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瓦礫の海  作者: 泉柴 圭哉
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さようなら、素晴らしき日々

 

 目覚めると、わたしは水の中にいました。

 

 わたし、陸さんの家に泊まったはずじゃ……。


 視界が水で揺らめいていて、先にあるものがよく見えませんが、どうやらわたしは人が一人入れるくらいの、ガラス張りのカプセルの中にいるようでした。

 水の中にいるのに、不思議と身体は冷えていません。

 でも、口にはマスクのようなものがついていて呼吸はできたので、焦る必要はなさそうです。

 

 私は眠る前の事を思い返してました。

 陸さんにはとても素敵なお父さんがいて、でもそのお父さんはもう死んでしまっていて、彼は悲しいのを必死にこらえるようにして私に話をしてくれました。わたしは、男の人にこんな事を思うのはちょっとどうかとも思うのですが、陸さんがなんだか可愛く感じてしまって、思わず頭を撫でていてーー

 

 それなのに、なんでこんな場所にいるんだろう。それに、何かすごく嫌な夢を見ていたようなーー

 

 でも、私はその夢について何も思い出せませんでした。


 なのに、こんなにも恐怖を感じているのは何故なのでしょう。


 もしかしたら私はもう昨日までの日々には戻れないんじゃないか。みんなにはもう会えないんじゃないか、そんな風にわたしは思っていました。


 だって、おかしいじゃないですか。確かに私は陸さんの部屋で眠りに落ちたはずです。それなのに、起きたらこんな場所にいるなんてーー

 誰かが私をさらったのでしょうか。

 それとも、やっぱりここ数日の出来事は物語プロットの中のもので、それは終わり、そして新しい物語プロットが始まっただけなのでしょうか。


 確認する術は、わたしにはありませんでした。 

 

 そしてわたしは、ここ何日かの、平凡で、幸福な日常を愛おしむように、思い浮かべていました。

 夢中になって食べた味のしない乾パン、潜水艇で見た海の中。街ののどかな風景。優しかった街の人々ーー

 そして、わたしをかくまってくれた、マナさん、親方さん。そして陸さんの顔を思い浮かべましたーー


 水の中だというのに、わたしの目元が熱くなりました。

 

 きっともうあの日々には戻れないのだと、わたしは心のどこかでそう考えていました。

 回想をしていると、どんどん悲しくなっていく、というよりは心が空っぽになっていくようでした。心がきゅう、と締め付けられるようでした。

 

 これが本当の痛みなのかもしれないと、わたしは思いました。

 こんな時だというのに、またわたしは新しい感覚に発見したといえるのかもしれません。

 

 わたしは、気持ちを持ち直そうと、よし、と心の中で声を出しました。もしかしたらここから出られる方法があるかもしれない。わたしは希望を捨てないようにしようと思いました。

 

 それも束の間、ぶにょり、とわたしの身体に何かが触れました。

 

 わたしは悲鳴をあげたつもりでした。


 そもそも水中にいるから当たり前ですが、私の悲鳴は音にもなりません。

 

 足周りに、何か異物が絡みついてくる感覚がありました。

 這い寄ってきたものは何故か生暖かくて、まるで生き物のようでした。

 

 恐る恐る足下を見ます。


 そこには、真っ赤で、ぶよぶよしているのに凄く無機質なーー花虫がいました。


 陸さんは、教えてくれました。これが海の中の唯一の生き物なんだよ、と。

 なんで、こんなものが私に絡みついているのでしょう。ここはいったいどこで、私に何をさせようとしているのでしょう。


 私は怖くて、必死に身体を動かそうとしました。でも全く身体の自由が効きません。まるで自分の身体じゃないみたいです。

 

 私の自分の意志でこの身体を動かせる気がしませんでした。それは、身体が麻痺しているような感じではなくて、ただ、私はこの身体を動かす決定権をそもそも持っていないかのような、そんな何とも言えない気分でした。


 それに、なんでこの生き物を見て、こんなにも怖いと私は感じるのでしょうか。私は潜水艇の中でもこれを見ているはずですが、そのときは別段なにも思うことはなかったはずです。


 本能が、この生き物が這い寄ってくることを頑なに拒んでいる。そんな気がしました。

 

 それに、さっきから凄くぼんやりしています。


 視界はずっとぼやけたままで、気を確かにしていないとこのまま眠ってしまいそうでした。


 意識が、水に溶けていくみたいでした。


 もう、みんなとの楽しい日々には戻れないのでしょうか。

 

 あれーー


 楽しい、事……?

 

 思い出せない。何も連想できないのです。


 記憶がすごく曖昧になっているような気がします。さっきまで、何を考えいたのか、急にわからなくなっていました。

 

 そして、気付きました。

 

 自分の名前を、思い出せませんでした。


 それが例え仮初かりそめの名だったとしても、わたしはみんなにその名前で呼ばれていたはーー

 

 ………

 ……

 …


 みんなとは、誰の事を指しているのでしょう。


 顔どころか、先ほどまで思い出せていたはずの名前が、誰一人として出てこないのです。


 なんで、なんでーー


 おかしい。わたしが、わたしじゃなくなるみたいです。何か、わたしの中の大切な何かがごっそりと抜け落ちていくような感覚。


 まるで、わたしの頭の中のゼンマイが、急にかみ合わなくなってしまったかのように、何も思い出せません。

 

 わたしが、どういう形をしていて、どういう生き物なのか。それさえもわからなくなっていました。

 

 ここで、わたし、といっている、『わたし』は、一体どこにいるのでしょう。

 

 わたしが『わたし』であると決定づけるものが、ここには何もありませんでした。


 それでもわたしは、形あるもの、確かなものが欲しいとーー


 わたしは、もはや自分が何者であるかさえわからなくなってしまったのに、まだ欲望を抱えているのです。

 その欲望だけが、消えかけているわたしを『わたし』としてつなぎ止めている、そんな気さえしました。


 わたしは、まだ心のどこかでは、『わたし』である事を、まだあきらめていないのかもしれません。

 

 それは、きっと、祈りのようなものかもしれません。


 淡い夢は、この水の中で泡のように消えていくかもしれない、叶わない。心のどこかではわかっているつもりでした。

 いえ、わたしが抱いているこの気持ちは祈りのような、崇高なものではないかもしれません。

 それはきっと、もっと惨めなものです、ただ生きたいと、わたしは哀願しているだけなのです。惨めだってかまわない、わたしは自分の心と身体を取り戻したい。


 きっともう目覚めることはない事は、わたしだって理解していました。


 誰だかわからなくなってしまった男の子の顔が、唐突に浮かびました。


『ありがとう』と、『さようなら』を彼に言えなかった事が、何よりも心残りでした。


 だから、どこかのセカイで生きている彼に向けて、わたしは獣のように叫びました。


 ありがとうーー


 さようならーー


 短くも美しかった日々と彼に、祝福と祈りをーー

 

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