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借りていた本の貸出期間が迫っていたので、図書館に行こうと思った。僕らにはしばらくの間、図書委員の仕事は回ってこないが、たぶん柳は暇を持て余して図書館にいるだろう。もしかしたら、別のクラスの仕事を肩代わりしているかもしれない。図書委員の仕事は、時間を食う割にやることがないのだ。時間があっても何もしない、僕や柳にはうってつけの仕事なのだ。
「あ、谷口くん」
図書館の扉を開けて、聞こえて来た第一声は柳のものではなかった。だが、最近はその声に過剰に反応して硬直することはなくなった。慣れれば、たいていのことは平気になるものだ。
「や、一宮さん」
一宮さんの前で、柳が何やら難しい顔をしている。二人の間にはノートが開かれている。一宮さんも、僕が二人の間に座るのを確認すると、柳みたいに難しい顔をしてノートに目を落とす。が、その輪郭がふやっとしていて、緊張感がやや殺がれてしまっているのがいい感じだ。今日、返しに来てよかった。
「馬鹿みたいにボーっとしてるなら、手伝ってくれる」
ややとげのある声色。今の一言に”馬鹿みたい”という枕詞は必要だろうか。柳の傍らには、「誰でも書ける!脚本術入門」という書籍が僕の方に表紙を向けている。僕はイラつきを抑えるのに労力を使ってしまい返事をすることができなかったため、無言でその本を手に取ることにした。
「脚本なんて、僕は書けないぞ」
「谷口くん、それは違うよ」
と、鋭い口調は一宮さん。
「脚本に必要なのは、たくさんのアイデアと、それを物語に仕上げる技術と、観客の視点。だから、いろんな立場の人が、ひとりでもたくさんいたほうがいい」
それから隣に目をやって、
「って、柳さんが」
僕のいない間に、柳は持論を展開していたらしい。
「書いてあったことをそのまましゃべっただけよ」
と、柳は脚本術入門の本の表紙を、指でつついた。
どいつもこいつも、自分の発言に責任を持たない奴ばかりだ。
僕も椅子を引き出して腰を書けた。隣に座ると、柳は僕の右足を強く踏みつけた。
「どうしたの」
と一宮さん。
「悪い、なんでもない」
「どうしたのかなあ、谷口くん」
と、いう柳が白々しい。手伝ってやらんぞ、いくら僕が優柔不断だからといって。
ともあれ、
「柳、詳しいんだな。こういうの」
「まあ、ちょっとね」
結局、僕は手伝いらしい手伝いをしなかった。話だけは聞いていたので、高校を舞台にした話を作ろうとしていることはわかった。
「時代物とかにしたら、衣装の準備とか面倒くさいでしょ。学園モノなら、制服もそのままでいいし」
だから学園ドラマは量産されるのか。確かに合理的だが、夢のない話だ。
「なるほど」
と一宮さんは感心しきりだ。その素直な精神は本当にうらやましいと思う。
下校時刻が迫ってきたので、話を打ち切って校舎の外に出る。青山と知り合って以来、僕の登下校は、なんだかにぎやかになった気がする。
と、そういえば、
「脚本の話、柳に頼んだのはいい人選だ、って青山が言ってたんだが」
なんとなく口にしてしまってから、異変を感じた。柳と、一宮さんと、僕との間で流れていた会話が一瞬止まる。
「柳さんと青山くん、同じ中学だもんね。柳さん、中学のこと演劇とかやってたの」
と言ったのは一宮さんだ。
「まあ、ちょっとね。……ねえ、なんでそんな意外そうな顔してるの」
僕は全く知らなかった。
「もういいよ、谷口くんは、他人に興味がなさすぎるよ。そんなんじゃ一生友達できないよ」
一宮さんはそれを聞いて面白そうに笑った。柳も、僕もつられて笑ってしまう。柳と青山の過去のことも、少しだけ気になったけれど、今はこの打ち解けた雰囲気を壊したくなかった。
脚本の完成には二週間ほどかかったらしい。僕はその件に関しては、三人で帰ったあの日を除けばノータッチだったけれど、柳からときどき話を聞いていた。
完成した脚本は、ホームルームの時間にクラス全員に回され、それをもとに配役と道具係などの詳細が決まった。青山は監督、脚本が終わった一宮さんと、柳と僕は小道具班になった。
文化祭の準備が本格的に始まったのは、期末テストが終わり、夏休みに入ってからだった。この高校の毎年の慣例らしいのだが、文化祭の準備は夏休みの一カ月弱を使って行うそうだ。せっかくの休みに学校に呼び出されるとは、なんとも損をした気分になる。
小道具班の仕事は、舞台セットの制作だ。用意すべき道具はすべて台本に記されており、僕らは材料を集め、劇に合ったセットを適当に制作する。何か提案があったら青山へ相談、とのこと。監督は大変だ。
柳の言った通り、衣装は制服と各々の私服を使うことになった。それで不自然のないストーリーになっているらしい。小道具班の仕事は、思ったよりも楽そうだ。そのせいか、僕らの班にはまったりやろうぜ、という感じが強く漂っていた。
「本当にこんなのでいいんだろうか」
僕は、机にだらりと突っ伏したまま、通学途中のコンビニで買ってきたチョコレートを口に放り込んだ。校庭では、他クラスの男女の集団が、やけに楽しそうにダンスの練習をしていて、少しうるさい。
「嬉しいくせにさ……」
柳は、窓から校庭を眺めながら、ひとつ大きなあくびをした。材料の買い出し組が帰ってくるまで、あと一時間はかかるだろう。
夏休み中の完成を目指した作業は、非常にゆとりのあるものになった。教室には他の小道具班のメンバー。僕は自分の机でゲームに興じていて、柳は退屈だからと図書館に行ってしまった。なんという自由な空間だろうか。一宮さん含む、制作に熱心な連中は、舞台の練習を見学しに体育館に行ってしまったから、今日はさらにその感じが強い。だが僕はこういう感じが嫌いではない、というよりも心から歓迎している。
結局、今日は昼飯を挟んだ午後の時間は何もせずに終わった。教室の窓から、夕方の赤い光が差し込んでくるくらいの時間になると、
「作った道具、片付けに行こうか」
「そうだね」
と誰からともなく立ちあがる。それに合わせて僕もゲームをスリープモードにしてポケットにしまった。柳も図書館から戻ってきたところだった。
僕らのクラスからは少し離れた特別教室が、文化祭期間の間は物置として使われている。小道具班は10名程度の編成だから、道具を全部運びこむのに一往復で十分だった。
僕がほとんど仕事をしていなかったのをメンバーに見抜かれていたためか、
「谷口、最後の戸締り頼むぞ」
と鍵を渡されてしまった。戸締りをした後は、職員室まで返しにいかなくてはならない。面倒だ。柳だって、仕事してなかったじゃないか。
文句を言ってもしかたがない。埃っぽい室内をぐるりと見回す。他のクラスの作った備品も置いてあって、雑然としている。僕は床に落ちていたガムテープを適当な長さに切り取って、「1-A」と書いた名札を作った。そして、運び込んだ備品に適当に張りつけた。これで、他のクラスのものと間違えることはないだろう。
教室に戻ろうとしたところで、扉のそばに誰かが立っていることに気付いた。
「お疲れさま、最後の片付けをしてるって、小道具の人に聞いたよ」
役者班の練習も、もう終わったようだ。一宮さんは、廊下の窓から差す赤い光を背にして、黒いシルエットにみえた。
「ひどいね、みんな谷口くんだけ置いていくなんて。もう皆帰り始めてるよ。はやく戻ろう」
まあ、それは自業自得だから仕方がない。
「そうだな。劇の方は、順調に進んでた?」
「すごくいい雰囲気でできている、すでに本番が楽しみになってきた」
青山は敏腕監督として、すでに仮想敵を制圧しつつあるらしい。
「これも柳さんと、なにより谷口くんのおかげだと思ってる、ありがとう……」
一宮さんの声は少し震えていた。逆光でその表情は良く見えなかったけれど、肩を震わせ、うつむいているのがわかった。嗚咽。一宮さんはポケットを探ってハンカチを取り出して、目尻を拭った。
「大丈夫?」
うまく進んでいるというだけで、泣くほど嬉しいことなのだろうか。なんだか、自分の仕事に見合わない報酬をもらってしまった気分だ。
「うん、ごめん。困ったことがあって……」
「どうかしたの。話を聞くくらいしか、僕にはできないけど」
一宮さんはちょっと笑った。
「ありがとう、やっぱり優しいね。谷口くん」
一宮さんは一瞬ためらうように口をつぐんで、それから思い切ったように息を吐き出した。
「青山くんのことが良く分からないの」
一宮さんが、自分から青山の話をするとは意外だった。
<そういうのはいい、って言われちゃって>
そう言ったときに見せたのと同じ、淋しそうな表情。
「青山くんは、何を目指しているんだろう」
仮想敵をせん滅しようとしているんだ、と言おうと思ったが、説明できる自信がなかったので、止めた。青山はそのことを僕には話して、一宮さんには話さなかった。それがどういう意味なのか僕にははっきりわからないけれど。ともかく仮想敵は、僕が説明していいことではないだろう。
「僕にもわからない」
「ね」
一宮さんは少し元気を取り戻したみたいだった。
「でもひとつだけわかったことがあって、青山くんは私の考え方が苦手なんだと思う」
どういうことだろうか。
「私は頭が悪いんだと思う」
唐突に何を言うのか。一宮さんの自虐的な発言は初めて聞いた。もしかしたら、知らない方が幸せな事実に触れようとしている気もしたが、興味の方が先に立った。
「どうして、そう思うんだ」
「えっと、私、結構前から青山くんとはうまくいってないと思っていて、向こうも多分そう思っていて、そのときに私がどうしようとしたか」
何を言っているか良く分からないが、話はしっかり聞こうと思う。ところで、一宮さんが、僕との距離を一歩一歩縮めてきているのがなんだか怖い。なんだか、どこかのサスペンスドラマのようだ。
「例えばほら、青山くんが偶然その瞬間に居合わせるタイミングを見計らって」
一宮さんは僕の右腕に軽く触れた。そのまま僕の行動が束縛され、懐から鋭い刃が飛び出してきたらどうしようと思った。
次の瞬間、一宮さんの体重が僕にかかってきた。同時に、馴染みのない柔かい感触と、人肌の暖かさと、甘い香りが一斉に僕を包みこんだ。朦朧とする頭の片隅で、恋愛脳という単語が一瞬閃いて消えた。
「本当は、お互いの違和感をきちんと話し合って、どうすればいいのかを二人で考えるのが一番だと思うんだけど、それをしなかったんだ。気付いた時にはもう遅かった」
「僕は、どっちの考え方も好きだけど」
慣れないやりとりに感情が高ぶる。一宮さんの滑らかな髪が、首筋にすれてくすぐったい。
「私にはよくわからない。なにもかも」
僕は頭がくらくらしていて、それ以上言葉を発することができなかった。
目が覚めて真っ先に視界に入ったのは、薄汚れた天井だった。続いて、仰向けになった僕を、青山、一宮さん、柳御の順番でのぞきこんでくる。状況はすぐにわかった。
「お、起きたか」
「よかった、心配したよ」
実をいうと、運ばれてくるまでの間もうっすらと意識があったのだ。体を動かしたり話したりすることはできなかったけれども。
「貧血にしては、やけに血色がいいねよえ……」
僕はゆっくり起き上った。気分はすっきりしている。
「結構寝たから。たぶん、もう立てる」
一宮さんが保健室の先生を呼びに行って、僕はもう大丈夫だと判断された。ベッドから起き上がって、椅子に置かれた鞄を手に取る。わざわざ、教室からこっちまで持ってきてくれたらしい。
「あ、これ」
と一宮さんが壁に貼ってあるポスターに目をやった。
「ああ、ここにもあったんだ」
と柳が応じる。そのポスターには、白黒の大文字で「古本市」とあり、日時と地図だけが描かれた簡単なものだった。その開催日をよくみると、
「開催日が、文化祭の日程のまるまる被ってるな」
開催日は、9月中旬の金曜日から日曜日にかけて。僕らの文化祭も、まさにこの日にある。
「でも、このおかげでうまく脚本が書けたんだよね」
と一宮さん。同意を示す青山と柳。またしても僕以外のメンバーだけは通じ合っているようだ。今回の脚本には、文化祭をサボって古本市に出かけるシーンでも盛り込んでいるのだろうか。そういえば、図書館にも似たようなポスターがあった気がするが。
またしても僕を置いてけぼりにして雑談が始まるかと思ったが、天井のスピーカーから、郷愁を誘うようなメロディが流れてきた。曲名は忘れてしまったが、長話をしていないで速く帰れということだろう。
話は打ち切り、僕らは帰途に着くことにした。




