第三話 -決別-
翌日、裕樹は目覚まし時計の音で目を覚ました。まだ夢の世界に縋りつきたいので、布団で顔を埋める。眠い、このまま二度寝でもしようか。ついそんな邪念が頭をよぎるが、今日は特別な日だということを思いだした。どうにか鞭打って立ち上がると、ヒーターに火を点ける。残寒が過ぎ始めた春先だが、さすがに朝だけは冬と同等だ。しばらく手をかざして温まるが、布団に潜った方が暖かそうだ。でも、布団に潜れば眠ってしまいそう。当日にまでなって、失敗をしでかしたくない。
やっと温まってきたので、昨日の着替えを手に取る。さっさと着替えを終えると、荷物の確認に入った。
水筒、弁当、着替え、財布……と、まるで小学生の遠足のような内容だ。その類の外にあるものといえば、昨日の宝石箱だけ。また手にとってみると、吸い付くような独特の手触りがした。もう一度きっちりと見てみると、どこまで見たことがあるような気がした。だけど、それがいつなのかは思い出せない。
「ほんと、何なんだろうな」
何気なく振ってみると、中からば小さな金属音がする。中に何か入っているようだ。気になるので上蓋を引っ張ってみたが、鍵がかかっているのか一向に開く気配はなかった。それ以上はやることもないので待機していると、ノックの音がした。
「裕樹、起きてるか?」
「起きてるよ」
ドアを開けると、昨日と同じくトレイを持った兄さんが居た。トレイの中は、フレンチトーストと卵スープだ。
「ありがと、兄さん」
「別に良いって。さっさと食って、行くぞ?」
「うん。分かってる」
トレイを受け取ると、机はもう片付けてしまったので布団の上に座る。あぐらを組んで膝に置くと、フレンチトーストを口に運ぶ。甘い蜜のような味で、眠気が残る朝にはぴったりだ。あっさりとした卵スープも飲み干すと、朝食を終えた。
「さて、じゃあ行くか」
兄さんはトレイを引き上げると、部屋を出ていく。追いかけるようにカバンを撮り、廊下に出る。兄さんは部屋手前に置かれたカバンを取る。旅行用のカバンのように大きいが、それでもはち切れそうに膨らんでいた。一体何が入っているんだろう? 気にならないこともない。 兄さんの続いて階段を降りると、玄関に出る。兄さんは、居間にトレイを置いてから玄関を出る。裕樹は、その後に追って出た。そこには、父さんと母さんが立っていた。
もしかして見送りに来てくれたのか、と思ったけど違うようだ。その表情は明らかに見送りなんて優しい雰囲気はなく、あるとしたら訴えを起こそうとする原告さえも思わせる。
「じゃあ、行ってくるから」
総兄さんは言って、二人に背を向ける。そして踏み出そうとしたのだが、兄さんの手を、後ろから誰かが引いた。それは父さんで、兄さんは表情を変えず振り解こうとする。しかしどうもかなり強く握られていうようで、振り解けないでいた。父さんは手を引いて、兄さんを側に引く。
「秋陽、本当に行くのか?」
「そうよ、秋ちゃんが行く必要は無いのよ。ちゃんとお母さんたちが仕送りはするんだし、いつまでの家に居ていいんだから。だって、お金なんていくらでもあるのよ?」
そこにたどり着くまでの経路は酷いが、簡潔に引き止めだけとした父さん。それに比べて便乗した母さんの引き止めは、あまりにも酷い。自分の顔が引き攣るのが分かったが、兄さんの顔はそんな物を通り越して、失意さえ感じさせる。父さんはその表情に感付いたのか口を閉じた。だが、母さんは気付かずに、醜い引き止めを続ける。それは段々と形を失い、最後には単なる愚痴としか聞こえなくなる。兄さんの表情も徐々に変化し、とうとう失意さえも感じさせない、無関心になっていた。
母さんはその変化が自分の言葉を間に受けて、意思が揺らいでいるのと勘違いしたんだろう。更に滑舌よく愚痴を零していく。
このままでは危ない。そう感じ、二人の間に入ろうとしたのだが――
「いい加減にしろ」
父さんは母さんを怒鳴りつけた。事の発端はあるが、父さんがこの空気を打ち壊してくれた。その時はそう思ったのだが、違った。父さんの顔に浮かんでいるのは、明らかに二つの感情だけ。その感情は、自分の保身と、母さんがこれ以上愚痴を零したときの、兄さんの怒り。まるで飼い主に嫌われないようにと、取り繕う飼い犬にさえ見える。さすがの兄さんも、それには顔を歪めていた。
「行くぞ、裕樹」
「あ、うん」
二人に背を向けて、立ち去ろうとする。
すると後ろから駆ける音が聞こえ「ちょっと待ッ……」という声がする。また、引き止めようと思っているんだろう。再度引き止めに入ろうとする父さんに、兄さんは向きなおすと、こう言い放つ。
「俺は物じゃない。だから少しは、自分がしたいようにしてもいいだろ?」
そう、問いかけるように言うと、また背を向けて歩き出す。父さんは目を伏せて、母さんはその言葉の意味分からないのか、ただ首をかしげていた。
二人をそのままにして、先へと進む、兄さんの元に向かう。すぐに追い付くが、かける言葉が見つからない。重い沈黙が辺りを包み、打開するために話しかけなければとは思うのだが、どうも見つからなかった。そんな沈黙のまま歩いていると、遠目に駅が見え出した。もう少しで行き着くというとことで信号が赤になると、立ち止まった。
「なあ、裕樹」
突然声をかけられたので、急いで振り向く、すると、兄さんは少し憂鬱そうな顔をしていた。
「さっきはごめんな。俺がもう少し我慢してれば、もしかしたらあの後、あんな別れ方にはならなかっただろうし……」
その声は、とてもくらい。もしかしたら、自分が言わなければ和解できたかもしれない。そう思っているんだろう。でも、きっとそんな事はない。
「大丈夫、気にしてないから。それに、俺だったら絶対手が出てるから……」
「裕樹……」
「だから、謝んないでよ」
――信号が変わる頃にはもうすっかり、陰険は雰囲気は抜けていた。横断歩道を渡り、人気の少ない駅に入る。混む時間帯は嫌なので、兄さんに言って始発に合わせてもらった。その分早起きしなければいけないので面倒だったが、あとのことを考えればこれでよかったと思う。切符を買うと、電光掲示板で時刻を確認する。目的地は、明日ヶ丘という駅だ。細かく言えば、明日ヶ丘にあるマンションだろう。ホームに入ると、椅子に座って電車が来るまで待つ。
すると――
『始発、東関東雪の電車が入ります。黄色い線の内側までお入りください』
そうアナウンスが聞こえると、電車が入ってくる。ドアに向かうと、音を立てて開いた。電車に入ると、網柵に荷物を置いて座る。ドアが締まると、音もなくモーターが動き出して、電車が動く。
ある駅で電車が停ると、何十人もの人が流れ込んできた。通勤ラッシュの時間に入ったんだろう、見る間に電車の中が満杯になり、息苦しい。となりに座り込もうとする奴が居るので、詰めなければいけなくなった。
「兄さん、詰めるよ」
そう言うが、返事はない。兄さんを見ると、腕を組んで眠っていた。朝早かったからか、疲れていたからか。きっと両方だ。朝早く起きて、あんなことがあったのだから当たり前だろう。もしかすると、それ以外にも仕事の疲れがあるかもしれない。それなのに、そんなになることきっと知っていたのに、一緒に来てくれる。本当に、感謝しても感謝しきれない。
よく見ると兄さんの首に見慣れない、奇妙な緑色の太陽のペンダントがぶら下がっていた。
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