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異世界アステリア百景 〜大きな世界の、小さな物語〜

悪役令嬢は、円満に断罪されるのがお仕事です 〜のはずが、影の薄い第一王子殿下が、わたしの三年間を全部見ていて求婚してきました〜

作者: 宇野 心一
掲載日:2026/07/20

◆一 悪役令嬢のお仕事


 今夜、わたしは断罪される。それは三年前から、決めてあったことだった。


 ヴァルハイン王立魔法学園の卒業夜会。大広間には、無数の魔導灯が金色にともっている。イルゼ・フォン・アーレンスは、広間の中ほどで、背筋をまっすぐに伸ばして立っていた。銀の髪を高く結い上げ、青玉色の瞳をわずかに伏せている。唇には、非の打ちどころのない微笑。誰の目にも、この国でいちばん美しく、いちばん高慢な公爵令嬢に見えるはずだ。そう見えるように、三年かけて仕上げてきた。


 まわりの令嬢たちが、扇の陰でこちらをうかがっては、小さくささやき合っている。近づいてくる者はいない。それでいい。悪役令嬢のまわりには、いつも半歩ぶんの空白があるのがちょうどいい。その空白の内側で、イルゼはいつも一人だった。


「イルゼさま」


 給仕の少年が、盆を落としかけて、盆の上の硝子杯をひとつ床に割った。冷や汗をかいて、しゃがみこむ。夜会の場で失態を演じた少年に、まわりの視線が刺さった。給仕がしくじれば、雇い主が恥をかく。この子は、明日にも職を失うかもしれない。


「およしなさい。みっともない」


 イルゼは、わざと冷たい声で言った。そうして少年の前にかがみ、割れた杯のかけらを拾うふりをしながら、その指先でそっと欠片に触れた。


 指の奥が、あたたかくなる。イルゼの加護「繕い」が、静かに働いた。割れた硝子の断面が、糸を引くようにつながっていく。ひび一本残さず、杯はもとの姿に戻った。


「ほら。落としてなどいない。わたしがそう言えば、そうなのよ」


 少年が、目をまるくして杯を見た。イルゼは立ち上がり、もう用はないとばかりに背を向ける。背後で少年が、消え入りそうな声で「ありがとうございます」と言うのが聞こえた。聞こえないふりをした。礼を言われるのは、悪役令嬢の仕事のうちに入っていない。


 そのとき、ふと、どこからか視線を感じた。


 イルゼが顔を上げると、広間の隅の窓辺に、一人の青年が立っていた。仕立てのよい上着を着ているのに、なぜか、そこに人がいると気づきにくい。整った面立ちなのに、見た端から記憶がすり抜けていく。第一王子ユリアン。次期王と目される弟の陰で、誰の目にも留まらず過ごしてきた、影のような王子だった。


 その静かな瞳が、まっすぐにイルゼを見ていた。今しがたの、杯の繕いを。見て、そして、ほんのわずかに目を細めた。驚きでも、感心でもない。ただ、見たものを胸の奥に静かに書きとめる——そういう目つきだった。


 目が合った。ほんの一瞬だ。ユリアンは、何も言わずにまつげを伏せ、また窓の外の夜へと視線を戻した。イルゼも、すぐに目をそらした。あの方に見られたところで、どうということもない。誰の記憶にも残らない王子だ。——いいえ、あの人は、子供のころは神童と呼ばれていたお方。側室の子であるがゆえに、記憶に残らないのではなく、残らないように、みずからを仕立てているのではないか。ふと、そんな考えが胸をよぎった。けれど今夜は、それどころではなかった。イルゼは、それきり第一王子のことを忘れた。


 アーレンス公爵家には、代々受け継がれる役目がある。王家と、この国の社交界のほころびを、一身に引き受けること。諍い、失敗、隠しごと——人の集まるところには、かならずほころびが生まれる。それを繕い、繕ったことは知られないように。そして、誰かが憎まれ役を必要とするとき、進んでその役をかぶる。盾の家、と呼ばれてきた。


 イルゼの加護が「繕い」であったとき、父は静かにうなずいた。「おまえも、盾になれる」と。祝ってくれたわけではない。盾の家に生まれた娘の加護が繕いであるということは、逃げ道がなくなったということだ。以来イルゼは、三年をかけて、この学園でいちばん嫌われる令嬢になった。


 いちばん初めの仕事を、イルゼはよく覚えている。入学したての春、同室になった気弱な令嬢が、上級生たちから古いしきたりを盾に、雑用を押しつけられていた。イルゼは、その上級生たちの前に立ちはだかり、わざと高慢に言い放った。「その子は、わたくしの侍女のようなもの。ご用があるなら、わたくしを通してくださる?」——公爵令嬢を相手に、上級生たちは引き下がるしかなかった。気弱な令嬢は救われ、そして、傲慢な公爵令嬢の噂だけが、あとに残った。守ったはずの同室の令嬢さえ、学年が上がるころには、他の者と同じようにイルゼを遠巻きにするようになった。守った相手にすら、遠ざけられる。それが、盾の家の娘の、いちばん初めの授業だった。誰も見ていない。誰も知らなくていい。その思いは、やがてイルゼの、悪役令嬢としての矜持となった。


 視線を上げると、広間の隅に、平民出の特待生ニケがいた。栗色の髪をきちんとなでつけ、借り物らしい少し丈の合わない夜会服を着て、身をかたくしている。魔法の才は学年でも指折りなのに、後ろ盾がなく、作法にも不慣れで、いつも壁ぎわで小さくなっている娘だ。


 半年前、ニケはある令嬢の一派に引き込まれかけた。表向きは親切、裏では平民出のニケを体よく使い潰そうとする派閥だった。イルゼは、大勢の目の前でニケを呼び止めた。「特待生の分際で、殿方に取り入るのがお上手ね。身のほどを、お知りなさい」——わざと、いちばん刺さる言葉を選んだ。ニケは唇を噛み、目に涙をためて、それでも言い返さなかった。その日から、ニケはあの一派に近づかなくなった。危うい手から遠ざかった。イルゼを、心から憎んだことだろう。それでいい。憎まれることで守れるなら、いくらでも憎まれてやる。それが盾の家の娘の、仕事だった。


「静粛に」


 広間の奥、一段高い場所で、よく通る声が響いた。第二王子ラウルだ。生真面目な面立ちの、正義感の強い少年。次期王と目される、華やかな王子。そして、イルゼの婚約者でもある。二人の婚約は、盾の家の娘を次の王に添わせるという、家同士の取り決めだった。ラウルはイルゼを、高慢で冷たい令嬢だと思っている。それも、三年かけてそう思わせた結果だった。


 そのラウルの隣に、侯爵令嬢オデットが寄り添うように立っていた。夜会のあいだじゅう、ラウルに何かを熱心にささやいていた娘だ。


 ラウルが、まっすぐにイルゼを見据えた。その目に、抑えきれない怒りがある。


 来た、とイルゼは思った。段取りどおりだ。イルゼは微笑を保ったまま、静かに婚約者を見返した。


◆二 謹んでお受けします


「イルゼ・フォン・アーレンス」ラウルの声は、広間のすみずみまで届いた。「そなたとの婚約を、破棄する」


 どよめきが走った。けれど、本当に驚いた者は少ない。悪役令嬢がいつか裁かれるのを、みなどこかで待っていたのだ。


「理由を、この場で申し述べよう」ラウルは続けた。「そなたは三年のあいだ、特待生ニケに数々の非道を働いた。衆前での侮辱。持ち物の隠匿。根も葉もない噂の流布。身分の低い者への、あるまじき振る舞いだ」


 罪状が、一つずつ読み上げられていく。侮辱の一件は、あの半年前の夜のことだろう。あれは、本当にイルゼがやった。ニケをあの一派から引き剝がすために。けれど、持ち物の隠匿も、噂の流布も、身に覚えがなかった。誰かが、イルゼの悪名に、ありもしない罪を継ぎ足している。


 それでも、イルゼは弁解しなかった。悪役令嬢が言い訳を並べれば、それはただの見苦しい令嬢になる。美しく負けてこそ、盾の役目は完成する。三年前に描いた幕引きの絵に、弁解という筆は入っていなかった。


 まわりの令嬢たちが、扇の陰でくすくすと笑った。


「とうとうね」「いい気味だわ」「あんなに威張っていらしたのに」


 そのささやきを、イルゼは静かに受け止めた。三年ぶんの憎しみが、ようやく報われる音だと思った。悪役は、いちばん綺麗に嫌われる仕事だ。この笑い声こそが、仕事をやり遂げた証だった。だから、胸の奥がしんと冷えていくのは、気のせいだ。そういうことにしておいた。


 イルゼは、ドレスの裾をつまんで、優雅に礼をした。


「——謹んで、お受けいたします」


 その一言で、幕は下りるはずだった。婚約は破棄され、悪役令嬢は静かに広間を去る。ニケの立場は守られ、危うい派閥は後ろ盾を失う。すべてが、三年前に描いたとおりに収まる。イルゼは背を向け、扉のほうへ歩き出そうとした。


「お待ちになって」


 鋭い声が、それを止めた。侯爵令嬢オデットだった。彼女はラウルの前へ進み出て、勝ち誇ったように広間を見渡した。


「殿下。この際ですから、はっきりさせておくべきですわ」オデットの声は、よく響いた。「そもそも、あの特待生ニケが、なぜ学園にいられるのか。あの娘の生家がどんな家か、みなさまはご存じないのでしょう」


 イルゼの足が、止まった。


 オデットが、ニケの出自を語りはじめた。潰れた商家。残った借金。施しで学ばせてもらっている身。平民出という、それだけでも肩身の狭い弱みの上に、さらに惨めな事実を、衆前で一枚ずつ剝いでいく。壁ぎわのニケが、顔を真っ白にして、その場に凍りついた。逃げることも、言い返すこともできず、ただ立ち尽くしている。半年前、イルゼが憎まれてまで一派から引き剝がした、あの娘だ。


「このような娘を、王立学園に置いておくこと自体が、間違いなのです」オデットの声が高くなる。「イルゼさまが厳しくお当たりになったのも、無理からぬこと。むしろ、次の王となられる殿下がお側に置かれるべきは、殿下を真にお支えできる、由緒正しき家の娘であって……」


 オデットの背後で、幾人かの令嬢と令息が、示し合わせたように深くうなずいた。イルゼは、その顔ぶれを、見覚えのある取り合わせだと思った。近ごろやたらと第二王子ラウルを持ち上げ、次の王はもう決まったも同然だと言いふらしている、いくつかの家の者たちだ。けれど今は、それを気に留めている場合ではなかった。ニケが、壊されていく。


 やめなさい、と喉まで出かかった言葉を、イルゼは飲みこんだ。


 言えなかった。「その娘を守っていたのは、わたくしです」とでも言えと? それではこの三年の繕いを、すべて無駄に捨ててしまうことになる。誰にも知られず直してこそ、盾の家の繕いなのだ。それが悪役令嬢としてのイルゼの矜持だ。


 だから、イルゼにできるのは、ただ黙って見ていることだけだった。三年かけて縫い合わせたニケの居場所が、衆目の前で、端からほどけていく。それを止める言葉を使えなかった。銀のまつげが、かすかに震えた。握りしめた手のひらに、爪が食いこんだ。


 この三年で初めて、盾の掟が重かった。守るために憎まれることには、とうに慣れていた。けれど、守った相手が目の前で壊されていくのを、見過ごさねばならないというのは、これまでのどんな憎まれ方より、ずっとこたえた。盾でいるということは、こういうことだったのか。守れるだけの力を持ちながら、それを使えば掟を破ることになる——そういう夜が、いつか来るのだと、幼いあの日の父は、教えてくれなかった。


「——待て」


 凛とした張りのある、そして生まれながらに人を従える、そんな声が、広間の熱をすっと断ち切った。


 誰も、その声の主にすぐには気づかなかった。背筋をピンと伸ばし、これまでにない風格を漂わせた窓辺の影が、ゆっくりと動いて、一歩前に出た。第一王子ユリアンだった。


◆三 見ていた人


「兄上……?」ラウルが、自分の発した言葉に疑問を隠し切れない様子で、その人物を見ていた。


 ユリアンは弟には答えず、広間の中央へ静かに歩み出た。人々の視線が、初めてその王子に集まった。集まって、なお、落ち着かない。見ているのに、記憶に残らない。そういう空気が流れていた。


「ラウル。おまえの断罪は、半分が正しく、半分が間違っている」ユリアンは静かに言った。「侮辱の一件は、確かにあった。だが、あれは非道ではない。——あの夜、イルゼ嬢がニケ嬢を衆前で叱ったのは、ニケ嬢を、とある令嬢の一派から引き剝がすためだ。あの一派が、平民出の特待生をどう使い潰すつもりだったか。私は、見ていた」


 広間が、ざわりと揺れた。


「持ち物の隠匿も、噂の流布も、イルゼ嬢はしていない」ユリアンは続けた。「むしろ逆だ。二年前、ニケ嬢の教科書が中庭の泉に投げ込まれたとき、翌朝それを乾かして机に返したのは、イルゼ嬢だった。私は、見ていた」


 イルゼは、動けなかった。なぜ、この人が、それを知っているのだろう。


「まだ、ある」ユリアンの静かな声は、止まらなかった。「アンナ嬢。二年前の春、裂けたドレスを化粧室で繕ったのは、イルゼ嬢だ。ヴィム。池に落とした恩師への手紙を乾かして返したのも。レナ嬢。姉君との仲を直した詫び状を、どちらでもない誰かが書いたのも。——それから、ラウル。おまえが幼い日に王宮の燭台を壊したとき、代わりに叱られて、翌日それを傷ひとつなく直しておいた娘のことを、おまえは、覚えているか」


 ラウルが、はっと息をのんだ。天を仰ぐ。忘れていた幼い日が、その顔によみがえっていくのが見えた。


「加護は繕い。役目は、盾」ユリアンは、広間をゆっくりと見渡した。「イルゼ嬢は三年のあいだ、この学園のほころびを、片端から繕ってきた。感謝されないように、わざと憎まれながら。——今も、そうだ。ニケ嬢を守った事実を口にすれば、恩に着せることになる。だから彼女は、黙って裁かれる道を選んだ。自分の手柄を、一つも、言わないままに」


 嘲笑は、とうに止んでいた。とまどいのざわめきも、やがて深い沈黙に沈んでいく。令嬢も令息も、記憶の底をさらっていた。困ったあの朝。どうしようもなかったあの夜。気づけば誰かの手で繕われていた、小さな救い。その手が、誰のものだったか。


 沈黙のなかから、最初にひとりの令嬢が、細い声を出した。「……わたくしも、繕っていただきました」アンナだった。「あの日のドレスのこと。ずっと、妖精のいたずらだと思っていました。イルゼさまを、笑っていたのに」その声に押されるように、ヴィムが、それから別の令息が、また別の令嬢が、次々と口を開いていった。わたしもだ、と、あちこちから声が上がる。嘲笑のさざめきが引いていった同じ場所から、今度は、詫びと、届かなかった礼が、静かにあふれ出していった。


 イルゼは、ようやく、声を絞り出した。


「……なぜ、あなたが。そんなことまで、ご存じなのですか」


 ユリアンは、初めてイルゼのほうを向いた。その瞳に、静かな熱があった。


「私の使命は、見ることだからだ」


 広間の誰にも聞こえないほど、静かな声だった。けれど、イルゼには、届いた。


「私は次の王になる弟の陰で、誰の記憶にも残らないように生きてきた。誰も、私を見ない。だから私は誰にも気づかれずに、みなを見ていられた。——三年前、この学園で、私は一人だけ、おかしなことに気づいた。誰も見ていないはずの場所で、いつも、誰かのほころびが直っている。傲慢だと嫌われている令嬢の指先が、そっと、割れたものに触れていく。その瞬間だけ、あの人の指が、ふしぎなほど優しくなることに、私だけが、気づけた」


 イルゼの視界が、じわりとにじんだ。


 誰も見ていない、と思っていた。誰も知らなくていい、と決めていた。三年間、その空白の内側で、たった一人だと思っていた。——けれど、一人だけ。誰にも見えない場所から、ずっと、見ていた人がいた。


 オデットは、青ざめた顔で立ち尽くしていた。「皆が言っている」——その後ろ盾は、もうどこにもない。皆はもう、彼女の言葉ではなく、自分の記憶のほうを見ていた。


 そのとき、壁ぎわで凍りついていたニケが、震える足で一歩、前に出た。


「イルゼさまは、わたしを、いじめてなんかいません」ニケの声は小さかったが、静まった広間によく響いた。「半年前、あんなにひどい言葉で叱ってくださったから、わたしはあの人たちから離れられました。ずっと、意地悪な方だと思っていました。今夜まで。——ごめんなさい。そして、ありがとう、ございます」


 庇われてきた娘が、初めて、盾を庇った。イルゼの三年で、いちばん要らないはずだった言葉が、いちばん深いところに届いた。


◆四 求婚


 断罪は、覆った。


 ラウルは深く頭を下げ、ニケの出自を暴いた非を、その場で認めた。証しのない罪状は、すべてあらためられた。オデットの企ては、誰に責め立てられるでもなく、ただ静かにしぼんでいった。糾弾の言葉を失った広間には、居心地の悪い、けれどどこか温かい沈黙が満ちていた。


 ただ一つ、覆らなかったものがある。婚約の破棄だ。


 それでいい。それが悪役令嬢という役目、イルゼの矜持だ。三年かけていちばん綺麗に嫌われて——その、悪役令嬢としての幕引きは、最後の最後に覆ってしまったけれど、ずっと見ていてくれた人に救われた。終わり方としては、上等すぎるくらいだった。イルゼはユリアンに向かって、深く礼をした。


「——ありがとうございます、殿下。あなたが黙っていてくだされば、わたくしは綺麗に退場できたのに。少しだけ、恨めしゅうございます」


 イルゼは、そう言って、微笑んだ。今度は、作り物ではない微笑だった。そうして、背を向けようとした。


「イルゼ嬢」


 ユリアンの声が、それを止めた。


 ユリアンは広間の中央で、まっすぐにイルゼの前に立った。誰の記憶にも残らないはずの、影のようだった王子。けれど今、この広間の誰もが、影の面影を脱ぎ捨て、人の上に立つ者の風格をまとったその姿から、目を離せずにいた。


「——訊きたい顔をしているな」ユリアンは、かすかに笑った。「なぜ私が、これほど多くのことを見ていられたのか。なぜ、誰の記憶にも残らぬ影のように、過ごしてきたのか」


 まさに、それを訊きたかったのだ。イルゼは、声もなくうなずいた。


「目立たぬ者の前でしか、人は本音を見せない」ユリアンは静かに言った。「華やかな王子の前では、誰もが仮面をかぶる。だが、記憶にも残らぬ影の前では、みな素顔になる。私は父上と決めていた。表には立たず、この国の行く末を見ようと。——次の国を背負うにふさわしい貴族がどの家か。誰が忠義で、誰が野心を持っているか。それを見極めるのが、私の役目だった」


 広間の空気が、こわばった。持ち上げるだけ持ち上げていた令嬢たちの、扇を持つ手が止まる。


「弟が、王を支える器か、それとも玉座そのものを欲しがる質か。弟を次の王に祭り上げ、その隣の椅子を狙っているのは、どの家の者たちか。——今夜の断罪は、そのすべての本音が、いちばん綺麗に出そろう舞台だった。だから私は、頃合いまで、動かずにいた」


 オデットの顔から、血の気が引いた。彼女の背後でうなずいていた令嬢や令息たちが、一人、また一人と、そっと視線を落としていく。誰が弟を担ぎ、誰が邪魔な公爵令嬢を消そうとしたのか。その絵図はもう、影の目に残らず描き取られたあとだった。


「弟は、若い。担がれ、勢いに乗って、あなたを裁いた。半分は試験に落ちたな」ユリアンは、ちらとラウルを見た。ラウルが深くうつむく。「だが、己の過ちを認めた。——及第だ。良い補佐と、良い盾がつけば、あれは、いい王になる」


 そうしてユリアンは、ふたたびイルゼに向き直った。その瞳から、影が消えていた。


「三年、私はこの学園じゅうの本音を見てきた。忠義も、野心も、嘘も、へつらいも。——そのすべてのなかで、たった一人だけ、誰にも見られていないと思いこんだまま、それでも国のほころびを繕い続けた人がいた。見返りもなく。名も残さず。あなただ、イルゼ嬢」


 イルゼの、息が止まった。


「私が探していた『国を背負うにふさわしい者』は、玉座のそばには一人もいなかった。誰も見ていない、半歩ぶんの空白の内側に、ずっと立っていた。——なのに、あなた自身のほころびだけは、これまで、誰も繕わなかった。礼も言われず、名も知られず。その空白を、私は三年、窓辺から見ていた。見ているうちに、私は——見ていることに、耐えられなくなった」


 ユリアンが、片膝をついた。王子が、公爵令嬢の前に。広間が、息をのむ音でいっぱいになった。


「私は、次の王にはならない。表の玉座は、弟にやる。私はこれからも、自由にこの国の本音を見ていよう。——だが、たった一人で行くのは、もう、やめにしたい」ユリアンは、まっすぐにイルゼを見上げた。「あなたは、国を繕う人。私は、国を見る者。——イルゼ・フォン・アーレンス。今度は、私に、あなたを繕わせてほしい。誰にも見られなかったあなたを、私が、一生かけて見ている。どうか、私と結婚してください」


 広間は、しんと静まりかえっていた。


 イルゼは、言葉を失っていた。三年前から、今夜の幕引きは、一分の隙もなく決めてあった。断罪され、静かに退場し、盾の役目を終える。その先に、こんな一行は、どこにも書いていなかった。


 銀のまつげの縁から、こらえきれなかったものが、ひとつ、こぼれた。悪役令嬢は、人前で泣かないものだ。——でも、もう、いい。


「……わたくしは」声が、震えた。「わたくしは、繕うことしか、知りません。繕われるのは、生まれて初めてで……どう、お応えすればいいのか」


「応え方など、いらない」ユリアンは、静かに笑った。「ただ、あなたのその手を、これからは、あなた自身のためにも使うと、約束してくれればいい」


 イルゼは、震える手を、そっと差し出した。ユリアンが、その手を両手で包んだ。あたたかかった。加護のあたたかさではない。三年間、ずっと欲しかった、人の手のあたたかさだった。


 その指先が、イルゼの手のひらにできた、爪の食いこんだ小さな痕に触れた。断罪の場で、言葉を飲みこみながら握りしめてつけた、四つの傷だ。ユリアンは、その痕を、いたわるように、ゆっくりとなでた。あなたのほころびは、ここにもある、とでも言うように。誰にも見えないその小さな傷を見つけられるのは、三年間ずっと見ていた人だけだった。イルゼは、こらえきれずに、もう一度うつむいた。今度こぼれたものは、悲しみの涙ではなかった。


 どこからか、拍手が起きた。一つ、また一つと重なって、やがて広間じゅうの、長い、深い拍手になった。アンナが泣いていた。ヴィムが手を叩いていた。ニケが、両手で顔を覆って、それでも懸命に拍手していた。ラウルが、兄に向かって、誇らしげに、けれど少しだけ悔しそうに、頭を下げた。


 広間の隅で、オデットが一人、帰りかねているのが見えた。イルゼは、ユリアンの手をいちど離れ、その令嬢のそばへ歩いていった。


「——困ったときは、うちへいらっしゃい。行くあてなら、これから、いくらでも作れそうですから」


 オデットは、長いあいだイルゼを見て、それから、泣き笑いのような顔で、小さくうなずいた。倒した相手を、置き去りにはしない。敵にも、ほころんだ場所がある。そこを繕えば、敵ではなくなる。それも、盾の家で教わったことの一つだった。


 窓の外で、二つの月が並んでのぼっていた。大きな銀月と、小さな紅月。イルゼは、包まれたままの自分の手を、そっと見つめた。


 三年間、いちばん綺麗に嫌われる仕事を、やり遂げた。誰も見ていないと、思っていた。


 ——けれど、誰にも見られず繕ってきたわたしを、たった一人、ずっと見ていた人がいた。


 イルゼは、隣に立つ王子を見上げて、生まれて初めて、悪役の顔ではない、素の笑みを浮かべた。もう、隠す必要は、どこにもなかった。

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