壱
二章に突入します。主要人物の登場です。
慶応三年三月。
この時期になると、北国といえど雪の降る日はなくなり、肌を刺すような寒さはまだ少し残っていたがそれでも日が照れば暖かく感じる日が多くなっていた。
蝦夷地にも春を運ぶ風が徐々に吹き始める頃。風は海岸から離れた五稜郭にも流れつき、それに乗って奉行所の空を海鳥達が飛んでいく。
陸二はふと襖が開いた縁側から見える空を見上げた。海鳥達が飛んでいった空はどこまでも青く、冬の間ずっと灰色の曇り空だったためか、より色鮮やかな青色は眩しく感じる。
「蝦夷地にも春が来るんだな」
と、言って直ぐにそれもそうかと思い直し、思わず陸二の口から苦笑が洩れた。
「なんだ、鈴木君は蝦夷に春がこないと思っていたのか?」
側から聞えた面白がる声にはっとして目の前に目を向けると、杉浦が書類を手にしたまま面白そうな顔でこちらを見ていた。杉浦の目の前にいたのだと思いだし、陸二は慌てて頭を下げた。
「いや、そのっ、杉浦様の前で申し訳ございませぬ」
「ははははは! いや、いいさ。こうも天気が良いと思わずぼおっとしちまうよ。ま、春はまだまだ先だがな。しかし、ぼおっとしているにしちゃ、この文書は言い出来だ。さすがだな、鈴木君」
そう言って、杉浦は大きな口をあけて笑うと、手に持っていた書類をぱんっと平手で打った。
「はっ、有難うございまする」
杉浦が笑い飛ばしてくれた事に、苦笑いを浮かべるしかなかった陸二であるが、偽りの無い褒めの言葉に再び頭を下げた。
陸二は無事に奉行所へと勤めていた。試験の結果から漢学の素養を認められ二月二十五日付け、酒井の家来として漢学教授の任に就いた。今では若いのにやり手であると既に奉行所内でも話題の人物になっていた。
対する彦も同時期に無事に奉行所の務めに入っていたのだが、ある意味で話題の人物となっていた。
「そういえば、彦はどうしてる?」
ふと、思い出したように杉浦は言った。
陸二はここに来る前に会った友人の姿を思い出し、思わず溜息が洩れた。
「はあ、今日もあの大きな背を屈めながら板倉の整理に精を出しておりまする」
「ああ。はは、そうかそうか」
陸二の顔色を見て、杉浦もその姿を想像したのか苦笑いを浮かべた。
彦は現在、杉浦付きの小姓兼板倉番という何とも曖昧な役職に就いていた。
奉行の小姓というとまるで将来有望な若手で、将来は杉浦の右腕となるべき優秀な人物のように聞えなくもない。が、彦の場合はそんな理由で小姓に任じられた訳ではなかった。
初めの内は陸二と同じく酒井の家来となり、調役の下っ端として雑事をこなしていた。だが、物を失くすわ、歩けば転ぶわ、文を書かせれば間違えるわと余りにも失敗ばかりが続き、酒井の弁護も空しく、やれる事はないかと他の部署にたらい回しになったのである。だが、何処に行っても結果は芳しくなかった。
結局、奉行所に呼び寄せた杉浦が面倒を見る事となり、彼の小姓という名目に落ち着いたのである。これでも、彦は以前、松前藩江戸屋敷で小姓勤めをしていた。さすがに、以前やっていた仕事であるならできるであろうと陸二も思っていた。
しかし、多忙な蝦夷地の奉行の小姓は江戸松前藩の小姓とは大分違ったようである。あまりにも多忙な仕事にのんびりな彦がついて行ける訳も無く、結局、茶を入れたり書類を各役方に持っていくだけの大した仕事しかできなかったのだ。
結果、彦の一日の大半は奉行所の目の前にある板倉や兵糧庫で物品の整理をする事なったのである。
奉行所の同僚達はそんな新参者を『奉行様が呼んだのは茶しか能がないウツケだ』と笑いとばした。それを聞いた陸二は彦と杉浦の両方を蔑んでいる言葉に頭に血が上った。
余りにも無礼な言葉だと、陸二は笑った同僚達に一言物申してやろうとした。だが、当事者である彦はそれを慌てて止めに入ったのである。
『まあまあ陸二さん、怒らないでください。けど・・・・・・、杉浦様には本当に申し訳ないなぁ』
と、苦笑いを浮かべつつ、自分の事よりも杉浦に対してのみ申し訳なさそうな顔を彦はしたのだ。
本人は無礼な事を言われたというのにまったく気に留めてもいない。陸二がよくよく話を聞けば、そもそも、彦が江戸で小姓をしていた時も初めはそんな事を言われていたという。
本当に、いつも他人の事ばかり気にかけ自分の事は何を言われようと気にしない。この、変なところで懐の広い彦に陸二は時々苛立ちを覚えた。
「まったく、あいつはどうしてこうもお人よしなんだか」
以前の事をもろもろと思い出し思わず杉浦の前だというのに言葉が洩れる。そんな陸二の様子に、杉浦は再び苦笑を洩らした。
「はは、まあ、鈴木君もそう苛立つな。そこが彦の良いところでもある。ま、徐々に仕事は覚えてもらうさ。全く才能がないわけでもない。人より少し覚えるのが遅いってだけのことだ。焦ってもなんにもならん」
「はあ・・・・・・、まあそうですね」
確かに、杉浦の言うとおり。彦は人より覚えが遅いだけでけして出来ないわけではないのだ。その事が分かっているだけに、余計苛立つのだが、それは口には出さずに溜息を洩らすだけに留めた。
と、丁度時を同じくして、奉行所の鐘が朝四つを告げるのが聞えた。
「ああ、そろそろ茶でも飲みたい頃合だ。彦を呼びに行かせるかぁ」
「ああ、なら私が呼んで参りましょう。丁度、板倉に資料を返しに行きますし」
そう言うと、杉浦は頷きかけた。だが、一瞬動きを止めて、そして面白そうに笑って急に陸二を手で制した。
「いや、それにはおよばねぇよ」
「え?」
「そこにいるんだろう? お登美」
「お登美?」
突然、杉浦が縁側の方へと目を向けたので、陸二もそちらへと目を向けた。
いつの間にいたのか、縁側の襖の陰に小さな少女が目を大きく見開いてこちらを覗いていた。それで隠れていたつもりなのか、見ると襖から大分体がはみ出し全く隠れられていない。
「と、父様っ」
お登美は驚いた目をそのままに、少しびくびくとした様子で呟いた。
「おめぇ、また奉行所内をうろうろしてたのか? また邪魔をしたら怒られるぞ。それに、お稽古はどうした」
「きょ、今日はお休みなのです」
意外と、気の強い言葉が返ってきたがその姿は明らかにオドオドとした姿は嘘を言っているようにしか陸二には見えなかった。
お登美は杉浦の二女である。今年で10の歳になるらしい。小柄だが同年代の少女よりは少しぽっちゃりしており、少女らしい丸顔はどこか杉浦に似ていた。そして、その少女の頭には薄っすらと火傷の跡が見える。うまく髪と髷で隠してはいるが初めあった時には思わず目がいってしまう。
やはり女子であるため本人は大分気にしているらしく、箱館に来て一度も五稜郭の外には出た事がないらしい。初めて杉浦の家族に会う前に、余り見ないでやってくれと言われたのを陸二は思い出した。
そんなお登美はやっと襖の陰から身をだし目の前にやってきた。今日は真っ赤な振袖を身に着けている。女性が少ないこの奉行所では大分目立つ。
杉浦は出てきたお登美の嘘が分かっているのだろう。わざと惚けるような口ぶりで言った。
「そうなのか? 俺は今朝、母様に『今日はお登美はお茶のお稽古です』って聞いた気がしたんだが、気のせいだったかぁ?」
「そ、それはきっと母様の気のせいです!」
「そうかぁ? 気のせいか」
必死で言い募るお登美に杉浦は笑いを堪えながらわざとらしく繰り返す。普通、娘がお稽古事を抜け出せば怒るのが父親であるが、杉浦はどうやら違うらしい。逆に、嘘を突き通そうとする娘を面白がっているように見えた。
「そうか。なら、お登美。ここは一つ頼まれてくれないか?」
「な、何をですか?」
笑顔でそういう父親に少し警戒した様子でお登美は聞き返した。先ほどから落ち着き無く手を動かしているため、いつ嘘がばれなかとひやひやしているのだろう。
そんな愛娘の様子がおかしいのか、杉浦が笑いを堪えながら言った。
「ああ、父は茶が飲みたくなってな。ひとっ走り板倉まで行って、彦を呼んで来てくれないか?」
「ひ、彦を? あたしが?」
何故か、急におどおどしだしたお登美に杉浦はわざとらしく困ったように振舞った。
「実は今ぁ、奉行所の皆は忙しくてな。でもどうしても彦の茶が飲みたい。でも、手が放せねぇ。なあ、鈴木君」
「えっ?あ・・・・・・、はい」
突然、声をかけられ陸二が杉浦を見る。今しがた、自分が呼びに行くと言った手前一瞬言葉に窮したが、杉浦の目を見て話を合わせる事にした。
それに満足したように杉浦が小さく唇の端を上げると、何事もなかったようにお登美に困ったように顔を向けた。
「なあ、鈴木君もこう言ってる。今、お前にしか頼めないんだ」
「だ、だけど・・・・・・」
どうしてか、もじもじするように手を前に持ってきて忙しなく動かしている。どうしようか決めかねている様子に、杉浦は残念そうにぽつりと呟いた。
「なんだ、お登美は行けないのか。なら、仕方が無い。奥にいる女中の誰かに頼んでっ」
「行く!! 私が行くわ!!」
「おお、そうか!なら、頼んだって・・・・・・、あいつ、もう行きやがったぞ。ははははは」
将に、風の如しとはこの事か。いきなり自分が行くと叫んだと思うと、お登美はすぐさま縁側を駆け出して行った。一瞬では会ったが、その顔が必死だったように陸二には見えた。
正面に目を向ければ、娘の反応がよほど可笑しかったのか、それとも予想どうりだったのか杉浦は押えていた分もあって、嬉しそうに声を上げて笑っていた。
陸二は呆気にとられたまま目の前で涙まで浮かべて笑う杉浦を見やった。
「あ、あの杉浦様。よいのですか? 登美お嬢様に行かせて」
「ん? ああ、悪いな鈴木君にも協力してもらって。まあ、初恋の娘を持つ親心ってやつよ」
そう言って、再び笑い出した杉浦に陸二は訳がわからないまま頷くしかなかった。
お登美は振袖が汚れるのも気にしないまま、奥向の式台から草履を引っ掛けて外へと飛び出し板倉へと駆けた。奉行所の表側に向い、その先にある松を越えて左手側。そこには三棟の倉が並んでいる。一番左にある白塗り兵糧庫の隣が彦がいる板倉だった。
お登美は走って上がった息をしながら、板倉の側に近寄った。中に人がいるのか倉の門が僅かに開いている。そこから、そっと中を覗いてみた。
(あっ、いた)
中には、ひょろりと背が高い侍が狭い中を小さくなりながらゆっくりとした動きで書物をしまいこんでいた。 その姿は幼いお登美の眼から見ても大分鈍臭く感じる。だが、歌舞伎役者のような整った顔は何分真剣な顔をしているため、妙にちぐはぐに見えた。
お登美は彦にばれないようにそっと中へと身を滑らせた。中は、日陰のためひんやりとしている。書物が多いせいか古い紙の匂いがした。
忍び足で彦の後ろまでお登美は近づくが、よほど真剣なのか一向に気がつかない。だがそれもまた違うようだった。しばらく、じっと様子を見れば彦は書類を戻しながらも、時折手を止めては物思いにため息をついている。
思わず、お登美は隠れていた事も忘れて声をかけた。
「何、ぼおっとしてんの?」
「わ、わあああ」
突然の声に彦は声を上げて見事に二の足を踏んで後ろに転んだ。余りの驚きぶりに、お登美は驚いて駆け寄った。
「ちょ、大丈夫?彦」
「お、お登美さん!? ああ、驚かさないでください」
彦が顔を上げると、少し驚いた様子ではあったがどこかほっとしたように呼吸を整えていた。それを見て、お登美は心配そうな顔をしつつも少し唇を尖らせた。
「ちゃんと声をかけてから入ってきたのに彦が気付かなかったのよ。自業自得でしょ?」
声もかけずにこっそり入ってきた自分を棚に上げてそういうと、彦は驚いた顔をして呟いた。
「え、そうなんですか?」
「そうよ!彦が気をつけてないからよ」
「ああ、それはすみませんでした」
そう言ってゆっくりと起き上がり、彦の太もも位に頭があるお登美に苦笑いする。そして、お登美の言葉にまったく疑いをもっていないのか腰を折り謝ってきた。
お登美はその事に若干後ろめたさを感じるも、それよりも笑った彦の顔を見て思わず頬を染めた。
元々、お登美は父である杉浦から彦の事は以前から話に聞いていた。だが、彦が杉浦に連れられて奥に来たときお登美は会うことができず、その後、彼が帰った後に奥で働いている若い女中達が騒いでいたのを聞きき改めて会ってみたいと思ったのである。
そして、ついには自分で表まで行った。だが、本人が見つからずに奉行所のいたるところをうろうろし、ついには近づくなと言われていた古い倉に忍び込もうとした。その時だった。
『そこのお嬢さん。ここは危ないですよ』
そういわれ、両脇の下に手を入れられ持ち上げられ驚いたお登美が後ろを振り返ると、そこには江戸で見た歌舞伎役者のような男の顔があった。
たしかに、女中達が騒ぐほどの男前であった。それに、背も普通の侍よりも大分高い。なのに、巨漢という事場が似合わない男であった。だが、実際話してみるとその中身は侍の風上にも置けないような情けない男だ。奉行所内でも仕事ができない男といわれ、それでもへらへら笑っている。行動は鈍臭く、十歳以上も年下のお登美に対しても腰が低い。妙に、ほっとけないと思わせるほどに情けない男であった。
だからなのか、お稽古事をしている間にも彦が何かしでかしているのではないかと気になるようになり、あった日の3日後にはお登美は毎日彦に会いに来るようになった。
今も、申し訳無さそうに眉尻をさげて苦笑いしている彦にお登美は少し呆れたように溜息をついた。
「そうよ。ぼおっとして。まさかまた、カウヒーの事でも考えてたんでしょ?もう、あんな不味ものの何処がいいのよ」
「ははは。その説は申し訳ない」
彦は今度はしょげたように眉尻を下げて謝った。まるで捨てられた子犬だ。
その様子を見て、何だが可哀想に思ったお登美であったが、出会ったばかりの頃に飲まされた『カウヒー』の事は今でも忘れられない、最悪の出来事であった。
お登美と彦が出会って少しした頃に、彦が淹れた『カウヒー』をお登美に飲ませてくれた事があったのだ。『カウヒー』は冬の病に聞くと、箱館に来た頃にお登美も飲まされた事があったが、正直好きではない。
何故か、そのまずい薬茶を彦が非常に興味をもっているとかで、奉行所に残っていた豆を貰い、煎じ方を教えて貰って作った物を一緒にいたお登美も飲ませてもらったのである。
彦の茶が美味しいのはすでに奉行所内でも有名であったので、もしかしたら彦の『カウヒー』なら美味しいのではと思って一口飲んだ。
だが、結果はやはり不味かった。
彦も淹れていた時から渋い顔をしていたので、ある程度予想はしていたのかもしれない。お登美が噎せた時は慌てて謝っていた。
「本当に、あんな物飲ませないでよね!」
「ああ、はい。でも、あの時教えてもらった通りに入れたんですけどね。運上所で嗅いだ香りと少し違ったんですよ」
「だから何か渋い顔してたのね! なら、初めから失敗したって言ってよ!」
「いや、飲んでみたら同じかなと思って。いやあ、すみません。しかし、やはり淹れ方が違ったんでしょうね。やっぱりライス殿にちゃんとした、かうひぃを飲ませていただけないかなぁ、なんて思ってまして……あれ?」
と、途中からぶつぶつと独り言のような事を言っていた彦は急に言葉を切ると、突然お登美の方を見て凝視した。急に見つめられ、お登美はまた頬が赤くなる。
彦はそれに気付いていないのか、さらにお登美の顔を除きこんできた。
「そういえば、お登美さん。今日はまたどうしてここに着たんです? お昼前ですよ?」
急に真面目な顔をして言ってきた彦に、お登美はぽかんと瞬きを動かした。
たしかに、お登美はいつも昼が過ぎてから彦の所に遊びに来ていた。というのも、いつもは午前中は学問に勤しんでいるからだ。それに、義母は仕事の邪魔をしてはいけないと止めており、その目を掻い潜って遊びに来ているのでどうしても午後になってしまう。
今日は、その義母がなにやら忙しそうにしていたため、お稽古事を抜け出して彦のところに来る途中に父である杉浦の執務室を覗いてきたのだ。
と、初めポカンとしていたお登美もはっと自分が何のためにここに来たのかを思い出した。
「そうよ!父様が呼んでいるわ!」
「えっ、杉浦様が?」
「うん。直ぐに茶を淹れて着てくれって。他の人が手を離せないから、私に呼んで来いって言ってたのよ!早く、彦。急いで!」
「えぇ!ああ、待ってください」
お登美は慌てる彦の腕を掴んで引っ張り外へと歩き、彦がつんのめり転びそうになるのも構わずに板倉を後にした。