親不孝者
二度のチャイムの後、今度はノックの音が聞こえた。それも二度繰り返される。私は音を立てないようにキッチンまで歩き、腕で涙を拭った。それから、しばらく玄関の扉を凝視していた。また、昨夜のことを連想する。私の後を尾けていた、ビジネス服姿の男。
ねえ、お母さん。あれも私を怖がらせるために、お母さんが見せた幻だったの?
幻……。そうであってほしいと願う。信じる。しかし、私はなかなか訪問者を出迎えることができなかった。またドンドンとノック。前回よりも荒々しいノックだ。一瞬、驚いて声を上げそうになってしまったが、同時にあることに思い当たった。ひょっとしたら、先ほど私が騒いでしまったせいで、隣、また下の階の住人が苦情を言いに来たのではないだろうか。
もしそうだとしたら、無視するわけにもいかない。私は「はい」と返事をし、扉へ駆け寄ろうとした。が、その時だった。
プルルルル。プルルルル。
洋室の電話台の上に置かれていた電話が唐突に鳴り響いた。もちろん、私は驚愕した。私は全ての連絡を携帯電話で済ませている。部屋を借りた時に元から備え付けられていたその電話は、どこにも繋がっていないはずなのだ。ただ、その驚愕も長くは続かない。すぐに一つの考えに思い至ることができる。
お、お母さん?
母が鳴らないはずの電話を鳴らせた? いったい何のために? 頭がパニックとなり、私は洋室のほうに目を向けたまま、ぼうっと立ち尽くしてしまった。
ガチャガチャ。
え……?
不気味なその音は玄関扉のドアノブから聞こえているようだった。おそるおそる扉に近づいてみる。『その事実』を認め、私はひどく狼狽した。なんと、訪問者がドアノブを回そうとしているのだ。騒がしくされて頭に血が昇っているのだとしても、勝手にドアノブを回すというのはいくらなんでも非常識ではないか。ますます頭が混乱する。
ただ、ドアノブは回らない。鍵がかかっている。しばらくすると音が消え、扉の向こうに人の気配がなくなる。足音も遠ざかっていく。どうやらあきらめてくれたらしい。私はふうと大きく息を吐いた。
怖かった。もし鍵をかけてなかったら……。
え……?
鍵をかけてなかったら? いや、鍵はかけていなかったのだ。ということは、やはり母が? この部屋の中にいる、私を憎む母の魂が? いや……。
違う!
違うじゃないか!
私の脳裏に閃光が走った。小さく開いた傷口から、その衝撃がじわじわと全身へ伝わっていく。
手先がしびれ始める。
また目の奥が熱くなっていく。
私は一度つばをゴクンと飲み込んだ。
息が荒くなる。
まるで呼吸のしかたを忘れてしまったかのように、不規則なリズムが口からこぼれる。
お母さん、お母さん……。
私は足をふらつかせながら、洋室へと歩いた。ベッドの枕もと、収納棚の上の母の写真を手に取る。写真の中の母はすでに笑顔に戻っていた。
その瞬間、私はひざから崩れ落ちた。
フローリングの床の上、写真を抱きしめて私は泣いた。
声を出さずにむせび泣いた。
私は馬鹿だ。
世界一、親不孝な娘だ。
あんなに優しかった母。
いつも私を思ってくれていた母。
そんな母が私を憎んで?
そんなわけないじゃないか。
母は私を守ってくれていたんだ。
一昨日、鍵を閉め忘れた時は鍵をかけておいてくれた。
昨日かけたはずの鍵が開いていたのは、私が追われていたからだ。
さっき、消し忘れたはずのコンロの火が止まっていたことで、私の不安はついに臨界点を超えてしまったが、全ては私のこのずぼらな性格が悪い。
写真の中で私を睨みつける母だって、ただ単に私を叱ってくれていただけに違いない。
私は母が死んでも尚、母に心配をかけ続けている。
挙句の果てには、実家に帰ってこなかった私を憎んで、母が嫌がらせをしているなどと。
どこまで、どこまで私は親不孝者なんだ。
ごめん。ごめん、お母さん。
お母さんの愛情に気がつかなくて、いつまでも心配ばかりかけて、本当にごめん。
「え……?」
私の背中に二つの腕が回った。
やがてそのうちの一つが私の後頭部へと移動する。
私は涙目のまま、目の前を見た。そこに母の胸があった。
私は母の胸の中にいた。
お母さん……。
母は私の頭を優しく撫でていた。
私も母の背中に腕を回し、思いきり抱きしめた。懐かしい母の香りに包まれる。
耳元で母が何かを囁いた。その言葉を聞き、私は泣きじゃくったまま何度も頷いた。
これからは気をつけるから。鍵もちゃんと閉めるし、火だって消し忘れないようにする。約束する。だから、もう心配しなくても大丈夫だよ。ね、お母さん。
二度と訪れるはずのなかった母との時間。その最後の時間を、そして最後の母の言葉をいつまでも、いつまでも胸に抱きしめておこうと私は誓った。
『幸せになりなさい』
母の写真を収納棚の上に戻し、私は携帯電話を探した。とりあえず警察に電話しておこうと思った。侵入者はいなかったが、私の身の安全を脅かす人物は間違いなく存在している。
母が教えてくれたではないか。
鳴らないはずの電話を鳴らして、閉め忘れたはずの鍵を閉めて。あの時、私は絶対に扉を開けてはならなかった。
扉の向こうにいたのは、おそらく昨日私の後を尾けていた人物だと、なんとなくそう思う。ネクタイを締めて、スラックスを履いた男。夢の中で私の部屋に侵入してきた男。
あ……。
その時私は気がつく。
一昨日、玄関の鍵を閉めたのが母ならば、そこにまた彼の存在が浮上してくる。ゲームショップの彼。彼もまた今日は休みだと言っていた。
やっぱり、あの人が……?
鏡台の上に携帯電話を見つけ、私はベッドに座り、携帯を開いた。近所の交番の電話番号をメモリー登録していたはずだ。その番号を探す。その番号に電話をかける。
数分後、通話を終え、収納棚の上に携帯を置く。今からうちに警官を向かわせてくれるとのことだった。私は精神的にいくらか楽になり、背伸びをしてベッドに仰向けになった。
ん?
ガラス戸がガタッと音を立てた。そちらに目を向けるも、カーテンが引かれているため、外の様子を窺い知ることはできない。先ほど外出した際はそれほど風の勢いを感じなかったが、今になって強まったのだろうか。不審に思い、私はゆっくりと立ち上がってガラス戸に近づいた。そして、祈るような気持ちでそっとカーテンをスライドさせる。
「……!」
声にならない叫び声を上げ、私は目を見開いた。
逃げ出そうとした足が絡まり、床に尻餅をつく。
ベランダに男がいた。男はネクタイを締め、スラックスを履いていた。
次回、ラストです。