愛なら美しいのか
形あるものはいずれ壊れるものだ。祖国が大国に飲まれた。春の夜のことだった。大国からの客人に見初められ、私は彼とともに大国の都へ。見初められたといえば聞こえはいいが、実際のところ、拒否権はなかった。妻という名前すらなかった。
私を連れて帰る代わりに、国は今まで通りの独立自治を認めてくれるようにと客人にかけあい、客人は、それを請け負った。そして、私は、国を護った聖女とされた。つまり、何ということはない、私は売られたのだ。小国とはいえ国一つ分の価値がある女だったようだと笑ってもいい。
やがて、大国は崩壊を始める。羽も積もれば舟を沈める。小さな綻びは数えきれないほど存在していた。近いうちにその時が来るとはわかっていた。
春はまだ遠い、冬の日だった。
「……行くのか」
「はい」
「そうか」
「お世話になりました」
頭をあげて背を向ける。
迎えに来ていた祖国の軍人にうながされ、足を踏み出す。その動作が緩慢だったのは、引き留めて欲しいからではなかったのに。
「行かないでくれ」
足が止まる。
「この三年間、私は十分、あなたに従ってきたはずです。ともに死ぬ義理はありません」
背を向けたままで答える。声が震えてはいなかっただろうか。手で隠したせいでくぐもってはいたかもしれない。
私の顔を見た隊長が「五分だけ、外でお待ちしています」と、部隊を連れて部屋を出た。
二人きりになる。見慣れた書斎。自由に歩きまわることを許されていた屋敷の中でも、私はここにいることが多かった。私は、書物が好きだった。あの春の夜も、書物を読んでいた。
「……震える吐息を隠す時、そうやって手の甲を噛む癖」
「……」
「車を降りると空を見上げる。嘘をつく時、目を合わせない」
声を圧し殺す。
「すべて、愛しかった」
「……今さら、何を言われても、何も変わりません。最初から、最後まで、あなたは私の敵です」
「ああ。わかっている」
足が動かない。
部屋の外から扉が控えめに叩かれる。時間だ。
「五分、過ぎる。早く行かねば、置いていかれるぞ」
「勝手な、ことばかり」
「身勝手も最後だからな」
微笑んだことが気配でわかった。振り返ってはいけない。振り返ってしまえば、きっと、私はこの牢獄を出ていけなくなる。
「ハル、君と生きたかった」
呟きには聞かなかったふりをして、どうせ気づかれてしまっている涙をぬぐい、足を踏み出した。まただ、いつものこととはいえ、手の甲に歯形がついてしまった。はじめから、そう言ってくれていたなら、今は何かが違っていたのだろうか。
「幸せに。……すまなかった」
呪縛のような祝福を背に受け止めて、扉を開いた。
独裁政権を打ち倒した革命は、前王朝の復活をもって終結し、大国に飲みこまれていた小国は、それぞれに独立を宣言した。
欠損。
血塗れ、傷だらけ。
吊るされた男。
「お久しぶりですね」
様々な死体が晒されている中、頭部だけになったその人の前で足を止めた。
足を上げて、恐怖の欠片もなく信念を浮かべている頭に乗せれば、しんと静寂が波紋のように広がる。誰にも聞こえないくらいの小さな音で、口の中で言葉を紡ぎ吐き出した。
「ともに生きることも、死ぬことも、できるはずがなかったんですよ。私もあなたも、国を捨てられない。あちらから捨てられたとしても。あるいは、だからこそ」
あなたは私を愛したのか。
私はあなたを愛したのか。
「これを、いただいても?」
後ろからついてきているはずの復興王朝の王子に、足の先で頭を示して問う。王子は快諾した。
「こんなものでよければ、いくらでも痛めつけてくださって結構ですよ。必要なら、体も探させよう。どれほど痛めつけても、聖女殿の痛みが消えるわけではないでしょうが……」
思わず笑みが零れた。
何も、知らないくせに。心中で呟いても怒りはわかなかった。何にも期待しなければ、何にも怒らずにいられる。いつかあの人の言っていた通りだと実感した。
頭を拾い上げると、王子が慌てたように人を呼んだ。「穢らわしいものを聖女殿に触れさせるわけには」、では私は何だったのだろう。聖女などではない。聖女、それは私を売って国を買い戻した者たちが作った物語のヒロインだ。
「ジーマ」
呼びかけたところで返事などあるはずもなかった。
ジーマ、本当は、あなたと死んでもよかった。ともに死ぬ義理はなくても、ともに死ぬ情ならあった。だが、ともに死ねば、同じ墓に葬られることはないだろう。あなたは大悪の「罪人」で、私は囚われの「聖女」なのだから。
私はあなたと死にたかった。あなたは、私と生きたかった。こんな世界で、あなたはなぜ生きたいと思えたのだろう。
答えの代わりにせめて目を合わせようとして、誰かによって閉ざされた瞼を指でこじ開けていると、王子に呼ばれた。近くにそれらしい体が見つかったそうだ。傷が増えてはいるが、たしかに本人であることを認めて、持ってきた簡素な棺に移させる。
「その首もお預かりしよう」
「いいえ。これは私が」
「そうか」
王子は何かに気づいたような顔をして、白い手紙を差し出した。薄い青は、ジーマが私をたとえて呼んだ花の柄だった。
「屋敷には火が放たれて、何も残らなかったが、それを見越して大切なものは金庫に預けていたようだ。金品は没収させてもらったが、手紙だけは、あなたへ」
「……棺に入れてください」
「読まないのか?」
首を振って否定した。
しばらく滞在して行くようにと王室からは誘われていたが、私は国の代表として来たわけではない。おそれ多いことだと王子に断った。「そんな態度には見えないが」と王子は笑った。
頭を抱えたまま、車に揺られて国へ帰る。この旅に車を出してくれたのは、あの日に私を迎えに来た軍人の一人だった。思うところがあって、軍は辞めたそうだ。
「到着しました」
車が停まる。
「ありがとう」
「これも忠義と思えばこそ」
「そう。これからどうするの?」
「絵を、描こうかと」
車を降りて空を見上げた。棺が降ろされ、それを椅子にして座る。ほんのわずかに躊躇いを見せて、車は去っていった。「本当にそれでいいのか」とは、すでに何度も聞いた問いだ。私の答えは変わらないと、何度も答えていた。
冬の空は高い。遠い。ジーマ。早く、滅んでしまえばいいのに。羽のように雪が降る。私たちを沈めるまでに、どれほどの時間を要するだろう。