バースデイ サプライズ
しょーちゃんが帰ってこない。
お誕生日、いっしょにお祝いしたいのに。
もう日付が変わっちゃう。
お料理がんばったからあったかいうちに食べてほしいのにな。
ようやく仕事が終わった。今日は早く家に帰れそうだ。
このところの仕事の忙しさは尋常じゃない。就職して三年。ようやく責任ある仕事を任されるようになった証か。
深夜に家に出勤し、早朝に会社に帰宅する。おかしな言い方だが会社が家のように思えてくる。本当の家庭がどこかよそよそしく遠くに感じられてならない。会社に泊まり込むほうが楽な気がする。
実際そうしたことも何度かあって、妻の綾華が腹を立ててしまっている。いつだったか帰宅するなり大ゲンカしてげんなりしたものだ。母さんも巻き込んで俺は板挟みになり、大変な思いをしたものだ。おかげでますます帰りづらくなった。
しかし今日は俺の誕生日。祝いたいから絶対に帰ってきてほしいと何日も前から懇願されている。
運の悪いことにチーフの欠勤日と重なり、部下や同僚に無理を言って帰らせてもらった。おかげで借りを作ってしまった。
会社を立てれば家庭が立たず、家庭を立てれば会社での立場が悪くなる。俺の誕生日を会社が祝ってくれるわけではないが、勤め人の苦労を綾華にも分かってほしいものだ。
まあ、専業主婦を望んだのは俺だったが。
俺がガンガン働いて稼げば綾華に楽をさせてやれると思ったんだよなあ、あの頃は。
二つ後輩の綾華とは大学時代に知り合い、俺の卒業と同時に結婚した。綾華は俺と暮らすために大学を辞めた。俺を全力で支えたいという彼女の気持ちに当時は深く感動したものだ。
稼ぎは、それなりにある。子供ができれば苦しくなるかもしれないが、そこそこ満足できている……ハズだ。
家には母さんもいるから家事が辛いことはないんだよなあ。
俺が帰れないのがさびしいなら趣味の一つも持てばいいのに。でも浮気につながるから外にはあんまり出てほしくないけど……って我ながらわがままだな。
なにはともあれ家だ。帰り着いたぞマイホーム。
せいいっぱい機嫌を取ってやらなくちゃ――
「しょーちゃん、おかえり!」
などと考えたのもつかの間、俺がドアノブに手をかける前に向こうからドアが開く。危うくぶつかりそうになり、仰け反る。追い討ちをかけるようにいきなり綾華が抱きついてきた。なんとか踏ん張り、倒れずに抱きかかえる。
「お、おう。ただいま。もしかして玄関で待ってたのか?」
「うん、そうだよー。しょーちゃん、前に言ってたじゃない。『玄関のドアを開けたら妻が三つ指ついて「お帰りなさい」って迎えてくれるのが夢だ』って」
綾華は俺のことを「しょーちゃん」と呼ぶ。これも俺が望んだことだが。舌足らずな喋り方も可愛いと言ったらずっとそのままだ。
「そう言えばそんなことを言ったような……でも三つ指じゃないぞ?」
「しょーちゃんを喜ばすためにはそれいじょーのことをしなきゃーって、ずーっと待ってました!」
「あ、ありがとう。嬉しいよ」
いつから待っていたのか、気になるところだが、聞くのがなんとなく恐ろしい。
「でねー、ごはんにするぅ? お風呂にするぅ? それともー……きゃーっ!」
待たせたことへの怒りなど微塵も感じさせず綾華は笑顔で俺にじゃれついてくる。何と言うか、子犬のようで綾華はやっぱり可愛らしい。
「まず風呂が先かな。綾華はもう入ったのか?」
綾華の身体から石鹸の香りがした。ん、薔薇……かな? 綾華は確か柑橘系が好みだったような気がするが。
「もちろんです! この日のためにがんばってじゅんびしましたっ!」
何の準備だよと突っ込みつつ俺たちは家の中に入った。
こうして家の風呂にゆったりと浸かるのはいつ以来だろう。ずいぶん長く帰っていなかった気がする。
実際には帰っていたのだが、落ち着くということがなかった。
それというのも――
「しょーちゃん、入るよー」
バスタオル一枚の綾華が浴室内に入ってきた。
これなんだ……。
どこにいても綾華はつきまとってくる。俺の安息のひと時を奪うかのように。
そりゃあ最初のうちは嬉しかったさ。愛されてる喜びを感じていたさ。
けれども一人になりたい時だってある。ゆっくりと考え事をしたい時だってある。家にいるとそんな時間が持てないのだ。
「おせなか流してあげるね」
「いや、シャワーで充分だから」
「えー、流してほしいって言ってたのに」
いつの話だよ。付き合い始めた頃だったか。よくもまあ我ながら恥ずかしげもなくそんなことを言ってたものだ。
しぶしぶ浴槽から出て、綾華に背を向けて座る。
「いいこ、いいこ。素直が一番だよ」
後ろから頭を撫でられる。子供扱いされているのが少し腹立たしいが、どうやら満足しているようだ。
急に頭の上からお湯をかけられる。眼球が水に濡れて視界が曇る。予告なしで眼を閉じることができなかった。次いで頭皮をガシガシと洗われる。洗うというよりはむしろ頭皮をはぎ取ろうとしているんじゃないだろうか。それくらい乱暴な手つきで痛みすら感じる。一生懸命なのは嬉しいんだけどな。
「しょーちゃんはこうされるのが夢だったんだよね」
頭を蹂躙されつつ、耳元で囁かれる。
そう、夢だった――ハズだ。
俺の両親は共働きだった。学校から帰宅しても誰ひとり「おかえり」を言ってくれる人がいない。代わりにテーブルの上の五百円か、冷蔵庫に入った冷たい夕飯が俺を出迎える。それらをたいていの場合一人で食べる。テレビの音声だけが虚しく響く。
父が死に、母さんと二人になるとその傾向はますます悪化した。
テレビドラマで見た幸せそうな家族に少なからず憧れた。「ただいま」と言えば「おかえり」と返ってくる。誰かに背中を流してもらう。楽しく会話をしながら夕飯を食べる。一緒に観るドラマについて語り合い、「おやすみ」を言って一日を終了する。大人になったらそんな家庭を作ろうと思った。
けれどドラマはフィクションに過ぎない。成長した俺はそのことを思い知った。
理想を実現するための金と時間が足りない。金を稼ごうとすれば時間を失い、時間を作ろうとすれば金を失う。俺は結局金を選んだ。
俺のいない家では母さんと綾華が二人きり。二人の関係は最悪だった。現実を知りすぎた母さん。俺の理想を実現しようとする綾華。
初めのうちは綾華に味方していたけれど、俺も現実ってやつを知るにつれ、母さんの味方をするようになった。
『あたしとお義母さん、どっちが好きなの!』
『どっちなんて言えないよ。どっちも大好きだし。けど「綾華を好き」と「母さんを好き」の「好き」は違うものだよ』
そんなふうに口論したりして綾華も母さんも俺も少しずつ疲弊していった。もしかしたら俺はそれが嫌で仕事を言い訳にしてしまったのかもしれない。
そう言えば母さんの姿を見ていない。浴室内には母さんの好きな薔薇の石鹸の香りがしているのに。
「石鹸変えたのか?」
「あ、うん。ちょっと切らしちゃったからお義母さんのを代わりに」
前見た時には買い置きはあったような……しかしそれはいつの記憶だろう。家のことを任せきりにしてきたせいか、曖昧だ。
頭を洗い終えた綾華は上機嫌で俺の背中をこすっている。時折豊かな胸を押し付けてくるように抱きついてくる。思わず興奮してしまうが、母さんがいるとしたら、アレだ。すごく気恥ずかしい。
「母さんは?」
ピタッと背中をこする手が止まる。どうしたのか振り向こうとすると、
「おわっち!」
熱湯をかけられた。
「もー、つまんないこと聞かないで。お義母さんは旅行に行きました。聞いてなかったの?」
聞いてない。けど、『子供でもいれば少しは変わるのかしら……』母さんはそんなことを言っていたような気がする。現実的な母さんが折れて、俺と綾華の二人きりの時間を作ってくれたのかもしれない。
だとすれば、だ。
久しぶりに夫婦らしく綾華を構ってやるとしようか。俺は綾華の柔らかな躰に後ろ手を伸ばす。
「はーい。終わったよ」
綾華は俺の背中を流し終えると、さっと立ち上がった。伸ばした俺の手は虚しく空を掴み、空気を揉みしだく。
「あれ? しょーちゃん、もしかして……きゃー! ハズカシー! ううん、嬉しいけど、疲れてるでしょ? 先にご飯食べてお祝いしてからにしよっ!」 綾華はその気になった俺を置いてすぐに風呂場を出て行ってしまった。
……なんだよ、もう。ひとりでに苦笑が浮かぶ。
まあ、綾華の言うとおりかもしれない。今日は俺の誕生日だ。夜は長いし、ゆっくり楽しむことにしよう。
風呂からあがりダイニングキッチンにやってきた俺の眼に映ったのは食卓の上に並べられているのは色とりどりの豪勢な料理の数々。しかし……
「ハンバーグステーキでしょ、生姜炒め、ロールキャベツ、ビーフシチュー、唐揚げ、炙り焼き、みーんな、しょーちゃんの好きなものばかりだよ!」
ほとんどが肉料理だ。いや、すべてか。付け合せの野菜が申し訳程度に感じられる。
確かに俺は肉料理が好きだ。しかし、それだけというのはさすがにきつい。メインディッシュだけ並べられても胃もたれを起こす。
もしやこれは何かの嫌がらせでは……自分でもそれとわかるくらい顔が引きつる。
しかし綾華の表情には屈託がない。堂々として、「日頃疲れているあなたのために腕によりをかけて頑張ってみましたわ」オーラを醸し出している。「スタミナをしっかりつけて、この後の仕事も頑張ってね、うふ」光線をその瞳から放ってくる。
食べる前から胸焼けと吐き気がしてきた。
「さ、座って、座って」
覚悟を決めて綾華と向かいあって座る。グラスに真っ赤なワインが注がれる。
「それじゃあ、しょーちゃん。おたんじょーびおめでとー!」
グラスを合わせ乾杯する。ワインに口をつけて含んだ。
「うっん!?」
匂いがきつい。度数もワインにしては高いようだ。少し飲んだだけなのにむせる。
綾華はしれっとした顔で飲んでいる。俺はこんなに酒に弱かったか? そして綾華は強かったか?
「なんだ、これ?」
声がしゃがれる。胸がかっかと熱い。ワインじゃなくてウォッカかなにかじゃないのか。
「んー、わたしもよく知らないの。お義母さんのオススメだよ」
「母さんの?」
おかしい。母さんもワインに詳しくないはずだ。なんだろう、何か得体の知れない不安を感じる。
「お……」
口を開こうとした矢先、携帯に着信音。見てみると同僚からメールが届いている。
「ちょっと悪りぃ」
席を立ち、綾華から離れて内容を確認する。トラブルがあったからチーフと連絡を取ってほしいとのこと。情けない、俺がいないと何にもできないのか。連絡取るだけなら別に俺じゃなくてもいいじゃないか。そう思いつつも頼られて悪い気はしない。俺がいるからこそ部署は動く。その自負がある。
キッチンから少し離れて、早速チーフに連絡する。綾華の顔色をチラリと横目で窺ったが、特に変わった様子はない。何も言ってこないところを見ると、期限を損ねたというわけでもなさそうだ。安心する。
とは言え、すぐ会社に戻れなどと言われるかもしれないから、その時はどう言い訳したものか――そんなことを考えながら電話をかけた。すると――
キッチンで携帯の着信音。どこかで聞き覚えのある音だ。
綾華が携帯? ずっと家にいるのに? 不審に思って、携帯を耳にあてたまま綾華の方を眺めると、赤い携帯を持って待受画面をじっと見つめている姿があった。チーフのと同型機種のようだ。 チーフはなかなか出ない。呼び出し音が耳にこだまする。綾華の携帯も鳴り続けている。綾華は通話ボタンを押して電話に出た。と同時に俺の方も相手が通話モードに入ったようだ。
「あ、チーフ? ちょっと社の方でトラブルがあったようなんですが」
「はーい。聞こえますよー。しょーちゃん、トラブルですかー。大変ですねー」
「は? あ、え?」
電話口から聴こえて来たのは綾華の声。俺に向かって手を振っている。
どういうことだ? なぜ、チーフの電話番号に綾華が?
「すいません、間違えました」
通話を切る。綾華はにこにこ笑って俺を見ている。
おかしい。昼まではこのアドレス帳からかけられた。チーフが突然番号を変えたのだろうか。いや、それは有り得ない。そんなことをする意味がない。とすれば、
「なあ、もしかしてその携帯どこかで拾ったのか?」
チーフが落としたとしか考えられない。それを偶然、綾華が――
「ん? しょーちゃん、わたしは外になんか出てないよ。しょーちゃんの代わりにこの家を守らなくちゃいけないんだから」
拾っていない、だと? いや、そんなはずは。
「買い物に行くくらいするだろ? この料理の材料を揃えるのに」
「だいじょーぶ! 通販があるのです! ネットで注文すれば家まで届けてきてくれます!」
俺の代わりに「二十四時間家を守り続けてます、えっへん」と言わんばかりに綾華は胸を張って答えた。
つ、妻の鑑と言うべきなのか? 誇るべきなのか、怖れるべきなのか、判別がつかない。
「それじゃ、その携帯も通販で手に入れたのか?」
そんなバカなことがあるはずがないと思いつつ、恐る恐る訊ねてみる。
「ある人が届けてくれました」
綾華は若干声の調子を落として答えた。今までのにこやかな表情から一転、冷たい眼差し。あわせて部屋の空気が冷えたような気がした。
「誰が?」
脇のあたりがじっとりと汗ばむ。さっき風呂に入って温まったばかりの身体から熱が逃げていくのを感じる。
「んふふ。しょーちゃんさー、わたしに隠していることがあるよね?」
口の端を上げて微笑む綾華。しかし眼は笑っていない。食材を前にした時のような冷静さ。どう俺を料理するかの算段をしているかのようだ。
もしかして、あのことを知っているのか? しかし、そんなはずは。外に出ない綾華に証拠をつかむことなど……。
「ねーねー、これ見て」
綾華は立ち上がり、隣の部屋からノートパソコンを持ち出して、画面を俺に向けた。
「ソーシャルネット?」
「そういうんだってね。わたし、しょーちゃんのこともっと知りたくて、これで会社の人たちと仲良くなってみたの。そしたらね……」
まさか。怖々覗き込む。
画面には俺とチーフがラブホテルの前に立つ写真が映っていた。
「あ……う……」
後ろによろめく。違う……違うんだ……。
綾華は画面に顔を向けたまま、呟くように淡々と語る。
「この女の人と毎日徹夜で仕事して、こういう仲になっちゃったんだってねー。会社の人たち、みーんな知ってたよ。写真はセリフまで映んないけど『家まで帰るの面倒だからここで休んでいきませんか?』とかかな? 部署の士気が下がるからわたしの味方してくれるって、教えてくれたの」
チーフは俺より三歳ほど年上。仕事が出来て包容力もある彼女と一緒の時間を過ごすに連れて、俺はたしかに惹かれていった。
ちょうど母と綾華の関係が悪化していて、家に帰りたくなくなっていた頃に重なる。
そう、家庭に安らぎがなかったから魔が差したのだ。
「この女ってさー、ちょっとお義母さんに似てる?」
言われてハッとする。確かに似ているかもしれない。顔や姿がではない。雰囲気がだ。第一線で働いている女性の持つ独特のオーラ。男たちに負けまいとする熱心さ、貪欲さ。俺が幼い頃に見続けた母さんの背中と重なる。女が持つ独特の嗅覚によって綾華は彼女に同じ敵のにおいを嗅ぎ取ったのだろう。
そうか、俺が惹かれたのは母さんの姿を見たからだったのか。おかしなものだ。一人ぼっちで過ごした日々を恨み、自分が築き上げる家庭ではそれと対極を目指したはずなのに満足できず、憎んだ人と同じ雰囲気を持つ人に心惹かれて安心を感じてしまうとは。自分でも気づかないうちにマザコンを発揮していたのかもしれない。
おそらく綾華はそれが気に入らなかったのだ。
それでもなんとか俺を振り向かせようと、俺が語った理想の家庭に向けて努力していたのだ。
綾華を歪めさせていたのは他の誰でもない、俺だ。すまない、綾華。
けど――
「俺は浮気なんかしていない」
綾華の肩をつかんで言う。綾華が振り返る。口を真一文字に結んで、虫けらでも見るような眼で俺を見つめている。彫像のように端正な表情。そこに込められた意志に気圧される。後ろめたさが俺の心臓を抉る。
けれど、怯んではならない。なけなしの勇気を振り絞る。
「正確には浮気しようと思った。実際、彼女を誘ったのは俺だ。綾華の想像に近い感じたで誘ったよ。だけど、この画像の続きは俺が振られたシーンだ。やんわりとかわされたんだよ。それで俺は自分のしたことを後悔した。それで謝罪した。チーフも気の迷いとして受け取ってくれた。それでおしまいだったんだ」
俺は一気に告白した。ありのままに。浮気をしようと思った。けど失敗した。みっともないけど、彼女に告白した過ちを仕事で取り返すつもりになって、彼女に見られているところでは逆に仕事に励むようになった。
結果的に忙しくなり家に帰れなくなった。全ては自分の過ちだが、チーフと俺は綾華が思っているような関係ではない。
自己弁護気味だが、これが事実なんだ。そう言い切った。
綾華の表情は硬い微笑のままだった。
綾華は野に咲く花のような笑顔が素敵な女の子だった。付き合い始めたのもそこに魅力を感じたからだ。
それが今ではどうだ。笑顔の美しさは変わらないかもしれない。けれど家庭という温室に閉じ込めたせいか、野に咲く花の良さは失われてしまったように思える。生身の花から造花のような作り物の笑顔になってしまった。
「あの女もそう言ってたかな」
声に造花の冷たさを保ったまま綾華は言った。
……言ってた?
「チーフと会ったのか? そう言えば携帯だ。話を戻すが携帯をどこで手に入れたんだ?」
俺がそう言うと綾華はにんまりと笑った。ゾクリと背筋に冷たいものがはしる。触れれば怪我をする金属製の造花のような危険な笑顔だった。
綾華は食卓を指さす。
「しょーちゃん、このお肉どうしたと思う?」
肉?
「携帯を持ってきた人がねー、このお肉も持ってきたんだよ。それからこのワインも。しょーちゃんとわたしのためにねー」
そう言えばこれは何の肉なのだろう? ハンバーグのようなミンチからはわからないが、他の料理からすると牛や豚とは少し違うような……。
「わたし、塊から作るの初めてだったから苦労したよー。ネットでさばき方を検索したりして、しょーちゃんをお祝いするために頑張ったんだよー」
まさか……まさか……。身体が震える。ある考えが頭をよぎる。全力でそれを否定しようとするが、目の前の肉と綾華の態度がそれを許してはくれない。
「チーフは……今日……休みだった……」
やっとそれだけ言う。呼吸が苦しい。ほとんど手をつけていないのに胃液が喉の辺りまでせり上がってくるのを感じる。全身から吹き出す汗が急速に体温を奪う。
嘘であってほしい。そんな思いが脳内を駆け巡る。
「ここに……来た……?」
ヒテイシテクレ。オネガイダ……。
綾華はきっぱりと首肯する。アア……。俺は床に膝をついて崩れ落ちた。
「しょーちゃん、この女の人好きだったんでしょー。いっぱい味わって」
絢香の声が弾んでいる。夫の望みを叶える理想的な妻を演じていることへの喜びに溢れている。
何か別の世界の音楽でも聴いているかのようだった。呆然――それだけだった。
空疎な俺の心を想像が埋め尽くす。悪い夢であってほしいと思いつつも確信に満ちた想像だ。 母さんを旅行に行かせ、昼過ぎに家にチーフを呼び出し、浮気について責めたあと何らかの方法で殺害し、ディナーのために解体した。綾華の躰から漂う薔薇の香りは血の臭いを払拭するためのものだったのだろう。
ここまで心を壊していたとは……ああ……ああ……ああ……俺の心も壊れていく……。
虚脱して俺は床に倒れ込んだ。涙が頬を伝いカーペットを濡らす。
もう、何もする気が起きない。
チーフの死を懺悔するしか――
「いやーすごいね、綾華さんは。迫真の演技でしたよ」
……幻聴か。耳に聴こえたチーフの声。
「ありがとうございますー。あなたのシナリオが良かったんですよー」
明るく綾華がその声に答える。
え? 俺は顔を上げて先の声の主を見た。
そこには口元を抑え、笑いを必死にこらえているチーフの姿があった。
「ああ、祥司さん。なかなか面白かったですよ」
どういうことだ? チーフは綾華に殺されたんじゃないのか? 肉にされたんじゃなかったのか?
「そんなにびっくりした顔をしないでください。笑ってしまうじゃないですか。ぷ、くくく……」
「しょーちゃん、実はねー、わたしとチーフさんで企んだお芝居だったのですよー」
二人の女は屈託のない笑顔を浮かべている。思わず見とれてしまうほどに爽やかだ。俺は……どんな顔をしているかわからない。泣いているのか、笑っているのか、きっとヒドイ表情だろう。
「またあんなことが無いように、祥司さんにお灸をすえてやろうと思いまして、それで綾華さんと話し合って、怖い目に遭わせたらいいんじゃないかってね」
「二度と浮気しちゃやだよ、しょーちゃん」
「そうだよ。浮気は綾華さんみたいな素敵な奥さんを泣かせるし、相手の人にとっても不幸の種を蒔くことになるからね」
チーフと綾華は口々に俺をたしなめる。
ハハハ……。もう怒りも涙も出やしない。ただただ、疲れた。何時間も働いた時よりもずっと。
安堵のため息が洩れる。
種がわかれば一安心。冷たくなった生姜焼きをひょいとつまんで口に運ぶ。胃液は本来の役目に戻り、胃が膨れたことで元気も取り戻す。
「俺が悪かったです! すみませんでした!」
膝を折って二人に土下座する。ここまでやられたら恥ずかしいという気持ちも起きない。かなわないと思う。仕事でも有り得ないほど素直な心で謝罪できた。
「どうする、綾華さん?」
「んー、許してあげましょー!」
「だって。じゃ、わたしも許してあげましょー」
誕生日に用意されたサプライズはこうして幕を閉じた。
「チーフ、本当に帰るんですか?」
玄関口で彼女を見送る。
食事も一緒にどうですか? と誘ったのだが、
「二人の邪魔はしたくない。これはわたしのけじめだ」
と断られた。まあ確かに俺と妻と浮気相手が一緒の食事なんて、誰の気も休まらないだろう。笑い話としてきっちり落とすならここらでお開きにしたほうがいい。
「それにせっかく綾華さんが祥司さんのために用意した料理なんだからね。しっかり味わっていただくといいよ、それじゃまた明日」
「はい、けど会社の連中には黙っててくださいよ」
「さあ、それはどうかな。実は何人かに協力してもらったからね。事後報告はしておかないと」
「げ、勘弁してくださいよ」
それじゃ、と手を振って別れを告げて家の中に入る。
温めなおした料理の匂いが奥から漂ってくる。
散々な目に遭ってすっかり湯冷めした上に無性に腹が減った。席に座るやいなや「いただきます」も言わずに肉料理にかぶりつく。
綾華は嬉しそうに俺を見つめる。
そうそう、小さい頃、父さんが生きていた頃に外食に行った時も、こんな風に肉ばかり食べて母さんに微笑まれたものだっけ。それで母さんが肉料理をよく作ることが多くなった気がする。俺が肉好きになったのも母さんと一緒に食事できたからだったように思う。
愛する妻の手料理を存分に味わう。肉ばかりというのが少し残念な気もするが、肉は好きだ。何より綾華が俺のために用意して作った料理だ。これに勝るものはないだろう。
……綾華が用意した? 別れ際にチーフもそう言っていたな。しかし綾華はチーフが持ってきたなんて言っていたような気が……。
まあ、いいか。
勢いよく食べる俺の姿に綾華はご満悦のようだ。食べることで罪滅ぼしができるならいくらでも、だ。手当たり次第に料理を取り、口に運ぶ。
そうして半分くらい食べ終わったところで綾華は言った。
「おいしいでしょ? お義母さんの味がして」
最後のセリフを言わせたいがための作品でした。