っておいて欲しいことがある。
戦国時代における越後の国内情勢である。
越後(新潟県)と言えば何を思い浮かべるだろうか。コシヒカリ、全国的に有名なブランド米をまず考えるだろう。
そして、日本有数の豪雪地帯であるということ。現代でも、人間の大人を軽く越えるほど降り積もり凄まじい寒さで包まれる。
しかし、考えてみてほしい。争乱と裏切りが激しく横行していた戦国時代で米が豊かに育ち、ましては道路や町並みが舗装されていない国で食物が豊富であっただろうか。
実は現在の米どころ新潟は、江戸時代に河川の氾濫を抑える治水工事が実施されてからの話。つまり、謙信・景勝が納めていた越後は米なんて全くと言っていいほど収穫できなかったのである。
それを証拠とする記録があり、豊臣秀吉が起こした朝鮮出兵で捕虜となった朝鮮人儒者は、次のように越後の国情を記している。
『国内の行程は四方六日ほど。山が南に当たり、北に海を帯びていて、五穀が熟さない。桑・麻は多い。土産は白細布であり、常に雪の中にさらして練る』
(看羊録)より。
さらに、河川の氾濫や雪解け水によって生じた湿原地も多く、越後は米の栽培には不向きな土地であった。だからこそ国内情勢が鎌倉公家の時代より、わずかに豊かな土地を巡り下克上による「内乱文化」が盛んであった。
では、米が育たない雪国で『軍神・上杉謙信』はどうやって国を潤したのだろうか。
商業である。
当時の越後は「商業国」と言っても過言ではないほど経済収入の大多数を占めていた。中でも特に盛んだったのが、ご存知の方もいるかもしれないが、「青苧」と呼ばれるからむしの一種である繊維が戦国後期に中国から木綿が普及するまでは、越後特産の「青苧」が布の原材料として日本中で珍重された。
この「青苧」は山間部から河川を通じて、河口の主要港(柏崎、直江津など)に運ばれる。港からは海路で越前・敦賀まで輸送され、そこで荷揚げ。続いて陸路を辿って、琵琶湖を再び船で渡り、大津へ到着。そこからは陸路で京都、さらに淀川を下って大阪へと運ばれ、製品に加工された。
つまり「青苧」とは当時の一大産業であり、越後は繊維業・物流業を核とした商業国・貿易国、といった方が理解しやすいだろう。江戸時代に「越後屋」を屋号とする商人が多かったのも、そのためである。
意外かもしれないが、徳川家康によって江戸幕府が創設されるまで、太平洋海運は無きに等しい状態で、日本の物流のメインは日本海開運であった。
太平洋海運の航路が発達したなかった一因は、津(三重県)を出航した船が焼津(静岡県)にたどり着くのは決して容易なことではない。ところが、日本海沿岸には港が点在し、特に越後では直江津、柏崎、寺泊、新潟、と良港に恵まれている。
戦国大名の中でもとりあけ謙信が裕福たったのは物流に対する課税収入(商品税、入港税)が膨大だったことによる。停泊税、当時の言葉で「船道前」と呼ばれていた。
さて。
いろいろ細かいことを語ったが、戦国時代の越後事情を分かってもらえたかと思う。
越後の龍・上杉謙信。
十四歳で初陣を飾り、春日山城にて四十九歳の生涯を終えるまで、約七十回の戦に明け暮れ常勝無敗を記録し続けた戦国最強の武将。
表裏定まらぬ乱世にあって裏切り・謀略を良しとせず
「義」を重んじ
私利私欲を捨て、領土野心を持たず
助けを乞われれば何処へなりと出陣し
盟友となった者には助力を惜しまず
例え天変地異が起きても裏切ることはなく
「義」を忘れた者には、正義の鉄槌を下す
最後の最期まで「義」を重んじ、またそれを貫き通した、戦国最強の「義将」。
『依怙によって弓矢は取らぬ。ただ筋目をもって何方へも合力す』
(白河風土記)より。
宿敵武田信玄をして
『太刀打ちにおいては日本無双の名大将』
と言わしめた男。
そんなわたしが大好きな戦国武将上杉謙信の物語を描くつもりです。
文才はありませんが精一杯書くつもりです。
最後までゆるりと楽しんでもらえたら幸いです。