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重なる足音

「ちょっといいかな」

 休憩時間を利用し、地下のレストランで昼食をとったその帰りだった。私にも予想外のことだ。なんとゲームショップの彼が突然私に話しかけてきたのだ。

「は、はい?」

 私は激しく狼狽した。必死で動揺を隠そうとするも無駄だった。自分の身体なのに自分でコントロールすることができない。

 場所はゲームショップの目の前。彼は照れを隠すように髪の毛を触り、苦笑していた。

「お願いがあるんだ」

 彼は言った。「今夜あたり、僕と一緒に食事してくれないか?」

「はあ」

 間の抜けた返事も、困惑したような表情も、全ては演技だ。私は怯えている。今すぐ走り去ってしまいたいほど、恐怖にかられている。

 今日になって、彼の視線を気味悪く感じ始めた。そのことについて罪悪感もある。確かに昨日、閉め忘れた自宅の鍵が、何者かによって閉められていた。しかし、それが彼の仕業であるはずがないのだ。彼は昨日もしっかりとゲームショップで勤務をしていたではないか。それなのに怖い。彼のことがたまらなく怖い。

 全ては夢のせいだ、と私は思った。


 そう、また夢を見たのだ。




 今度は顔もしっかりと見えた。間違いなく彼だった。彼はなぜか私の部屋の中にいた。私のベッドの中にいたのだ。私が寝ている隣で彼も寝息を立てていた。逃げ出すことはできなかった。いや、逃げ出すことはしなかった、と言ったほうが正しい。夢の中の私は彼に完全に身も心も委ねてしまっていたのだ。全く意味が分からなかった。

 そもそも私はあまり夢を見るほうではない(見ているのだとしても、目が覚めれば忘れてしまっている)。そんな私が、ごく短期間に二つも、しかも似たような内容の夢を見た。


 『彼が私の部屋に侵入する』


 お母さん? と私はなんとなくそう思った。死んだ母が夢を通じて何かを暗示しているんじゃないか、と考え始めた。彼のことが怖くなったのはそれからだ。母が暗示しているのが侵入者の存在だとすれば、それは私にとって最もタイムリーな問題なのだ。





「すみません」

 私は愛想笑いを作り、できるだけ柔らかい口調でそう断った。「今日は仕事が少し長引きそうだし、また今度にしましょう」

「そうか……」

 残念そうにうつむく彼。しかし、すぐに顔を上げる。「明日は休み?」

 彼が何気なく言ったその言葉に、私は更に緊張してしまった。そう、休みなのだ。

「あ、はい」

 なんとか平常心を保とうとする。別に彼は私の勤務シフトを知っていたわけではない。質問してみただけだ。「一応、休みですけど」

「それじゃ、ちょっとぐらい遅れても大丈夫なんじゃない?」 

 にこりと笑う彼。「どうかな。俺も明日休みだし、仕事が終わってからゆっくりと……」

「そ、そうですね……」

 必死に言い訳を探す。矛盾のない、自然な訳を探す。「実は今、実家の弟が家に遊びに来てまして」

「そうなんだ」

 表情を変えず、頷きながら彼は言った。「いつ頃から遊びに来てるの?」

「え?」

 私はほんの少しだけ眉をひそめた。

 いつ頃から? そんなことを聞いてどうするの? 

 また疑ってしまう。


 侵入者は知っている。昨日の昼の時点で、弟が家に遊びに来ていなかったことを知っている。


 脇腹を汗が伝った。

「き、昨日の夜からですけど……?」

「ふーん、そうか……」

 彼は無表情になり、二度ほど頷いた。その様子を私は固唾を飲んで見守った。すると、彼はまた笑顔に戻り、手を振ってみせた。「あ、別に変な意味はないんだよ。初めて君と話ができたから、色々話をしたかっただけなんだ」 

「あ、いえ」

 色々な話をしたかっただけ? 本当だろうか。「ごめんなさい。私そろそろ戻らないと」

 私はチラリと書店のほうを一瞥した。

「うん、ごめん」

 ばつの悪そうな顔をし、彼は謝った。「食事の件、いつでもいいから考えといてね」

 私は何も答えなかった。


 しつこいようだが、彼が侵入者であるはずがない。たかだか夢ぐらいで自分に好意を持ってくれている彼を突き放そうとする私を、私は哀れんだ。


 お母さん、こんなんじゃ私、いつまで経っても結婚できないね。




 午後七時にようやく仕事を終え、デパートを出た。電車に乗り、電車に揺られる。やがて、電車から降り立った頃には、空はもうすっかり暗くなってしまっていた。

 私は歩きながらまた彼のことを考えていた。いつしか、私の中の彼に対しての恐怖心が、少しずつ薄れ始めていた。昼間の彼との会話を思い出す限り、彼が悪い人間だとはとても想像がつかないのだ。昼間の私は彼に対して怯えきっていたため分からなかったが、今考えてみると彼の笑顔は人に安心感を与える優しい笑顔だったし、声色や口調も心地よいものだった。いきなり声をかけてきて食事に誘うというのは少々強引な気もするが、そういった強引な性格も嫌いではない。気が弱そうに見えるルックスははっきり言って私のタイプではなかったが、なんとなく母が好きそうなルックスだと思った。

 母が好きなら私も好きになれそうだ。

 

 もしまた誘われたら、次はオーケーしてあげようかな。




 自宅のアパートまであと百メートルほどの地点。その道のりは暗く、人通りはない。辺りは静かで、私の足音だけがまるで二重になったように強調され、響いている。

 二重になったように……?

 私は立ち止まった。同時に足音は消える。それから、ゆっくりと後ろを振り返った。誰もいない。人が隠れられそうなところは多々あるが。 

 また前を向き、歩き始める。始めは普通の足音だ。しかし、しばらくして別の足音が重なり合ってくる。私はそれらの足音とは違う、もう一つの音を聞く。心音の高鳴りだった。

 誰かが後ろにいる? 私の後をつけている? いや。

 空耳だ、と私は自分に言い聞かせる。きっと恐怖心が生み出した幻聴なのだ。私はもう一度立ち止まり、振り返ってみた……。


 次の瞬間、私は全力で走り出していた。

 

 やっぱり、誰かいる。

 後ろを振り返った瞬間、物陰に隠れる人の姿が見えたのだ。顔はよく分からなかったが、その人物はネクタイを締め、スラックスをはいていた。

 無我夢中だった。家までの残り短い距離を必死で駆け抜けた。その人物も走って私を追いかけているのかは分からない。確認しようにも振り向いている場合ではない。

 アパートに到着し、階段を駆け上がる。そのまま私の部屋の玄関のドアノブを回し、中へと滑り込む。すぐにサムターンを回し、私は必死で息を忍ばせ、覗き穴から外の様子を窺った。人の姿はない。足音も聞こえない。

 あきらめてくれたかな……。

 ホッと息を吐きかた時だ。

「ひっ……!」

 私は逆に息を呑んだ。その拍子にゴホゴホと咳き込んでしまう。涙目になりながら、なんとか呼吸を整える。

 そんなまさか!

 そんな馬鹿なことがあるはずはない。昨日の今日なのだ。今朝、しっかりと鍵をかけた記憶もある。しかし……。


 今部屋に入った際、玄関の鍵は開いていた。


 視界が小刻みに揺れる。すぐにその揺れが自らの震えによるものだと察する。真夏だというのに肌寒くなる。思考が暴れまわったり、停止したりする。

 もうやだ。もうやだよ。

 私は意味もなく両手で耳をふさいだ。




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