海を描く旋律
美しい演奏って、きっと人の心に自分の世界を魅せることなんだね。
一枚の古びた楽譜が私の友人から届いた。
――ショパン、「舟歌」
美しい奏での曲だったと私は記憶している。
“ピアノで船旅に出ておいでよ”
幼いころからピアノが好きな私の為なのか、友人はバースデーカードにそんなこじゃれた一文を添えていた。
カードの裏面にも丁寧に海の美しい絵が描かれている。
水面から差し込む光を反射して、海は目が覚めるような空色と深いコバルトブルーのグラデーションを生み出す。水面すれすれを泳ぐ魚たちは光を受けて、色鮮やかな体を一層美しく魅せるだろう。海の底は、絶えず揺れる光の波で、宝石のようなきらめきを放っているはずだ。私はそれを船から身を乗り出して覗き込んでいる。
弾きたい。
友人の気障な贈り物は私の好奇心を見事に掻き立てた。
居ても立っても居られず、私はサンルームに面した音楽室へと足をのばし――
その扉の前で停止した。
旋律が聞こえる。誰かが音楽室でピアノを弾いているようだ。今日はピアノのレッスンは無く、教え子の訪問の予定はなかった。誰だろうと訝しげると同時に、はっと息を飲む。
低音から緩やかに入り流れるような高音がついで現れる調性不安定な和声進行。演奏されているのは私が手にしている「舟歌」の冒頭だった。難易度の高い転調が繰り返し、それでも柔らかな音がぶれずに紡がれている――まだまだ音の緩急が荒いがかなりの腕前だ。
新しい受講者だろうか。私は小さく笑いを零して、扉に手をかける。
ノブをおろし戸を引いた時、ちょうど曲が中間に差し掛かった。
私は目の前の風景が一変していることに気づき、目を見張る。
サンルームの大きな窓。美しい日の光を浴びてキラキラと輝いている――が、窓の外は一面青。
まるで水の中にいるようなほど真っ青なのだ。
よく見ればきらめく海底と、光を受けて白く輝く魚までもが空を、いや青い水の中を泳ぎまわっている。
部屋の中心に置かれたピアノも海の光と青い水の色を受けて幻想的な姿になっていた。曲はコーダに差し掛かり、いままで穏やかだった曲運びを一変させる。
奇妙だ。この曲は終始優雅な旋律なはず。演奏者はそれを激しく叩きつけるように引き上げている。無茶苦茶だがそれは、目の前の蒼の世界を表現しているようだった。
「あっ」
夢中に弾いていた演奏者はようやく私に気づいたのだろう。曲を終わらせ、まだ最後の一音の余韻が残る中、慌ただしく席を立った。まだ私の目には青い世界が焼き付いている。
「ピアノ、上手な弾き方を教えてください。先生」
呆然としている私に向かって、高等学校の者と思わしき制服を着た少女がぺこりと頭を下げた。
天才とはこういうことを言うのだろう。
私は、頭を下げた少女に微笑んで手を差し出した。
毎度おなじみの描写練習です。
とあるイラストを見ながら書いてみました。情景が浮かべば幸いです。
この先生と生徒……少し続きを書いてみたい気もしますけどね。