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侍かうひぃ  作者: 夢雲まり
第一章 蝦夷地、箱館
4/8

慶応三年二月四日


春が近いといえど、北の大地はまだまだ寒い。今日も朝からチラチラと雪が降っていた。

厚手の着物を着込み、蓑を羽織って笠を被れども冷たい風が吹けば忽ち体は冷えていく。その上、薄く降り積もった雪の上とはいえ、二日前に降った雨が雪の下で凍っているため、気を抜けば忽ち足を滑らせた。不慣れな歩みは一層冷たさが身にしみる。

慎重に歩きながらも、陸二は横に目をやり堀の中を覗いた。


中は一面、雪に覆われて真っ白になっている。

といっても、堀に雪が積もっているのではなく水が凍った上に降った雪が重なっている状態らしい。よく見れば、雪の上に猫の足跡らしき物も見える。下の氷も厚さがあるのだろう。

ふと、本来ならば外敵の侵入を防ぐ意味での外堀であるのに凍っては意味が無いのではないかと思った。だが、人が乗ればさすがに割れる危険性があるのだろうと直ぐに陸二は考えを改めた。


「陸二君!陸二君!」


自分を呼ぶ声に、陸二は堀から目を離しそちらに顔を向けた。陸二の数歩前には、寄宿先の主人である酒井弥次衛門がこちらを振り向いて立ち止まっていた。


酒井は箱館奉行所で調役を勤めている人物だ。

そんな役職についている人ではあるが、江戸から来る陸二と彦を二人とも快く身元を引き受けてくれた気の良い御仁である。

印象は見た目も口調もどこかのんびりとしていて、どこかの商家や旅籠の主人のように見えなくも無い。本当に役人なのかと初め疑ったほどだ。

そんな酒井は何故か、こちらを向いて心配そうな顔していた。

陸二は急いで近づいた。


「酒井様。どうされました?なにか気がかりな事でも」

「ああ、いや私は大丈夫だよ有難う。いいやね・・・・・・、彦君は大丈夫かなってねぇ」


と、後ろの方を見て酒井は苦笑した。

その時になって、陸二は隣にいたはず人物がいないことに気がついた。

嫌な予感を覚えつつ、酒井が見ている方に視線を向ける。その姿が目に入った途端、思い切り溜息を零してしまった。


二人の視線の先。

雪の中を彦はこちらに向かって歩いていた。そして、何故か大きな上背をゆらゆらと左右に揺らしている。陸二と同じように蓑と笠を着ているが、肌も白くふらふらと猫背で歩いている姿を見ると、どうしても幽霊か雪女に見えなくもない。

そして、ただでさえ彦がつけると棒切れに見える腰につけた二刀は、歩く揺れにあわせて不安定にぶつかり合っていた。

侍の威厳もあったものではない。

これは、けして足元が悪いためではないのだ。

陸二は呆れつつ、彦に向かって大声をあげた。


「ひこぉ!何してる!早く来い!」

「はぁぁい。今行きます・・・・・・。でも、地面が揺れてて」


何とか聞き取れるほどの小さな声が聞えた。

情けない答えに、陸二はよりいっそう大きな声で叫んだ。


「それはお前の気のせぇだ彦!いいから足を動かせ!」

「はぁい・・・・・・今すぐにぃ」


そう言って、彦は僅かに足の速度を速めた。だが、すぐに失速し口に手を当てている。それでも歩を止めないところは懸命な姿であった。

だが、その光景をみて陸二は頭を抱えたくなった。


「たく、あいつはまだ船酔いしてるのか。上陸して何日経ったと思っている」

「ははは。そう言うなよ陸二君。初めて船に乗ったのなら船酔いも仕方がないよ。ああ、もしかしたら陸酔いかもねぇ」

「はあ、申し訳ありません酒井様。ここに来てからというもの無様な姿ばかり」

「いやいや、とんでもないよ。それに、そんなに急がなくても大丈夫だよ。ゆっくり行こう」


そう、酒井は苦笑しながら彦を見ている。その表情に厭味なところは一つも無い。

このように言ってもらうたびに、陸二は申し訳なく思いつつ、本当に酒井の所が寄宿先でよかったと心底思った。

なにせ、あの彦の見ていられない言動を寛容に受け止められる人はそうそういない。


船の上から臥牛山を見たその日。

箱館の地に、陸二と彦が上陸したのは夜も遅くなってからだった。篝火が炊かれた港は、海風もあって恐ろしく寒かったのを覚えている。

そんな中、陸二よりも先に上陸した彦は、何故か数歩歩いてから一歩も動かなくなった。

不信に思った陸二が後ろから声をかけようとした、その瞬間


『揺れている』


と、一言呟くなり彦はふっと糸が切れたように地面にぶっ倒れたのである。

さすがの陸二も驚いた。

陸二の声に周りに居た船乗りや江戸から一緒に来た者達も気がつき一時場は騒然となった。とりあえず暖かい小屋の中へと運ばれたが彦の顔は真っ青で、まさか悪い病にでもかかったのではないかと陸二は大層心配したのである。

だが、到着した医者が告げたのはただの船酔いによる過労。

それを聞いた途端、陸二は寝ている彦に向かって思わずいつもどおりに叱り付けてしまった。


結局、酒井の使いの者が迎えに来たため、駕籠を用意してもらいそれに寝ている彦を押し込めて、酒井の家に到着した。

さすがに、到着早々倒れている彦を見て驚いていた酒井であったが、理由を聞いてすぐに養生しやすい環境を整えてくれた。

そのお陰か、翌朝には彦も無事に目を覚ました。

しかし、そこからもやはり彦である。

船の上の名残からなのか、あれからずっと『地面が揺れている』と言っており、それは今でも治っていない。時折、今のように船の上にいる時と同じように酔っている。いい加減、治ってもよさそうなものだが、どうやらその辺りも鈍間のようであった。


と、そんな遅い彦の歩みでも何とかして陸二達に追いついてきた。

近くにきた彦の顔は真っ青だ。呆れていたのも忘れて、思わず心配になる。


「おい、彦。本当に大丈夫か?お前は屋敷に戻って休んだほうがいい」

「いえ、大丈夫です・・・・・・陸二さん」


そう言う顔はまったく大丈夫そうではない。酒井も苦笑を引っ込めて本当に心配そうに顔を覗き込んでいる。


「彦君。無理はしなくてもいいんだよ。面会はまた後日にしても」

「いえ、酒井様。唯でさえ、私のせいで今日にしてもらったのに・・・・・・。また、後日なんて・・・・・・できません。ほら、こうやって新鮮な空気を吸えば大分いいですから・・・・・・」


と、深呼吸をするように大きく息を繰り返す。たしかに、大分顔色がよくなるようだ。

彦も情けなくはあるが笑みを見せる。

酒井は心配げな顔をしたままただが、その顔を見て少し納得したようだった。


「そうかい?なら良いんだが。でも、本当に具合が悪くなったら言うんだよ」

「はい。お気遣いかたじけのう御座います」

「ふむ。では、参ろうか。着いたら少し休ませてもらうといいよ」


何処までも気遣いのできる御仁である。その事に深く感謝しつつ、陸二は力強く頷いた。


「はっ、ではそうさせていただきます。参りましょう。彦、行くぞ」

「はい、陸二さん。今度はちゃんと付いていきます」


陸二が顔を向けると、具合が悪そうにしつつもしっかりと顔を引き締めて彦が頷いてくる。

どこか不安を覚えさせるものだったが、三人は目的地を目指し歩を再開させた。




今日は五稜郭へと向かっていた。

向かっているといっても先ほどから歩いているのは、その五稜郭の堀の外である。

酒井の屋敷は五稜郭の裏門にある区画にあり、今は反対側にある正門を目指して歩いていた。


五稜郭は日本初の西洋式城郭であり、外郭の姿はその名の通り五稜(星)の形をしている。

できる事なら上からその姿を見てみたいものだが、できないことは仕方ない。

元は臥牛山の麓にあった奉行所だが、水不足な土地と大砲の目標にされやすい場所のため内陸にある湿地であったここに安政四年に築造された城だ。


夢にまで見た、蝦夷地箱館奉行所。

今現在、国の中でも外国諸国と渡り合う重要な場所である。その事に、陸二は胸が興奮するのがわかった。


ふと、横を見れば顔を真っ青にして歩く彦がいる。まだ具合が悪いのか、時折口元を手で押さえていた。

相変わらず情けない姿に呆れるも、彦のお陰で今こうして陸二はここに立っていられるのだと思い直した。


それは一年と半年ほど前。

俄には信じられない話であったが、彦は現在の箱館奉行に呼び寄せられたという知らせが入った。

なんでも、その人物は彦の長兄とは旧知の仲で、一度、江戸松前藩邸で彦とも会ったことがあるらしかった。

その時に、何故か大層彦の事を気に入ったようで、箱館に来て働かないかという打診があったらしい。『何故あの愚弟が』と陸二に話をした葛葉家の長兄も終始首を傾げていた。


だが、一方で当の本人に話を聞くと全く身に覚えがないようだった。

今からその人物と会うのだが、果たしてこの彦が思い出せるのだろうかと、内心、陸二はひやひやしている。

そんな、弟である。

長兄も一人で行かせるのが余程心配だったのか、前々から蝦夷地に興味を抱いていた陸二に付き添ってくれないかと打診してきたのだ。

もちろん、陸二は即断し承諾した。

彦の面倒などいつもの事であったし、家の者達も陸二が前から蝦夷地へ行きたがっていたのを知っていたため反対する事もない。迷う必要などまるでなかった。


と、過去を振り返っている間に目の前に二つの橋が見えてきた。

丁度、五稜の稜堡(突角)の部分らしい。堀の中に半月堡塁があり中の城郭とを繋げているようだった。

前を歩いていた酒井が後ろを振り向いた。


「陸二君、彦君。手前が一の橋、奥が二の橋と呼ばれています」

「酒井様、この先が正門ですか?」

「ええ、正門へ入るにはこの橋と堡塁の反対側にもう一つあります。あとは裏門と東側に門が一箇所ずつ、全部で三箇所です。今日は正門から入りますが、お勤めするようになったら裏門から入っても大丈夫ですよ。彦君もその方がいいでしょう?」


酒井が微笑むと、彦は青白い顔のまま情け無さそうに頭の後ろに手を当てながら苦笑した。


「はい。その方が助かります」

「お前はそれでも迷いそうだがな」

「陸二さん、さすがに私でもそれはない、と思います・・・・・・」

「そこで自信を無くすな、彦。しかし、こうして改めて拝見すると本当に攻めにくい造りになってますね。死角がまるで見当たらない」


其々の稜堡、堡塁には警備の者そして大砲が備えられるようになっていた。何処にいても彼等の存在が見えている。敵が攻めてきたとしてもすぐに対応が可能だ。まさに、戦にはうってつけの城郭である。。

改めて回りを見つめる陸二に酒井は優しく頷いた。


「そうだね。この箱館は長崎や下田と並んで、異人が多い街だ。いつ何が起こってもおかしくない。でもね」


そう言い、酒井は少し寂しそうに大手門に目を向けた。


「私はこの城郭がその力を発揮せずに済むようにあるのが一番だと思ってるよ・・・・・・さあ、立ち止まっては体が冷えてしまう。行こうかね」


そう言って、酒井は再び歩き出した。

陸二はその後ろ姿をじっと見つめた。先ほど、話をしていたときの酒井の顔がどこか不安そうだったのは気のせいだったのだろうか。やはり、調役ともなれば思うところもあるのだろう。


と、気がつけば同じように彦が陸二の側で立ち止まっていた。ちらりと顔を向ければ、同じように酒井の後ろ姿を見ているようだった。


「彦?」

「私も、酒井様と同じです。そうなればいいなと思います」


そう言って、彦は先に歩き出した。

今のはなんだったのだろう。

いつもの腑抜けた顔ではなく、珍しく真面目な顔をしていた。思わず、陸二は驚いて彦の背中を目で追った。


「陸二さん?」


着いてこない陸二にを心配してか、彦は不思議そうに後ろを振り返った。その顔はいつもと同じどこか情けなさを漂わせている。


(まったく。あいつの本性はどこにあるんだか)


驚きを締め出すように肺から息を吐き出した陸二は主人を待つような犬の顔をしている彦の元へと歩き出した。



二の橋を渡った先には、黒い小ぶりの大手門があった。

酒井の先導により門から中に進む。少し進んだ先の門番所で身分などを確認されてから、陸二と彦は中に入ることを許された。

そこを過ぎると、目の前に石垣が見えた。

高い。やはり、侵入された事を考えられたのか建物の姿はまるで見えなかった。

そこを酒井に着いて左に曲る。最初に目に入ったのは赤松だ。その奥に黒壁の倉があった。全部で三棟並んでいる。

それに目を奪われ、すっと右側に目を向け思わず陸二は声を上げていた。


「ほお、これは立派ですね」


その声に同じく倉を見ていた彦も振り返り、大きく目を見張りポカンと口をあけて上を見上げた。


真っ白な世界の中。まず目に入ったのは天高くそびえる櫓であった。

左右に大きく広がる赤茶色の瓦屋根。まるで此方に迫ってきそうな印象を受ける。

全体的に黒いためか、雪の白さと相まってより鮮明にその姿が目に焼きついた。

壮大な屋根の下に大きな式台があった。おそらく重鎮を迎えるためなのだろう、周りを赤松が囲みその荘厳さをより引き立てている。

呆気に取られたまま歩いていると、前を行く酒井は誇らしそうにくすりと笑った。


「ここが、箱館奉行所です。地元の人は、ここら辺の地名から柳野城と呼ぶ者もいます」

「柳野城?」

「ええ、ほら。ここら辺いったい猫柳が沢山群生していたでしょう?ここらは柳野と呼ばれてるんですよ」


そう言われて、先ほどまで歩いていた道を思い出す、確かに柳の木が多く生えていた。


「そうですか。民にも親しまれているんですね」

「まあ、そうであってほしいと思っていますよ。さあ、奉行が待っています。行きましょう」

「はい。彦、行くぞ・・・・・・って、ん?」


気がつけば、また彦は横にいない。

具合が悪くなったのかと後ろを降り向く。

そこには、まだポカンと口をあけた長身の侍が目を輝かせて奉行所を見つめて立っていた。

先ほどまで具合が悪そうにしていたのが嘘のようだ。子供のように見つめる顔は本当に間抜な姿である。だが、そんな素直なところが彦の良い所だ。

陸二も、呆れつつも自然と口元を綻んだ。


「たく、あいつは何やってんだか・・・・・・」

「おやおや、彦君らしいですねぇ」


酒井も声を出して苦笑いしつつ、まるで子供を見るように微笑ましそうに彦に向かって声をかけた。


「彦君。行きますよ!」

「彦!何、ぼぉっとしてんだ!」


その途端、彦ははっと我に返ったようで、慌てて此方に目を向けて走ってくる。その姿は本当に大きな子供か犬のようだ。


「す、すみません!」

「あっ、お前!急に走るとっ」

「え?あっ、おわ」


陸二が声をかけたのも空しく、彦は見事に雪に足を滑らせて転んだ。

やはり、どこまで行っても彦は彦である。そう思い、陸二は苦笑しながらも助けに行くのであった。


大分、のんびり進んでおりますが気長に付き合っていただけると有り難いです。

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