第一話 -相談-
そろそろ引越しの準備をしようかと思い始めた、三月の半ばのことだ。新しい生活はどんなものなのか、そんなことを考えながらベッドで寝転んでいると、ノックの音がした。
「はいはい」
父さんや母さんは、丁寧にノックなんてしたりしない。鍵が付いていないのだから、無理やり入ってくるだろう。だからこんな風にノックしてくれるのは、兄さんだけだ。ドアを開けると、そこに居るのはやはり兄さんだった。兄さんは入口から部屋を見渡すと、にんわりと笑う。
「よお、裕樹。そろそろだけど、まだ片付けでないんだな」
「いや、だってまだ越すまで一ヶ月あるし」
「そうなんだけどな……。入っていいか?」
「え、うん。別にいいけど」
兄さんが来るなら、少しは片付けておけば良かった。中途半端に片付けたまま放っておいたから、下手に片付けるよりも荒れている。兄さんはベッドに腰を降ろすと、少し真剣そうな顔でこちらを見た。
「なあ、裕樹」
「……なに?」
兄さんはあまり緊張とかをしないタイプの人間だ。肝心な時に失敗してしまう自分とは全くの正反対な人間だ。なのに、なぜか緊張した表情をチラリと見せてくる。
「裕樹、今度の引越しは俺も着いていこうと思うんだ」
「え、何で」
「いや、あの親の事だからちゃんと仕送りするかなんて分からないし、お前本当に一人で暮らせるのか?」
――確かに、あの親だからきちんと仕送りなんてするのか分からない。それに裕樹はちょっとしたイレギュラーに弱いので、もしもの時には相談役などとして秋陽が居た方がいいだろう。でもそれは、兄さんに迷惑じゃないだろうか。
「大丈夫だよ、俺も向こうで少しは頑張るから」
それを聞くと、兄さんは少し渋い顔をした。
「いや、できれば俺が行きたいんだ。向こうは前に行ったことがあって、旧友も住んでてな。それに仕事柄、都会にある色んな機器が必要なんだよ」
「周辺機器?」
そういえば、兄さんはT企業で働いている。重荷同人サークルやビデオのレンタル。その中にはもちろん成人向けのコーナーもあり、裕樹も若干お世話になったことがある。まあ、いわゆる実体のない企業というやつで、特定の場所に会社を置かず、会議をする時もネット通信だ。最近はその売上を上げるために奮闘していて、最近は色々と機器が必要になるらしい。それも通販では入らない専門的な物が多く、だいぶ不足しているということだ。
「ああ、そういうことね」
でも、さすがにそれだけで来てくれるというのはないだろう。間違えなく、これは付いていくための口実だ。こう言って兄さんは、面倒を見るために引越しに付き合うつもりだろう。
それが分かっていても、断りきれなかった。
「うん、分かった。でもあんまり気を使わないでね? その、俺も少しは成長してるんだから」
「ああ、分かってるよ」
兄さんは、それを聞いて安心したのか笑みを浮かべる。それからしばらくは当たり障りのない会話をして、兄さんは部屋を出ていった。本当に、兄さんにはいつか恩が返せる日が来ると良いんだが。
それからしばらくすると、家の中に兄さんと父さんらしい言い争いの声が聞こえた。それはしばらく続き、急に静まり返る。きっと揉めているんだろう。こんな事、普通はすることじゃない。
それでも、無益な世話を焼くためにここまでしてくれる兄さん。そんな人間に、いつかなれればと、思ってしまった。
9.14 指摘にして頂いた文章の全面的な訂正。
9.17 大規模な改訂。
10.2 更に改訂