壱
その灰色の冬の空は、まるで別世界に来たようだった。
どんよりとした重たい雲を鈴木陸二は顔を上げて眺めていた。
船の甲板に立った顔を冬の突き刺すような冷たい風が吹きつけていく。ふっと吐き出した溜息ですら白い息へと変わり後ろへと流れていった。
江戸にいる時よりも着込んでいるというのに、外に出るとまるで役にたたない。体中を針のような鋭い冷たさが襲ってくる。長い時間この場に立っていれば、いずれ凍りつくのではないだろうか。
つい数ヶ月前まであった月代の頭部をそっと手で触れた。今では頭皮を守るように毛が生えている。初め月代を辞めろという指示の意味がまったく理解できなかったが今更ながら、反発せずに良かったと身にしみて理解できた。
海へと視線を向ければ、そこは灰色を写し取ったかのような津軽海峡が広がっていた。
その中を、木造のスクーナー型西洋船はどこまでも続く霧に向かって進んでいく。日本で始めて作られたこの船は今までの日本の物とは違って足も速かった。風も強く波も高いが、その中でも難なく進んでいく。
だが、船の中は散々だった。出発した時はまるで天地がひっくり返りそうな程に揺れ、大層難儀した。
さすがの陸二も内臓が全て飛び出すかと思ったくらいだった。甲板に出た中には危うく海に落ちそうになった者さえいた。
江戸の海とは違い、黒にも近い群青色の海は見ているだけでも凍えそうだ。もし、ここで船から海に落ちようものなら一瞬の内に死んでしまうだろう事は容易に想像できる。
今日は比較的穏やかな方だ。波は穏やかで風も死ぬほどに寒いが強く吹き付けてはこない。
海面を覗き込めば、甲板にぶつかった波からは白い泡が生まれているのが見える。それは、すぐに飛沫を上げて消えていった。
あたりには真っ白な景色が広がり、波音だけが響き渡っている。その寂しげな光景に、より一層凍りつくような寒さが増す心地がしてならなかった。
「お、おえぇえええ・・・・・・」
「・・・・・・」
だが、その音をかき消すような声が直ぐ側から聞えた。
厳粛な波の音に被せてるように、なんとも情けない声が響き渡っている。陸二は思わず眉間に皺を寄せて溜息をついた。そして、止まっていた手を再び動かす。
その手の先には大層背の高い侍が甲板から海に身を乗り出し、見るに耐えないほどに苦しげな顔をして嗚咽を繰り返している。
陸二はそんな男の背中を摩りつつ、心配に思いつつも呆れた顔をした。
「おい、彦、大丈夫か?」
「あ、だ、大丈夫です。陸二さっ、うっ」
そう言って、ちらりと笑顔を見せた葛葉彦左衛門はすぐに青ざめた顔をし、口を押さえて再び海の方へと身を乗り出した。高い背を小さく折り曲げている姿はより一層情けなさが際立つ。
見た目だけならば彦は申し分ない男だ。
船の縁を掴んだ両腕はすらっと長く、身長など陸二の頭一つ以上高い。その面構えは平常時では歌舞伎役者のような男前な顔をしている。肌なんか女が羨むほどに白い。
ちなみに陸二は平均的な男の長身と体躯だ。顔も人並み。人と違うといえば少し垂れ目であることだろうか。幼い頃は甲高い声で喧嘩していたために柴犬だとよく例えられた。
ちなみに彦は今でも大きな子犬のような奴だ。
そんな風に言われる彦は、言葉通りに男としてはどうかと思うほど情けなかった。
頭は消して悪くは無い。
だが、とにかく何をやらせても不器用な男であった。
一言で言えば他人よりも鈍間なのである。
勉学するにしても、覚えるまでに相当な時間を要した。最終的には確実的に覚えるのだが、その覚えるまでが遅い。剣術にしても、大きな上背があるため体格的には人より有利なはずなのに、なぜか竹刀を持ったばかりの子供にすら負けてしまう。
その割りに何事も長続きするせいか、数年前まで本当に女のように細い体は今では細いながらもそれなりに男らしい体つきと顔つきになった。
だが、それでもやはり人よりは何事も劣っていると言ってよかった。
いずれにしても、その他も同じような結果だった。
彼が人並み以上に出来る事といったらお茶汲み位だ。彼の入れたお茶は江戸に居たころも評判が何故か良かった。
だが、そんな彼を同年代の者達は蔑んで『茶汲み侍』と揶揄して呼んでいる。
そのことに陸二は眉を潜めていたが、当の本人はそんなふうに呼ばれてもただ笑っていただけなのだ。
別に諦めているわけでも、自分を卑下しているわけでもなさそうで、本当に気にしてないようだった。
そんな風に笑い流せる、大きな器を持ち合わせているのではないかと陸二は思う事もあっていた。
そんな彦と陸二は幼い頃に武士の子供達が通う私塾で出会った。
初めて会った時はなんと間抜けな奴だと思ったが、呆れながらも、ついつい何かとこんな風に世話を焼いてしまっている。
どんなに失敗をしようと、一生懸命やっているのがわかるため憎む事もできない。
そう思わせる変な魅力を放つ男であった。
だが、こんな姿を見る度にあれは思い違いだったのだろうかと一瞬思いなおす事もあるのも、また事実である。
まだ嗚咽を繰り返す友人から目を離し、陸二は再び溜息をついて顔を上げた。
相変わらず目の前は真っ白な霧が広がっている。この霧は何日も前から続いているようで、出航したときも本当に目的地に向かっているのかとつい疑いたくなるほどだ。
と、急にその白い霧がすっと晴れた。ぼんやりと見えてきた海の向こう側に陸二は目を輝かせた。
「彦!見てみろ!」
思わず摩っていた背中をバシバシと叩く。
その途端、彦は苦しそうに激しく嗚咽をした。だが、陸二はそんな事にも気付かず目の前の光景に視線を奪われていた。
「おい!彦!早く見ろ」
「陸二さん~、ひどいですよぉ」
「良いから見ろ!見えたぞ!」
「な、なんですかぁ」
やっと嗚咽が収まったのか、げっそりとした顔で彦は体を起こした。
と、目の前に見えた光景を目に留めた途端、それまでの具合悪さなど忘れてしまったかのように惚けた顔をして、目を輝かせた。
その様子にくすりと笑いつつ、陸二もその光景に再び目を向ける。
群青色の海の彼方。
霧が晴れたそこに、雄大な臥牛が悠然と大海原に横たわっていた。
その姿は、まるで海の主であるかのように船に向かって立ちはだかっている。その話に聞いて待ち望んでいた光景に、陸二は興奮を覚えると同時に畏れの様な気持ちが湧き上がった。
自然と頬は緩み、顔がにやつくのをやめられない。
と、臥牛の上空の雲が割れ光が差した。その光景に思わず息を呑む。
太陽の光が雄雄しい牛の背を照らし、何筋かの光の道が幻想的な光景を作り出していた。それはまるで、仏か神が光臨するかのように神々しく素晴らしい。
彦も陸二も、呆然とその光景を見入っていた。
その顔は自然と喜びと歓喜に溢れ出ていた。
「あれが臥牛山だ。あれが蝦夷地だ。彦!箱館に着いたぞ!」
「はい!やっと着きましたぁ」
興奮した陸二の声に、彦も夢見心地のまま答えた。
帆の上からカンカンという鉄板を叩く音が聞こえてきた。気がつけば、いつの間にか甲板には他の船員達も出てきている。
皆、同じように臥牛山を見つめ、同じように興奮していた。その顔からは無事に旅を終えて辿り着いた事への喜びが溢れている。
と、頬に冷たい物が降れて陸二は空を見上げた。彦も同じように顔を上げ、両手を広げて天から舞い降りている物を受け止めている。
見上げた灰色の空からはチラチラと雪が降ってきていた。
慶応三年、一月末。
葛葉彦左衛門と鈴木陸二は一ヶ月に及ぶ、長い旅を終えて蝦夷地、箱館に到着したのである。