地上1階 1部屋(その2)
お待たせしました(?)
前回の続きです。
「拝見したところマスターはマニュアルを精査することが不得意なご様子。ですので、まことに勝手ながら対話型インターフェイスとしての機能を立ち上げました。――家電製品やゲームなど仕様書を見ないで始められるタイプでしょうか?」
可愛らしく小首をかしげるその女の子。
初対面で勝手に決めつけるな、こら! 図星だけどさ。
「余計なお世話だ、ほっとけ」
別に問題ないだろう、マニュアルなんざ困った時に見ればいいんだよ!
「では改めてダンジョン作成について、口頭でご説明させていただきます。――よろしいでしょうか?」
「よろしくないよろしくない! そーいう話には興味ないんだ、てか親が見たら泣くぞ、こんな朝っぱらから見知らぬ男の部屋で宗教の勧誘なんて。ほら、出てった出てった!」
俺は女の子の言葉を遮ると、その小さくて柔らかい手を掴んで――うっ、女の子の手を握ったなんて何年ぶりだろう。記憶にあるのでは確か高2のキャンプの打ち上げのダンスで……やめよう。これ以上考えると虚しくなる――玄関で靴(これも見慣れない布靴に替わってた)を履いて、玄関ノブをひねってドアを開けた。
「………はァ!?」
この日、朝起きてから何度目になるかわからない、そして最大の間の抜けた声が俺の口から漏れた。
深い森の中、藪の中から角の生えた兎が慌てて逃げ出し、ギャーギャーわめく得体の知れない動物だか鳥だかの声に視線を上に向けると、大きい太陽とそれに寄り添う小さな太陽の二つの太陽が、頭の上で燦々と輝いているのが見える。
「……ウっソ、だろう……?」
地球上ではありえないその光景に、俺はまず自分の正気を疑い。頬をつねった。
……わからん。痛いような気もするし、気のせいなような感じもする。
だが、鼻と肌で感じるジャングルの臭いと湿った腐葉土の臭いはあまりにも生々しい。
試しに近くにあった雑草の葉を引きちぎって見れば、確かに手の中には千切れた葉と青臭い汁がこびりついている。
現実ではあり得ない光景を前にして、あるひとつの可能性を想像した俺の背中に、知らずじわりと嫌な汗が流れた。
「あの、マスター。そこに立っていると危険かも知れませんよ」
女の子の声に振り返り、さらに彼女が細い指で指差す方向を姿勢を変えて見ると、先ほど逃げたはずの角の生えた兎が戻ってきて、目を血走らせ、角を俺に向けてダッシュする体勢をとっていた。
「――どわああああああっ!?!」
ダッシュするのと同時に、慌てて部屋に戻り、間一髪ドアを閉じかける――とほぼ同時に、ドアがぶち破られるような衝撃が襲ってきて、俺は必死にドアを体で支えながら鍵をかけた。
角兎はしばらく体当たりを繰り返していたが、どうにかドアは保ったようで、やがて音も衝撃もやんだ。
「……た、助かったのか?」
安心すると同時に玄関先にへたり込んだ俺を、困ったような顔で覗き込む女の子。
「だいじょうぶですかマスター? やはり説明を聞いてからダンジョン外に出られた方がよろしいかと思われますが……」
その言葉に俺はのろのろと顔を上げ、ふとまだ彼女の手を握り締めていたことに気が付いて、慌てて手を放した。
「ご、ごめん! つい夢中で!」
「――はあ? よくわかりませんが……それでは説明の方をさせていただいて、よろしいでしょうか?」
まだその設定引っ張ってるのか、と一瞬思ったけど、『説明』という言葉の意味がじわじわ頭に浸透してきて、俺は弾かれたように立ち上がった。
「説明! そうだよ、説明してくれよ、なんだここ!? なんだあの動物!? どーなってんだ俺?!?」
大の男がみっともないとは思うけど、ほとんど取りすがるように何歳も年下の女の子に詰め寄る。
そんな普通だったらドン引きするシチュエーションにも関わらず、どことなく嬉しそうな顔で、女の子は部屋の中へと俺を手招きした。
「それでは説明にうつらせていただきます。その前に、こんなところではなんですので、マスター・ルームの中でお話しましょう」
マスター・ルーム?
「ここですが?」
と言って、当然という顔でこの六畳一間を両手を広げて表す彼女。
「……大仰な名前の割にしょぼいよなあ」
「まあ最初ですから」
思わずぼやいた俺に応えて、女の子がとりなすように俺の肩を叩いた。
嘆息しながら、取りあえず俺は玄関先に靴――というか靴の形をした厚布――を脱いで部屋に戻る。
それを見て、彼女の方も軽く小首をかしげ、履いていたローファーを脱いで、丁寧に玄関先につま先を揃えて並べ、ついでに俺の靴も並べ直してくれた。
「――わ、悪い」
「いえ、わたくしはマスターの所有物ですのでお気になさらずに、マスターは鷹揚に構えていていただいて問題ありません」
淡々と既知の事実を告げる口調で答えるその娘だけど、冷静になってくると――あれ? 何か変じゃね? という気分がしてきた。
「えーと、君――」
「奥義書『Dungeon Manual』830083版です」
そーなんだよな。確かに起きたら見知らぬ場所に拉致されていて、なおかつ外には異様な光景が広がり、地球上ではあり得ない動物がいた。これは文句なしにブッチギリで異常事態だと言っていいだろう。
だが、ちょっと待ってもらいたい。
だけどさ、だからと言ってドサクサまぎれにこの娘を奥義書だか魔導書だか、マニュアルだかの精霊と認めるのって別問題じゃね?
ヒバゴンが発見されたからっていって、UFOに乗った宇宙人の存在を認めるのはまた別だろう。
「……なにか問題でも?」
俺の疑いの眼差しに気が付いたのか、怪訝な表情で尋ね返してくる彼女のその態度とか、さっき触った手の感触は間違いなく生身の女の子のものだった。
「――君、本当に奥義書の精霊なの?」
「お疑いですか?」
「まあ……正直言って、信じられん」
俺の言葉に一瞬考え込むような顔をしてから、彼女は無言でその場でくるりと一回転をした。
――おおっ! ミニのスカートがひるがえって白い下……白いページ?
一瞬にして、女の子の姿は消え、その場には先ほど手に取った黒い装丁の本が、踊るようにクルクルと回り、続いて表紙を開くとパラパラと自動でページを捲り始め、最後のページまで行ったところでパタンと閉じて、今度は逆回転にくるりと一回転をした。
すると本が消えて、さっきまで居なかった女の子が再びその場に現れ、俺に向かって一礼した。
「――これで、いかがでしょうか?」
「………………」
うん。これはもう疑いようがないな。
いや、勿論なんかのトリックで入れ替えしてた可能性もないわけじゃない。けど、俺一人騙すのにそんな大掛かりな真似する理由がないだろう。
それなら彼女も外の異常事態同様、超常現象の一種類だと認めたほうがまだしも納得がいく。
「……すまん。疑って悪かった。君は間違いなく奥義書の精霊で、えーとダンジョンマニュアル――」
「『Dungeon Manual』830083版です」
それって製品番号だよなぁ。かといって『マニュアルさん』とか呼ぶのも変だし。
「呼び名とか愛称とかってないの?」
俺の質問に彼女はゆっくりと首を横に振った。
「パーソナルコードはありません。ご不便なようでしたら、マスターが名称を設定してください」
名前か。それも女の子の名前とか、フリーハンドで咄嗟に出てこないぞ。
せめてネットに繋がる環境でもあれば、候補を並べることができたんだけどなぁ。
名前、名前ねぇ……う――ん、あんまり凝った名前だと俺が呼びづらいし、かといって純日本風の名前は本人のイメージとちょっとズレてるし、中二病的ネーミングは黒歴史的に後からダメージが来そうだし。
「…………」
なんか考えるのが疲れてきた。もっと気楽に、奥義書だから『グリリン』。あんまりパッとしない地球人最強っぽい名前だな。パチモン臭いからなし。じゃあダンジョンマニュアルだから、『ダンマル』……ないわーっ!
俺って致命的に名づけのセンスないなー。
とりあえず一時棚上げ……あ、なんか当人が期待して待機の姿勢で俺の返事を待っている。
さすがにあの無垢な瞳を裏切ることはできんわ。えー……くそ、なら830083版だから、『83』……おっ! これいいんじゃないかな? 黒のイメージの本人にも合ってるし、俺も呼びやすい。これでいいんじゃね!?
「名前は『ヤミ』でどうかな?」
「『ヤミ』?」
子供みたいに、一瞬目をぱちくりさせてから、彼女は「ヤミ、ヤミ、ヤミ……」と、うつむいて何回かその語感を確認するかのように、口の中で繰り返していた。
あ、あれ? ひょっとしてハズシたか!?
と、焦った俺を尻目にやおら顔を上げ、
「――ヤミ。良い名前です。これからはわたくしはそう名乗らせていただきます」
にっこり微笑んだ彼女の顔は、出会ってこの方一番可愛かった。
てゆーか、反則級の可愛さだった。
「……あ、ああ。じゃあよろしくヤミ。俺の名は――」
そう自己紹介しかけたところで、「!?」高揚していた俺の気持ちが、急勾配で一気にどん底まで下がった。
「俺って誰だ?! 名前が思い出せ……いや、名前だけじゃない、家族も、生まれも、卒業した学校の名前も、全部思い出せない!?」
他の事――一般常識や有名漫画の内容とか――は普通にわかるのに、肝心の自分を構成する情報だけが思い出せない!
ガラガラと自分の足場が崩れ去ったような絶望的な喪失感に、俺は知らずにその場に前かがみになって床に手を突いていた。