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序章

久しぶりに真剣な作品を書きました。

気に入っていただければ幸いです。




   ―0―




 引っ越す前日に幼馴染みから告白された。



 その場でその幼馴染みを振った。



 好きだったのはもう一人の幼馴染みだったから。



 その日の内にその女子に告白をして



 振られた。



 次の日に遠くに引っ越した。



 そして、引っ越してから二年後に――



   ―1―



 四月二六日水曜日午前七時半。


 「うっ…………」


 吹き出した冷たい汗で寝巻が肌に張り付く不快感と寒気で望月(もちづき)は目を覚ます。意識ははっきりしなかったが、とりあえず服を脱ごうとしたものの、地球の重力が何倍にもなったように重くて叶わなかった。意識同様、体も覚醒には至っていないようだった。

 汗といい倦怠感といい、まるで先程まで駆けずり回っていたかのようだ。いや、実際夢の中でそうしていたのかもしれない。


 「またか…………」


 あの日以来、時々迎える寝苦しい朝。

 悪夢にうなされていたようだが、その内容はいつも目覚めとともに黒に塗り込められたタールの沼の奥底に沈んでしまう。

 ただ逃げられない何かから必死に逃走していたような漠とした記憶しかない。


 「っ…………」


 微風(そよかぜ)に揺らいだカーテンが直射日光の侵入を許し、望月は顔に日差しを受ける。それをとっさに手を(かざ)して遮った。

 その手の腕首には一筋の一文字の傷があった。

 それは、許されざる罪を犯した大罪人の烙印(らくいん)というよりかは、罪を忘れないがために自らの体に(こく)した銘と形容した方が腑に落ちる。


 しばらくして、動くようになると、彼は、気怠げに起き上がり、憎々しいほどに晴れ渡った青空に恨めしそうな眼差しを向けた。



    ◇ ◇ ◇



 一分のずれもなく、毎日と同じ時間に、制服に着替え、一階の居間に下り、食卓で一言も発せず母が作った朝食を摂り、昨夜に支度を済ませた学校鞄を肩に引っ掛け、靴を履き、無言のうちに家を出た。


 今朝は小春日和を思わせる温かな日差しが降り注いでいた。

 頭上を鳥達が互いに追い掛けながら愉快な鳴き声をさえずる。

 彼と同じ制服を着、道を歩く学生は仲間うちで笑い合って何かを話している。


 それらは、ただの無機質な日光、雑音、映像にしか知覚されない。彼にとって余りにもくだらない、つまらない情報だった。


 家の前の短い急な坂を登りきり、地元の小学校の前を通り過ぎ、少し行ったところで右に曲がると見える貯水池の沿いを歩く。

 貯水池の沿いには数え切れないほどの桜が植えられ、鮮やかで淡いピンクの花びらを贅沢に風に任せて散らしている。

 そのおかげで舗装(ほそう)されたアスファルトの道はピンク色に侵食されていた。

 しかし、幾重にも引かれた(わだち)は桜色の池に泥を塗り込めていて、その絵は何とも言えず汚い。

 頭上に咲き誇る古木の桜の花もいずれ地に堕ち、その美麗さが奪われることをどこか自分ごとのように思いながら、また別に、こんなことを去年も考えていたかと思いながら彼はその桜の池を踏み越える。


 さらに行くと、墓地に行き当たる。

 それなりに大きく、夏休みになると、元気な高校生や中学生が夜にわざわざ胆力を試しに時折来る。

 その墓地の横を通り抜け、少しすると、(まば)らだった学生の姿がちらほらと見えはじめた。


 そして、十数分が過ぎると、周りにいる学生が(やかま)しい長蛇の列を成し始め、前方に見えた(さび)れた校門――これは裏門だが――を潜っていく。


 校門の前にはそれなりに大きい校庭が広がっていて、右に体育館、奥には色の落ちたひび割れの目立つ白い校舎が二つ見える。

 長蛇の列は二つに均等に割れて、校舎に入っていく。

 流れに逆らわずに、目的の校舎に入る。

 とてつもなく長く感じる四階分の階段を上りきって、端から三つ目の教室、後ろから一列目、右から一列目の中央窓際の席につく。


 この席が彼に宛てがわれた席で、そしてこの学校が彼に宛てがわれた学校だ。名もなく、何もない中庸な地方中学校だ。


 望月はただ最寄りの中学校だったからという理由で通っている。

 強がりでもなんでもなく、誤った選択をしたとは思っていない。どこの学校に行ったとしてもつまらなく、昼間の時間を浪費する場所だということに変わりはないのだから。


 苦にもならない宿題を提出し、苦でしかない授業をやり過ごし、味のしない弁当を胃に詰め込み、原因のわからない頭痛に悩まされながら帰宅。


 これがこの二年間、日によってわずかな差異はあれど、概ね彼が繰り返しているルーチンだ。


 つまらなかったルーチンだが、このごろはそれさえ、どのようにすれば寸分の狂いも生じさせないだろうかと考えて、暇潰しをできるぐらいになっている。


 席につき、中身をすべて取り出し、机の横のフックに掛ける。そして、取り出した中身は余さず机の中に入れる。


 それからは、始業まで窓から見える青空を眺める。


 いまだそれほどクラスメートのいない教室の音が遠くなる中、ゆっくりと流れる雲に視線を追わせる。


 そうしていると意外に時間の流れが早く感じ、このことに気付いてからはもっぱら彼のお気に入りの時間潰しだ。


 手の届きそうなところをゆっくりと滑る雲。

 しがらみはないだろう。

 人の手の届かぬところで、人知れず発生し、人知れず消滅するだけ。


 あれになりたい。

 人と隔絶された独りの世界にいたい、彼は切にそう思う。


 「望月君、お、おはよう」


 何度目とわからない夢想に(ふけ)っていると、横手から聞き慣れた声がかけられる。

 そちらに顔は向けず、応える。


 「ああ」

 「う、うん」

 「……………………」

 「えっと…………その………………」


 沈黙が訪れる。

 このクラスメートはいつもこうだった。

 特に話題がないのに話し掛け、沈黙する。


 「気分はどう?」


 そして、困り果てた揚句に、まるで挨拶のように決まって『気分はどう?』と訊くのだ。


 「いつもと変わらない」


 それにうんざりもせず、望月は同じ返事をする。

 このようなやり取りが二人の間で始まったのは、望月が転校してしばらくたってのことだった。

 望月にとってクラスメートは全員他人というくくりで、一人として名前を覚えている者はいなかったが、そのうち同じことを飽きずに訊く少女の顔と名前だけは覚えるようになった。

 髪は茶褐色がかった短髪で、同じ色をした瞳は大きい。顔立ちは丸みを帯び、大きな瞳も相まって幼さを感じさせる。

 名前は、水無瀬(みなせ)名雪(なゆ)


 「そ、そう。よかった…………」


 水無瀬は強張った笑みを浮かべて、言った。

 望月はこの顔を見慣れていた。初めはその顔の訳を考えていたものだが、ついぞわかることはなかった。


 「あっ…………そ、そう言えば、今日は転校生が来るんだって」

 「へぇー」


 転校生という言葉の響きはクラスメートに聞くそれと同じで新しげにも面白げにも聞こえない。

 彼にとって転校生は、極論、ただ入学式に遅れた入学生だ。

 そのようなつまらない情報に、二人だとか三人だとかの些細な情報が付随したところで、至極どうでもいい聞き流すに値する情報でしかない。

 しかし、どうしてかその話題に乗ろうと思った。クラスメートから珍しく話題を振られたからだろうか。

 ぼやっとしていた周りの音に耳を澄ませば、喧噪(けんそう)の中に、


 「二人とも可愛くなかった?」「うん、すっごく可愛かったね!お人形みたいだった」「マジィ~?何年なの?」「三年か二年だと思うー」「うちのクラスかな?」「だったら友達にすぐになっちゃおかな」


 という嬉々とした姦しい会話が拾えた。


 「その転校生がどうしたんだ」


 望月は窓の外に向けていた視線を、首を回して反対側に立っていたクラスメートに遣った。


 「え、えーと、女子みたいだよ、二人とも」


 クラスメートは目を逸らすと、答えた。


 「そうか。学年は」


 こっちから質問すれば話せるとわかった望月は、質問を続けた。


 「二年だよ」

 「そうか。楽しみか?」


 次は何を訊こうか、と考えながら予め考えていた質問を口に出す。


 「楽しみ…………だと思う」


 クラスメートは顔を伏せると答えた。それは、はめようとしていたパズルのピースを途中で引っ込めて、はまりそうにもない別のピースを無理矢理はめ込んだような印象を受ける返答だった。


 「…………楽しみじゃないんだろ」

 「…………楽しみじゃない…………かも」


 それをただすと、水無瀬は顔を伏せたまま言った。

 望月の知る水無瀬は何時も無理のある笑みを浮かべている少女だ。だから、水無瀬の反応を不思議に思った。だが、わざわざ聞くほど興味があるわけでも仲がいいわけでもないと思い、言及しなかった。


 「…………もう予鈴が鳴るぞ」

 「あっ、そうだね。時間ってすごく速いね。じゃあね」


 事実を言ったまでの指摘に水無瀬はぎこちなくも嬉しげな笑みを浮かべて、身を翻すと、望月の前の席についた。

 再び窓の外を見る。

 空を見上げると、春の空に似つかわしくない歪な雲が一つ流れてきたところだった。



     ◇ ◇ ◇



 ギリギリに登校してきた者を待つようにして予鈴が鳴ると、教室の所所で固まって男女関係なく姦しく話していたクラスメート達は三々五々と席につきはじめたが、女子の談笑の余波はざわめきとなって教室に広がっていき、方々から女子だけでなく男子の希望を多分に含んだ浮足立った声が聞こえてくる。

 が、壊れるのではないかと思うほどの勢いで開かれた引き戸の耳を聾するような音に、ざわめきも打ち消されて教室が水を打ったように静まり返る。

 静まったのを確認するように少しの間を置いて引き戸を開けた者が教室に入ってきた。


 担任の先生だった。

 二十代後半の独身女教師。

 体育会系だが、熱血ではない。

 担当は言うのもおろかだが、保健体育だ。


 「みんな座ったようだなー。号令っ!」


 体育教師に似つかわしくない(ふく)よかな胸を揺らしながら春山先生が教卓の前に移動すると、一度教室を見回して教室の一番後ろの席の生徒でさえ耳が痛くなるような大声で言った。


 「きょうつけーっ、礼、お願いします」


 日直の合図とともに全生徒が起立、礼、着席する。

 全員が座ったのを確認して春山が単刀直入に本題に入った。


 「みんなも聞いていると思うが、この学校に転校生が来た。それもかなりの美少女だ。どの学年の何組か知りたいだろ、お前等」


 ニヤニヤしながら生徒の同意を確かめるように教室を一度見回した。

 望月は、毛ほども気にならなかったので窓の外に目を遣った。

 その望月以外の生徒全員からは同意を得られたのか、春山は言葉を続けた。


 「転校生は……」


 バラエティー番組宜しく間を置いてから、


 「二年生だっ!」


 と、発声練習でもしているかのように声を張り上げて言った。

 それに全生徒が一斉に色めき立つ。興奮を抑え切れずに数人のクラスメートが歓喜の声をあげたり、その興奮に当てられたのか机までもががたがたとぶつかり合う音が聞こえた。


 望月はというと何とも思わなかった。

 というのは、少し違う。

 ただ外の雲を眺めていて、先生の声には意識を省いていなくて、両の耳に綿を詰めたようにほとんど聞こえず、内容がわからないから何とも思わなかった。


 「クラスは…………」


 春山が一際長く間を置いた。申し合わせたようにすぐさま教室の誰もが黙り込む。

 他人の固唾を飲む音が聞こえてきそうなほどに空気が張り詰めていたが、そんなクラスメートを余所に望月はただ流れる雲を目で追う。


 「このクラスだっ!」


 その瞬間どっと歓声が上がった。共鳴して震えているようにさえ思われる教室の中は雄叫(おたけ)びや狂喜の声で混沌としている。狂信的なファンで埋め尽くされた人気バンドグループのライブコンサートと言われれば信じてしまうような様相を呈している。

 望月は耳を押さえてその場をやり過ごそうと思ったが、すぐにその必要はなくなった。


 「静まれええええええええっ!!!」


 混沌とした大音量の海を引き裂かんばかり春山の声で狂喜乱舞する生徒を静めた、もとい鎮めた。


 「転校生を一日で不登校にしたいのか!嬉しいのは痛いほどわかるが、転校生が怖がらない程度にしろ!」


 今度は大音響の笑い声で教室が満たされた。

 強く耳を押さえた。

 春山は至って真面目に言ったつもりだったのか、笑いが止まないことに不思議そうに首を捻っている。


 「じゃ、呼びに行くから静かにしていろよ」


 とだけ言い残すと、廊下に出た。転校生は廊下にいるようだ。先生の言い付けで一応笑い声は収まったが、ちらほらと興奮を隠しきれないクラスメートの囁き声が聞こえた。


 転校生なんていうものを見るのはいつ以来だろうか?

 いや、一度も見たことはない、と望月は自問し自答した。

 同じ学校で他の学年や、クラスに転校生が編入したことあるかもしれないが、彼がいたクラスには少なくとも転校生が来たことはない。転校生自体珍しいと思うが、転校生を見たことないというのも十分珍しいだろう。


 喧しさに邪魔されたために空を眺めることは諦めて、暇つぶしに転校生について益体のない事を考えていると、そのとき、春山が転校生を連れて入ってきた。


 そして、時が止まったように教室が静まりかえった。

 と同時に望月は固まった。


 転校生が言葉に尽くしがたいほどに可憐だったからでも、転校生が実は二人だったからでもなかった。

 春山に連れられて歩いている二人の転校生を目だけで追いながら、その視覚情報を慎重にゆっくりと咀嚼した。

 咀嚼すればするほどに思考がパンクして正常に作動しなくなる。頭が熱くなり、意識もぼやけた。


 なんでいるんだ。


 それがわずかに機能している頭に浮かんだ言葉だった。

 他の生徒もまさか二人だったとは思わず、唖然としていたが、彼等とは全く別の理由で唖然、否硬直していた。

 唖然としている生徒の顔を教卓から見回して満足したように笑みを浮かべて春山は両隣にいる二人に自己紹介を促した。


 「私の名前は四十九院(しじゅうくいん)(なぎさ)だ。今後とも宜しくお願いする」


 望月は知っている。

 紹介されまでもない。

 四十九院の後ろで春山が黒板に乱雑な字で四十九院の名前を書きなぐっている。

 名前がどんな漢字を書くかも知っている。

 書かれるまでもない。

 男勝りな口調も、透き通るような白い肌も、淡く茶色がかった艶やかな腰までもある長髪も、すらっとした足も、抜群のスタイルも、頭脳明晰だということも知っていた、もとい覚えていた。

 身を包んでいる制服を除いて、何も変わっていないこともわかった。


 「朝比奈(あさひな)ヒトミです。宜しくね」


 知っている。

 言われるまでもない。

 春山は今度は朝比奈の後ろで名前を書きなぐっていた。

 朝比奈の名前がどんな漢字を書くのかも勿論知っている。

 竹を割ったような明るい口調も、ちょっと日に焼けた肌も、綺麗に切り揃えられたショートカットも、引き締まった足も、整った体型も、運動神経が飛び抜けていることも覚えていた


 しかし、なぜ二人がここにいるのかまるでわからなかった。一年前にもう会うことはないと思って、忘却の淵に追いやろうとしていたはずの二人だった。


 教室は二人の自己紹介が終わると、騒ぐしくなりはじめた。何処からか拍手が聞こえたかと思えば、それをかわきりに拍手する人が増え、やがて場は拍手喝采となった。

 その中、望月は硬直してただ呆然と二人を眺めていた。

 拍手など彼の耳には一つも届いていなかった。


 「喜んでいるところですまないが、今からふざけずに聞いてほしいことがある」


 しかし、珍しくも真剣そのものの表情で春山が言った言葉だけは何故か鮮明に聞こえた。


 クラスメートはそれに答えて教室からおどけた雰囲気とともに喧囂(けんごう)煙滅(えんめつ)した。

 春山が二人に許可を求めるように目配せをすると、二人とも小さく頷いた。それを確認して言葉を続けた。


 「朝比奈は記憶喪失なんだ。今までの記憶のほとんどを失っている」


 「なっ…………!」


 春山の言葉に望月は愕然とさせられた。


 電撃を食らったような衝撃が脳天から身体を駆け巡り、不意に目眩に襲われてしなだれようとする頭を机に肘をついて手で支えた。意識も混濁し、視界が暗転した。

 一拍置いて脳内に押し寄せた疑問が乱立するばかりで解消できる訳もなく、頭が飽和の一途をたどるのをただ傍観するしかできなかった。


 そんな状況から春山の言葉一つで引き戻された。


 「二人はそれで謂われない『イジメ』を受けて急遽この高校に転校してきた」


 「っ!!」


 望月は脊髄反射の如く弾かれるように立ち上がっていた。

 『イジメ』という言葉を噛み締めるほどに底知れぬ怒りが心の芯から無限に湧き出してくる。それは体中を巡る荒れ狂う奔流となり他の全ての感情、先ほどまで頭を飽和させた疑問を諸ともに呑み混んでどこか心の外にさらっていった。

 激情に任せて拳を血が出るのではないかと思うほどにぎりしめて、歯が砕けてるのではないかと思うほど食いしばった。

 きっとこの時彼の顔は鬼の形相と形容して違わないようなものだっただろう。

 しかし、自分が怒りに震えるのは間違っているのではないかという考えがふと頭を過ぎった。

 その瞬間怒りの水源が一瞬で消滅する。瞬く間に奔流は小川となりやがて消失した。

 そして、感情の何もかもが流された跡に芽生えたのは自戒の念だけだった。


 望月は、糸が切れた人形が崩れるようにして椅子に座った。

 挙動不振な自分を見てクラスメートはどう思ってるんだろうなと自嘲の笑みを湛えながらうなだれた。


 春山がクラスの重い雰囲気を打ち払うように咳ばらいをすると、話を続けた。

 望月はそれに全く耳を貸さず、机の上で腕を組んでそこに顔を埋めた。外界と自分を切り離したいという。生きているかぎりできるわけもなかったが、すぐに破られるものであってもとにかく殻にこもりたかった。考えるのもやめて、目を閉じて眠りに付こうとした。一時の現実逃避に身を任せたかった。


 が、できなかった。


 言うに言われぬ拭い去れないもやもやが頭の中に居座っている。目を逸らしてもついて来るように眼前にその歪な雲はあった。


 ふさぎ込んでいるうちに春山の話は終わり、二人の席を決めることになったようだった。周りから我こそはとクラスメートのあげる声が耳を(ろう)する。このクラスにこれほど自分の隣の席が空席である生徒がいたとは知らず、心の中で他人事のように少し驚いていた。

 そして、驚きながらも心の静寂な部分がクラスメートの大音声の中、自分に向かって歩を進める者の足音を不思議と鮮明に捉えていた。その音が近づくに連れて耳を聾するクラスメートの声が段々小さくなっていく。そして、その足音が望月の右隣りで止まるときには、クラスメートの声は微塵も聞こえなくなっていた。

 代わりに椅子の足が床をこする音が聞こえた。


 「貴様、いつまでそうしているつもりだ」


 続けざまに透き通るような声がすぐ右隣りから聞こえた。


 このクラスは縦の列が窓際の列を除いて二つの列で一つになっていて、その縦列が三つあった。

 真ん中の縦列の左列に座っていて、確かにすぐ右隣りの席は空いていたが、通路を隔てた左隣りの席や他に空いている席だってあった。


 それでなぜ隣りの席に座る。

 そして、なぜ前と変わらぬ声を掛けてくる。

 憎くないのか。

 二人を置いて突然いなくなって憎んでいないのか。

 あんな別れ方をして憎んでいないのか。


 自戒の念が噴火した火山の火口から立ち上がる煙のように溢れ出てくる。


 「断っておくが、ヒトミがああなったのは、決して貴様だけのせいではない。貴様の口にした言葉で傷つき記憶を失ったとしても貴様だけのせいではない。何の支えにもなれなかった私とヒトミが弱かったのだ」


 心中を見透かすように四十九院が望月に言う。

 普段望月を呼ぶときは「お前」で、怒ると「貴様」になることを彼は思い出した。

 場違いに懐かしさを覚えながら、さすがだなと、隠し事は意味を成さないことを続けて思い出していた。

 声の調子から慰めているわけではなく、絶望の淵に落ちたような望月に心底呆れているような口調だった。

 しかし、なぜか望月にとってどんな慰めの言葉よりそれが胸に響いた。


 「…………わかった」


 顔を埋めたまま搾り出すように言った。


 「それも含めて、放課後話そう」


 四十九院が感情の窺えない平淡な声音で言った。


 「ああ」


 それに言葉少なに答えて、からだを起こした。


 「どうしたの?」


 懐かしい声に引かれるように、導かれるように左を向いた。いたのは、豈図(あにはか)らんや、朝比奈だった。

 目が会うと、朝比奈ははにかんで眩しい笑顔を見せる。


 その笑顔が心の奥底に追いやったはずの色あせて(おぼろ)げな記憶を想起させた。


 夕焼けで真っ赤に染まる空と連なる山々に向かって伸びる畦道(あざみち)を並んで三人で笑い合ったりおどけている()が眼前にフラッシュバックする。

 望月が真ん中で右に四十九院、左に朝比奈。

 二人の背の高さで中学の頃のものだとわかった。

 望月は無地のシャツに短パン、四十九院は凝った刺繍(ししゅう)(ほどこ)されたワンピース、朝比奈はシャツにフリルのミニスカートという格好だった。

 両手に花っというのだろうが、あの時にそんな思いは望月に一欠けらもなかった。

 家族、それこそ兄妹、もしくは姉弟のように接し合っていた。

 望月が朝比奈をからかい、それに四十九院が怒り、朝比奈が宥め、また望月がからかう。

 それが三人にとっていつしか日常の風景となっていた。毎日が楽しかった。

 そんな日々が終わり告げるなんてことはないと中学生だった頃は思慮浅く、何の根拠も無く、三人はただそう思っていた。

 その日常を壊した。目茶苦茶にして逃げた。何であんなことをしたのか彼にはわからなかったし、思い出すだけでも胸が刃に刺し貫かれたような痛みに襲われるから、思い出すのも考えるのも放棄して記憶の奥底に沈めていた。


 「何でもない」


 望月は出来るだけ平静を装って言った。


 「ふ~ん。よろしくね」


 ウィンクを一つして通路を隔てて左隣りの席に座り隣になった女子に、よろしくね、と言って小さくお辞儀していた。


 「これで朝のホームルームは終わり、号令っ!」

 「きょうつけーっ、礼、ありがとうございました」


 何がありがとうなのだろうと思いながらもすでに骨の髄まで染み付いた習慣に従うように言った。

 隣の四十九院はお辞儀をするだけで何も言わず、朝比奈はお辞儀をせずに弾けんばかりの元気な声で言っていた。


 この凸凹な感じがこの三人だった。


 三つの部品の凸凹が、まるで予め加工されたように、うまく噛み合い、離れることはなかった。だからこそ外からの強い力によって一つの部品が取り出されたとき残された二つの部品は耐え切れずに壊れたのかものしれない。


 「ここの学校は楽しいか?」


 号令を終えて一時限目までの短い休み時間に入ると、四十九院が訊いてきた。


 四十九院はこちらに顔を向けず、太股の上に手を添えて背筋をピンと伸ばして席に座っていた。

 大量生産の所々錆びている廉価な椅子に座っても、猶四十九院から発せられる深窓の令嬢然とした雰囲気は周りを圧倒して近づけなかった。

 クラスメートの女子は言葉少なに挨拶していくが、近づけない一部の男子はただただ遠巻きから彼女を見てはひそひそと話している。

 朝比奈はというと、その対極で、開けっ広げな性格とイジメを受けていたとは想像できない快活な振る舞いでクラスの女子とすでに打ち解け包囲されていて、こちらもまた男子を近づけなかった。


 「いや、つまらない」


 四十九院の横顔を見ているのも気が引けて、同じように前を向いて言った。


 四十九院はなかなか返事を返さなかった。何秒間か二人とも前を向いた間々じっとしていると、四十九院が口を開いた。


 「お前、変わらないな」


 さらっと言った割に四十九院の言葉はどこか重みがあった。憎しみや怒りといったものの重さなのかもしれなかったし、懐かしみか悲しみかそれに類するものの重さかもしれなかった。


 そう思った所為か、四十九院の言葉は微かに冷たかった。


 「変わっていないかもしれない」

 「そう、鈍感のままだ」


 返事に繋げるようにして四十九院が言った。

 すぐに四十九院の意図していることがわからず固まったが、次の瞬間にはわかった。


 あまりにも自然に訊いてきたために深く考えることもなく答えてしまったいた。

 四十九院と朝日ニアは俺がつまらない高校生活を送っているときに苦しい高校生活を送っていたのだ。

 それなのに、普通に答えてしまっていた。

 そんな自分に絶句して唖然としていた。

 勿論、嘘を付けばよかった、というわけではない。

 答えることに数瞬の逡巡もなかったことにただ唖然としていたのだ。


 「責めているわけではない。それでいいのだ。お前はあの頃と同じでいろ」


 相変わらずこちらを向かずに四十九院は言った。


 「……それはどいう」


 と、言いかけたところで一時限目が始まることを告げるチャイムが鳴った。


 「後は放課後に話す」


 四十九院は革でできた手提げ鞄から筆箱や教科書、ノートを取り出しながら言った。


 「わかった」


 と、だけ言って授業の用意に取り掛かった。

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