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写真の中の

 せっかくの休みだというのに、私はどこへも行かず、ただ家の中でじっと時を過ごした。家中の鍵を閉め、ガラス戸のカーテンを閉め、外界との接触を避けた。時刻はまもなく夕方の五時を回ろうとしている。私はベッドの上でひざを抱え、目覚まし時計の秒針の動く音を聞いていた。

 昨夜の出来事が頭をよぎる。あれから、また部屋中を点検して回ったが、やはり誰も潜んではおらず、何も盗られた形跡はなかった。私はまず、実家の弟に連絡を入れた。

 『何も盗られてないんなら別にいいじゃん』と弟は言った。誰かに尾行されたということを話しても『姉ちゃんが自意識過剰なだけじゃないの?』とまるで相手にしてもらえなかった。ただ、最後には『うちに戻ってくればいい』と言ってくれた。

 実家で弟と二人、いや母と三人でまた暮らしていくのも悪くはないか、と私は思う。どちらにしても、このアパートは近いうちに引き払ったほうがいいだろう。おそらく、これ以上鍵を取り替えても無駄だ。侵入者は魔法使い。きっと、どんな鍵でも容易く攻略し、部屋の中へと侵入してくる。

 警察に通報しようかとも考えたが、結局は思いとどまった。弟と同じく、相手にはしてもらえないだろう……。というのは建て前の理由で、本音を言ってしまえば、私はまだ認めたくなかったのだと思う。一昨日鍵が閉まっていたのは、誰かの悪いいたずらで、昨日鍵が開いていたのは、やはり私の鍵のかけ忘れ。誰かに尾行されたのは勘違い。無理のある解釈だと分かっていながらも、認めたくなかったのだ。




 もう六時か。

 私ははあと溜息を吐いた。朝起きてから何度目の溜息だろう。私は立ち上がり、キッチンへと歩いた。まるで食欲は湧かないが、何か胃に入れておくことにする。冷蔵庫を開け、適当な食材はないかと探す。インスタントラーメンは昼に食べた。二食続けてインスタントラーメンというのもどうかと思うので(昨夜にも食べ、朝食を抜いたので、実際は三食連続となる)、簡単な物でも調理して食べることにした。

 冷蔵庫の中から使いかけの玉ねぎと人参を取り出した。私はそれほど料理が得意ではない。料理のレパートリーも驚くほど少ない。この食材から作ることができる料理は野菜炒めぐらいしか思いつかない。しかし、キャベツなしの野菜炒めはかなり寂しい。

 天ぷらっていう手もあるか。

 私はキッチンの開き戸から、天ぷら粉を取り出した。胃にはやや重たく感じるが、同じく簡単な料理だ。

 野菜を切り終えてから、ボウルに天ぷら粉を水で溶く。そうこうしているうちにだんだんと楽しくなってくる。いざ始めると料理の楽しさに目覚めてしまう(そして、食事を終えた頃にはまた忘れる)。

 鼻歌を歌いながら、揚げ物用の鍋にサラダ油を注ぐ。それから鍋を中火にかける。その時、私はあることに気がついた。

 ……。

 ご飯がないな。

 もともとご飯を炊く習慣など私にはない。いつも、レンジで調理するパックのご飯を買い置きしているが、今はそれを切らしてしまっている。私はガスコンロの火を弱火にして、しばらく本気で悩んだ。ご飯をあきらめるか、もしくは今から外出して調達してくるか。アパートからわずか五十メートルほどの場所にコンビニエンスストアーがあり、そこでパックのご飯が販売されていることを私は知っていた。

 昨夜の帰り道でのことを思い出す。ビジネス服を着た男を思い出す。重なり合う足音を思い出す。私は洋室まで歩き、カーテンの隙間から外を覗いた。まだ空は明るい。真夏なので、暗くなるのは七時を過ぎてからだろう。

 よし、と私は決心し、鍵と財布を手に玄関へと向かった。サムターンを回し、扉を開け、扉の隙間から顔を出し、辺りの様子を窺った。

 ……。

 人影はない。

 外に出て鍵を使い、玄関の錠を閉めた時、キッチンの電灯を点けっぱなしにしているということに気がついたが、私はそのまま歩き始めた。どうせ、家を空けるのは十分程度の間だろう。




 ああ、私ってなんでこうなんだろう。

 手に提げた買い物かごを揺らしながら、私は走ってアパートまで戻ってきた。家を出てから五分も経過していない。


 火だ! 

 キッチンの電灯なんてどうでもいい。油を火にかけたままだ。


 階段を上がり、自宅玄関の扉のノブを回そうとする。しかし、回らない。そうだ、鍵をかけたのだった。慌てて下に履いたジャージのポケットから鍵を取り出し開錠する。


 あ、あれ……?


 扉を開けてすぐに、私はその異常さに気がついた。それは部屋に上がらずともすぐに分かった。まず、キッチンの電灯が消えていた。それから、コンロに目を移すと……。やはり、コンロの火も消えていた。


「誰よ!」

 玄関先で私は叫んだ。自分でも驚いてしまうほどヒステリックな叫び声だ。「誰かいるの!?」

 部屋に上がり、キッチンの引き出しから包丁を取り出す。震える刃先を進行方向に向け、ゆっくりと歩き出す。洋室にて「なんでこんなことするの!? 警察呼びますよ!」とまた叫ぶ。返事はなかった。




 数分後、キッチンの引き出しに包丁をしまってから、私は洋室のベッドに力なく腰かけた。ベランダにもベッドの下にも、トイレにも浴室にも押入れにも、人は潜んでいなかった。何か盗られたものはないか。それは確認しないでも明らかだと思った。

 食欲など完全に失われてしまった。思考回路は機能を忘れ、頭が真っ白になっている。私はこれから何をすべきなのか分からず、とりあえず収納棚の上の目覚まし時計に目を向けた。もちろん、それが最善の行動なのかも分からない。時刻は七時を迎えようとしていた。ゆっくりと忍び寄る宵闇の足音に恐怖を覚える。

 すると突然。

 その恐怖感が大きく膨れ上がり、私の心を、身体を、隙間なく侵食していった。


「な、な、なんで……?」

 私は目を見開いていた。ある一点に注目したまま、身体を硬直させていた。今までに体感したこともないほどの恐怖に、心臓がばくばくと大きな音を立てる。

 目覚まし時計の横、写真立てに入った母の写真だ。写真の中の、いつも笑っているはず、笑っていなければならないはずの母が……。

 なんで? なんでよ……。


 鬼のような形相で私を睨みつけていたのだ。




「なんで? お母さん、なんで?」

 私は母の写真に問いかけた。自分でも何をしているのか分からない。「あんなに優しそうに笑ってたじゃない。なんで、そんなに怒ってるの?」

 母は返事をしない。私を睨みつけたままだ。いつしか私の中の恐怖は悲哀へと姿を変えていた。

 やっぱり、お母さんが倒れた時、私が家に帰らなかったから? それで私を恨んでるの? だから、私に嫌がらせばかりするの?

 今までに私の周りで起きた不可解な出来事が、全て母の仕業によるものだと私は確信し始めていた。あえて言うが、私は霊感などないし、霊的な存在についても、どちらかというと懐疑的だ。しかし、信じざるを得ないではないか。鍵をかけたこの部屋から、侵入者はどうやって抜け出せたというのか。それに、写真の中の母の表情がどうやって変わるというのか。

 答えは一つしかない。

 侵入者は母だ。私を憎む母の魂が今もこの部屋の中にいる。


 お母さん? お母さんなの?


 相変わらず母は返事をしない。私は恐怖からではなく、悲しみからこみあげてくる涙の気配を察知した。次第に母の顔が涙でかすんでいく。


 え?


 出し抜けに家のチャイムが鳴った。反射的に玄関のほうへと顔を向ける。最初のチャイムからほどなくして、二度目のチャイムが鳴る。

 私は少しだけ不安になる。

 そういえば、さっきコンビニエンスストアーから帰った際、玄関の鍵をかけるのを忘れていた。




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