表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ソラ  作者: 桜枝 巧
2/5

 ぎこちなくキィをなぞり始める。

 家で練習してきたとはいえ、やはり難しい。

 小さく鳴り始めた音の群れの中にも、ぎこちなさが混ざっていく。

 ちらりと左を見る。

 ぽつん、と一つだけおかれた椅子。近くに放られた真っ赤なランドセル。プールの塩素で少し茶色くなったボブカット、それにしては白い肌。薄いピンク色の唇。

 そして――暗闇をも吸い込みそうなほど真黒な瞳。

 目が合う。

 小学生とは思えない、他のクラスの女の子たちとは明らかに違う、瞳。

 僕の、ものだ。

 僕だけの、少女。

 演奏もどきが崩れていく。

 怪訝な顔をされたので、慌てて楽譜を見る。睨みつけ、必死で読み取り、鍵盤へと刻んでいく。


 二人きりの世界で、とぎれとぎれの音楽を楽しむのが、僕らの真夜中の日常だった。


「ちょいと、ソラ」

「……ん?」

 手を止め、左を向く。音が途切れた。

 生ぬるい風と夏独特の虫の声が二人を包み込む。

 闇色の瞳が僕を見つめる。

 ああ、きれいだ。

「なぁに、サクラ」

 問いかけると、彼女は少し困ったような表情を見せてから、

「それ、シューマン。小犬のワルツ」

と言った。

 背筋が凍りついた。え、あ、と言葉に鳴っていない声が漏れる。

 失敗した。

 どうしよう。

 どうしよう。

 一旦深呼吸をする。吸って、はいて。少し湿った空気が、肺を満たす。

 精一杯の笑顔を作って、やっと口を開いた。

「あー……そうだったね。ごめんごめん。暗がりでよく分からないままに弾いちゃったんだ」

 もぅ、とサクラは口をふくらませた。暗がりの中で、白い肌が少しだけ桜色に染まる。

 それから、

「……いいよいいよ。ソラが楽譜間違えるの、初めてだったからちょっとびっくりしちゃっただけ。弘法筆の誤りってやつ? シューマン、続けて」

 と冗談交じりに言う。

 気を使わせてしまった。罪悪感とともに、ピアノに向き直る。

 それでは、と気取ったように口元を無理やり上げてから、そっと鍵盤に指を置く。

 たどたどしく這わせ、音をなぞっていく。

 必死に和音を見つめる僕に、彼女はそっと呟く。

「ソラ君、私ね、君とずっとここにいたい。ずっと、ピアノで戯れていたい……ずっと……」

 すっ、と静かに時間が止まる。

 夢を見るように瞼を閉じる彼女の台詞を、僕は遮った。

「そろそろ、二人とも帰らなきゃ。ほら、勝手に家を出てきたことも、勝手に学校にしのびこんでいることもばれちゃうよ」

 サクラの表情が少し固まる。しかし、次の瞬間には元の笑顔に戻っていた。

 小さじ一杯分くらいの寂しさを残した笑顔に。

 時間が再び、動き出す。

 そうだね、と言って、サクラはランドセルを背負い直した。

 結局最後まで曲を弾き終えないまま、僕はピアノのカバーをかけた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ