始
その日は、例年にないほどの茹だる様な熱い夏の日であった。
杉浦誠は友を訪ねて江戸松前藩上屋敷を訪ねていた。
実に久しぶりの再会である。
今回、江戸を離れる事になることが決まらなければ、あと数年は会う事がなかったかもしれない。そんな、旧友であった。だが、待てど暮らせど友は未だに現れない。
すでに、客間に通されて半刻ほどが経っていた。
その間、杉浦は背筋を伸ばし黙って座敷に座っていた。
普段ならこれ位の刻限を待たされても、杉浦にとってはなんの障害にもならない。しかし、それがこんなにも苦痛な日がこようとは、杉浦はこの日まで思いもしていなかった。
きっちりと着こなした着物の下は、将に先日立去ったばかりの梅雨が再来したかのような状況であった。
額からはひっきりなしに汗が流れ落ち、首筋を辿って流れ落ちていくのがなんともいえない不快感である。
客間の縁側は風を通すために開け放たれていたが、その風が今日に限って一切流れてこない。庭に目を向ければ、普段は涼しげで美しい光景も熱気で陽炎が立ち昇っていた。
そんな状況の中、さすがの杉浦も我慢が限界に達した頃だ。
やっと、この部屋に向かって廊下を誰かが歩いてくる音が聞こえてきた。
「やっと来たか。ずいぶん待たせやがって」
数年ぶりに再会する友の顔を思い出しながら、そんな悪態をつき杉浦はどんどん近づいてくる音に耳を澄ました。
と、その音に妙に違和感を覚えた。
床をするように来るその足音は、妙にゆったりとしていた。いや、むしろ恐る恐る慎重に足を運ぶような引きずるようなそんな足取りに感じられる。
今日、会いにきた旧友はどちらかというとせっかちで足早に歩く男だ。
一瞬、ならば屋敷の女中だろうかとも思ったが、それにしては危なっかしい足取りだと感じた。
怪訝に思いながらも、杉浦はその音が近づいてくるのをじっと待った。足音が聞えて大分時が経ってから、やっと杉浦のいる部屋の前で止まった。
「し、失礼いたしますれ」
舌を噛んだ。
声は甲高い。だが、女性のものではなく、どちらかというと少年の声であった。
杉浦はゆっくりと廊下の方へと目を向けた。そして、そこに座る少年の姿を見て思わず目を見開いた。
そこにはなんとも頼りなげな小姓侍がいた。
まず、目に入ったのは肌の白さである。女子かと思うほどの、白粉をはたいた様な白さであった。
日が照る夏の日がもう何日も続いているというのに、目の前の少年は何処にも肌が焼けたような様子がなく、どちらかというと青ざめているようにすら見える。
腕は本当に男かと思うほどほっそりと長い。一瞬、侍の格好をした女人なのではないかと疑ったほどだ。
だが、上げた顔はまだ幼さが残るとはいえ男前な顔つきである。それこそ、女達が好みそうな細面で、将来有望な二枚目歌舞伎役者になれそうだ。
杉浦が呆気に取られて少年を見ていると、その視線に気付いていないのか少年はよろよろと立ち上がった。
立った姿はスラリと背が高い。それこそ鴨居に頭が届きそうな程だ。
が、どうにも線が細くひょろ長い印象が強い。
手には危なげに盆を掲げていた。そんなに上で持つ必要があるのかというほどに顔の前まで盆を掲げそろりそろりと足を動かし、杉浦の側にやってくる。
それが、また何とも危なっかしげで見るに見ていられない様であった。盆の上のものを落とさないようにしているのか、真剣にそれを見つめたまま近づいてくる。
そうやって、なんとか側に来ると今度はゆっくりと腰を下ろし盆を畳の上に置いた。
「ふぅ……」
よほど緊張していたのか、肺に溜めていた息を吐き出していた。
と、少し安心した顔をしていたか思うと、また真剣な顔で杉浦の目の前に何かを差し出してきた。
「どうぞ、お召し上がりくださいませ」
と、そう言われて出されたものに目を向けた途端、杉浦は意図せずに思わず顔を顰めてしまった。
そこには湯呑みがあった。それも茶が入った湯呑みだ。
確かに喉は渇いている。今すぐにでも井戸の水を飲み干してしまいたいほどに渇いている。
しかし、今日に限っては淹れたての茶なんて体の中に入れようものなら、本当に茹蛸、いや茹で人間になってしまいそうだ。
せっかく暑い中で茶を沸かして入れてくれた者に申し訳がないとも思う。だが、中々手が出ない。
ちらりと横を見れば、何故か少年が固唾を呑んで杉浦を見守っていた。
と、目が合った途端。少年は少し不安そうに口を開いた。
「あのぉ。お暑いですから、お召し上がりくだされ」
そう言った少年の顔からは汗がだらだらと流れ落ちている。
それを見て、ふいに杉浦は苦笑した。
少年の瞳は不安そうに揺れてはいるが、涼んでもらおうという思いが切に伝わってきたのだ。
たしかに、熱い茶を飲んで汗を流せば涼しくなるとも言われる。まあ、すでに体は汗だくなのだが、きっと少年もそれを思って出してくれたのかもしれない。
思わず、本心を隠して安心させるように少年に笑いかけていた。
「ありがとう。馳走になるよ」
そう言うと、少年は少し安堵したような顔をして、それではと立ち上がった。
杉浦はそれを見届けてから目の前の湯呑みに手を伸ばした。
きっと、風呂のように熱いに違いない。そう思って、指先が湯呑みに触れたその時であった。
「あっ、つ……ん?」
思わず手に持ったまま湯飲みを凝視する。
冷たい。
まるで、氷のように湯呑みが冷たかった。
火照った指先が心地よいほどに急速に冷やされていく。
そっと、茶を喉に流すと口の中に爽快な水が流れ込んできた。暑さで茹で上がりそうになっていた頬の肉が一気に冷やされていく。
それは将に極楽。生き返るようだとは、こういう時に使うべき言葉だ。
「待て」
思わず、杉浦は少年を引き止めていた。
すると、部屋を出ようとしていた少年は驚いたようにびくりと立ち止まり、急いで振り返った。その顔は緊張したように硬直していた。
「は、はい……。何で御座いましょう」
あまりにも震えた声が返ってきた。
杉浦は内心苦笑しながら、表面はあえて硬い表情で言った。
「茶が冷たいのだが」
と、少年は焦ったように目を泳がせ、顔を真っ青にした。
「も、申し訳ございませぬ。す、すぐに熱い茶を入れなおして参りまれ、す!」
そう言うや、転びそうになりながらすぐに立ち去ろうとする。
杉浦は慌てて止めた。
「あ、いや。すまんすまん! 私は別に怒っている訳ではない!」
「は、はい?」
少年は呆気に取られた顔をして立ち止まると、困惑するように眉を潜めて振り返った。
その顔を見て、杉浦はとうとう声を上げて笑った。
「ははははは。すまぬ。聞き方が悪かった」
「あ、はい。……、申し訳ございませぬ」
少年はまだどこか困惑しているようだったが、その場に座ると眉尻を下げてしょげてしまった。その様子はまるで大きな子犬が尻尾と耳を垂らしているようだ。
その姿がおかしくて、杉浦は笑いながら言った。
「いやいや。なぜ謝るんだ。顔を上げなさい。お気遣い痛み入るよ。で、この冷たい茶は君が入れたのか?」
「あ、はい。私でございます。……お客様にただの水を差し出すのもご無礼かと思ったのです……」
そう、少年はまるで尋問を受けているかのように怯えながら答えた。
それを、安心させるように杉浦は笑いを収めて、なるべく口調を優しげにして言った。
「そうか、しかし。お湯で入れた茶をここまで冷やすのはさぞ大変だったろう?」
ただ、冷ましたのではここまで冷たくはならない。
すると、少年はなぜか申し訳なさそうに声を小さくして呟いた。
「はあ、それは水出しの茶にございますので、それほどは・・・・・・」
「水出し? 湯ではないのか?」
杉浦は目を見開いて湯飲みの茶を眺めた。特別、茶に詳しい訳ではないが茶はお湯で入れるものとばかり思っていた。
「いやはや、私は各地を回ったが水出しの茶は初めて飲んだよ。うん、実に美味かった」
「あ、ありがとうございます。でも、茶は湯で入れれるなら水でも入れれるのではないかと思っだけの事なので……」
あまり褒められることに慣れていないのか、困惑していた少年は照れくさそうにはにかんだ。そうすると、女のような美顔に少年さが際立った。
そんな顔をちらりと見たが、杉浦はそれよりも少年の言葉の方に頷いた。
「お湯で入れられるなら、水でも入れられるかぁ……」
杉浦は、無意識に小さく少年の言葉を繰り返した。
「お湯で入れる」という固定観念から、「水でも入れられる」という新たな発想を生んだ。
それを、この少年は当たり前の事のように今言ったのだ。
皆が、この少年のように柔軟な物の考え方をしてくれたらどんなに良いか。ふと、そう思わずにはいられなかった。
少年の目を見れば、それはどこまでも純粋そのものの様に見えた。何者にも囚われない染まらない、そんな無垢な瞳である。
ある意味、危ういそれを、杉浦は羨ましく思った。
杉浦はその後、三杯も茶を御代りした。そのお陰で、体に沸いて出てきていた汗は気がついたら引いていた。
これが、少年との出逢いであった。
結局、旧友が現れてたのは三杯目の茶を飲み終わりそうになった頃であった。
「すまん、杉浦!待たせたな」
「遅いぞ、葛葉!っと、怒ってやりたい所だが、お前が遅かったお陰で面白い時間が過ごせた」
「ん?なんだ。いやに嬉しそうだな」
そういいながら、目の前に腰を下ろす葛葉を待って、杉浦は先ほどの少年と冷たい茶の話をした。
すると、葛葉は少し驚いたような顔した。
「ああ、そりゃ。俺の愚弟だよ」
「弟?ずいぶん人相が似てないが?」
葛葉はどちらかというと、熊のような顔つきだ。確かに、背丈は同じくらいだがそれ以外は似ても似つかない。
「悪かったな!あいつは父上と後添いの間に生まれた一番下の弟なんだよ。一応、ここでは小姓って立場なんだが何をやらせても愚図な奴でな。恥ずかしい事に唯一できるのが茶を入れる事くらいしかない」
「ほお、そうなのか・・・・・・。で、名は?」
「彦左衛門。葛葉彦左衛門だ。だが、皆、『彦』と呼んでいる」
「彦、彦君ねぇ」
先ほどのオドオドしたような少年の顔を思い出す。少しなよなよした感じが名前の音と妙に合っている。
だが、見た目と違って己の一本の芯が通っている気がした。それは、まるで天高く生えるい松の木のように。
きっと、彼の名前は忘れる事はないだろう。いつか、別の機会に話したいと説に思った。
思わず、くすりと口から笑い声が漏れる。
それを見た葛葉は眉を潜め、首を傾げていた。
「なんだ?そんなに彦が気に入ったのか?まあ、悪い奴じゃないからな。お前が茶を褒めてたって伝えといてやるよ。で、急にどうした。お前から文を貰って驚いたぞ」
その言葉に杉浦はここに来た目的を思い出した。
顔に顔に浮かんだ笑いを引っ込めて葛葉の顔を見て頷いた。
「ああ、すまん。実は幕府の命で今度、蝦夷に行くことになった」
「蝦夷だと?それはまた急だな。松前藩にか」
この江戸からはるか北。海を渡った未開の土地、蝦夷。
葛葉はそこに唯一ある松前藩の江戸詰め藩士である。たしかに、今日はこれから向かう蝦夷地について、どのような状況なのかを聞きに来た。
だが、場所は松前ではない。
「惜しい。もっと、新しい町だ」
そう言って、杉浦はにやりと笑った。
「黒船に開港させられた港、箱館だ」