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最近ふと

 最近、ふと視線を感じることがある。


 私はデパート内にテナントを持つ書店に勤務していた。立ち読み客たちの間を割って売り場を整理したり、キャッシャーでレジを打ったりしている時にそれはたびたび起こった。そして、ハッとその先に目を向けてみると、そこにはいつも同じ男の姿があった。

 歳は私と同じ、二十代後半から三十代前半ほどだろうか。眉の端が垂れ下がり、気の弱そうな顔をしている。短い髪を整髪量でツンツンに逆立てている。決まってカッターシャツにネクタイ、スラックスを着用している。彼は同じ階にテナントを持つ、ゲームショップの店員だった。二、三年ほど前、そのゲームショップの店名が変わると同時に(おそらく会社自体が変わったのだろうが、詳しい話は聞いていない)、姿を見かけるようになった。

 ようやく私にも春が来たのかな、などと考えてしまう。二十代前半の頃に当時付き合っていた彼氏と別れて以来、もう五年以上も男とは無縁だ。実家に帰るたび、『早く結婚しろ』と母にしつこく言われたものだ。

 ……。

 また思い出してしまった。母のことを思い出すと気分が滅入ってしまう。

 実家の母が死んだのは、ほんの一週間前のことだった。




 疲れた……。

 ノースリーブのシャツには汗が染みついている。ジーンズをはいた足はひどく重い。私はハンドバッグの中から鍵を取り出し、玄関扉の鍵穴に差し込んだ。セミの鳴き声に混じり、ガチャと錠の回る音が響く。 

 仕事を終え、いつものように三十分以上をかけて、自宅のアパートに帰り着いたところだ。ワンルームのこじんまりとした部屋。玄関を上がるとすぐに短い廊下が現れる。左手にはトイレへ続くドア、バスルームへ続くドア。右手にはキッチン。私はキッチンで手洗いを済ませてから、奥の洋室へ向かおうとした。しかし。

 あ、忘れてた。

 再び蛇口をひねり、うがいをする。




 母は実家で弟と二人で暮らしていた。私が幼い頃に父と離婚し、それ以来、女手一つで私と弟を育ててくれた。二週間前、弟から母が倒れたと連絡があった時、私はショックで頭が真っ白になった。部屋の中を意味もなく歩き回り、ベッドに寝転んではすぐに起き、また寝転んだりした。

 母はまだ五十歳だった。優しい母だった。私が子供の頃……。いや大人になってからも、私が何かで悩んでいる時はいつも自分のことのように悩んでくれた。私が東京で一人暮らしをするようになってからは、毎日のように心配して電話をかけてきてくれた。風邪をひいていないか。洗濯はしているか、ちゃんとご飯を食べているか。それを鬱陶しく思った私が、いくら邪険な態度をとっても、母は私を思い続けてくれた。

『手洗いだけじゃなくて、うがいもしなさいよ』


 そんな優しい母を私は裏切ってしまったのだ。




 軽くシャワーを浴びた後、裸のまま洋室に戻り、クーラーの電源を入れる。タンスの引き出しからパンティを取り出し、それをはく。上にはぶかぶかのティーシャツを着る。鏡台の椅子に座り、ショートカットの髪をドライヤーで乾かしながら、くしで梳く。

「ふう」

 息を吐き、ベッドでうつぶせになる。疲れで足がパンパンになっている。目元がチカチカする。明日もまた仕事だということを考えると、うんざりした気分になる。私は枕もとの収納棚の上にある目覚まし時計に目をやった。午後八時過ぎ。眠るにはまだ早い時間だが、眠気も押し寄せてくる。目覚まし時計の脇には母の写真がある。私は写真の中の母を見つめた。私に似た、垂れ目がちの目と丸い顔。若々しいツヤのある黒髪を、頭の後ろで一つに束ねている。

 母は笑っていた。やはり、悲しそうな笑顔に見えた。

 

もう一度、会いたかった。




 弟から連絡があってから一週間後、母が息を引きとった後になって、ようやく私は実家へと帰った。職場は人手不足で、休日は週に一度のみだ。とてもじゃないが、臨時休暇をくれなどと言い出せる雰囲気ではなかった。葬式の日に一日だけ休暇をとるのが精一杯だったのだ。

『なんで帰ってこなかったんだ。母ちゃん、姉ちゃんに会いたがってたんだぞ』

 喪主を務めた弟には罵倒され。

『いくら仕事が忙しいからってねえ……』

 親戚には白い目で見られた。誰もが私を責めているような気がした。ただ、棺の中の母だけは私を許してくれているような……。

 そんな気がした。




 頭を振り、もうろうとする意識を現実に引き戻す。今眠ってしまうのはあまりにももったいない。朝になれば、またすぐに仕事だ。

 私は洋室を出て、キッチンの隣の冷蔵庫から好物のプリンを取り出した。洋室に戻り、テレビを点け、プリンを食べる。晩御飯はもうこれでいいかな、などと考える。仕事の疲れからか、あまりお腹が空かない。

 いや、ダメだ。

『あんたはすぐにご飯を抜いちゃう癖があるから……。ちゃんと食べなきゃダメよ』


 インスタントラーメンがいくつかあったはずだ。栄養面で見ればそれもどうかとは思うが、とりあえずは口にしておこう。

 ラーメンを食べ終えた頃、時刻はすでに九時を回っていた。テレビでは私が毎週楽しみにしていた連続ドラマが放映されているも、内容が頭に入ってこない。眠気はピークに達したようだ。

 私は渋々とテレビの電源を切り、部屋の灯りを消してから、ベッドに仰向けで寝転んだ。またふうと息を吐く。

 涼しい……。

 クーラーの風が優しく足元を撫でる。

 タイマー設定を忘れないようにしなきゃ。

 そう考えつつも意識は遠く彼方へと。




 誰?

 心臓の音がドクンドクンと激しく鳴っている。私はベッドから上半身を起こし、ガラス戸の外を凝視していた。ベランダから誰かが部屋の中を覗いているのだ。

 誰なの?

 もう一度呼びかける。カーテンは半分開いていた。相手の顔は暗くてよく見えない。男だということだけは分かる。カッターシャツを着て、ネクタイを締めている。

 ひょっとして……。

 いつも私のことを見ている、例のゲームショップの店員ではないだろうか。なぜ彼がここにいるのか、もちろん私には分からない。

 その時、ガラス戸が静かに開いた。鼓動が速くなる。叫び声を上げたいのに、声が出ない。男が部屋に足を踏み入れる。当然、スラックスをはいている。逃げ出したいのに、身体が動かない。




「わ……!」

 私はガバッと上半身を起こした。はあはあと息が乱れている。身体中汗だくだ。どこか遠くから聞こえてくるかのような心音に耳を傾けながら、部屋の中を見回す。ガラス戸から陽が差し込み、部屋の中は明るい。ガラス戸に目を向ける。ベランダには誰もいないし、ガラス戸も開いていない。

 ゆ、夢か……。

 ホッと安心し、深く息を吐く。目をこすり、ベッドから立ち上がる。汗だらけのティーシャツを脱ぎ捨てる。クーラーは止まっているというのに、戸を閉め切っていたため、部屋の中がひどく蒸し暑い。時刻はまだ午前五時を回ったところだ。

 ……。

 ん?

 シャワーを浴びようかな、とバスルームへ向かいかけた時、私の心に何かが引っかかった。もう一度部屋を見回す。特に変わったところはないように見えるが。

 気のせいかな。

 脱ぎ捨てたシャツを拾い上げ、私はバスルームへ向かった。



 

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