『フェンリルになりましたから、もふもふしてね♪ 〜犬になりたい社畜が北欧神話の世界に転生しちゃった件〜』
「……よし、できた! やっぱりボクは天才だなぁっ!」
明るくはしゃぐ中性的な声に目を開けると、男性にも女性にも見える、細身の美形。
その声は、社畜としての激務に疲れ果て力尽きたオレに、転生しないかと提案してきた声と同じであり、転生先は犬と付け加えたら飛びついたオレに呆れた言葉を投げかけたものとも同じだった。
「ねえ、キミ? こうなったらもう元の世界にも元の姿にも戻れないけれども、本当に良いのかい?」
いいさ。そこは散々確認したろうに。
「そうかい? ちなみに、今のキミはこんな姿だよ? 話が違うとか言われても、もう遅いからね?」
そう言って、オレをこの世界に呼び寄せたご主人は、姿見にオレの姿を映した。
大きな耳、うるうるの目、毛艶の良いクリーム色なもふもふの毛、意思に応じて自在に動くしっぽ、両手のひらに乗っかってしまいそうなちっちゃいからだ。
その、愛らしい姿は、まさしく、オレの理想としていた愛される犬の姿。
そう、生前のオレは、チワワが大好きだった。
仕事が忙しすぎて飼うことができなかったけどな。
でも、金貯めて庭付き一軒家を買えたなら、犬を飼いたいって思ってたんだ。
出張先でたまたま見つけたペットショップで、チワワに一目惚れ。
でも、そのチワワの子、目の前で買われていったのさ……。
しかし、気づいたんだ。庭付き一軒家を買えたとしても、それまでのような社畜生活を続けていたなら、犬を買ったとしても、飼えない、世話できないと。
それなら、あのチワワの子のように、誰からも愛されちやほやされる犬になりたい……。などと思っていたら、志半ばにして力尽き、今に至るというわけ。
オレを犬にしてくれた今のご主人は、鏡に映る自分の姿に見とれているオレを不思議そうに見つめてから、おもむろに抱き上げた。
「さあ、フェンリル。新たな姿に生まれ変わったキミに宿した神殺しの牙を、ボクに見せておくれよ」
片手で抱いて、指を口元に持ってくるご主人。
犬となったオレにすれば、指を差し出されたら匂いを嗅いで、ペロペロ舐めるしかないだろう。
ふんかふんか。この匂いがご主人な。覚えた。
指も、女性のものみたいにしなやかで細い。
舐めてみると、くすぐったそうに目を細めるご主人は、とても愛らしい。
「おや? なんだか余裕だね〜? これか? これが神殺しの牙なのか〜?」
楽しそうに、愛おしそうに、オレの口に指を突っ込んで、あーっと口を開けるご主人。
それを真似るように、オレも口を開ければ、犬歯をちょいちょいつついてくる。
「うーん? 牙のはずなのに、そんなに尖ってもいないなあ?」
ふっ、それはなご主人。ご主人を傷つけたりしないように、神殺しの牙の神性を任意で封印しているからさ。
片手で抱かれ腹を見せている姿で、心の中でちょっとカッコつけた感じにドヤってみると、ご主人はニンマリと笑い、犬用ベッドにオレを置くと、両手でオレの全身をもふもふなでなでしてくれた。
楽しそうになでるご主人。なでられて幸せなオレ。
オレは今、最高に幸せだ……っ!
さて、ご主人は、北欧神話における悪神として名高い神。
なぜ悪神などと呼ばれているかというと、悪としか言えないことを何度も何度も行い、義理の親たる主神オーディンに反旗を翻したからに他ならない。と、オレは思っていた。
……思っていた、だ。
ご主人は、本質が悪で、悪戯好きで、誰からも愛される義父の子、つまり、義理の兄弟にあたる神が死ぬきっかけをつくり、親友たるトールを罠にはめ笑い飛ばしたり、果てには、神々の時代が終わるほどの大戦を引き起こした存在だと。
そうなるべくしてそうなったのだと、そう思っていた。
……でも、実際は、結構違った。
主神オーディンの義理の子でありながら、周囲からの視線は冷たく、疎ましいモノを見る目で見られていた。
神々が住まう城を気分良く歩くご主人の足元を、邪魔にならない程度にじゃれつきながら歩いていたところ、敵意すら宿っていそうな視線を向けてくる神と出くわすと、ひょいとオレを抱き上げて、気にしていない風を装ってすれ違う。
……でも、ご主人は、めっちゃ気にしてる。
そこそこ以上の力を持つ神は、だいたい厳しい目を向けてきて、力が弱い神は、だいたい視線をそらし無視していく。
これは、ご主人がやらかしたから冷たくされているのか。
周囲から冷たくされているから、ご主人がやらかすようになったのか。
今が神話のどの段階なのか皆目見当がつかないし、そもそも北欧神話はそこまで詳しくもないオレには、どちらが先かなんて分からない。でも、オレの記憶が確かなら、オーディンに拾われて義理の親子になった直後から、ずっとこんな扱いだったような気が……。
…………そりゃあ、病むよな…………。
義理の父も、親友も、世界も、全部まとめて滅んでしまえとなるよなあ。
多くの者から、あんな目であんな態度で、粗末に扱われていたならさあ。
わずかな時間で、ご主人の境遇をなんとなく理解した気になったオレは、抱っこされている現状を最大限利用して、頭をご主人にこすりつけてくんくん鳴く。
オレのかまってアピールを正しく理解してくれたご主人は、片手でオレを抱き直し、指で顔をこしょこしょなでてくれた。
さすが、以心伝心だな。
目を細めてオレを見るその表情が愛らしくて、オレの意思とは無関係に体が動いちゃうぜ。
「おお、ロキではないか。久しいな!」
そんな感じでご主人に愛でられていると、豪快を絵に描いたようなイケメン偉丈夫がやってくる。
「……トールか。なんの用?」
「オレはお前に用があってここに来たのではないが、お前を見かけたら声をかけたくなるさ。親友だからなっ!」
でかい体の偉丈夫は大股で近寄り、ご主人の背中から手を回して肩を抱く。
親しき友と信じて疑わない偉丈夫からの、「親友」の言葉に、ご主人がほんの少し胸を痛めるのが分かった。
それがどういう意味かまでは分からないが、ご主人は、この自称親友のことを憎からず思っていることは間違いない。不機嫌を装ったような口調で暑苦しそうにしているにも関わらず、なんか嬉しそうだし。
「オレは、親父殿に用があるのだ。お前もそうなのだろう? だから、共に行こう」
肩を組んで歩く若者のノリで、偉丈夫はご主人と共に歩く。
……もっとも、その様子を、偉丈夫のデカい声から少しでも逃れるためにご主人の腕の中から飛び降りてちょっと離れた場所から見上げた感じだと、二人の身長差と体格差から、大男と細身女の連れ添いが歩いてるようにしか見えなかったりする。
偉丈夫からすると親父殿。ご主人からすると義父殿。
その義父たるオーディンに、自身の実験結果であるオレを見せるために、わざわざ嫌な連中がいる神々の城を歩いていたというのに、偉丈夫が現れてからは、ご主人の心は偉丈夫一色だ。
……よっぽど、親友殿のことが大好きなんだな、ご主人は。
親友って言われたの否定してないし。
ハタから見るといちゃつきながら歩いているようにしか見えない二人の後ろ姿を、呆れ混じりの若干冷ややかな目を向けて追うオレ。
……なんだか、二人がいつもこんな風に振る舞っているから、ご主人が冷ややかな目で見られているのだろうか? などと思えてきたぞう。
だって、トール、既婚者のはずだもの。
子どももいるはずだし。
今は結婚前のタイミングかも分からんが。
にも関わらず、距離感バグってるような二人を見てると、初見のオレですらイケナイもうそ……想像をしちゃいそうだぜ。
トー × ロキ?
ロキ × トー?
ご主人はやっぱり誘い受けだな。策士系だし。
生前の元カノが腐海の住人で、多少の理解を示していた身としては、嗜みはしないが最低限の知識はあって、標準的に考えたら自ずとそうなった。
……ん? でも、ご主人って、性別を超越した存在とか言われていたような……?
腐の世界の妄想が捗って、ある事実に気がついたあたりで、片手でひょいと持ち上げられた。
大きく無骨な手指は、トールのものだな。
「…………これが、神殺しの牙の、か………?」
首を傾げて戸惑う偉丈夫。
どうだ? 可愛いだろう? 愛らしいだろう? なでなでしたくなるだろう?
大きなトールの手の中であおむけになり、大きなトールをうるうるの目で見上げて、しっぽをふりふり。かまって、なでて、と猛アピール。
「なでてあげなよ。喜ぶよ」
「お、おう……」
おっかなびっくり、指を伸ばしてきたので、鼻を近づけてふんかふんか。うん、これがトールの匂いな。覚えた。
大きな指を鼻でちょんとつっついて、ペロペロなめてやると、そーっと指を動かしておでこのあたりをちょいちょいなでてくれる。
もっともっとと、大きな指に自分から頭をこすりつける。
すると気分が乗ってきたのか、首あたりをかいかいしてくれる。
ご主人とは違い体が大きい偉丈夫だと力加減も難しいかもしれないが、思ったよりは気持ちいい。
気を遣って慎重になでてくれることに気を良くして、仰向けからくるんと身を翻し手の平の上に立ち上がって、アンッアンッと吠えてしまう。
興奮しちゃって、ついうっかりだ。許してくれ。
しかし、トールは怒られたと思ったのか、しょぼんとしてしまった。
「喜んでいるよ。もっとなでてあげなよ」
「そ、そうなのか……?」
「そうさ。ちゃんと見なよ。こんなにしっぽ振ってるんだよ。トールになでられて喜んでいるのは間違いないよ」
さすがはご主人。以心伝心だぜ!
さあトール、もっとオレをなでてくれ!
「…………吠えてるんだが…………?」
「なでて、かまってって呼んでるんだよ」
ねー? と、にこにこしながら人差し指で鼻周りをかいかいしてくれる。
ご主人ありがとう。嬉しい。しっぽブンブン振っちゃうぜ!
「………………」
どこか納得いかない様子のトールは、オレの背中に手を置いて、ゆっくりなでてくれる。
ツヤツヤな自慢の毛並みにそった優しい手つきは、豪快ながらも優しいトールの性格を表しているようで、心地良くてうっとり目を細めちゃうぜ。
やるな、トール。ナデナデレベルはご主人についで二位を授けてやる。
オレをなでてくれたのはトールで二人目だけどな!
『二人とも、用があるなら入って来なさい』
老人のしわがれた、それでいてずっしりと腹に響くような不思議な声に、三人というか二柱と一匹は我に返った。
そうそう、ご主人とオレは、トールといちゃつきに来たわけでも、なでられに来たわけでもない。
神々の主たるオーディンに、ご主人の実験の結果を見せつけに来たのだった。
そんなわけで、顔を見合わせて咳払いしたご主人と偉丈夫は、中から声がかかったのをいいことにノックすらせずにドアを開けて部屋へと入っていった。
「クソジジイ。まだ生きていたのかよ。仕方ないからこの天才のボクが成した実験の成果を見せに来てやったぞ」
胸に手を当て、そらし、不遜な物言い。
いやご主人、さすがにそれは無いでしょうよ。相手は義父殿なんでしょ? オレのじぃじなんじゃないの?
「ロキ、お前はまたそんな……。親父殿、任務完了の報告に参った」
トールは、そんなご主人に苦笑するだけで、あとは用件だけ告げて頭を下げる。
いや、いいんかい? そんなんで?
肝心のオーディンは、極彩色の液体が入ったフラスコの中身を、一滴ずつ宝石みたいな結晶に垂らしているところだった。
……こら、じぃじ。こっち見んかい。
「ご苦労。トールはもう行ってもよいぞ。嫁がまたうるさかろう。会いに行ってやりなさい。ロキは少し待て。これがもうすぐで終わるからのう」
あ、ご主人。イイこと考えたみたいな悪い顔しちゃって、なにする気よ? やめときなされ。
イタズラしちゃうぜって感じの悪い顔したご主人が、足音忍ばせてじぃじに近寄って行くのを見て、そういうことばっかりやってたから、冷ややかな目で見られるようになったんだろうなと思ったりする。
じぃじが怒ってもオレは面白くないので、ぬき足さし足のご主人を追い越してじぃじの足にぴとっと体を寄せる。
「……うん? なんじゃ? 少し待てと言ったであろうに。……うん? この犬はなんじゃ?」
作業の手を止めて、足元のオレを見てくるじぃじ。
ふっ、オレの姿は神々の主でさえも見ずにいられない愛らしさだよな。
「こりゃ、お前。どこから忍び込みよった? ここは、お前のようなめんこい子が来るようなところではないぞ?」
そう言いながら、じぃじは少しかがんで低い位置から手を差し出してくる。
こっちがびっくりしない程度に、ゆっくりと差し出された手の匂いをふんかふんか。これがオーディンの匂いな。覚えたぞ。
ゴツゴツと節くれ立った指は太く力強く、魔術師というよりは武人のそれに思えた。
……なんか、薬品臭がするぜ……。まあいいか。さあ、なでておくれじぃじ。
匂いをかいだあとは、その手に頭をこすりつけ、なでろアピール。
それが正しく伝わったのか、意外と大きな手であご周りをなでてから頭をわしわしなでてくれる。
思いのほか力強いなで方に驚きはするものの、もっとなでろとむしろ手をぐいぐい押すように近づいていく。
「ほう、ほう、元気な子じゃ。……して、ロキよ。このコレが、『実験』とやらの結果か?」
ならばと、両手でワシャワシャなでてくれるじぃじが問えば、
「そうさ! その子が、異世界に住まう生命体の魂と神殺しの牙を併せ持つボクの傑作だよ! 強靭な意志を持つ魂を選別したから、位階が一段上がっている。その証拠に、気配り上手なのさ!」
得意げなご主人の声が聞こえてくるが、今はじぃじのなでる手に夢中だ。思わず口が開いちゃうぜ。
そこに指をつっこんでくるものだから、あみあみと甘噛みしちゃうけど許してくれよな。
「…………気配り…………」
ふむぅとうなるじぃじ。犬歯のあたりを入念に触っている気がするが、じぃじに神殺しの牙が当たったら大変なことになるので、当然引っ込めてるぜ。
傷つけちゃったらご主人の責任にされるだろうからな!
「……ふぅむ……めんこいのう……」
満足したのか、口から指を引き抜き頭をなでてくれるじぃじ。
だよな。かわいいよな。うれしくてじぃじの足に体をこすりつけちゃうぜ。
「ロキ、見せることはできるのかの?」
「フェンリル、牙を」
じぃじが問い、ご主人が命じる。
けれどオレは、つーんとそっぽを向く。
「フェンリルっ」
「ははっ、こいつ、賢いな」
じぃじの足にぴたっとくっついたままそっぽを向くオレを抱きあげる偉丈夫。
そうさ。じぃじとご主人が良いと言っても、周りは騒ぎ立てるだろう。
能ある鷹は爪を隠すだ。能ある狼は牙を隠そう。
最大の武器は、この可愛さでいいじゃないか。
有事の際は、敵にこの牙を剥こう。でもそれは、今じゃない。
「こいつ、親父殿に牙を見せると、ロキが大変なことになると分かっているようだぞ」
背の高いトールに抱き上げられた状態で、うんうんとうなずく。
「牙を見せないと納得しないだろうに……もう」
「……ふむ。賢さも武器の一つか……まあ、よかろう」
不満そうなご主人はさておき、じぃじはそれなりに納得したようで、極彩色の液体が入っているフラスコが並んだ机の一角から、何やら紙を取り出して羽ペンでなにか書いていく。
「褒美だ。宝物庫から適当に持っていけ。持ち出し禁止は番人が知っておる。ご苦労。またなにか思いついたら申請せい」
トールの腕の中からご主人に渡された書状を見る。
……うん、なに書いてるかまったく分からないぜ。
でもさじぃじ、なんか薬品が染み込んで色変わってる紙を使わんでもいいだろうに。
「良かったじゃないか、ロキ。お手柄だな!」
親友の実験が認められたことで、我がことのように喜ぶ偉丈夫。けれど、当のご主人はさほど嬉しくなさそう。
まあ、それはそうなんだろうな。
だって、ご主人が欲しいのは、褒美でも賞賛でもなくて、義父殿の興味だから。
もっと、見て。かまって。愛して。
やることがありすぎて忙しい義父と、その義父の気を引きたい養子。
イタズラ好きになるわけだよ。
悪さすれば、義父殿が向き合ってくれるから。
向き合ってくれないなら、もっと大きなことを。もっと致命的なことを。もっともっとひどいことを。
どうやっても、なにをしても、ろくに気を引くことすらできない。
かまってくれない。愛してくれない。
歪むのも、当然だよ。
オーディンの興味は、ロキに向いてない。
神々の園の管理運営に、敵性存在の動向に、自分の趣味に、ラグナロクの、終焉の行方に。
そのどれもに、ロキは絡んでいるのに、ロキ本人をろくに相手していない。
いにしえの巨人の首は、口を閉ざしたままなのだろう。
終焉の未来を語ったその口を。
ならば、その主原因たるロキを始末してしまえば、神々の黄昏は起きないのではと思ってみても、それをしないのは、親の愛でもあるのか。
忙しいとか接し方が分からないとか、そういうのはいいからさあ。
なあ、じぃじ。自分が拾った義理の子を、黙って抱きしめてやることはできないものなのかね?
歪むのも、当然だよ。
みんな死んでしまえって思うのも、当然だよ。
だって、親友と呼んではばからないトールでさえも、最終決戦の時はロキと共に居てくれはしないのだから。
それが分かっているから、悪意を振りまくことしかできないんじゃないのかね?
この、寂しがり屋のご主人は。
誰かが、ずっとそばにいてくれたなら。
誰かが、変わらぬ愛を注いでくれたなら。
終焉の刻など、訪れないのでは。
……なんて、思ってしまう。
「なーんか、つまんないなあ……」
自室のベッドの上で、オレを抱き上げるご主人。
牙を見せなかったことで、オレは神の力すら封じる鎖に繋がれることもなく、首輪もなしに放された。
そこで起きるはずの、様々なトラブルも、まるっとなかったことになった。
ロキに目がいっていた神々も、オレにも目がいくようになり、なでてアピールするとだいたいがなでてくれるようになった。
むしろ、オレをなでにロキの元を訪ねてくる神がいる始末。
トールも、暇を見つけては嫁さんを連れてオレをなでに来てくれるようになった。
デレデレした目でオレをなでる嫁さんを見つめるトールと、そのトールを面白くなさそうに見つめるご主人。
微妙な三角形が、目に浮かぶようだ。
で、そのトールと嫁さんが帰って静かになった部屋で、ご主人がつぶやいたわけだ。
つまんないって。
なら、面白くなるようにすればいいじゃないかって、思うわけだ。オレとしては。
ご主人って、霜の巨人に配下を産ませたり自分で配下を生み出したりする、性別を超越した存在だろうに。
そして、自身のことを親友と呼んではばからない偉丈夫のことは、憎からず思っているはず。
なら、女にでもなって、トールの二人目の嫁さんにでもなればいいでしょ。
嫁さんを説得して第二夫人にでも収まれば、少なくともトールはずっとかまってくれるでしょ。
「……フェンリル、キミ、天才!?」
なーんてな。……って、ご主人?
「これは名案だ! さっそくやってみるよ!」
ベッドから飛び起きて、オレをほっぽりだし、どっかへ風のように走り去るご主人。
……アホやな。
……ちなみに、ご主人の奸計にトール夫妻はあっさりとハマり、匂いをたどったオレがご主人の元にたどり着いたときには、寝室がうるさいってトールの子どもたちから抗議されたほど。
……アホやな。
まあ、夫妻とご主人がいるはずの寝室が静かになるまで、オレは夫妻の子どもたちにもふもふなでなでされてたから、文句はないけどな。
時は流れ、おおむね平和に過ごしていたある日のこと。
暇さえあれば、ベッドの上で運動しているトール夫妻とご主人の三人に呆れながら床でくつろいでいたとき。
空に、世界に、角笛の音が、響き渡る。
神々の黄昏が始まったのだと、全ての敵が、決戦の地であるここアースガルドに集結しているのだと告げる角笛の音が。
運動を止め勢いよく飛び起きるトールと、気だるげに身を起こすご主人。
「始まったか、行かねば」
気を引き締め、身を清めてから戦装束に身を包んでいく雷神と、
「……やっべ……すっかり忘れてた……」
色ボケして自分が関与していたこの事態をすっかり忘れ去っていたご主人。
「ロキ、お前は来るな。もう無関係だ。それでいいだろう。シヴ、あとは任せた」
神々の、世界の存亡をかけた最終決戦に赴くトールと、
「そうはいかないよ。もう離れないと誓ったろう?」
それに寄り添うご主人。
……ご主人、もうすっかり女の顔だぜ……。
「フェンリル」
アンッ! なんだいご主人。
「スルト殺ってきて」
アオンッ! 任された。
「ヨルムンガンド」
シャッ!
「エーギル殺ってきて」
シャシャっ!
生み出してすぐ海に放り投げられてた哀れなヘビを呼び出し、命じるご主人。
……基本ご主人のそばにずっといたオレが言うのもなんだけど、同情するぜ!
『あとでなんか埋め合わせしておくれ』
ヘビから、その境遇に対してだいぶ控えめな要求が念じられる。
『見た目がキモいから、可愛い感じのヘビに変身したらいんじゃね?』
こちらからも思念を飛ばす。
『いいね。そうするか』
名案だと言わんばかりのヘビに、こいつ結構海で充実した生活してたんだなと内心呆れる。
「……ロキ、お前なあ……」
「これだけやっておけば、あとはなんとかなるでしょ」
そんな感じで、トールはシヴとロキと誓いの口づけを交わし、トールとロキは戦場へと向かった。
さて、オレの権能は、神殺しの牙の他にもう一つ存在する。
それは、巨大化。
神々の敵は、主に巨人。
山のように巨大な体躯を持つ巨人は、常に神々を脅かしてきた。
その巨人の巨躯よりも、さらに体を大きくする。
山よりも、世界樹よりも大きく高く、天へ届くほどに。
天に輝く月が目の前にあると錯覚するほどに巨大化したオレは、燃え上がる炎を身に纏う巨人の主の一柱を見下ろす。
こちとらチワワの姿ではあるが、神々を見下ろす巨躯の巨人の群れを、今はオレが見下ろしている。
ふっ、ちっちぇな。巨人の群れが、ゴミのようだぜ。
数え切れないほどのその一団に、宣戦布告の意味を込めて、神力を込めた吠え声を浴びせた。
天も地も震わせる吠え声は、物理的な衝撃波となって巨人どもを襲い、なぎ倒し、散り散りに吹き飛ばし、粉砕し、血飛沫へと変えていった。
あとに残るは、身に纏う炎を消された裸の巨人一柱。
巨星が墜ちるほどの速度でもって、神殺しの牙を振り下ろす。
あとには、咆哮でできた轍と、牙を振り下ろしてできたクレーターのみ。
神々の黄昏の終局にて、世界を焼く炎を放ちいずこかへ去ったという巨人の主は、なにを成すこともなく、なにを得ることもなく、ただ、その存在を消された。
一方、海を渡ってきた巨人の一団は、エーギルの元に連れてこられた、水死した者の魂が実体を得た存在と、エーギルと関係が近い巨人の混成部隊。
ヴァルハラへと招かれた戦士の魂とは違い、水死した者たちは魚やタコなどの姿を模した異形と化していた。
それらと巨人どもが、エーギルの制止を無視して侵攻してきていた。
海の神エーギルはこの場にはいない。
戦う意思もなければ神々と争う理由もない。
その部下らが勝手に息巻いて徒党を組み攻め込んできていた。
ヨルムンガンドは、主人の意思を正しく認識し、実行する。
主人が欲しているのは、海の神の首級ではなく、海側からの侵攻に対する守りだ。
元より、好き勝手やってきた神々に対しては、多くの存在が不満を募らせ敵視している。
そのため、ありとあらゆる敵性存在が、一斉にここアースガルドへ侵攻してきているのだ。
その、ほんの一角を受け持てば、力ある神々ならば耐え凌ぎ敵勢力を殲滅できると踏んだのだろう。
敵は、海から来る死人の群れと巨人。
海から陸に上がり、戦場へ参じよと歩を進める者たち。
その、最前列が、消滅した。
恐怖を知らぬ死人の群れは、歩みを止めずに次々と消滅していった。
歩みを止めた巨人どもは、いかなる攻撃か見極めようと守りを固めた。
そんな巨人たちでさえも、一人また一人と消滅していった。
海から来る一団が陸と思ったそこは、ヨルムンガンドの体の上。
一団は、ヨルムンガンドが操る毒により、体組織を一瞬で溶かされ、消滅していったのだった。
その力は、巨人たちであっても抗えるものではなく、瞬く間に数を減らし、全滅した。
はるか彼方の沖合から、エーギルの嘆きがヨルムンガンドにも届く。
しかし、そんなことは、知ったことではない。
すべては、主人の命ずるままに。
主人の言葉通りにしないだけ、感謝してもらいたいくらいだった。
広大な海を、神すら死滅する毒で満たすことだってできたのだから。
毒で海を汚さなかっただけでも、感謝してもらいたいくらいだった。
ラグナロク。神々の黄昏。終焉の刻。
それは、神々の勝利で終わった。
ロキ、フェンリル、ヨルムンガンド。それら三柱の神が味方となったことで、それらと相対し命を落とすはずだった神が生き残り、それらの強大な力を、別の敵勢力へ向けたことで、さらに多くの神が生き残ることになった。
愛に盲目となり、必殺の武器を失ったままスルトと相対し、その力を発揮できないままに焼き尽くされたアホな色ボケフレイとか。
角笛を託され、終焉の始まりを告げる大役を任され、ロキと相打ちになったというヘイムダルとか。
あらゆる手段を持って準備してきたにも関わらずフェンリルに殺されるはずだったオーディンとか。
敵勢力は壊滅したが、被害は驚くほど少なかった。
それだけ、神々と、死した戦士の魂エイルヘリヤルたちが奮戦したということでもあり、ロキたちの裏切りは絶大な効果を発揮したということでもある。
あとに残るのは、生き残った者たちが紡ぐ、平和の時代。
それまでとは少し形を変えた、神々の享楽と、人々の営み。
それはさておくとしても、戦後も上手く立ち回りオーディンとトールの助力も得て、他の神々から注目される存在となったご主人のロキ。
褒美も立場も得て、ご満悦……とはいかず、立場には責任も伴うもので。
これまで自由にやってきたご主人に公務が割り振られるようになり、違う意味で不満を募らせているようだ。
とはいえ、完全に女として生きているご主人は、名実ともにトールの親友にして相棒にして妻となり、それはもう楽しそうにやっている。
ヨルムンガンドは、ミミズ状の姿をご主人の力も借りて巨大で美しい海蛇へと姿を変え、思うがままに海で活動している。
オレの埋め合わせとかは必要なさそうだ。
と思っていたら、ご主人に進言してくれたことが埋め合わせだと嬉しそうにしていた。
……本人が嬉しそうなので、まあいいかとなっている。
そして、オレは、トール夫妻とご主人たちの飼い犬として、今日も愛想を振りまき家族たちからもふもふなでなでされて幸せに過ごしている。
もし、この幸せを壊そうとするモノが現れたなら、そのときはまた神殺しの牙が唸ることになるだろう。
そうならないことを祈り…………って、しっぽは握っちゃだめだーーーっ!
あおーーーーんっ!
・人物紹介(作者の認識と資料の情報と創作とが入り混じっております)
フェンリル:ロキの子。狼の姿で神殺しの牙と巨大化の権能を持つ。あまりに強大で危険な力を持って生まれたため、妖精が作り上げた特別な鎖で封印された。しかし、ラグナロクが始まるとその鎖を食いちぎって参戦。主神オーディンを食い殺した後、オーディンの子ヴィーザルに討たれる。
スコル、ハティといった子孫もいたようだ。
ロキ:オーディンの養子。フェンリル、ヨルムンガンド、ヘルの親。変身能力があり、巨人の女と子を設けたり、自身の力で生み出したりしており、性別を超えた存在とも。北欧神話最悪の悪神。あらゆるものに悪意を振りまき、最終的には巨人や他の神族を巻き込んだ大戦ラグナロクを引き起こす。
トールとは馬が合ったようで、世界中を旅し妖精たちにグングニルなどの武具を作らせるなどの貢献もしている。
ラグナロクにおいて、終焉の始まりを告げる角笛を吹く役を任されたヘイムダルと相打ちになる。
ヨルムンガンド:ロキの子。フェンリルの弟。産まれてすぐに海に投げ捨てられた。トールに釣り上げられそうになるエピソードなんかもあったようだ。
ラグナロクの際は、トールと対峙しミョルニルによって打ち砕かれるが、ヨルムンガンドの毒を浴びたトールは絶命してしまう。
非常に長大な体を持ち、ミズガルズ蛇などという別称もあったようだ。
トール:オーディンの子。北欧神話でもっとも有名な神の一柱。圧倒的な怪力と雷の力を持ち、豪快で短気な性格。嘘つきのロキとはなぜか馬が合ったようで、世界中を旅し窮地に陥ってはロキの悪知恵で救われていたりする。
雷槌ミョルニルは、後の代名詞と言われるほどの強力な槌で、トールの怪力とその力を倍増するベルト、雷がもつ高熱を遮断する鉄の手袋を装備することで初めて全力で扱うことができるようになり、このミョルニルを投擲して倒せなかった敵はいないほど。
数々の武勲を持つが、ラグナロクにおいてヨルムンガンドを討伐するものの、受けた毒が原因で命を落とした。
余談だが、トールの子など一部の神はラグナロクを生き残り、その後別の世界へと旅立ったと言われている。
オーディン:古き神を討伐し新たな世界を築いた神であり魔術師。トールなどの親。
予言を告げる巨人の首から告げられた終末に備え、捧げた生贄に応じて力を授ける泉に、自身の片目や自身そのものを捧げてまで力を増やし、財宝のみならず強力な武具も集め終末に備えたものの、ロキの子フェンリルに食い殺された。
北欧神話において、暇を持て余した神々の、贅を尽くした饗宴に参加していた描写は少なく感じる。案外忙しかったのかもしれないし、宴には興味がなかったのかもしれない。
神話の序盤からロキを大事にしていたなら、ラグナロクは起きなかったのではというのが作者の予想。
シヴ:トールの妻。詳細は不明。ウィキペディアなどの資料を参考にしてもらいたい。
フレイ:美しき神と言われている男神。妖精の国の管理者。フレイヤは双子の妹。
愛に盲目となり、必殺の力を持つ勝利の剣を手放したことで、ラグナロクにおいて鹿の角を持ってスルトと相対し、命を落とすことになる。
勝利の剣は巨人の手に渡りスルトの元へと渡ったともされているようだが、根拠は乏しいようだ。
ヘイムダル:終末の始まりを告げる角笛を吹く任を任された神。
詳細は不明だが、角笛の音は世界中に響き渡るとされるために、それがなければ戦闘準備や避難などもできない者もいたと思われるため、重要な任務を任されるに相応しい神力を持っていたと想像できる。
ラグナロクにおいて、ロキと相打ちになる。
スルト:巨人にして炎の国の守護者。詳細は不明な点が多いものの、古い時代より頑なに国を守護し続けたようだ。
ラグナロクにおいては、炎の国の尖兵を引き連れて神々を襲撃し、フレイを仕留め、終局においては世界を焼く炎を放ちいずこかへ去ったという。生死も行動も不明な点が多い存在のようだ。
フレイが持っていた勝利の剣が流れ流れてスルトの手に渡ったともされているが、根拠は乏しいようだ。
エーギル:海の神。特に、外海の荒々しい無慈悲な自然を象徴する存在。
海で溺れ死んだものはエーギルの元に連れてこられるとされる。
神々のために酒宴を催したりするが巨人の勢力に属している。
ラグナロクにおいては、神々と敵対的な行動はとっていないようだ。