聖域はたゆたい、君を迎え入れる 1
幼年期ーー
赤子は与えられたもの全てを、泣き叫び拒否する時期がある。
食事、排泄、睡眠、玩具、そして時には母親の愛情さえも。
それは誰もが通る自我の芽生えの時であり、無意識から解き放たれた心が、少しずつ自己と他者の境界線を作る時だ。
そして物事を考え始めるようになる頃には、その自我故に、少しづつ情報を選別するようになる。
人というのは、五感から生じる全ての情報を、絶えず受けながら生きることは困難だ。
一部の景色を切り取り、表現する。バイアスをかける。
人に愛される為に行動をとるようになる。
画一的な仕草に共感を覚える。
そうやって人は、少しずつ大人になっていく。
しかし、高崎和秀という少年は、そうはならなかった。
彼は歳を重ねても、幼年期の瑞々(みずみずしい)しい感受性は衰えることを知らず、それどころか年々磨きが掛かっているようだった。
彼は空気の匂いや人が聞こえないような音、そしてさらには人そのものや無機物の本質、その全てを色に例えた。
一度、書物の中身を頭の中へ転写してしまえば、その全てを絵として記憶の中へとどめておき、記述する事が出来た。
彼は、凡俗な人間とは違う視座から物事を見ていた。
異質な、才能だった。
代償はあった。
気温や空気の変化に敏感で、やたらと嘔吐していた。
酷い頭痛にも悩まされた。思考速度に、脳の処理が追いついていなかったのかもしれない。
そして、地区の中で迫害された。
平凡な人間たちーー
人並みな思考、生活を持った彼らは、超越物に対して羨望しつつも、その才覚を妬んだ。
いつの時代でも、異端者はつまはじきにされるものだ。
それは人類文明が一度滅びたこの世界でも、全く同じ事だった。
ーーあの子は黄。
ーーあの生き物は青。
ーーあの思い出は赤。
街を歩きながら、凶人のように幼い和秀は周りにあったすべての”もの”の色相を口ずさんだ。
誰もが理解不能な行動だった。
彼は気味悪がられ、遠ざけられた。
まるで生まれてきたことがなにかの間違いだったかのように、彼は誰にも愛されなかったのだ。
せめて、血縁関係がある人がいたのであれば、状況も違っていたのかもしれない。しかし、和秀には両親もいなかった。彼が物心覚える前に、捨てられていたからだ。
それは、貧困な地区にはよくある事で、彼はたまたま街はずれの老婆に拾われただけまだ良かったのかもしれない。
しかし老婆も彼が幼い頃に死んだ。
故に、彼はいつでもひとりだった。
誰もが、紅い海に近寄らなかったあの日まではーー
*
それは、高崎和秀、十八歳の頃の出来事だった。
和秀は街はずれの防波堤によじ登って、紅の海をぼんやりと眺めていた。
潮風が涼しい。
目を閉じると、波の音が頭の中で聞こえてくるような気分になる。まるでそれは小さな箱庭の中にいるようだった。
彼にとって、この海は特別だった。
平凡な人たちは、まるで人血のような色の海を忌まわしきものだと、古来から教えられているから、海に近づこうとさえしない。
海はいつだって、孤独だった。
和秀と同じように。
何より人が誰も近寄らないということは、和秀がその景色を独り占めしているということだ。
もしこの世界の人たち全てが、この海を忌み嫌うとすれば、和秀はただ一人の、海を愛するものだった。
彼は孤独であることに対して悩んだりはしない。
一度も人に愛された事のない人間でも、ものを愛する事は出来る。
もし仮にそうでなければ、彼は生きている意味さえ無かった。和秀には、この世界を、この飲み込まれるような夕焼けの景色を慈しむ感性があった。
和秀は適当な歌詞を乗せた歌を口ずさんだ。
懐古に、触れた
手のひらを握って
近づくたび 離れていく 紅い海
夕暮れで紅い海と空の境が曖昧になる。じっと見つめていると、自分の存在さえも不確かなような気がしてくる。
これは和秀にとって、このからっぽの街の中で、最も美しいもののひとつだ。
ほかのものは、和秀にとって、色相が濁っているように見えていた。
悩みの無いはずの彼は、無意識のうちには様々なものを拒否している。
純度の高い空間を、和秀は求めていた。
自分が吐かずにいられる場所。
頭痛が起こらない場所。
誰もいない場所。
もとよりからっぽな心の痛みより、身体の痛みの方が彼にとっては苦痛だ。
それを癒してくれるのが、和秀にとっての海だった。
ーーこのまま防波堤でうとうとして、眠ってしまうのもいいのかもしれない。
そんな事を考えていると、妙な胸騒ぎがした。
心臓の鼓動が、鼓膜の奥に響いてくるようなーー
「なんだ、これーー」
全身の身の毛が立つような、違和感。自分の身体の皮をはがして、かきむしりたくなる。
なにかが、彼の頭の中に入り込んできたーー
和秀はそう認識した。
まるで脳に直接何かを差し込まれているかのような感覚。
痛みはない。しかし何故か身体がどんどん軽くなっていく。
感受性の高い和秀は、そのありえない感覚の中で、驚くほど落ち着いたままこう考えていた。
他者だーー
他者が頭の中に入り込んでくるーー
それを他者と形容して適切なものか、和秀にはわからない。
流れ込んできたのは、巨大な塊のようなものだった。
いくら感受性豊かな和秀でも、それが果たして実質的にはなんなのか、理解ができない。ただ、その情報の塊のようなものに生命の息吹を感じたから、彼は、”それ”を他者と認識したのだ。
そしてそれは、ひと塊ふた塊と、自分の頭の中へ。
ゆっくりと入っていったそれは、脳内の中枢まで染み渡ってくる。
そこで初めて、和秀は恐怖を感じた。自身の身体の中で起こっている事なのに、何が起こっているのか説明できない事が酷く恐ろしい。
さらには、裂けるような痛みが頭の中で走りだす。
和秀は嗚咽のような、声にならない叫び声を上げて、その場へ手を着けてへたりこんだ。
感情の雄叫びに、この身を引き裂かれるようだ。
生けとし生けるものの想い。
死の恐怖、永遠に生きたいという願い。
愛情と憎悪。
嫉妬と羨望。
さらには、脳の中を埋め尽くすように情報が流れこんでくる。
人類が千年前、犯した事。隠蔽された歴史
その結果、守ったもの。失ったもの。
人類の成果。道の標ーー
全てが、痛みとして、和秀の中へと。
脳の許容量はとうに限界で、痛みは臨界点を越え、頭が焼けるように熱くなる。
身もだえるような痛みの中で、和秀の関心を持ったのは隠された歴史よりも、一体この情報体がどこから流れてくるのか、誰が流しているのかだった。和秀は必死になって考えた。
この、流れ込んで来る異物の大元の場所が、どこかにあるはずだーーそんな気がしていた。なにかを蔦って、相手は和秀の中へ入り込んでいるのだ。
痙攣したかのように動けなくなった身体のままで、どうにか視界を見渡す。
夕凪の海以外は、何もない。
「でもーー」
目をつぶって、脳の回路がショート寸前になることもいとわずに、神経を研ぎ澄ました。
接続されているもの。
妙なビジョンが見えた。
五臓六腑、肉の塊のような、忌まわしき海中の肉片たち。
これは、花虫ーーそしてその奥にーー
「……っつ……海の底に……何かあるーー」
しかも、これはーー
最初、和秀は頭の中を誰かに侵略されているものだと思った。
しかし、違った。
「これは……子供だ」
和秀はつぶやいた。
情報が入り込む度に、自分のものではない悲痛な叫びが聞こえてくるような気がする。
何故か大粒の涙が、和秀から溢れてきた。
頭の中に入り込んできた小さな赤子。
幸福な子宮の中にいたはずなのにーー
ずっとそこにいたかったのにーー
そんな、生まれてきたことを呪う、赤子の泣き声。
和秀は、そんな幼い魂の叫びを身体で一心に受けた。
痛い。すごく痛い。
きっと、和秀が生まれたときも感じたであろう、孤独。
離れたくない。
母胎と繋がったへその緒を切られたくない。
ずっと、ここにいたい。
「……君はきっと親も見つけられずに、このままだとずっとひとりぼっちだ」
まるで、彼女は僕のようだ。和秀はそう思った。
彼は、その他者を何故か彼女と、知らぬ間に呼んでいた。
二人を、紅い海が繋げていた。
霞みゆく意識の中で、和秀は決断した。
「僕は、君を受け入れるよ」
彼女の痛みをーー憎しみを。
「君が生まれてきた事を祝福するよ」
彼女がこの海そのものだとするのであれば、受け入れるのが自分の役目だと、彼はそう思ったのだった。
なぜならこの海は、ずっと和秀の事を癒してくれたから。静かに見守っていてくれたから。
和秀は流れ込んでくる情報体を、抱きしめるように全て受け入れた。
もう、寂しくならないように。
泣きやまない子供をあやすように。
「生まれてくれて、ありがとう」
和秀は、海の中の彼女に祝福の言葉を送った。
そこで、彼の意識は途切れたのだった。




