きっと
どうすれば……。私はどうすればいい? 最も賢明な方法として、私は何を選択すればいい?
ベランダに男がいる。男が私にとって脅威となる存在だということもまた確実だろう。ただ、ガラス戸の鍵は閉まっている。玄関の鍵だって閉まっている。男は部屋に侵入することができないし、間もなく警察がうちを訪ねてくるはずだ。
だからといって、このままじっとしておくべきなのだろうか。それが最善の選択なのだろうか。
男が窓越しにニヤリと不気味な笑みを浮かべる。それから、右腕をかかげてみせる。その手には何かが握られていた。私はすぐに認める。ドライバーだ。そして、彼が何をしようとしているのかも。
私には彼を黙って見すえ続けることしかできない。ガタガタと身を震わせながら。一刻も早い警察の到着を願いながら。
ガシャ。
たった一撃だった。たった一撃で、さほど大きな音も立てずにガラスはもろくも砕け散り、戸に小さな風穴を開けた。
そんな……。嘘でしょ?
男は更に何度かドライバーを戸に叩きつけ、穴を少しずつ広げていった。私は尻餅をついた体勢のまま、後ずさりをした。穴から男の腕が伸び、内鍵のクレセントを回した。彼に背を向け、四つんばいでキッチンまで逃げる。立ち上がることはできない。腰に力が入らない。
「知ってた?」
当たり前のように話しかけてくる彼。もう、すでに部屋の中へと入ってきている。「ライターで熱した後、濡れたハンカチで冷やしてやれば、ガラスはすごく割れやすくなるし、音も小さくなるんだってさ。前にテレビでやってた。親切だよね。テレビって」
玄関まで達したところで私は向きかえった。このまま玄関を開けて外に出ても逃げ切れる自信がないし、玄関を開ける気力さえもない。
「た、た、助けて……」
自分では叫んだつもりだった。しかし、実際は蚊の鳴く程度の声しか出ない。
「助けてってどうゆうこと?」
男の表情が一変した。眉を吊り上げ、口を真一文字に結ぶ。「まるで僕が君を襲おうとしてるって言い方だよね。そんなはずはないだろ? 僕と君の仲じゃないか」
「し……」
駄目だ。やはり声が出ない。変わりに口から漏れるのはガチガチとぶつかり合う歯の音だけ。
「毎日毎日顔を合わせてるし、昨日は君を家まで送ってあげたじゃないか」
じりじりと迫ってくる男。手にはしっかりとドライバーが握られている。「その恩を忘れてさ。居留守は使うわ、部屋から閉め出すわ、いったいどうなってんの?」
「し、し……」
ようやく私はお腹の底から声を絞り出すことができた。「知りません! あなたのことなんて私……。全く知りません!」
男はやや肌の色が濃い、四十代前半ほどの中年男性であった。
「知らない?」
信じられないといった表情を浮かべる男。「どうして? いつも会ってるじゃないか、電車の中で僕が疲れた顔をしていると、君はいつも優しく穏やかに微笑みかけてくれるじゃないか。色んな話を僕に聞かせてくれるじゃないか」
「知らない! 知らない!」
私は必死で首を横に振った。目を見開く男。怒りからか、身体中を震わせ始める。
「僕を……」
ドライバーを持つ右手を振りかぶりながら彼は言った。「僕を騙したな!」
目をつむり、私は思わず心の中で叫んでしまった。
お母さん……。お母さん、助けてぇっ!
すると、ほぼ同時に外を走る足音が近づいてきた。次の瞬間には玄関の扉が勢いよく開けられ、私は反射的に背後へと目を向けた。そこになんと……。
「あ、あなたは……」
短髪頭に気の弱そうな顔。今日はいつもとは違い、白いティーシャツとブルージーンズを着用している。
そう、彼だった。
ゲームショップの彼だった。
彼は私と男を交互に見比べた後、すぐに私の脇を通り、部屋へと足を踏み入れた。
『彼が私の部屋に侵入する』
ゲームショップの彼に飛びかかられ、身体を押さえつけられた際には、男はまだ意味不明なことを口にしながら暴れまわるなど、抵抗の姿勢を見せていたが、やがて二人の警官が駆けつけた頃にはそんな元気もなくしてしまったのか、おとなしくすんなりと現行犯逮捕された。
「なんでか分からないけど、気がついたらここに来てた」
ゲームショップの彼が言う。交番にて簡単な事情聴取を受けたその帰りだ。時間はおそらく午後八時から九時程度の間。私は彼の顔を、彼はところどころ星の光る夜空を眺めながら、肩を並べて歩いていた。「信じてくれないかもしれないけど本当なんだ。君がどこに住んでいるかなんて全く知らなかったのに」
「いえ、信じます」
私は首を振る。「あの時は私も、あなたが来てくれるなんて想像できなかったけど、今考えれば納得できます」
「納得?」
私に顔を向け、目を丸める彼。
「まあ、それは置いといて」
私はふふっと微笑んでみせた。「あなた、見かけによらず、けっこう強いんですね」
一瞬呆気に取られたように「へ?」と眉を曲げる彼だったが、すぐに吹き出し、照れ隠しなのか指先で鼻の頭をかいた。
「せっかく助けてやったのに、なんだよその言い草」
「ま、とにかく災難だったね」
ふうと息を吐いてから彼は言った。私の部屋の玄関の前に到着し、二人は向き合って立っていた。「とりあえずは安心だろうけど、ちゃんと戸締まりして寝なきゃ駄目だよ」
母のようなことを言う。私は苦笑して頷いた。
私に事情聴取をした刑事の見解によると、あの中年男性は毎日電車の中で見かける私に対して特別な感情を抱き、自分の中で勝手に妄想を膨らませていったのではないかとのことだった。いつしか妄想と現実の境目がなくなり、今回のような凶行に及んでしまった……。
私はそれを聞いた時、戦慄とは別に、底の見えない悲しみを覚えた。彼のことを思う人物がどこかにきっといるはずなのだ。根拠はないが、今の私にはそう思えた。彼を自分と重ねていた。
「ありがとうございました」
丁寧に頭を下げる。「本当にあなたが来てくれたおかげで私は無事でいられました。何度お礼を申し上げればいいのか分かりません」
「いや、そんなに気にしないでいいよ」
首を振るゲームショップの彼。「さっきも言ったとおり、自分でもよく分からないままここに来ちゃったわけだし」
「でも……」と彼は続ける。「ひょっとしたら俺の心の中を読んだ神様が、好意でここに連れてきてくれたのかもしれない」
「心の中?」
「いや、こっちの話」と彼。また鼻をかく。
「それじゃあ」
背を向けながら、彼は軽く片手を挙げた。「俺、そろそろ帰るわ。また明日ね」
私も会釈をすると、彼は愛想笑いのようなものを浮かべ、おもむろに歩き出した。その時私は心の中で自然に、都会を流れ行く川の水がいずれ海へと帰っていく様のごとく、ごく自然に母の笑顔を思い描いていた。
お母さん……。
自分の趣味を娘に押しつけるのって良くないと思うな。確かに私はあんまり男を見る目を持ってないけど、それでも自分の相手ぐらい自分で見つけます。
「あの……」
彼の背中にそう呼びかける。彼が「え?」とこちらを振り返る。
「どうしたの?」
常夜灯の薄明かりが彼の顔を照らし出す。
私は改めて思った。やはりタイプではないなと。
それなのに……。
それなのに、私は彼に惹かれている。
お母さんがどうしてもって言うんならしかたないか。
でも、これで最後だよ。もう私のことを気にかけないで。
私は大丈夫だから。
お母さんが選んでくれた人ときっと……。
勇気を振り絞って、私は言った。
「部屋で、お茶でも飲んでいかれませんか?」
彼が私の部屋に侵入する -fin-