1、旅立ちは突然に
1、旅立ちは突然に
長くまっすぐな道を仕事終わりの重い足取りで歩く。乾いた目と肩コリ、腰と足の痛みが、ファミレスで働くバツ一、独身、フリーターの私になんでまじめに就職しなかったのかと考えさせる。
それでも、胸を張って歩くしかないんだ。私は、やるべきことをやってきた。その時々で考えてベストと思われる答えを出してきた。その結果がこれでお粗末極まりないが、笑ってまっすぐ顔を上げて生きていこうと思っている。
ことの発端は、ありがちなことだった。深夜のひそひそ話し。
「おれだって今日別れるつもりじゃなかったんだよ。どうしてこんなことになっちゃったんだろう。世界で一番大好きなのに……」
寝ている私に聞こえたのはこれだけで、それにしても彼が何を言ってるのか見当がつかない。飲みに行くと言って出掛けたはずの夫が、家にいる。時計を見ると朝方3時過ぎ。
はて?帰りが早すぎる。いつもなら4時半以降になるのに。
ぼそぼそと続けられる廊下の向こうから聞こえる会話にすっかり目が覚め耳を澄ます。
「なみちゃんが大好きなのに。オレが悪いって言うのか」
「ほう、なみちゃんと言うのか」
長年気づかないように諭されてきた不倫相手の名前を知ってしまった。しかも本人の不注意で。思わず笑いがこみ上げる。
「バカな奴」
「だから、ママさんからも言ってやってよ。結婚してるのは分かってたろうって」
私は眠る。振りでもなんでも、起きていると気づかれたら完全におしまいだもの。もう少し考える間が欲しいからせっせと眠る。
大声で話す夫の声に聞きたくない情報がたくさん入っていても、私は聞いてない。だって寝てるから。笑いすぎてお腹が痛いけど、とめることが出来ない。とうとう涙が出てきても笑いは去らない。ちょっともうやめてよ、笑いすぎて破裂しちゃうよ。
長々と続いた隣室の会話が途絶えた。窓を開ける音と、水がはねる音。
……またか、『明日朝一で瓦に水を流すこと』、頭の中にメモをする。
寝室に近づく足音に、私の鼓動が跳ね上がる。顔は無表情を装い、鼓動に反して長く深い息をつく。こめかみに響く心臓の音がきっとポンプになって私の頭を破裂させるだろう。
そしてドアノブのラッチが外れる音がして……
「ご主人様のお帰りだぞ」
いつもと変わらぬように耳元で声を張り上げる。
私はわざと小さな声で
「お帰りなさい」
と皓々とつく明かりに目をしかめてつぶやく。
「なんだよしけてんな。こうやって抱きついて『お帰りーねえしよー』とか言えねえのかよ。そうだな言えねえよな、お前じゃあな」
そう言うと私の腰のあたりに一発入れて服を脱ぎ出した。
これは意外に侮れなくて、シャツのボタン、ベルトのバックル、ポケットの小銭などが狂気のように当たって痛い。しかし痛いなんて言おうもんならマッサージと名付けた力加減無用のぎゅうぎゅう押してくるバツが与えられる。これは青あざ必死で人体模型のようになるから嫌なんだ。
かくして夜は明けていく。
眠れぬまま。