懐古に触れて 1
親方に休暇を言い渡され、自室に帰ってきた僕は、壁に飾られた絵『少年と宇宙船』をぼんやりと見ながら父さんについて考えていた。
「僕が、前に進む為には……」
ひとりつぶやく。
やるべき事はなんだろう。
わからない。
僕はベットの上でうずくまる。麻のシーツに顔を埋めてみる。雨の湿気もあっただろうし、この間から洗っていなかったから少し湿っていて肌触りが良くない。
未羽の匂いも、もう残ってはいない。
そもそも、もう彼女の香りも思い出せなかった。未羽がいなくなってから1週間近く経つのだ。
「前に進むって、どう言うことなんだ」
同じような言葉を繰り返す。
ただ、このまま部屋でずっと父さんの絵をぼんやりと見ているだけでは何も解決しないことは、僕にだってわかっている。
もう一度絵画を見た。
絵画の中で少年は晴れやかな笑みを浮かべている。
「この少年みたいに、強くはなれないな……」
とひとりごちた。
こんなに沢山の大人たちに見守られて、堂々と故郷を旅立つことなんて、そんな勇気は僕にはない。
そもそもこれはただの絵画だ。
こんな夢物語あるわけがないという気持ちと、父さんがこれを描いた意味を考えると、頭の中がごちゃごちゃになって、わけがわからなくなる。
この絵画を否定すれば、父さんの事を嫌いになれるんじゃないか。そんな事も考えてしまう。
こんなの嘘だよーー父さん。
きっとみんな、この少年がいなくなることを悲しんでいるはずなのに、彼らは大人だから、その悲しみを内に抱えて我慢して笑顔を作っているだけなんだ。
そう思うようにした。
だって、父さんがいなくなってから、僕はずっと過去に生きている。
何にもなくなってぼんやりと過ごした日々も、そして親方に仕事を与えられてサルベージの仕事をし始めた後も、ずっと。
時間は何もかも解決してくれるわけじゃなかった。
ただそのひととき。仕事をしている時は必死だったから、父さんの事なんて考える暇なんてなかっただけだ。
記憶、思い出に時系列なんてないなーー
僕はなんとなくそう思った。
脳という入れ物に入ってしまえば、今までの出来事は脳という同じ入れ物の中に放り込まれるだけ。そして、なんらかの出来事がトリガーになって、まるで最近の事のように昔の事を思い出す。
記憶なんてそんなものだ。
父さんが寝ていた真っ白な病室が、酷く恋しい。
*
僕は宿舎を出て、休日の散歩コースである防波堤沿いの道まできていた。
ただぼーっと歩いていても、仕事をしてればこんな事考えなくてすむのにと、そんなことばかり考えてしまって、すごく気が滅入ってくる。
でもーー
突然、高い防波堤の向こうに広がる紅の海が、僕の頭の中に広がった。
僕の仕事場。
地平線の向こう側まで続く、父さんが使っていた絵の具のアガットみたいな色の海。
その、僕の仕事場である紅っかな海が、死の臭いが漂い油と潮が混じり合った臭いがする海が、僕の過去の記憶を包み込んで見えなくしている。
そんな妄想にかられる。
海の中にいると満たされた気分になった。
甘い懐古に満たされているような気がした。
僕の頭の中にある海から、ふとある人を何故か連想した。
顔も知らない母親だった。
記憶にもない、僕が生まれてすぐに死んでしまったらしい母親。
僕にとって、本当の家庭なら母親から与えられるべき母性的なものは、すべて父さんが担っていたように思う。朝起きたときにリビングから漂ってくる朝食の匂い。洗濯物を広げて伸ばすときの音。夕食の後のたわいもない雑談ーー
父さんの料理はそんなに美味しくなかったけど、台所でこっそりと努力しているのを僕は知っていた。
絵を描く時間がもっと欲しいはずなのに、僕には『家事はいいから、そのかわり本を読んだりしなさい』と言って元気だった頃はほとんどの家事をやってくれた。
いつだっておもしろい話を、次に描く絵の構想やたわいもない話、若い頃に行った街の話をしてくれた。
だから母親がいなくても別段悲しいとは思わなかった。
だけど……
なぜだかはわからない。
華鳥から見た海の中。
どこを見渡しても血みたいな色の海と、朱色の管のような生き物の組み合わせ。それを初めて見たとき、顔も知らない母親のお腹の中、子宮の中を感じたのだった。
もちろん、本当の子宮の中なんてわかるわけではない。
ただ、あの中で、潜水艇『華鳥』の中で海を見ていると、心が安らいだ。癒されたんだ。
華鳥の圧穀内から、あの海の中に飛び込んでいけたら……そんなことを考えた事があった。
僕はおかしくなってしまっているのだろうか。
そういえばーー
未羽は、海の中に対して違う感想を持った。
ここは私の知っている海ではないと。
ーーここから見える景色とは、全然違うんですからーー
両手を大きく広げて、破顔する未羽が思い浮かぶ。
未羽の知っている海はきっと、僕が思い浮かべるようなものとは別の美しさを持っているのかもしれない。
そこに、未羽の思い描く海に、僕は行きたいと切に願った。




