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Rainy Killer

 雨の音を聞くと落ち着く。

 小雨でもなければ台風の時のような滝のような大雨でもない、程よい雨であったら尚更、自分が雨と、空気と一体化したかのような感覚が心地よい。

 胸にぽっかりと空いた空白を埋めてくれる、そんな心地よさがこの雨の音にはある。

 雨が好きな雨男で良かったと、静かに心の中で思う。

「……」

 雨と空気、さらに人混みと溶け合った僕は、壁にもたれながら得物を構える。

 得物は組織から支給された、傘型の暗器。

 見た目は何の変哲もない黒い傘。しかし、持ち手に仕込まれた引き金を引くことで、ライフルも顔負けな、鉛玉を吐き出す凶器に変貌する。

 畳むことで近接戦用の鈍器にもなるから、暗器としてはなかなかの優れものだ。

 かれこれ二年近く死線を潜り抜けた愛器で、入り混じる人々の、ただ一点に狙いを定める。

 少々小太りな体躯を、黒いコート、黒いズボン、黒いハットと、おまけに黒い傘と、真っ黒な衣装で包み込んだ男。彼は僕が所属する組織の情報を嗅ぎまわる諜報員で、なかなか優れた‘鼠’なのだとか。すでにいくつかの情報を彼に盗られ、上層部は頭を抱えているという。

 まぁ、今から殺す獲物の情報など、僕はどうでも良い。これは自分の所属する組織に対しても同じことで、何を目的に活動しているのか、名前すら知らないし、興味がない。

 ただ僕の胸の空白を埋めてくれるから、従っているだけだ。

 僕は引き金に指をあてる。

 傘が開いた状態だから、あちらから僕の姿は見えない。

 この雨の中、僕は一瞬だけ、傘を差さない唯一の人間になる。

 つまり、異端で、孤独な人間になる。

「……あは」

 それを自覚した途端、妙に落ち着いた気分になって、僕は引き金を引いた。

 雨の音、人々の話声、雑音、サイレンサー。

 そのすべてに遮られ、傘の咆哮は誰の耳にも届かない。

 ただ、秒速三百メートルの鉛玉が、黒服の彼の胸に届いただけだった。



「……これはいったい、どういうことだ?」

 静謐な住宅街に立ち並ぶ二階建ての、一戸建てのアパート。それが僕の、組織から支給された現在の寝床だった。

 帰宅して、簡単な食事をして眠るだけの日常に、この家は広すぎたが、どうせ三部屋もあるうちの一室に閉じこもっているのだから違和感は早いうちに消えた。

 誰かを呼ぶなんてことは、‘例外’を除けばないし、あり得ないことだから。

 そう思っていたのだが。

 夜も更けた静寂の時間。

 一仕事終えて、扉を開けた僕を出迎えたのは二人。

 一人は僕の見知った顔で、例外であるところの美雨。彼女も組織の人間で、情報員をやっている。僕が組織のことをほとんど知らないのも、獲物の情報は彼女からのみ仕入れているためというのもあるだろう。

 そしてもう一人は見知らぬ、歳にして十二歳くらいの少女。黒く、さらさらとしていそうな長髪に、同じ色の無地の長袖のシャツ、ジーンズ生地の短パンを履いた女の子。そこら辺を歩けば二、三人は見かけそうな平凡そうな女の子が、今は美雨の膝の上で眠っている。

「おかえり、雨夜鳥(あまやどり)。仕事の方は?」

「あ、あぁ……抜かりはない」

 艶やかな黒髪を控えめに肩まで伸ばし、全身黒いスーツに身を包んだキャリアウーマン風の女性―美雨がいつも通り、声をかけてくる。凛とした音の中に、どこか聖女のような慈しみを感じさせる声に、僕は戸惑いながらも答えた。

「……あぁ、これ。説明するわ。次のあなたの仕事にも関わるからね」

 美雨はようやく気付いたかのように、少女の髪を撫でながら説明を始めた。

 彼女とはこの仕事を始めたころからの付き合いだからか、今となっては口を開かなくとも彼女に僕の意志は伝わる。僕の手間が省けるのはとても効率的で良いのだが、未だに僕の方から、彼女の意志を読み取るのは難しい。

 それはともかく。

 美雨の説明によれば、この少女の名前はマイ。コードネームらしく、本名は分からない。それを言うなら、美雨という名前もおそらくコードネームだろうし、僕の‘雨夜鳥’なんてあからさまにそうだ。一度だけ美雨に僕の本名を教えたが、自分ですら忘れかけている僕の本名を、彼女が覚えているかどうかは不明だ。

 僕や美雨と同じく、マイも組織の人間で、諜報員をやっているらしい。この年齢でと驚きかけたが、殺してきた獲物の中にもこれくらいか、もっと下の年齢の子どもがいたような、いなかったような気がするので、些細なことではなかったようだ。

「うちの諜報員として、マイにはある組織に潜入して、あるモノを奪ってくるように頼んだの。だけど、途中で襲撃されたらしくて、どこにもそのモノが無いのよ」

 マイに盗みを依頼すれば必ず成功すると、組織の中では評判だったらしく、今回の依頼もその実力の高さから託されたものらしい。盗むところまでは良かったものの、襲撃されて奪い返された……と、そんなオチだろうか。

「その子にとっては初の黒星ということになるのか。それでショックで眠り込んでいると」

「そんな可愛い事態だったらあなたの家に来ないで、この子と一緒に本部に顔を出しているわ」

「それもそうか」

 憂鬱そうに僕の冗談をあしらう美雨。本部に来ず、僕の家に来たのは、何か理由があるのだろう。

 ため息をついて、それから美雨は口を開いた。

「この子に二重スパイの疑いがかけられているのよ」

「……へぇ。なるほど」

 美雨の一言に、僕はだいたいの察しがついてしまったが、その先の説明も聞くことにした。

 僕らの組織を仮にA、マイが潜入し、そして襲撃された組織をBとして話を進めると、襲撃されたマイを助け、モノ―‘サタンの心臓’という名の紅い宝石らしい―を取り返すためにAの人間が派遣された。彼らがBの人間を追い詰め、問い詰めたところ、彼らはモノを持っていなかった。それどころか、マイがモノを所持していなかったために、奪うことすらできなかったと言うのだ。

 マイが盗みに失敗したと考えるのが筋なのだが、彼女は、自分は任務を果たしたが、Bの人間に奪われてしまった、‘サタンの心臓’を持っているのは彼らだと主張している。

 どちらの人間にも入念なボディチェックや拷問を施したが、モノは出てくることなく、有力な情報を引き出せることもなく、未だに見つからないという。

「消えた‘サタンの心臓’……。様々な可能性を考慮に入れた結果、マイかBの人間のうちどちらかが、襲撃のどさくさに紛れて、三つ目のCの組織と繋がって横流しした、というのが上層部の判断。そこであなたの出番なのよ、雨夜鳥」

「……」

 確かに、僕の‘体質’なら、この少女が白か黒か、はっきりと分かるはずだ。

 組織のボディチェックや拷問なんて比にならないほど、この子は死の恐怖に直面することになる。

「今は薬でぐっすり眠っているらしいから、‘尋問’は明日からね。眠っている女の子って、けっこう重いのよ」

 苦笑いして、彼女はわざとらしく腕を回す。

「でも、ずいぶんエグイことをするよな」

 僕の体質をこんな風に使われるのは初めてだったので、そんな気楽そうな彼女をしり目に、思わず愚痴のようなものを吐いてしまう。

「使えるものはすべて使って情報を引き出す。それが私のやり方よ」

「倫理も道徳もあったもんじゃないな。そうやってまた僕は置き去りかよ」

 聞き慣れた口上はあえて無視して、僕は言い放った。

「……」

 美雨の目に、一瞬だけ陰りが差したような気がして、僕は自分が言ったことを反芻してみる

前半は良いとして、後半部分は自覚無しに出てきた言葉だ。

 置き去り? 僕は何を言っているんだ?

「そんな、つもりはないから……安心して。―」

 ―。

 戸惑う僕に向いて何事か呟いて、マイの頭をそっと座布団の上に置いてから美雨は立ち上がる。

 その声に籠っていたのは、何だろう、憐憫、だろうか。

「美雨……僕、今……」

 言いかける僕を、美雨は無言で抱きしめた。

 慣れているはずの美雨の身体なのに、なぜか怖くて、強張ってしまう僕の身体。

 それもつかの間、このまま溶けてしまうかのような多幸感と安心感に、僕の空白が埋められていく。

「んっ……」

 何度も重ねたはずの唇に、僕は恐る恐る絡みつく。

 幸福感と切なさと懐かしさに胸を締め付けられながらも、必死に。

 ずっとこうしていたい。

 切にそう思うけど、僕の体質上そんなことは夢のまた夢。

 彼女とはきっと一日、二十四時間だって一緒にいられやしない。

 同じ時間に、同じ空間にいるだけで、僕はその人を殺したくなってしまう。

 それは親しい人ほど、我慢ができなくなってしまう。

 初対面だって、三日が限度だ。

 それでも―。

「美雨、愛してる……」

 単なるビジネスパートナーという、乾いた関係だった僕たち。

 血の雨か、涙の雨か、びしょぬれになって、いつの頃からか溶け合った僕たち。

 気持ちが通じ合ったのはいつの頃からだったか、もう覚えていないけど。

 それでも決してひとつにはなれない。

 嫌というほど自覚しているから、せめてこの一時だけでも……。

「……」

 しんしんと降る雨が、孤独な二人を、静かに包み込んでいた。



 その日は滝のような大雨だった。

 僕の体質が顕著な例とともに顕現したあの日。

 二年前、僕は友人を殺した。

 とても豪快な奴で、いつも刺激を求めていた。

 引っ込み思案な僕を連れ出して、一緒にいろいろなことをして、いろいろなことを見てきた。

 友だちも多く、いくつものサークルを掛け持ち、仲間にも恵まれている彼。

 小学校から一貫して友だちもいなく、部活やサークルなんて以ての外の、孤独な僕。

 まるで陰と陽。正反対な、僕の友だち。

「今日は泊まっていく! なんだ、バイトをクビになってくらいでそんなに落ち込むこたぁないだろ? 一晩中付き合ってやるからさ!」

 その日、僕は確か、アルバイトをクビになったのだ。些細なミスの連続が、店長の堪忍袋の緒を切ってしまったらしい。

 そんな僕を慰めるべく、大学の学期始めから付き合いのあった彼が僕の家に上がり込んだのだ。一人暮らしの僕は、誰を気にすることなく彼と一緒に一晩中飲み明かしたのだっけ。

 次の日も、日中は寝て、夜には起きてまた飲み明かした。

 大学までろくに友だちもいなかった僕は、嬉しくなって彼のペースに合わせて、どんどん酒を飲んでいった。愚痴は途切れることなく、アルバイトのことだけでなく、今まで抱えてきた不平不満をぶちまけて、彼はそれを軽く笑い飛ばしながらも受け止めてくれた。

 そんな三日目の夜。

 僕は彼を殺した。

 理由は、今考えてもはっきりとした答えは出せない。

 分からない。

 ただ殺したくなったのだ。

 ケーキナイフを逆手に持って、気持ちよさそうにいびきをかいて眠る彼の首に、赤い線を書き足しただけ。

 彼を死なせてしまったのだと気づいた時も、別段動揺はしなかった。

「―あぁ、やっぱり」

 この程度だった。

 ただ、犯したことは殺人だ。バレたら警察に捕まって、死刑ということもあり得る。

 それはなぜか、嫌だった。

 今までずっと独りぼっちだった僕の、たった一人の、唯一の友だちと呼ぶべき彼を殺してしまったのだ。

 この先ずっと孤独であろう僕は生きている意味も価値もないし、死んでしまった方が良いのに。

 だけど、僕は逃げ出した。

 シャワーのように連続的で、滝のように勢いのある雨に打たれながら、僕は家を出て走った。

 こんな雨で僕が犯した罪が洗われるわけがないのに、わざと雨が多く当たる道を選びながら、必死に走った。

 身体に当たる雨が、耳に木霊する雨の音が、染み入るように心地よかったことだけ、やけにはっきりと覚えている。

その心地よさの中で、同時に悟ってしまった。

 僕の体質。

 僕と言う存在は、死ぬまで孤独なのだと。


 たどり着いた先が、今僕が所属する組織。

 どういった経緯で加入したのかはもう覚えていない。

 ただ、すでに道を踏み外してしまった僕にはぴったりの場所だと思った。

「雨夜鳥。それがここでのあなたの名前よ」

 美雨につけられた僕の新しい名前。

 ここから今まで約二年、所謂殺し屋として働くことになったのだが、僕の体質は組織の一員として活動するのに非常に厄介なものだった。

 同じ空間にいる人間を、だれかれ構わず殺したくなってしまう。

 異常な殺人衝動。

 単独で仕事に関してはすぐに上達したのだが、複数人、特にタッグを組んで、さらに長期間にわたる仕事であった場合には最悪だ。

 獲物より先に相棒を殺しかけたことは一度や二度ではない。

 相手もプロだから、新入りの僕が殺そうとしたところで軽く受け流されるのだが、それでも僕と組むというのは、彼らにとってどんな死地を潜り抜けるよりも死と隣り合わせなのだ。

 誰かが僕と一緒に、同じ場所にいられる期間は、初対面ですら三日が限度。

 仲間に殺されるかもしれないという恐怖は不要でしかない。

 さらに僕が誰かと組めない理由がもう一つ。

 僕はどうやら、雨の日にしか殺人を行うことができないようなのだ。

 外に出るときはほとんど雨が降るほど雨男の僕が、一度だけ、晴れた日に行った殺しの仕事があったのだが、僕はそれを完遂することができなかった。相棒のサポートのおかげで失敗することは避けられたが、その一件で分かったことがあった。

 雨が降らない時の僕は、まるで常人のように(、、、、、、、、、)、殺人に対して嫌悪感を抱き、抵抗を示すのだ。

 一口に殺し屋と言っても、様々な制限がある僕に、上層部の人間が与えてくれたのが、今の寝床である一戸建てアパート。

 幸いなことに、というのもおかしいが、僕は殺しの才能があったらしく、このまま殺し屋として生かしておくとのことだった。

 それからは美雨の指示の元、獲物を殺し続けている。

 人物と場所、時間を告げられ、僕は狩りに出かける。

 美雨がそういう日を狙っているのか、僕が雨男だからか、仕事の時はいつだって雨。

 唯一、僕を常人たらしめる制限だった晴れの日は、あまり意味をなさなくなって。

 いつしか僕はただの殺人鬼になっていた。



「所属と名前を言ってください」

 ノイズのように窓に打ち付ける大雨の音の中でも通るくらい、女の子―マイの声は澄んでいた。この仕事をやっていなかったら歌手にでもなれたかもしれない。

 この子が家に来た翌朝。机に置手紙と、ドアの前にナイフを構える女の子を残したまま、美雨は帰ってしまったらしい。

「バロンB111K。コードネームは雨夜鳥」

 少女とその手に握られたナイフに促されるまま、僕は言われた通り、もはや忘れかけている自分の所属と名前を声に出す。

「あなたが雨夜鳥。……バロンA081S。コードネームはマイ。状況を説明してもらえませんか」

 凛とした表情も、殺しの構えも崩さずにマイは言う。どうやら一応僕のことを知っているらしい。

 多少簡略化しながら、美雨に伝えられたことと同じことをマイにも伝える。

「なるほど。それで私はあなたに預けられたわけですね」

 一通りの説明を聞いて、マイは納得したかのように頷く。すでにナイフを下ろしてはいるが、その眼は依然として刃のように冷たい。

 例え殺し屋でも、同じ所属と分かったのならもう少し信頼、とまではいかなくとも色があっても良いものなのだが。

 やはり僕が相手となると、いつ殺されるかもわからないのだから、違って当然なのだろうか。

 拷問、尋問を受けた後、薬で眠らされてそのまま美雨にここまで担ぎ込まれたというのだから混乱していて、僕を信用できないと考えることもできるし。

 それとも、本当に彼女が二重スパイなのだろうか。

「今からキミが二重スパイか、そうでないかを確かめるためにいくつかの質問をする。逃げたら殺すし、質問に対して一度でも間違えた回答をしたらその時点でキミを殺す。今日はちょうど雨だし、僕を止めるものは何もないから、とても簡単なことだ」

 思考を切り離して事務的に、僕は話を切り出す。

 美雨から頼まれた仕事はこうだ。

 マイが起きたら、二重スパイでないかを確認するための、組織の中枢に関わる質問、さらには件の‘サタンの心臓’の情報をすべて引き出すこと。机に置かれた数十枚のメモ用紙に、彼女に訊くべき質問が山ほどリストアップされている。

 時間はかけても良いから正確な情報を引き出すこと。

もし間違った回答をしたり、逃げ出したりすれば殺しても良いこと。

 質問がすべて終わるまで、限界まで耐えて欲しいが、もし限界であれば(、、、、、、)殺しても良いこと。

 そんな伝言に従って、これから僕は彼女に質問をする。

 組織による拷問では、仮に彼女が本当に組織の人間だった場合、過度な負担は貴重な資源と情報のロスに直結してしまう。

 死の恐怖が最高の自白剤とはよく言ったものだが、マイにとっても、自分が本当に組織の人間であるという可能性が残されている以上、拷問による自白の効果は期待できない。

 だけど、僕には何の関係もない。

 そんな可能性とも無関係。

 今日は大雨で、最高の殺人日和だから、命令であれば殺す。

 僕に彼女を預けたのは美雨の独断だろうから、有意義な情報を引き出せなかった場合、彼女はだいぶ不利な立場に立たされてしまうだろうが。

 組織の判断は限りなく白に近い灰色らしいが、それでも僕のところに預けたということは、美雨がマイを黒だと疑っているということ。

 ならば僕はそれに乗って彼女に質問を投げかけるまで。

 幸いなことに彼女は僕を、僕の体質を知っているようだ。

 真実を言っても嘘を言っても、僕が彼女を殺せる、殺さざるを得なくなってしまうことはひしひしと感じていることだろう。

「キミが関わった‘サタンの心臓’の件に関しては、正直に答えてくれれば良い。組織に不利になるようなことをキミがしていた場合でも、今回ばかりはキミを殺すことを我慢してみるよ。ただ、あまり長い時間我慢できないだろうから、なるべく早く答えてくれると嬉しいな」

「……」

 彼女を僕に預けた人物―美雨の狙いにも、この聡そうな子は気づいているだろうから先に鎌をかけておく。

 死の恐怖は最高の自白剤。

 利害なんて考える余裕もない、リアルな死の恐怖が、今頃この小さな女の子を襲っているはずだ。

「―じゃあ、始めるよ」

 そう言って、自分でも嫌になるくらい嫌らしい、静かな拷問を始めた。

 轟々と降る雨は、ささやかなBGMだった。



「これで全部ですか?」

 ナイフを取り上げ、ボディチェックをして、丸腰になった彼女に行った質問攻めは、朝から始まり、夕方、日が沈み始めるころにようやく終わった。

 結果、彼女は拷問を受けた時と同じようなことしか話さなかった。

 つまり自分は二重スパイなどではなく、‘サタンの心臓’は介入してきたBの組織の人間に奪われてしまったのだと。決して第三の、あるはずもないCの組織には渡していないと言い張った。

 組織の情報に関しても、真のメンバーでしか知らない情報を、多少罠を仕掛けながら聞き出してみたが、すべて正確な答えを返してきた。

「本当のことを言ってくれるまで、キミは僕と一緒に生活してもらう。いやそれどころか、本当のことを言うまで、キミが生きていられる保証はない。僕が我慢できずにキミを殺してしまうかもしれないんだからね。本当のことを言って、許してほしいと頼んでくれれば、キミを自由にして良いと言われているんだ」

 自分が置かれた立場をまだ理解していないのかもしれない。そう思って、念を押して僕は訊く。

 この子が白だという可能性を、あえて消しておく。

 僕にこの子を預けた美雨を、裏切るような真似はしたくなかったから。

「失態を犯してしまったことに関して私を罰するというのであれば、何回殺してもらっても構いません。しかし、二重スパイなどという不名誉な汚名のために死ぬ気はさらさらありません。仮に私があなたの望むような答えを出して、外に出た瞬間、私は殺されるでしょう。そんな情けない死に方はしたくありませんよ」

 淡々と、十二歳とは思えない凛とした表情のまま、彼女は僕を睨み付ける。

「それに、私は六歳の頃からこの道にいて、それから六年間ずっと組織に忠誠を誓っているんです。あなた程度の殺し屋が殺しにかかってきたところで、逆に殺し返してあげますよ」

「……」

 一歩も引かないどころか、逆に押し返してくる始末。

 殺意すら湧かないのが不思議なくらい清々する物言いだった。

 これは本当に余裕から出る態度なのか、それとも諜報員として培った技術の賜物なのか。

 後者であれば、たとえ死ぬことになっても情報は決して漏らさない、プロとして徹底した信念が彼女にあるということ。

 だが、いくら六歳からこの道に入ったプロとはいえ、彼女はまだ年端もいかない少女。

 彼女にそんな度量と器量があるだろうか。

「疑っているのならしばらく生活してみればいいですよ。我慢できなくなったら私を殺してみるといい。私の可愛い断末魔と一緒に、あなたたちが聞きたい情報を命乞い代わりに喋るかもしれませんからね」

 挑発的な言い方に激情でもして、このままこの子を殺した方が楽だったのだろうけど。

 珍しいことに殺意がこれっぽっちも湧かなかったのだから、殺せなかった。

 せっかくの殺人日和に一人も人を殺さなかったのは、本当に久しぶりだった。

「分かったよ。‘その時’を、楽しみにしている。もしかしたら、明日にはキミが死んでしまっているかもしれないがね」

 負け惜しみみたいな言葉を、一回りも小さい女の子に吐いて、その日の尋問は終わった。

 

 その日の夜、彼女のために用意した夕食の中に遅効性の毒を仕込んだのだが、有毒の部分だけを残して、美味しそうに平らげたのだった。



「寂しい人ですよね、あなたは」

 唐突に、そんなことを言われた。

 明け方、空は昨日より明るかったけれど、相変わらず弱い雨が降り続いていた。

 風のせいか、たまにベランダに入り込む雨が数滴、窓に当たって何かの音楽を奏でているように聞こえた。

「どういうことかな」

 その雨の演奏を、普段はいない臨時同居人に邪魔されたのだから、声のトーンは気づかないうちに低くなっていた。同じ空間に誰かがいるというだけで、常時ノイズが走っているかのように胸がざわつくというのに。

「そのままですよ。そんな風にずっと窓の外を見つめていて、楽しいんですか?」

 マイは僕を怪訝そうに見ながら、窮屈そうに身体を動かそうとする。

 昨日の夜から、拘束用の特殊なロープを使ってタンスに縛り付けているから、そろそろ身体が痛くなっているのだろう。

 きつく縛り上げられて動けない状態のまま、いつ自分を殺すか分からない殺人鬼と同じ空間にいる。

 そんな極限状態にいるにもかかわらず彼女は、自分は白だと言い張っている。たとえ本当に白であっても、この状態なら嘘を言ってでも抜け出したいと思うのが普通だろうに。

 そこまで思いかけて、ここに普通の人間なんていないことに気が付く。

「楽しいよ。雨の音を聞いていると落ち着く。これを聞いていれば、僕は僕でいられるんだ」

 普通じゃないから、普通じゃないことにだって楽しみを得られる。

「本当、ここの業界の人たちって変わった人が多いですよね。普段は何をしているんですか? 雨の日にしか仕事をしないとは聞きましたが、晴れの日は何を?」

 世間話をするかのように話し続けるマイ。本当にこの子は余裕そうで、不気味さすら覚える。

 それはそうと、晴れの日の僕?

 ……。

 思い出そうとするけれど、僕は何をやっているのだろう。

 記憶が無いということは、だいたい寝ているか、たいしたことはしていないのだろうけど。

「年齢で言うと、大学生? 社会人? どちらにしても大学や会社には行っていないんですか? 今時珍しいですよ。殺しだけで生計を立てる人なんて。そうでなくても、世を忍ぶ表の顔と言いますか、何かないんですか?」

 朝からおしゃべりなマイの声に、僕の胸に鳴っていたノイズが若干大きくなる。きっと、このノイズに耐えられなくなったとき、僕は彼女を殺すのだろう。

「……強いて言うなら、フリーターだろうけど……。僕は殺し屋。殺し屋の雨夜鳥だよ」

 ノイズを収めるようにそっと深呼吸をしながら、僕は言う。

「ふうん。かくいう私は、最近中学校に上がったばかりなんですよ。夕霧マイ。中学一年生。両親健全、弟が一人。収入は少ないながらも親の愛情を弟と分かち合って真っすぐに育つ。成績はそこそこだが将来の夢は看護師さん。一生懸命勉強して、たくさんの人を助けるのが目標! 反抗期の弟と喧嘩中で、学校では友だちにいつも愚痴を聞いてもらいながらも、なんだかんだで平穏な日々を過ごしている―」

 ―っていう設定です。

 ……。

 一息に喋り終えたマイは、少し満足そうに口角を上げた。

 一方の僕は、言い知れぬ不快感とノイズがより大きくなったのを感じて、顔をしかめる。

「そんなことをして、寂しくないのか? 全部、嘘だろうに。仮初だろうに」

 気が付かないうちに、声に熱がこもっていた。

 何を熱くなっているんだ、僕は。

「寂しくありませんし、むしろ幸せですよ。嘘でも仮初でも、カモフラージュのために学校にも通っていますし、友だちもたくさんいます。けっこう人気者なんですよ、私」

 幸せ。

 人を大量に殺しておいて、幸せ?

 得意げな彼女の顔に、強がっているとか、無理をしているとか、そんな様子はどこにも見えなかった。

 それでも僕は言ってしまう。

「そんな強がりも、嘘も、仮初の友だちも無意味で無価値じゃないか。キミには殺しという、命を懸けてやっている仕事がある。そんなくだらないものに執心していては、いずれ足元をすくわれるぞ」

 殺意は湧かない代わりに、この子の満足そうな顔を貶めたくなった。

 そんなものは無意味なんだと教え込んで、その可愛らしい顔を絶望の色に染めてやりたくなった。

 でも。

「嘘とか仮初だとか、そんなことにいつまでもこだわっているから、あなたはいつまで経っても孤独なままなんですよ。―」

 ―。

 最後の言葉が聞き取れなかったが、それでもひどく侮辱されたのだけは分かって、腰から咄嗟にナイフを引き抜く。

「分かったような口を、聞かないでもらえるかな?」

 命中したのはマイが縛り付けられているタンス。外したのではなく、ただ黙らせるためのものだった。

 これ以上聞いていると、何かがおかしくなりそうだったから。

「拷問係としては失格ですね。雨夜鳥さん」

 それでもマイは、真横に突き刺さった刃には目もくれず、ただ昨日と変わらない冷たい瞳を僕に向けるだけだった。

「……」

 外から聞こえる雨の音が、少しだけボリュームを上げたようだった。

 これからさらに強くなるのだろうか、天気予報では一日中断続的な弱い雨が降り続けると言っていたけれど。

「……まぁ、いいさ。今日もキミに昨日と同じ質問をする。正直に答えてくれれば、それで良い」

 ナイフを引き抜いて、僕は机の上にあったメモ用紙を手に取る。

 拷問などの暴力を伴わない代わりに、淡々と繰り返される同じ質問の中、いつ来るかわからない殺人鬼の暴発に、その顔を歪めてくれればいい。

 そう思って、僕は最初の質問をする。

「キミの所属と名前を教えてくれ」

 最初にマイが僕にした質問。

 彼女の所属はバロンA081S。コードネームはマイ。

 すでに覚えているからと、僕は次の質問に目を通そうとする。


「―デュークS496S。コードネームは夕霧です」


 次の質問は所属部署の人員数。

 それを聞こうとした僕の耳に、聞き慣れない言葉が飛び込んだ。

 恐る恐る、彼女の方に視線を上げる。

 その表情はさっきまでの冷たいものとは打って変わって、獲物を見つけて恍惚に打ち震える、獣のような目。

 あぁ、これが。

 これが彼女の本性か。

 全く違う表情で、全く異なる組織の所属と名前を言った彼女。

 そこにいるのは全くの別人。

 あまりに突然のことで、僕はしばらく呆然と彼女の、息を吹き返したかのような満ち満ちた顔を見ているよりほかはなかった。



「どうしてまた急に、すべてを話そうと思ったんだ」

 時間は再び、昼と夜の狭間。いわゆる黄昏時だった。

 彼女が二重スパイであるということを自ら告白し、その組織の情報を洗いざらい話したおかげで、質問はかなりスムーズに進んだ。

 彼女の言ったことが本当であれば、美雨の判断は正しかったということになるし、即刻上層部に連絡を入れなければならない。

 少なくとも、手元にあった資料と照らし合わせる限りでは、マイ―もとい夕霧の言っていることに誤りはない。

「だって、怖かったんですもん。私だって華の女子中学生! こんなところで殺されるのは嫌ですよぉ~!」

 これが本性で本音、ということはないだろうが、少なくとも僕の体質を利用した尋問は成功したと考えてもよさそうだ。

「それに、この道六年とか見栄を張りましたけど、本当は新人のぺーぺーですし! 雨夜鳥さんは二年でしたっけ? やだー、先輩じゃないですか、生意気なこと言っちゃって本当ごめんなさい!」

 急に騒がしくなる夕霧。

 リアルな女子中学生、いやどちらかというと女子高生や女子大生に近いテンションに、僕は軽く眩暈のような感覚に陥る。

 これがさっきまで僕を挑発し続けた人間と同じなのか?

 さっきまでのマイの方が殺し屋としては自然体で、むしろ今の夕霧は過剰過ぎて不自然だ。

 まだ、何かあるのか?

「少し、黙っていてもらえないか。今からキミからもらった情報の確認を取るから」

 何にしても、このままこの子の声を聞いていると耳がおかしくなりそうだ。

 情報の裏が取れたらさっさと片付けてしまおう。

 そう思って、僕は携帯電話を操作する。かける先は美雨だ。

「―結局、戻ってこなかったんですね」

「えっ?」

 そんな切なそうな夕霧の声に、僕の指は止まる。

 声量からして独り言だったのだろうから、無視して操作を続けていて良かったはずなのに、僕はなぜか反応してしまった。

「あ、あぁ、いえ、美雨さんのことですよ。私をこんなアブナイ人のところに放り込んでおいて、今の今まで挨拶もなしですかと、そう言ったんです」

 なぜか少し焦り気味に夕霧が弁解する。

 何かを誤魔化しているというのはすぐに分かったが、検討はまるでつかない。

 戻ってくる、というと彼女が所属している組織の人間だろうか。

 ここに襲撃でもしてきて、助けに来る手はずだったとか。

「……いや、そもそも何でキミは美雨のことを知っている? 尋問を受けた後、そのままここへ来たはずだから、キミは美雨の顔を見ていないはずだ」

 思考の途中で感じた違和感を、僕はそのまま口に出す。

 たいした問題ではなかったかもしれないが、無駄なことではないだろう。

「そんなところをつついたって何も出ませんよ。出すボロも無いくらいぜーんぶ話しちゃったんですから。……美雨さんを知っているのは、昨日、あなたたち二人が話しているとき、ちょびっとだけ私の意識があったんです。その中で聞こえてきた声に、聞き覚えがあったんですよ。バロンA320I、コードネーム美雨さんでしょう?」

 薬の効果が一時的に切れて、意識が戻ったということか。

 美雨も組織の中では顔が広いし、夕霧―マイは諜報員だから、声だけで判断するのも難しくはない……のか。

 すらすらと臆さない夕霧の物言いに、マイだった時の彼女が見えた気がして、信用とまではいかなくともなんとなく丸め込まれた気分になる。

「あんなえっちぃことしてましたしね~。思春期の女の子になんてもの見せるんですか」

「そんなことはしていない」

 即刻否定する僕。

 このままでは彼女の舌にすべて巻かれる気がしたので、僕は携帯電話で美雨の番号を押す作業に戻った。

 携帯電話を耳に当て、ふと外を見る。

 空がだいぶ明るくなっていて、パラパラと軽い雨が降っているだけだった。

「所属とコードネームを言って」

 スリーコール後に、本人であるか確認するための、事務的な声が電話の向こうから届いた。

 雨の音と美雨の声を耳に感じながら、僕は自分の所属とコードネームを告げる。

「ようやく彼女が口を割った。所属はデュークS496S。全く別の殺し屋集団だったよ。そして彼女の本当のコードネームは―」

 そこまで言って、僕は夕霧―マイがいるはずの場所に振り返る。

 これで彼女の顔も見納め。

 最後に見ておこうかと、気まぐれを起こしてのことだった。

「……!」

 そこには何もなかった。

 いや、正確には何かに引きちぎられたかのようなロープの残骸が虚しく残されてはいたけれど。

 逃げたのか?

 この一瞬で?

「もしもし、雨夜鳥? 聞こえる?」

 僕の返答が遅いためか、少し感情を高ぶらせたような美雨の声が電話越しに聞こえる。

 同時に、ガチャリ(、、、、)という、ドアを開ける音が下の階から聞こえて、僕の懸念が確信に変わる。

 確かに、たったのスリーコール分の時間だけ、僕は彼女から目を離していたけれど。

 たったあれだけの時間でロープを切って、僕の部屋から出て、階段を下りて、さらにこのアパートから出るなんてことが物理的に可能なのか?

「逃げられた」

「え?」

「コードネームは夕霧! すまない美雨、僕の失態だ。逃げられてしまった。すぐに捕まえるから、また後で連絡を入れる!」

 返事を聞かないまま、僕は通話を打ち切る。

 折り返して電話がかかってきたが、今はその時間も惜しい。

 飛ぶように階段を下りて、得物の鉄傘をひっつかんで玄関のドアを破るように開ける。

 左右を確認、視界の隅に捉えたのは彼女のものであろう、長い黒髪が曲がり角を曲がって行った映像だった。



 全速力で、僕は走る。

 雨の中、その手に傘を持ちながら、差さずに全力で。

 聞こえるのは自分の息が上がる音。

 足音。

 少し大きめの雨粒が地面に打ち付ける音。

 あの時を思い出す。

 あの時たどり着いたのは殺しの道だったが、今回たどり着くのはどこなのだろう。

 ―。

「はぁ、はぁ……」

 たどり着いたのは公園だった。

 休日の、雨の日の夕方。もともと人気が無いのか、そこには寂れた遊具が二つ三つ置かれているだけで、あとは何もいなかったし、誰もいなかった。

 夕霧を追いかけていたはずなのに、なぜ僕はこんなところにいるんだ?

「どこに行っても……僕は独りぼっちかよ……」

 意識の外から操られたかのように、僕の口は勝手にそんな弱音を紡ぎ出す。

 なんなんだ。

 さっきから僕はいったい何を―。

「……くっ?!」

 錯乱する僕の意識を呼び戻したのは、溶けてしまうほど猛烈に熱い殺気。

 ほぼ反射で、向かってきた衝撃を鉄傘で防ぐ。

「あーあ、せっかく一思いに……人想いに殺ってあげようと思ったのに」

 狙われたのはおそらく首、うなじあたりだろう。

 下から突き上がってきた刃を払いのけ、地面を蹴って敵との距離を取る。

「夕霧。なぜ逃げた?」

 敵―それは予想通り、僕の家からさながら手品のように脱出した夕霧その人だった。

 表情は好戦的で、今までのマイとも、二重スパイだと告白した直後の夕霧とも違うように思えた。口調も声のトーンも、ひしひしと戦意が伝わってくるかのような、そんな印象。

「なんでって、そりゃ、私が二重スパイだから? そういう手はずだっただろう、雨夜鳥さんよ(、、、、、、)

 そういう手はず。

 どういう意味だ。

 彼女は何を、どこまで知っていて。

 僕は何を、どこまで知らないんだ?

「ひゃは、あんたはなんにも知らなくて、同時になんでも解っている。言葉遊びは嫌いかい、おにーさん!」

 夕霧の瞳が見開く。

 一瞬置いて襲ってきたのは彼女の両手に握られた二振りのナイフ。

 おかしい。最初に彼女が隠し持っていたナイフは取り上げて、その後も入念なボディチェックをしたはずなのに。

 何もかもがおかしい。

 小さな体躯から振り回される滅多切りの斬撃を受け止めるのに必死で、なかなか思考が定まらない。

「ボディチェックって言ったら、腹かっぴらいて、ちゃーんと中まで見るべきだろーが! 超絶ぷりてぃな女子中学生を真っ裸にしたくらいで満足してんじゃねーぞこのロリコン野郎!」

 叫び声と、首に向かって大きく振りかぶった、右手から繰り出された袈裟切りに、僕の神経は持っていかれる。これを防がなければ死ぬと、直感が言っている。

「ぐっ……!」

 彼女の全体重を乗せたのであろう衝撃は、鉄傘で受け止めることができた。しかし、そのほんの一瞬後に僕を襲ったのは、右腕の鋭い痛み。

 見ると、ダーツの矢のごとく、僕の右腕にナイフが突き刺さっていた。

 どんどんと力を入れていく夕霧のナイフに反比例するかのように、僕の腕からは血液と一緒に力が抜けていく。

「化け物かよ……お前は……!」

 袈裟切りを放つと同時に、もう片方のナイフを投げて僕の右腕に命中させた。

 言葉で説明するのも難しいのに、それを実際にやってしまう彼女の実力が恐ろしい。

「ま、化け物みたいなもんだからな。あんたも怖いだろうから、一瞬で終わらせよーぜ」

 落ち着いた口調で、さらに力を込めていく夕霧。

 じりじりと下がる腕に、僕の戦意も徐々に失われていく。

 ―ここで、死ぬのだろうか。

「ウオオオオオオオオオオオォォォオッ!!」

 一瞬だけ考えて、僕の思考は止まった。

 それはたぶん、理性ではなく生き物の本能として、単純に死を拒絶した結果なのだろうけど。

「マジ……かよ!」

 それでも最後の底力で、僕は夕霧の腕を押し返し、ふらつく身体を左足一本で支え、残る右足を容赦なく小さな身体のど真ん中に突き刺す。

 くの字に曲がった夕霧の身体は軽々と吹き飛び、そのままさびたブランコに激突する。

「キミを殺していい許可は……そういえば出ているんだっけな。もう、容赦はしない……!」

 肩で息をしながら、僕は右肩のナイフを抜いて、投げ捨てる。

 余裕なんか残っているわけないが、僕の中の鬼が、とにかくこいつを殺せと喚いている。

 雨水が身体に当たる感覚は確かにあったが、もうその音は僕には聞こえない。

「……ふっ……!」

 小走りに近づいて、ブランコにもたれかかって目を瞑っている夕霧に、大上段で鉄傘を振りかぶる。

 今からこの可愛らしい女の子を、粉々に粉砕する。

「なーんてな」

 振り切っている最中、夕霧の、刃のような視線と目が合う。

 破壊音とともに僕が叩きつけたのは少女の肉体ではなく、さびたブランコ。

 ギシギシと音を立て、今にも崩壊しそうにぐらつくブランコだった。

「おっかねーやつ」

 低い声とともに背後の感じたのは、再び熱い殺気。

 防ぐ時間はおそらくない。

 だから僕は、飛ぶように背後を振り返ると同時に。

「……?!」

 鉄傘をバットのように思い切り振りきった。

 上半身を思い切り、しかも瞬間的に捻ったため、身体中の筋と骨が悲鳴の大合唱だったが、手ごたえは確実にあった。

 バコン、という鈍い破壊音。

 腕か頭か、どちらかでこん棒並みの強度を誇る鉄傘のフルスイングを受けたおかげで、夕霧の身体は再び、衝撃に逆らうことなく吹き飛んでいった。

「はぁ、はぁ……はぁ……」

 水たまりに突っ込んだらしい夕霧は、半身を泥水で汚しながら、ピクリとも動かない。

 生きていれば運が良いが、死んでしまっていても別に構わない。

 どうせならもっと早く片付けておくべきだった。

 過ぎたことを後悔しても仕方の無いことは重々承知で、僕は夕霧に近づく。

 ゆっくり、慎重に近づく。

 フルスイングが命中したせいか、手に持っていたナイフは手の届かない場所に転がっている。いくら彼女でも、腹の中に隠せるナイフは二本が限度だろう。

 仮に抵抗の色を示すようであれば、今度こそ鉄傘を振り下ろして息の根を止める。

 そう確信して、僕は彼女の身体に手を―。


「―詰めが甘いんだよなぁ、ほんとに」


 気が付くと、つい今まで目の前にあった夕霧の身体が、ほんの数メートル遠くに見えた。

「なに……がッ?!」

 喋ろうとすると、肺から、腹から空気がすべて出ていってしまいそうな感覚が襲う。

 左胸、左腹に一か所ずつ、絶えず熱した鉄を当てつけられているかのような痛みを感じて、ようやく自分が撃たれたということを悟る。

「あ……がっ……がふッ……!」

 右手を付いたおかげで、衝撃で吹き飛んだ身体をなんとか倒さずに済んだ。

 けれど呼吸が、動機が早くなるのを、自分では止められない。

「あんたの……あんたらの(、、、、、)お望み通り、ガフっ、楽にしてやるから……そこで待ってろよ……」

 ゆらゆらと立ち上がって、夕霧は言う。

 その言葉の意味を推し量ることも、今の僕にはもうできない。

 ただ逆らえない死の流れに、身体が必死に抗おうとしている。

 一歩、一歩、今度は夕霧の方から近づいてくる。

 少女の長い髪が水たまりと血に濡れて、顔にへばりつく様は、凍り付くほど美しくも、醜かった。

「はっ、はっ、は……!」

 だらりと上がった右手に握られていたのは漆黒色のグロック。

 死の恐怖なんて感じないものだと思っていたけれど、人間誰もが感じるものなのかもしれない。

 怖い、切ない、悲しい、悔しい、苦しい痛い怖い怖い寂しい!!!!

 僕にこんな感情があったなんてと戸惑いつつ、最後くらいは素直になってみても良いかもしれないと、僕は僕を殺す少女を、ただひたすらに見つめる。

 夕霧が、右手を、グロックの口を、僕の方に向けた。

 ―。

 何の前触れもなく、最期に焼き付けるはずだった彼女の姿が、ブレて、見えなくなった。

 ―。

 数秒後に遅れて聞こえてきたのは乾いた音。

 聞き覚えのある、銃声音。

「あ……」

 二度あることは三度ある。

 今度は水たまりではなく、砂地に転がっていった夕霧の身体ではあったが、急所を撃ち抜かれたためか、彼女の倒れた場所は見る見るうちに真っ赤に染まっていった。

 目の前で起こったことを認識するだけで精一杯な僕。

 けれど数秒後、その意味を理解した。

 夕霧は僕を殺す前に、誰かに狙撃された。

「は……ははっ……!」

 その事実を確認した途端、僕の視界は回転して、灰色になった。


 自重を支えきれなくなって、仰向けに倒れた僕は、機能しなくなりかけている肺で、ただただ浅い息を繰り返す。

「僕は……何をやっているんだろうな……何のために……」

 問いかけてみても、思考することはできなくなっていた。

 自分の浅い呼吸音と、しとしとと降り注ぐ雨の音。

 それしか、もう聞こえない。

 自分は何をやっていて。

 何のためにこんなことをしているのか。

 思えば、すでにこの問いに対する答えは、二年前から出ていたじゃないか。

 意味なんて、ない。

 孤独な僕のやることすべて、無意味で、無価値。

 ―すまない、僕のたった一人の友だち。

 偽物でも仮初でも、夕霧―マイのように、幸せを見つければ良かったのだろうか。

 ―キミを貶める立場に、最初から僕はいなかったみたいだ、マイ。

 逃げて、逃げて、死ぬまで逃げて。

 死ぬ間際になって、そんなことに気づいたところで、もう遅い。

 でも、許されるのなら最後の一瞬、僕は考えてみたい。

 仮に逃げ続けなかったとして、僕の‘幸せ’は何だったのだろう。

 戯言に過ぎない、僕の夢想。


「―! ―!」


 誰かが僕を呼んでいた。

 聞き慣れた、懐かしい、安心するあの声に、自分の名前が呼ばれているのが分かる。

 殺し屋‘雨夜鳥’ではなく。

 ‘僕の名前’を呼ばれている。

「あぁ……」

 視界が灰色から、人肌の色になる。

 黒く艶やかな髪に、胸に沁み込んでいくような優しい声。

 二日目とは対照的に、真っ白な服に身を包んだ、僕の一番大切だった人。

「美雨……」

 彼女の名前を呼ぶ。

 視界はぼやけて、今彼女がどんな表情をしているかも分からない。

 どんな―顔だったっけ。

 思い出そうとしても、彼女の顔も、声も、思い出も何もかも、僕の頭から浮かんでくることはなかった。


 ―これでようやく僕は、‘孤独’になれる。


 雲の切れ間から覗いた日の光に、勢いを弱めた雨は次々と照らされていく。

 

 そんな美しい雨に包まれながら、雨の日の殺し屋は、静かに息を引き取った。




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