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鏡台の上

「ほら、ぼうっとしてないで手動かして!」

 店長に注意されてしまった。私は「すみません」と平謝りしてから、再び単行本の補充作業を始めた。しかし、数分後にはまた気を散らせてしまう。いくら仕事に没頭しようとしても、頭の片隅にこびりついて剥がれないものがある。

 今日もゲームショップの彼とはよく目が合った。いや、今日はいつも以上に目が合う。おそらく、昨夜あんな夢を見てしまったせいで、私のほうが彼を意識してしまっているのだろう(夢の中の男が彼だという確証はないのだが)。

 ただ、仕事に身が入らない原因は別のところにある。

 鍵だ! 玄関の鍵を閉めた記憶がないのだ!

 うーん、閉めたような気もするし、閉め忘れたような気もするし……。まあ、もし閉め忘れたとしても何も盗るような物は……。いや、でも下着とかだってあるしなあ。

 はあと私は溜息を吐いた。

 自分が嫌になってくる。『鍵を閉め忘れたかもしれない』という不安が仕事の妨げとなったのはこれが初めてではないのだ。一人暮らしを始めてから頻繁にある。大抵は家に帰ってみるときちんと鍵を閉めていたことが判明し、杞憂に終わる。その度に、部屋を出る時しっかりと意識して鍵を回そうと心に決めたはずなのに、またこれだ。

 お母さん、なんで私ってこうなんだろう。


 母からの返事はない。

 当たり前だ。




 この日は比較的早い時間に仕事を上がることができ、七時前に自宅へと帰り着いた。私は少し緊張しながら、玄関扉のドアノブをつかんだ。ドアノブを回そうとするが……。回らない。良かった。やはり、鍵を閉め忘れてなどいなかったのだ。

 ホッと一息吐いてから、私はハンドバッグの中の合い鍵を探した。そのまま十秒、二十秒、時間が経過していく。

 あ、あれ……?

 鍵が見つからない。忘れて家を出てしまったのだろうか。いや、それはない。鍵は閉まっている。ということは、職場のバックルームにでも忘れてきてしまったのだろうか。しかし、職場でバッグから鍵を出した記憶などない。いや、私の記憶が当てにならないのは私が一番よく知っている。

 あとで電話してみようかな。

 そう考え、私はとりあえずスペアキーで鍵を開錠することにした。スペアキーは扉の横にあるメーターボックスの中に隠してあったはずだ。ただ、置いておくだけでは不安なので、機器の裏側にテープで貼り付けてある。これは誰の案だったかなと考え、すぐに心が沈む。母だった。

『スペアキーを使う時は辺りに人の目がないか確認しなさいね』

 母の言葉どおり、周囲に人の目がないか確認する。スペアキーを使うのは初めてだ。

 うん。誰もいないな。

 私はメーターボックスの中から鍵を取り出した。




 部屋に上がり、キッチンで手洗い、うがいを済ませてから、奥の洋室へ。ベッドの上にハンドバッグを置き、枕元の収納棚の上にスペアキーを置いておく。後でメーターボックスに戻しておこうと思う。母の写真に「ただいま」と挨拶をしてから、私は浴室へと向かった。

 シャワーを浴びた後、私はいつものように裸で洋室に戻り、クーラーをつけ、パンティをはき、ティーシャツをかぶった。そして、鏡台の椅子に座り、鏡に映る自分の姿を眺めた。自分でもそれなりに美人だと思ってはいるが、顔全体にはびこる疲れの色がそれを台なしにしてしまっているような気もする。

『あんたは可愛いからね。男なんて腐るほど手に入るよ』 

 母さんが生きてるうちに、旦那さんを見せてあげたかったな。

 はあと溜息を吐き、私は鏡台の上に置いたドライヤーを手に取った。それから、ドライヤーの電源を入れる。


 その時だった。

 

 え……?

 背筋にゾッと悪寒が走った。次第にそれが全身へと伝わっていく。

「え? な、なんで……?」

 鏡台の上に『存在してはいけない物』の姿を目でとらえてしまったのだ。

 それが意味することはいくら私でもすぐに理解した。私はドライヤーの電源を切り、立ち上がった。鏡台の上にドライヤーを置き、タンスに向かう。ガタッと音がし振り向くと、ドライヤーが床に落ちてしまっていた。しかし、それどころではない。私はタンスの引き出しを開け、下着の枚数を確認していった。

 大丈夫。なくなってはない。

 下着だけではなく、他の衣服も確認する。異常はない。次に私はベランダへ続くガラス戸を確認した。クレセント式の内鍵はかかっている。こちらはうっすらとだが、かけた覚えがある。しかし、その事実は私を更に不安にさせる。

 私は床に落ちたドライヤーを手に取り、コンセントからコードを抜いた。少々頼りないが、それは武器のつもりだった。ベッドの下、トイレ、物置、人が隠れられそうな場所を順番に見て回る。その間中、あまりの恐怖に私のひざは震えっぱなしだった。心臓は破裂しそうだった。


 家の中に人が潜んでいないと確信した私は、ベッドに座り、また大きく息を吐いた。

 そうだ……。そういえばあそこに置いておいたんだ。

 鏡台の上に見た物。それは見慣れたキーホルダーのついた、職場に忘れてきたと思い込んでいた部屋の合い鍵だった。




「戸締まりに気をつけて」

 玄関先。靴をはきながらクリーム色の作業着を着た初老の男が言う。「合い鍵は大家さんにも預けておきますので、もし鍵を忘れて帰宅されたなら大家さんに連絡してください。くれぐれもスペアキーをメーターボックスに隠したりなどしないように」

「はい」

 私は申し訳なく頷く。「ありがとうございました」

 バタンと扉が閉まり、男の姿が見えなくなった後、私は玄関扉のサムターンを回し、チェーンロークをかけてから洋室へと戻った。ベッドに座り、時刻を確認する。まもなく午後十一時。私はベッドの上に仰向けとなった。

 ひと安心かな……。

 大家と相談の上、鍵屋を呼び、鍵を変えてもらった。事件の起きた今日中にそれを済ませてしまわなければならなかった。新しい鍵は複製不可能で、ピッキングも困難だという。以前の鍵はどちらも容易かったそうだ。

 今朝、私は鏡台の上に鍵を置き忘れて家を出た。やはり玄関の鍵を閉め忘れていたということになる。しかし、家に帰り着いた時は閉まっていた。つまり、何者かが玄関の鍵を閉めたのだ。中からサムターンを回して閉めるのは不可能。ガラス戸の内鍵も閉まっていたので、侵入者は部屋から出ることができない。可能性はひとつ。合い鍵を使ったのだ。スペアキーを使ったのか、もしくは鍵を複製し、それを使ったのかは分からない。ひょっとしたら、合い鍵を使ったのではなく、ピッキング技術に長けていたのかもしれない。いずれにしても、なぜ部屋の鍵を閉めたのかが分からない。

 ねえ、お母さん。私、怖いよ。

 うつぶせになり、写真立ての中の母に呼びかける。


 なんだか、母も私を心配してくれているような気がした。




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