恋の終わりと記憶喪失と
眩い光で目が覚めた。男の人が一人、俺の顔を覗き込んでいる。白衣を着ているから、多分、医者だ。そこは病院のベッドの上だった。
「こんにちは、時田ヒロシくん」
初老の医師が俺に声をかけてきた。同時にベッドが稼働して、俺の上体がゆっくりと起こされてゆく。
「気分はどう?」
実際、気分はあまりよくなかった。俺は「ええ」と曖昧に答えておいた。
今日は何月の何日だ? 12月3日……だったような気がする。今日も普通に高校に行って……確かその後……思い出せない。記憶が曖昧になっているのが、自分にはわかった。
「あの、何があったんですか。俺はどうしちゃったんですか」
「それを今から解き明かしていくんだよ……すこし話を訊かせてもらってもいいかな?」
医師は書類――恐らくカルテであろう――にペンを走らせながら、
「今回みたいなことは、これまでにも何度かあったの?」
よくわからないことを訊いてきた。
「今回が初めて? それとも、これまでにもやったことがあるの? オーバードーズを」
オーバードーズとは、薬物を過剰に摂取する自傷行為、自殺行為の事である。
「あの……」
俺は、事実をありのままに答えた。
「オーバードーズなんて一度もしたことありません」
医師「ふむ」とか言いながらカルテにごちゃごちゃと書き込み、そして予想外の質問を俺によこした。
「じゃあ君は、自殺しようとしたのかな?」
見当外れの面白くない質問ではあるのだが、どうやら医師は真面目に質問しているようなので、俺も真面目に答えておく。
「あの、自殺なんてしてません」
すると医師はしばらく俺の目をジーッと見てからもう一度「ふむ」と言って、
「今がいつなのかわかるかい? 今日は西暦何年の何月何日?」
「2008年12月の……えっと……3日? でしたっけ?」
医者は首を振った。
「今は2009年の10月20日だよ」
「……はい?」
医師は呆気にとられている俺の目の前に腕時計を突き出し、
「ほら、2009年、10月20日。午前6時35分50秒」
「いや、そんな、まさか、」
「電波時計だから1秒も遅れてないよ」
「いやそうじゃなくて、どういうことですか……」
俺の頭は相当に混乱していた。こうなると、嫌でも一つの答えに行きつく。
「俺は、一年近くも眠ってたってことですか」
「いいえ、そうではありません」
医師はサラリと言った。
「逆行性健忘ですね。つまり記憶喪失です」
「記憶喪失? 俺は何も忘れちゃいないですよ」
「ですから、2008年12月3日以降の記憶を、全部すっかり喪失してしまっているのです。今日が2008年12月3日だと思い込んでいるのは、そのためですね」
「そんな……」
医師はカルテに何やら長々と書き込んだ後、顔を上げた。
「あなたは18歳ですし、私も……」
「17です」
「いいえ、18歳です。……あなたはもう18歳ですから私も率直に言いますが、あなたは睡眠導入剤を大量に飲んで、自殺を図ったんですよ」
医師は首を傾げ、「覚えてないですか?」と。
「……覚えてないです」
「そうですか。ふむ。でしょうね」
何が「でしょうね」なのか俺にはさっぱりわからん。
「あの、本当ですか? 俺が自殺を図ったというのは」
「本当です」
「俺はなぜ自殺しようとしたんですか」
「知りません」
ふと近くにあった鏡を見てみると、いつの間にか茶髪になっている自分の姿が映った。
「ちょっと、誰ですか俺の髪を染めたのは」
「あなたでしょう」
「…………」
無慈悲な程にあっさりした物言いをする医師を前に、俺は愕然として口を閉じた。そうか。俺は忘れてしまったのか。一年近くの記憶を、さっぱり忘れてしまったのか。
「致死量近い睡眠導入剤を摂取すると、一時的に記憶を喪失することがあります」
ごく稀にね、と医師は続ける。
「さて、それではこれから、あなたを県立の精神病院に移送します」
「えっ」
俺は我が耳を疑った。今、精神病院と言ったか?
「精神病院にって、どういうことですか」
「当然の処置です」
医師は立ち上がり、遠くに見える看護師に向かって手招きした。
「あなたは自殺未遂をしたのです。精神病院に入院して、治療を受けなければなりません」
「……どれくらいの間入院するんですか?」
「自殺未遂ですと」
医者はカルテをたたみ、
「だいたい3カ月くらいですね」
まるで他人事のように(実際他人事だけど)さらりと言った。
「3か月?!」
俺は天を仰ぎ、目を覆った。
「そんな、3カ月も……」
そうしている内に、先ほど医者に呼ばれた看護師が、ストレッチャーを持ってきた。
「さあ、こちらに移ってください」
医者が指で指示をする。
「先生、これは何かの間違いです」
俺は言った。
「俺は自殺したいなんて、これっぽっちも思っちゃいません。だから、精神病院になんて容れないでください」
「それは無理です。例え何かの間違いであったとしても、それは入院中に解き明かしていけばいいことですから。それに、精神面のことは救急センターの範疇ではありません。我々では対処しかねますから、専門の病院に委ねなければ」
「だから、精神面は問題無いと言っているんです……!」
俺は手を合わせ、医者に懇願した。
「約束します。もうオーバードーズなんてしません。したいと思いません。ですから、せめて、記憶だけ取り戻させてください。そうでないと、精神病院に入院させられるなんてとても納得できません……!」
「…………」
医者は、悩んでいるようだった。
「お願いです。あなたには、僕を解放する権限があるはずだ」
「…………」
そして医者は、
「わかりました」
結論を出したようだった。
「今回だけは、あなたを解放しましょう」
「……ああ、ありがとうございます!」
ホッとした。精神病院に3カ月も入院なんて、たまったもんじゃない。
「でも次にまた自傷行為をした時には、うむを言わさず医療保護入院ですからね」
「ええ、わかっています」
「身体的な影響は出ていないみたいですし、早く記憶を取り戻したいのでしたら、大学に行ってみるのもいいかもしれませんね」
「大学って、どこの大学ですか? 記憶喪失の研究でもしている大学があるんですか?」
いやどこの大学って、と医者は薄く笑みを見せた。
「あなたが通っている大学ですよ」
俺は何一つ覚えていないのだが、迎えに来た母親の話によると俺は半年近く大学に通っているらしい。俺は自宅には戻らず、病院を出たその足で大学に向かった。
大学は高台に建っていて、俺は息を切らしながら長い長い階段を上って行った。建物も風景も、初めて見るものばかりだ。半年もここに通っているなんて未だに信じ難い。平日の朝なので、学内はたくさんの学生たちで溢れ返っていた。見覚えの無い顔、顔、顔……の中に、
「……小野原!」
いた。学食の前で、見覚えのある顔を見つけた。
小野原岬。高校時代のクラスメート。
「あっ、時田くん」
俺に気がついて小さく手を振る小野原に、俺は詰め寄って行った。案の定小野原は、えっ、何、どうしたの、と驚いている、というかむしろ引いている風すらあるのだが、知ったこっちゃ無い。
「ど、どうしたの、いきなり」
「小野原、今日は何月何日だ」
「えっ? えっと、10月20日かな?」
ああ。やっぱりそうなのか。今日は、2009年の10月20日なのか。あの医者が適当なことを言っていた訳じゃないのか。
「……そうか。小野原、俺と会うのはどれくらいぶりだ」
「え、時田くん……昨日も会ったよ……」
小野原は心配そうに俺の顔を見上げている。きっと、俺の頭がおかしくなったんじゃないか、とか心配しているのだろう。そして残念なことに、現に俺の頭はおかしくなっている。
「小野原。実は俺な、記憶喪失になっちまったんだ」
すると、小野原はポカーンとした顔で俺を見つめた後、
「……何言ってるの?」
千人が聞けば千人がするような返事を返して来た。そりゃそうだろう。立場が逆だったら、きっと俺だって同じことを思い、同じ返事をしたことだろう。こいつと似たようなアホ面を浮かべて。
俺は無言で医者からもらった診断書を取り出し、小野原に見せてやった。
すると小野原は、面白いようにたちまち表情を変え、
「……う、嘘でしょ」
「嘘だといいのにな。これで信じたか?」
いまいち信じてないからなんだろうな。小野原は俺の質問には答えず、
「記憶喪失って、何を忘れちゃったの? その、わたしのことは覚えてくれてた……わけでしょう?」
「高校3年の12月以降の記憶だ。この大学に入学したことも、ここで過ごしたことも、全く覚えてない」
「そんな……」
「なあ、この一年近くの間、俺はどんな感じだった?」
「えー、そういう風に訊かれても……」
まあ、だろうな。小野原が俺の挙動を逐一把握していたはずが無いのだ。今の俺にとっては、小野原が唯一の手掛かり、闇を照らす一すじの光……だと思ったのに、そうでもないのかもしれない。俺がさてどうしたものかと考えを巡らせていると、
「うーん、ちょっと待って……うん……」
小野原もいっちょう前に腕組みして、考えを巡らせていた。
「時田くん……記憶、取り戻したいの?」
当然だ。一年近くの記憶を忘れたままこの大学に復帰できるはずがない。
俺がそう言うと小野原は「……うん、わかった」とうなずき、
「……真紀ちゃんと話せば、記憶が元に戻るかもしれない」
ちょっと待ってて、と言い残して、小野原は学食に入って行った。
数分後、小野原がえらい美人を連れて戻って来た。隣の彼女は、小野原よりも少しばかり背が高い。だからといって長身でも無いが。
「連れてきたよ」
連れて来たのは見りゃわかる。見てもわからんのは、このセミロングの美人さんがどこのどなたなのか、ってことだ。
「えっと……あなたが真紀さん?」
「えっ……そうだよ……」
「そうですか、俺は時田ヒロシといいます。初めまして」
すると彼女は眼を見開いて、
「……覚えてないの?」
そう呟いた。そうだ、彼女にとって俺は初対面でも何でもないわけで、俺が一方的に忘れてしまっているだけなのだ。
「……ごめん、覚えてない」
彼女は途方に暮れたような表情で沈黙している。
「信じられないだろ、記憶喪失なんて。でも、これはマジの……」
「信じるよ」
彼女はまっすぐに俺を見据え、頷いた。
「うん、信じる。確かに、全部忘れちゃったんだね」
こんなに簡単に信じてもらえるとは思っていなかったので俺はちょっと驚いたのだが、小野原も驚いている風だった。
「……本当、なの?」
「うん、間違い無い。前のヒロシとは全然違っちゃってる」
ここまで断言できるのは凄いな。女のカンってやつなのか。
「信じてもらえると助かる。あと、記憶の復元を手助けしてくれるともっと助かる。……で、きみは?」
「わたしは、早川真紀。あなたの……」
早川真紀は俺を見つめ、小さく息を飲んでから、言った。
「彼女です」
その後、小野原が凄く気まずそうな表情で、じゃあ、またね、とか言ってどこかへ行ってしまったので、今俺と早川真紀は二人きりだ。
俺は医者から聞いたこと、現在俺が知る限りの事を、早川真紀に話した。大学での記憶は全く無くなってしまったこと、記憶がいつ戻るのか定かではないこと、そして……この記憶喪失の原因が、俺の自殺未遂であること。俺がそのことを話した時、彼女がはっとしたように一瞬表情を変えたのを、俺は見逃さなかった。
「早川、俺が自殺しようとした理由、知ってるのか?」
「それは……」
彼女はそう言って言い淀み、
「……知らない方が、いいよ」
って、どういう意味だ。
「知ってるんだな、俺が自殺しようとした理由を」
「理由は知らない」
彼女はキッパリとそう言った。
「理由なんてわからないけど、でも知らない方が、忘れたままの方がいいに決まってるよ」
「……何言ってんだよ、なんで、そんなこと、」
「だって、自殺しようとした理由だよ? それを思い出したら、また自殺しようとするかもしれないじゃない」
「あぁ……そうか」
俺は頭を抱えた。確かにそうだ。自殺した理由、それを思い出したら、俺はまた自殺しようとしてしまうかもしれない。幸い今の俺には自殺願望なんて全く無いわけだが、それは自殺の動機を忘れてしまっているからだ。思い出したとたんに、自殺への衝動に駆られてしまうかも。そうでなくともこれから先、死にたくなるほどの苦痛に苛まれ続けることになるのかもしれない。
「くそ……どうすりゃいいんだ」
「もうこの際、全部忘れたまま、新しい生活始めちゃったらどうかな」
「そんな投げやりな……」
「そんなんじゃ無いよ。わたしはヒロのこと、ちゃんと考えてるよ」
ヒロ……だと……? 早川真紀の方を見てみると、彼女はうつむいたまま、ちらっと俺の表情を窺っていた。それがいい具合に上目づかいな感じになってしまっていて、何というか、胸がフワっとした。
「その、きみはさっき、俺の彼女だって言ってたけど……」
「……うん」
「それは……やっぱマジの話なのか」
「嫌だった?」
「いや、そんなことは無いけど」
むしろ嬉しいね。男なら誰もが大喜びするだろう。だからこそ、記憶を失ったのが悔やまれる。この娘との、きっと幸せであったのであろう日々を忘れてしまったのだ。ああ勿体ない。
「やっぱり、忘れたままの方がいいと思うよ。そりゃ、これからいろいろ大変だと思う。でも、ヒロが自殺するのだけは、絶対に嫌だよ」
「…………」
「わたしも、ヒロの為に出来る限りのことはするから。ね?」
そうだな。そうしようかな。目が覚めたらいつの間にか大学生になっていて、美人な彼女までいて、うむ、悪くないじゃないか。
でもきっと、いつかは記憶が戻るのだろう。思い出さないように気をつけたとしても、それは延命措置にしかならないのかもしれない。それを思うと、明るい気分にもなれなかった。
早川真紀が授業に出ている間、俺は地理を把握するために学内を徘徊していたのだが、そう広いわけでもないので簡単に一周して、さっさと学食に戻ることとなった。授業中というだけあって、学生はまばらだ。ただ幸いなことに、小野原が残っていてくれた。
「なあ、小野原。早川真紀って……どんなやつなんだ?」
「えー……、うん、凄くいい娘だよ。人当たりもいいし、ちゃんと人の気持ちも察してくれるし。でも……」
小野原はそう言ってどこか遠い目で俺の胸元辺りを見つめながら、口元に小さな笑みを浮かべた。
「そうだったんだ。やっぱり二人は付き合ってたんだ。真紀ちゃんは付きあってないって言ってたけど、あれは嘘だったんだね」
小野原はうんうんと頷きながら、
「よく二人一緒にいたみたいけど、何か付き合ってるようには見えなかったから、ひょっとしたら真紀ちゃんの言うとおり本当に付きあってはいないのかなって思ってたんだけどね。そんなことないんだよね。わたし、ちょっと鈍感だから。ははは」
くしゃっとした笑顔の小野原を見てると何とも言えない微妙な気分になってくるのだが、早川真紀が俺と付き合ってないと言っていたというのはどういうわけだ。友達にくらい知らせておくものじゃないのか、普通。
「でも、最近真紀ちゃんとけんかしたんでしょ? 何があったの?」
「いや知らん。けんかしたことすら知らん」
「あぁ、そうだったね」
「俺と早川真紀がけんかしたのか」
「うん。理由はわからないけど、時田くんとちょっとモメたって真紀ちゃんが言ってたよ。ここ一週間くらいかな、二人とも何か距離置いてるみたいだったから、何でかな、とは思ってたんだけど」
「んー、そうなのか。後で早川に訊いてみるか、けんかした理由」
「……訊かない方がいいかも知れないよ、ひょっとしたら、そのけんかが理由で時田くん自殺しようとしたのかも……」
「……んなアホな」
けんかっつったって、たかがカップルの痴話げんかだろう。そんなので自殺するほど俺は弱くない。……と信じてる。
「これから、どうするの?」
「だから、記憶を取り戻すのはもう諦めたんだよ。俺は死にたくないからな、今のところは」
「うん、それもだけど……真紀ちゃんとは?」
そう訊いてくる小野原の姿が、いつにも増して小さく見えた……ような気がした。
「やっぱり、これまで通り付き合っていくんだよね」
「……まあ、そなるだろな。早川とは付き合っていけなくなるような決定的な事実が発覚しない限りはな」
「うん、そっか。そうだよね」
と、小野原が小さく頷いている所で、授業を終えた早川真紀が学食に戻ってきたので、俺は小野原に軽く礼を言って席を立った。
今日の全ての授業を終えた早川真紀は、一緒に帰ろうとそう言ってきた。一応俺達は付き合っていることになっているらしいので、快諾する。しかし、(俺の中では)今日知りあった、ロクに知らない女子と下校するというのもなかなか不思議な気分だ。いや悪い気はしない。しないのだが、何と言うか……気まずい。話題が一っつも浮かばない。というか、話のタネすら忘れてしまったのだろう。こうなったら、話のタネを忘れてしまったことを話のタネにしてやろうかと思い付いたところで、
「ここが、わたしの家」
行き着いた場所は、いかにも高級そうなマンションだった。きっと家賃10万は下るまい。
「家賃なんて無いよ。分譲だから」
何だと。
エレベーターの中、早川真紀は5階のボタンを押して、
「どうする? 泊っていく?」
俺とは目を合わさず、ぽつりと訊いてきた。
時刻は午後5時。そろそろ暗くなってくる時間だ。
「……いや、遠慮しとくよ。親御さんにも迷惑がかかるだろうしな」
「親はいない。一人暮らしなの」
何だと。こんなマンションに娘を一人暮らしさせられる程の財力を持つ親とは一体。なのに俺の親ときたら。これか、これが格差というものなのか――などとこんな時に社会的なことを本気で考えるほど俺の心は清潔ではない。親はいないのか。そうか親はいないのか。
「そうなのか。……じゃあ、お言葉に甘えてみようかな」
「……ねえ、ヒロ、」
「ん?」
「親に迷惑がかかるからなんて、本当は思ってないでしょ」
「……」
五階です、とアナウンスが流れて、エレベーターの扉が開いた。残念なことに、俺が親の迷惑を考えて帰ろうと思った訳じゃないというのは誤解でも何でもないわけで、つまり、俺の汚らわしい胸中は早川真紀に完全に見透かされていたわけである。
「送ってくれてありがとう。今日は帰ってもいいよ、無理やり泊らせるのも悪いし」
全然悪くないのだが。
エレベーターを出た早川真紀に、俺は何か、せめて何か言おうと思ったのだが、俺の目の前でエレベーターの扉が無情にも閉じた。
……これ、完全に嫌われたな。
と思っていたのだが、どうやらそうでもないらしい。
完全に日の暮れた午後7時、いつの間にか俺の机の上に乗っかっていたノートパソコン(どうせ俺が大学入学と同時に買ったものなのだろうが)を嬉々として弄っていると、ケータイに一通のメールが届いた。
それは早川真紀からのアド変メールだった。
新しいアドレスは、hm.th.0809.0105の後に電話会社の名前。後ろ4桁の数字が俺の誕生日1月5日を表しているらしいことにはすぐに気がついたので、おそらく前の4桁は早川真紀の誕生日を表しているのだろう。ということは、彼女の誕生日は8月9日か。そして言わずもがな、hmは早川真紀のイニシャルで、thは俺、時田ヒロシのイニシャルである。何という解読しやすいアドレスだ。というか交際宣言? これを見たら10人中2~3人はイラッとするに違いない。
が、しかし嫌われてなかったようで一応は一安心だ。好意を持たれるというのはやはり悪い気がしない。
早川真紀のメルアドを登録している最中、俺は気付いた。
メールの履歴。忘れていた。メールの履歴を見れば、大学生活中に起こった出来事を、大雑把にだが把握できるじゃないか。それどころか、記憶が蘇る引き金になるかもしれない。
しかし、俺は既に記憶は取り戻さないと決めていた。記憶が蘇れば、それは即二度目の自殺に結びついてしまうかもしれないのだ。知らぬが仏、俺もわざわざパンドラの箱を開けるようなことはしたくない。
……が、しかし。ここで人間の不思議な心理が働き始める。「好奇心」というやつだ。一般的には、怖いもの見たさとでもいうのかもしれない。見てはいけないというのは、これ以上無いくらいに解っている。頭では理解している。頭では。だが俺の気持ちは、納得してくれていなかった。
俺は、メールの受信ボックスを開いた。
ボックス内はカラだった。送信ボックスも、やはりカラ。さっき受信した早川真紀のアド変メール以外は、何一つ残っちゃいなかった。
「……お前も記憶喪失かよ」
俺はケータイを投げ出し、布団に潜り込んだ。
翌日も俺は大学に向かった。しかし俺は現在記憶喪失中の身である。大学で学んだ全ての知識も忘却の彼方に飛んで行ってしまっているので、今更授業に追いつこうなんて思うはずもない。今の俺にとって単位を取ることよりも大切なのは、大学での人間関係を理解し、把握し続けることだ。しかし、その為に何をする、というのはまだ決めていない。当面は学食でだらだらと過ごしてゆこうと思う。そうしていれば、俺を知っているヤツが声をかけてくれるかもしれないしな。
というわけで俺が学食で一人で座っていると、早速、
「よう、時田」
知らない男が声をかけてきた。好青年風の、背の高い男だった。
「……よう。あの、俺の友達?」
「は? 何言ってんだよ? というかお前も授業サボりか。そろそろ単位ヤバいんじゃなかったのか?」
いかん、勝手に話を進められてしまう。非常に言いづらいのだが、ここはキッパリと言わなければなるまい。
「あの、悪いんだけど、俺記憶喪失なんだ。だから、きみのことを何も知らない」
彼は初めの内こそ訝しげに俺を睨んでいたのだが、俺が詳細を話し診断書も見せる内にどんどん表情が変わり、
「マジかよ」
結局、信じざるを得なくなったようだ。
「記憶喪失だと? おいおい、俺の事も忘れちまったのか」
「……ごめん」
「……別にいいけどさ。俺は田代直也。初めまして、になるんだろうな、お前の中では」
「まあ、そういうことだ」
すると田代直也はくすくすと笑い出し、
「ウケる」
「……俺は別に面白かねえよ」
「悪い悪い。こんな状況、滅多にお目にかかれんからな。で、何で自殺なんかしたんだ」
「だ・か・ら、それも忘れたんだよ」
「そうだったな。ならそれはもういい。……で、時田」
田代直也はニヤリと笑って、身を乗り出して来た。
「早川真紀はどんな風だった? 何て言ってた?」
この男は、俺と早川真紀が元々付き合っていたことを、どうやら知っているらしかった。
「まあ……その、アレだ、これまで通り付き合って行こうって、そうなった。まあ俺は『これまで通り』ってのがどんな感じだったのか知らないんだけど。……田代、お前知ってるのか?」
「そうだな、よく一緒にいるな、ってのは思ってた。お前らが付き合ってるってのは知らなかったが。まあ、そんなことだろうとは思ってたけどな」
「……お前も知らなかったのか」
「ああ。それがどうかしたか?」
「不自然じゃないか? 小野原岬も知らなかったって言ってたけど、友達どうしが付き合ってるってことをこんなに身近にいる連中が知らないなんてこと、ありえるのか?」
「ありえるだろ。特に早川の場合は、自分の異性関係についてはほとんど公言しないはずだからな」
「何でそう言い切れる」
「俺と早川が付き合ってた時もそうだったからだ」
デカいことを、サラリと言いやがった。
「……! お前も早川と付き合ってたのか? いつ?」
「大学入ってからすぐにな。夏休み前まで付き合ってた」
「そのこと、俺は知ってたのか?」
「知らん。……いや、今のはお前が知らなかったって意味じゃなくて、お前が知っていたのかどうかを俺は知らない、って意味だ」
「ややこしいな」
田代直也はこう言うが、俺は釈然としない思いだった。何だろうか、この引っかかる感じは。
「いや、待て。何かがおかしい……」
小野原の言葉を思い出してみる。
――真紀ちゃんは付きあってないって言ってたけど、あれは嘘だったんだね――
女子って、現在進行形の異性関係について同性の友達に嘘をついたりする生き物だったっけ?
それに、昨晩早川真紀が送って来たアド変メール。
「田代、昨日早川がアド変したんだ」
「そうなのか。で、それがどうしたのか」
「俺と彼女が付き合っていることを示すようなアドレスだったが、俺と早川真紀が以前から付き合ってたのだとしたら、なぜ今になってから、あのアドレスに変更したんだ? そういうのは付き合い出してからすぐ変えるものじゃないのか」
「そうとも限らないとは思うが……まあ、おかしいと言われてみればおかしいかもな」
「ひょっとしたら、俺と早川真紀は元々付き合ってなかったのかもしれない。どうも出来過ぎてると思ってたんだ。俺とあんな美人のカップリングなんて、誰が見ても釣り合わないし、ありえない」
「そこまで自分を卑下しなくてもいいだろ……」
「でも、わからないことがある。俺と早川真紀が付き合ってなかったとして、なぜ元々付き合ってたなんて嘘ついたんだ?」
俺がそう訊くと、田代直也は神妙な面持ちになって腕を組み、顎に指を這わせた。
「……それに関しては、早川の内面は解らんこともない」
「何か理由を知ってるのか?」
「いや、理由を知ってるというか、単なる俺の考察だがな」
田代直也は意地悪そうな笑みを口元に広げ、
「早川は、お前に本気じゃないのかもな」
なるほど。
「遊ばれてるってことか」
「いや、ニュアンスとして微妙に違うな。お前を弄ぶのが主体ということじゃない。ただあくまで、恋愛において主導権を握り、自分に都合のいいように恋路を歩みたいだけだ。自分の価値の高さを知ってる女が男をどういう風に扱えるのか、お前も知らない訳じゃないだろ?」
「つまり、男を手玉に取れると」
「まあそうかな。お前を、この交際を、好きなようにコントロールしようとしてる」
「……そんなことして楽しいのか?」
「楽しんでるわけじゃない。自分自身のスペックを自分の為に使ってるだけだからな。だがその過程で、一種の悦びは感じてるんだろうな。言い寄って来る男どもの人数や態度から、男にとって自分の価値が高いということを実感し、自己陶酔する。甘い言葉で男の心を自分の思うがままに動かすことができれば、優越感や高揚感に浸れる。ありがちなことさ、見た目が綺麗で、ちょっとばかし周りよりモテる女にはな」
「男としては、嬉しい話じゃないな」
「だな。でもしょうがない。多分、みんなだいたいこんな感じなんだろ」
「……だがまだ解らん。早川は、何で俺を選んだんだ?」
「恐らくだが、早川がお前を選んだんじゃない。お前が早川を選んだんだ」
「俺が?」
「女は普通、心から惚れた男を手玉に取ろうとは思わないし、取れるとも思わない。早川がお前を手玉に取ろうと思ってるんだとしたら、お前が早川に対して好意を持っていることを、早川自身が知っていたからだ」
「つまりこういうことか、俺は以前、早川に告白したことがあると?」
「いや、告白したんじゃなくて、早川が感づいたんだろうな。記憶を失ったお前に対して、自分はお前の彼女だ、なんて言ったということは、きっとお前が告白する手間を省けると思ったからだ。元々付き合っていたということにすれば、一気に親密になれるからな」
「でも早川が俺の事を別に好きじゃないんだとしたら、なんでこんなことをする? 金目的か? 金なら無いぞ」
「そうじゃないと思うぜ。早川は、お前となら付き合ってもいいと思ったんだろ。何も女は、本当に好きになった男としか付き合わないって訳じゃない。彼氏がいないよりかはいた方が寂しくないし、悩みも聞いてもらえるし、暇もつぶせるし、それに、性欲があるのは男だけじゃないしな」
「……それが、早川が俺の彼女だって嘘をついた理由か」
「今のところは、それくらいしか説明のしようが無い」
「…………」
正直、俺はヘコんだ。いや最初っからどうもこれが純愛じゃなさそうだなという気はしていたさ。だけど、舞台裏を見せられるとやはり幻滅する。
「そう気を落とすなよ。世の中の恋愛なんて、だいたいそんなもんだぜ」
「……ひょっとしてお前、これに気付いて早川と別れたクチか」
「ああ。何か見下されてるような感じがしてきて、それが嫌だった」
「……そうか」
「さあ、これからどうする? 早川とは、これまで通りに付き合っていくのか?」
「……まあ、一応そのつもりだが」
「ふん、そうか」
田代直也は何食わぬ顔でふんふんと頷いているのだが、どうなのだろうか、こいつは心の中で俺の事を愚かな奴だとか思ったりしていないのだろうか。
「時田お前、あいつの家には随分泊りに行ってたみたいだったが、これからも行くのか?」
うーん、こんな話を聞いた矢先、俺の方から泊りに行こうとは思わんが……呼ばれたからってホイホイついて行くのもな……何か気分悪いしな。
「……いや、しばらくは行かないことにする」
「まあ、だろうな。俺もそれでいいと思うね。俺も今度早川の家に行く予定があるからな、お前らが二人でいるときに水をさすのも気が引けるし。あ、お前の悪いようにはしないから安心しろ」
「別に心配もしないし、もしお前らがそういうことになっても別に構わないと思ってる」
「そう自暴自棄になるなよ……」
田代直也はくつくつと笑いながら席を立ち、俺の肩をポンと叩いてどこかへ行ってしまった。
さてその後、早速早川から、家に来て、とメールが来た。田代からあんな話を聴いたばかりなので、早川真紀の言いなりになるのは嫌だった。俺は何を言われようとも毅然とした態度で断ることにしていたので、当然「結構です」と返信……すべきだったのに、ナゼか「んじゃ今から行くよ」と返信してた。当然「待ってるね」となるわけで……もうね、これはしょうがないよ。可愛い女の子に誘われたら断れるはずが無いんだよ。男の悲しいサガだよ。俺の心は泣いているよ。嘘だよ。
ちょっとドキドキしながらインターホンを鳴らした俺を、早川真紀は笑顔で招き入れてくれた。部屋は広かった。流石に俺の家程の広さは無いけれど、俺の家よりかは遥かに綺麗だった。
「で、どうしたの?」
俺はコタツ机に座って茶菓子を食いながら、そんなことを訊いていた。
「何か話でもあるのか?」
すると、早川真紀は困ったような顔をして、
「いや……別に、ただ来てほしかっただけなんだけど……」
……そうだった。今俺達は付き合っているわけで、つまりは何の用事も無くとも、互いを互いの家に招き入れる権利を有する訳だ。
「記憶、まだ戻ってないんだね」
「ああ。まあ、戻らない方がいいだろうしな」
「うん……」
どうも、早川真紀が浮かない顔をしている。あからさまだな、明らかに気付いてほしいのアピールだ。
「あの……どうしたの? 何かあった?」
俺がそう訊くと、
「……ヒロ、あのね、」
やっぱり何かあるのか。早川真紀は棚から紙を一枚取り出し、俺に差し出した。そのA4判コピー用紙には、こんな言葉が印刷されていた。
今日の夜12時に、○○公園のトイレまで来てくれ。
「……わたし、ストーカーに狙われてるの」
「……え、ストーカーって、あのストーカー?」
「……ごめん、わたし他のストーカーを知らない」
俺も。
びっくりというか、唖然とした。ストーカーの話なんて、初めて生で聞いた。実在するのか、ストーカーなんて。
「これは、2カ月前にポストに入れられてたやつ。今でも、誰かわからない男の人に付き纏われてる」
「警察には届けたのか?」
「届けたけど、真剣に取り合ってもらえなかった」
警察は被害が出ないと動かないからな。
「ヒロは前から知ってたんだけど、忘れちゃったから……」
「……すまん」
「いや、いいんだよ。わたしも、ヒロに言うべきかどうか悩んだよ、迷惑になるかもしれないし……このことを教えて、ヒロの記憶が戻っちゃったらって思うと、言わない方がいいんだって、ずっと思ってた」
早川真紀はそこで言葉に詰まったように言葉を区切って、
「……でも、怖かったから。不安だったから。……ごめんね、ヒロ。ごめんね」
消え入りそうな声でそう呟いた。肩を震わせる早川真紀のその姿は、まるで獰猛な肉食獣に怯える小鹿のよう。下唇を小さく噛み、俺を見つめる彼女の瞳にはうっすらと涙が浮かんでいてぬぉぉあああああ抱きしめてぇ。
「早川、そんなこと気にするな。悩んでることがあったら、何でも俺に言え。出来る限りの事はするから」
「……うん。うん、ありがとう」
どうやら早川真紀はギリギリのところで泣かなかったっぽい。いやむしろ泣いてくれ。俺の胸に飛び込んで来い。
「しかしコイツ異常だな。深夜の公園のトイレに呼び出すとか……もうこの一文がコイツの内面全てを映し出してるな」
「……うん、怖い。夜も眠れなくなっちゃって、病院で睡眠導入剤処方してもらった」
そんな弱った彼女を見ていると凄く護ってあげたくなる。
……のだが、しかし、冷静になるのだ俺。ストーカーがいるというのは、果たして本当なのだろうか? 仮に本当だとしたら、早川真紀は本当に困っていて、心底俺を必要としているということになる。しかしこの話が全て嘘だとしたら……彼女は今まさに、俺を手玉に取ろうとしている訳だ。ストーカーという仮想の敵を配置して俺を味方につけ、弱った自分を見せて俺の心を動かそうとしているのだ。恐ろしいほどに計画的だな。
しかし今は、これが嘘だという証拠は無い訳で。
結局この日は早川真紀の話を聴くだけ聴いて、日が沈みかけたところでお暇させてもらった。
翌日俺は昼前に起床して、鬱々とした気分で電車に乗り、どんよりと曇った気持ちで大学に向かった。突然美人な彼女ができて、初めの内はラッキーだと思ってたんだけどな、どうもそうでもないらしい。俺の人生がどんどん暗い道に入って行ってるような気がする。
大学に到着したのは、ちょうど昼食の時間だった。だった、というか、その時間に着くように計算して家を出たのだ。つまり俺は、学食で昼飯を食べるためだけに大学に行っているのだ。我ながらダメ人間である。
早川真紀は、少なくとも学食にはいなかった。その代わり、小野原がいてくれた。記憶喪失初日もそうだったけど、地味に助けられてるな小野原には。
「よう、ここ座っていいか?」
「あ、うん、いいよ」
小野原は、素うどんをちゅるちゅるとすすっていた。俺もうどんにしようかな。でも肉うどんとかたのんだら、ちょっと嫌味だろうか。
「お前、いつも一人で飯食ってんのか」
「えー、そんな訳ないよ」
小野原はけらけら笑い、
「普段は真紀ちゃんと一緒に食べるんだけどね、今日は来てないみたいだから」
「アイツ、よく休むのか?」
「ううん、そんなこと無いよ」
「そうか」
……もう話題が尽きたぜ。
普通なら気まずくなる場面なのだが、相手が小野原なので、別に無言でもいいや、とか思ったりする。小野原の事をどうでもいいと思っている訳ではない。本当に親しければ、沈黙なんて痛くも痒くもないのさ。
「……ヒロシくん……あの、アレだね、最近、物騒な事件多いよね」
……前言撤回。俺と小野原は特に親しい訳でもなかったみたいだ。
「そうなのか?」
「うん。特に女が男を6人も殺した事件とかね、怖いよね」
「女が男を6人も? そりゃまた、日本の犯罪史に残りそうな事件だな」
「えー、時田くん知らないの? あれだけニュースになってるのに……」
「ニュース観て、忘れちまったんだろうよ」
何度言わせりゃ気が済むんだ。
小野原は「あっ、そっか」とか言っている。
「34歳の女がね、結婚詐欺した後、相手の男の人を殺してるんだよ、6人も」
「どうやって?」
「睡眠導入剤を飲ませて意識を失わせた後、練炭炊いて一酸化炭素中毒死させたり、家に放火したり。しかも全部、自殺とか事故死とかで片づけられちゃってたみたいだよ」
俺の背筋に悪寒が走った。
「……待ってくれ、今、睡眠導入剤と言ったか」
「言ったけど……どうしたの?」
「俺の自殺も、睡眠導入剤の過剰摂取だった」
おかしいと思っていた。
誰に聞いても、俺が自殺しそうな動機を知らない。
そしてカラになったメールボックス、早川がついた大嘘。
「俺は一度自殺しようとしたらしいが、遺書なんて見つかってない。そもそも、自殺する動機なんて無かったからだ」
「えっ、どういうこと?」
「小野原。きっと、俺は自殺しようとしたんじゃない。殺されかけたんだ」
「まさか、そんな……だれがそんなこと」
俺を殺そうとしたやつがいるとすれば、それは誰か? ……明白だ。
「早川真紀だ」
「そんな、あり得ないよ」
「本当にあり得ないと思うか? 俺に睡眠導入剤を飲ませられるほど身近にいた人間は誰だ? 早川だ。身近な上に、あいつは睡眠導入剤を持っていた。ストーカーのせいで眠れなくなって医者に処方してもらったと、奴自身が証言してる。それに、俺のメールの履歴は全部消去されていた。きっと、俺と早川のやりとりが警察にばれるとマズいと思って消したんだろう。そして、俺と早川が元々付き合ってた、ってのは早川がついた嘘だ。俺を殺すのに失敗した早川は、既成事実を作って手っ取り早く俺に再接近して、今度こそ殺そうと考えたんだろう。さらに、俺に記憶を取り戻さない方がいいと最初に言ったのも早川だ。どうだ、これでもまだ本当にあり得ないと思うか?」
「やめてよ!」
小野原は、潤んだ瞳で悲痛な表情を浮かべていた。
「真紀ちゃんはそんなことしないよ! 今の時田くんは真紀ちゃんの事を何も知らないじゃない! 全部忘れちゃってるのに、何でそんなこと言えるの? 真紀ちゃんを知ってる人なら、絶対にそんなこと思わない!」
「知らないからこそ、客観的な判断ができるんだ」
「…………っ!」
――甘い言葉や態度で男の心を自分の思うがままに動かすことができれば、優越感や高揚感に浸れる――
それが本当だとして、もしも男の命すら思うがままにできるとするなら、その優越感はいかほどのものになるのだろうか。
俺は、早川真紀の自己満足の為に殺されかけたのか。
ふと、嫌な予感がした。
「……そういえば小野原、田代はどこだ?」
「えっ、田代くんは今日はまだ見てないけれど……」
まさか。
「田代は、早川の家に行く予定があるって言ってた。ひょっとしたら、早川に呼び出されたのかもしれない」
畜生、一番手玉に取られてるのはあいつじゃないか。
俺はケータイを取り出し――田代の番号は登録されてた、よかった。すぐに、電話をかけた。しかし聞こえてきたのは、おかけになった電話番号は電波の届かない場所にあるか電源が――くそ、繋がらない!
俺はすぐに、早川の家へ向かった。
ついてこなくてもいいのに、小野原までついてきた。
「時田くん、どうする気なの」
「田代の安否を確認する」
俺はインターホンを鳴らし、そして待つ。10秒、30秒、1分――
「ダメだ、出ない」
「真紀ちゃーん!」
小野原がドアをコンコンコンと叩き、
「真紀ちゃん! わたしだよ、岬だよ!」
呼びかける。それでも返事は無い。
俺は試しに、ドアノブを捻ってみる。すると――
「あ。……あいた」
期待してなかったのに、あいてしまった。
「ど、どうするの?」
「……こうなったら、もう後には引けんだろう」
俺と小野原は、玄関に足を踏み入れた。
……匂いがした。
生臭いような、でも鉄っぽいような、妙な匂い。鼻血が出た時に口の中に広がる風味に似ている。明らかに、血の匂いだった。
小野原が、俺の腕を掴んでいた。
「時田くん、変な匂いがするよ、」
「……ああ」
きっと小野原も感づいているんだろうな。小野原の声はがくがくに震えていた。小野原は、これから先には行かない方がいいかもしれない。
「ちょっと、行ってくる」
小野原の手に力がこもった。こんな小さな手のどこにこんな力があるのかと思うくらいの力だった。
「嫌だ、もう嫌だ、帰ろうよ、もう帰ろうよ、」
小野原はぽろぽろと涙をこぼしながら、俺の手に爪を食いこませて懇願する。
「行きたくない。お願い、もう帰ろうよ!」
「小野原、お前はここで待ってろ、俺がすぐ見て来るから――」
「いぃぃぃいいやだあああ! お願い、行かないで! 帰りたい! お願い、帰らせて! 一人にしないで! 行かないで!」
「落ち着け、小野原、」
「嫌だ、帰る! かえっ」
俺は、俺の腕をぐいぐい引っ張ってくる小さな手を掴み、抱き寄せて、小野原の顔面を俺の胸元に押し付けた。
「岬。いいか、このまま目を閉じて、何も見るな。俺の服の匂い嗅いどけ。あと、ずっと幸せなこと想像しとけ。スイーツとか、デザートとか洋菓子とか、そういうの想像しとけ。いいな?」
小野原は何も言わなかった。しゃくり上げる音と鼻息だけが、微かに聞こえてくる。
「行くぞ」
俺はふらふらの小野原を支えながら、歩き出した。
廊下の先に、人間の足が見えた。でも上半身はまだ見えない。足だけでは、あれが誰なのか、生きているのかすら解らないが、流石にいい予感はしなかった。
一歩づつ歩みを進めるたびに、血の匂いが濃くなってゆく。俺の腰に回された小野原の腕にも、力がこもっていく。
リビングに足を踏み入れると、生臭い血の匂いはいよいよ耐え難いものになってきた。小野原は大丈夫だろうか。俺の服の、おひさまの匂いで我慢できているといいのだが。そういえば、衣類の「おひさまの匂い」って、実はダニの死骸の匂いなんだっけ。
それは、あまりにもひどい光景だった。
田代直人が死んでいた。
右手に包丁を持って、首から大量に血を流して仰向けに倒れている。
そして、その隣に。
早川真紀が死んでいた。全裸で、腹がぐしゃぐしゃに裂かれていて、血だまりの中に沈んでいた。余りに変わり果てた姿だった。
「小野原、帰ろう。もう帰ろう」
俺は震えている小野原を強く抱きしめ、そう囁いていた。
「悪かったな、こんなところに連れて来て。さあ、帰ろう」
すると、小野原は再び泣き始めた。きっと何がどうなっているのか気付いたのだろう。小野原の鳴き声が、俺の胸にびりびりと響いた。
事態は、最悪の結末を迎えた。真紀ちゃんは、数カ月にわたって彼女を苦しめていたストーカーによって暴行され、刺殺された。そのストーカー、田代直人も、首を刺して自殺した。
それが真相だと、誰もが思ってる。警察も、真紀ちゃんの両親も、大学の友達も先生も、みんながそう思ってる。
でもわたしは、わたしだけは、それだけが真実ではないことを知っている。
だからわたしは事情聴取を終えた後、同じく事情聴取を終えた時田くんのところに行かないといけない。わたしが、わたしだけが、この事件の真相を明らかにできるのだから。
わたしが聴取室に入った時、彼、時田ヒロシくんは、途方に暮れたように椅子に座り込み、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
「小野原か……」
彼は振り返らず、そうぽつりと呟いた。
「俺は、早川が犯人だと思ってた。アイツが俺を殺そうとして、でも失敗して、そして田代を狙ったんだと、そう思ってた」
「……うん」
わたしは頷いた。
「わたしもそう思ってたよ。時田くんが学食でそう話してくれた時に、わたしもそうなんだって理解した。でも、認めたくなかったんだ、真紀ちゃんがそんな娘だなんて、受け入れられなかった」
「実際そうじゃなかった」
時田くんの声が震える。
「早川は、俺を殺そうなんて思っちゃいなかったんだ。ストーカーに狙われてるってのも、本当だったんだ。……なのに俺は、田代の話を真に受けて……早川の元彼だってだけで、信用しちまって……」
「田代くんは、真紀ちゃんの元彼なんかじゃないよ」
わたしは言った。
「田代くんが真紀ちゃんと話してるところなんて、一度だって見たことないもん。彼が真紀ちゃんの元彼なんて、絶対にあり得ない」
「……つまり田代は、あのストーカーは、影では早川の元彼だって偽ってたのか」
「うん、きっとそうだよ」
「……キモいな。変態だ」
「それは同感だよ。……でもね、時田くん、」
わたしは、彼の背中に言い放った。
「もう、見え透いた嘘なんて聴きたくないんだ」
途端に、彼の体がピクリと反応したのがわかる。
「……何だって?」
「わたしは、知ってる。真紀ちゃんを死なせたのは、時田くん、あなたなんだよ」
すると彼は立ち上がり、そして振り向いた。
彼は笑っていた。ぞっとするような、残酷な微笑だった。
「……思い出したみたいだね、時田くん。全部、思い出したんだね」
「ああ、お陰さまで」
彼は乾いた笑い声を上げた。
「この感覚は久しぶりだ。頭の霧が晴れて、すっきりした気分だ。……ところで、俺が早川を死なせたって? お前もわかっているとは思うが、早川を殺したのは間違いなく田代だ。警察の調べでも、それが立証されるだろう」
「確かに、そうだよ。それに異論はない。でも田代くんが真紀ちゃんを殺したのは、時田くんがそうさせたからだよ」
わたしの話を聴く時田くんは、どこか愉快そうですらある。それだけの余裕がある理由も、わたしにはわかっている。
「時田くん。あなたは、田代くんに真紀ちゃんを殺させるために、自ら記憶を失ったんだ」
時田くんに睡眠導入剤を飲ませたのは、真紀ちゃんじゃない。他でもない、時田くん自身なのだ。当り前だ。大量の睡眠導入剤を飲ませることができるのも、ケータイのメールボックスを削除できるのも、無理ではないとしても真紀ちゃんには難しい。でも時田くん本人なら、いとも簡単にできてしまう。
「時田くん、あなたは、田代くんが真紀ちゃんのストーカーだってことに気が付いていたんでしょう? 真紀ちゃん自身は、田代くんとは話したことすらないから、気付きようが無かったけれど。そしてあなたは、真紀ちゃんの家に届けられた手紙のことも知っていたし、田代くんが本気で真紀ちゃんを襲おうと思っているだろうということも感づいていた。
でも、あなたは知っていた。田代くんは今のままでは、絶対に真紀ちゃんの事を襲いはしないと。襲えないことを。
だって、真紀ちゃんには時田くん、あなた自身がついていたんだもんね。いつも一緒にいて、真紀ちゃんの家にも泊りに行ってた」
わたしは知っている。だって、わたしも真紀ちゃんの家に泊りに行ったことがあるんだから。時田くんと真紀ちゃんとわたしの三人で、鍋をつついたりしてたんだから。
「田代くんが真紀ちゃんを襲えるようにするには、あなた自身が真紀ちゃんから距離を置かないといけなかった。そしてその上、田代くんが真紀ちゃんを襲おうとしたとしても、自分がそれを邪魔することは無いと、田代くんに思わせる必要があった。
それだけじゃない。あなたは、この考えを真紀ちゃんに悟られてはいけなかった。そしてあなたは、真紀ちゃん相手なら、自分の考えを見透かされてしまうと知っていた」
わたしも知っている。真紀ちゃんの洞察力が、ずば抜けて高いことを。だって真紀ちゃんはわたしと出会ったその日に、わたしが誰の事を好きなのかを、ずばり言い当ててしまったのだから。人の心を見透かすくらいのことは、簡単にやってのけてしまうのだから。
「だからそのために、あなたは記憶を失ったんだ。本当に知らないことなら、いくら真紀ちゃんでも見透かせないもの。そして、記憶を失ったあなたが記憶喪失であることを公言すれば、田代くんは、ようやく真紀ちゃんに手を出すことができる。だってあなたは、真紀ちゃんにストーカーがついてること自体を忘れているんだもんね。田代くんは、時田くんが邪魔になるなんてもはや思わない。
……どう、時田くん、これまでにわたし、一つでも間違ったこと言った?」
時田くんは、ぱちぱちぱちと三度、拍手した。
「凄いな。将来探偵業でも始めればいい」
彼は本気で感心している様子だった。
でも本当は、凄くなんかないんだ。
わたしは不安だったんだ。ひょっとしたら、これは時田くんが画策したことなんじゃないかと不安になった。だから、違ってほしいと、時田くんは無関係であってほしいと思って、その確信を得るために必死に頭を絞ったんだ。……そしたら、揺るぎない真相に行きついてしまったんだ。そうであってほしくないと思っていた答えを、見つけ出してしまったんだ。
「動機は、やっぱり真紀ちゃんにフラれたことなの?」
わたしは気付いていたんだ。時田くんが、真紀ちゃんに告白したことを。そして真紀ちゃんが、その告白を断ったことを。
真紀ちゃんは何も話してくれなかった。ケンカしたんだって、わたしにはそれだけしか言わなかった。それでもわたしは、何があったのかを何となく察した。
気付いたけれど、時田くんには話せなかった。これが自殺の原因なんだって解ってたから。時田くんに話せば、また自殺してしまうから。
「お前の言うとおり、もし俺が、早川を死に至らしめようと思って行動したとするならば……」
彼はそう前置きして、
「その動機は、恐らくそれだろうな。そうさ、ザックリ言えば、フラれたから殺したいと思ったのさ。これまでずっとそばにいて、向こうの方も俺のことを好いてくれてると思ってた。なのに違った。向こうは俺の心を手玉に取り、手のひらで転がしていただけなんだと気がついた。それがショックだったのさ。いっそ死のうと思った。
……でも、タダで死ぬくらいなら、もっとできることがあるんじゃないかと考えた。そしてこの計画を思いついた。唯一の不安材料は、最初の段階、致死量ギリギリの睡眠導入剤を摂取した段階で、本当に死んでしまう可能性があったことだ。だが、俺は怖くなかった。死んだら死んだで別に構わないと思ってた。運が良ければ俺は死ぬことなく記憶を失い、計画は完遂される。例え俺が本当に死んだとしても、田代は早川を襲う」
一気にまくし立てる彼の瞳は、冷たく燃えていた。今の時田くんは、全く愉快そうじゃない。純粋に、冷たい怒りに心を燃やしていた。
「そうさ。俺は死のリスクを冒してまでも早川を死なせてやりたいと、そう思ったのさ。俺だけ真剣になって、結局あいつの自己満足の為に遊ばれて、完敗したまま、負け犬のまま自殺するのが嫌だったんだ。我慢ならなかった。だから、消してやったのさ」
「……違うよ」
でも、違うんだよ、時田くん。それは間違ってる。
わたしは知っている。彼が、大きな勘違いをしていることを。
「時田くん、違うんだよ。真紀ちゃんが、あなたの気持ちを弄んでたなんて、そんなハズが無いじゃない」
だってわたしは、真紀ちゃんが時田くんの告白を断った本当の理由を知っているから。
真紀ちゃんは、わたしのために告白を断ったんだ。
もし自分と時田くんが付き合い始めたら、わたしが悲しむと知っていたから。わたしとの友情が壊れてしまうと、そう思ったから。
真紀ちゃんが鍋パーティーに時田くんと一緒にわたしを誘ってくれたのも、全部わたしのためだった。
だからわたしのせいなのだ。今回起こった事件の原因は、わたしにある。
わたしのせいで、真紀ちゃんは死んだのだ。
「あなたからの告白を断った後、あなたが真紀ちゃんと距離を置くようになって、真紀ちゃんは本気で悩んだんだよ。そしてあなたが自殺未遂をしたって聞いて、本気で後悔してた。告白を断った自分を責めてた。本人はそう言いはしないけど、わたしは気付いた。
そして、あなたが記憶喪失になったから、これならやりなおせるかも。リセットできるかもしれないって、真紀ちゃんはそう思ったんだ。
真紀ちゃんは、わたしのことは考えないようにしようって、きっとそう決めてたんだ。時田くん、あなたの事だけを見ようって、きっとそう決心してたんだよ。
だから、真紀ちゃんがあなたの彼女だって言ったのは、本気だったんだよ。本気で、あなたと付き合って行きたいって思ってたんだよ」
すると。
「……嘘だろ」
時田くんは、ただただ立ち尽くした。
瞳で燃えていた氷の炎も鎮火している。瞳の奥が、どんどん暗くなってゆく。
「そんなの、聞いてない……お、俺は知らなかったんだ」
「嘘じゃないよ……」
「嘘だ」
「嘘じゃないよ」
すると時田くんは野獣のように表情を歪ませて、わたしに牙を剥いた。
「小野原頼むから嘘だと言え!」
「嘘じゃ、ないよ!」
わたしは絶叫していた。時田くんの声に負けないくらいの怒声で、彼の叫びをかき消した。
「嘘じゃないよ! 真紀ちゃんは本当に時田くんのことが好きだったんだ! なのにあんたが殺したんだ! 真紀ちゃんにストーカーをけしかけて、真紀ちゃんを見殺しにしたんだ! ぜんぶぜんぶ、本当なんだっ!」
「……そんな、」
時田くんはよろよろと後ずさり、崩れるようにその場にへたり込んだ。
ハァハァと肩で息をしながら、わたしは足元の時田くんを睨みつける。
そしたら、急に、悲しみが込み上げてきた。このひとを、こんな風に睨みつける日が来るなんて、思ってもみなかったから。
胸が、目じりが、どんどん熱くなってきて、涙が溢れたのと同時にわたしもその場に崩れ落ちた。
わたしは低く唸るような声で泣いた。呻き声を上げながら、ひたすらに泣いた。
わたしの目の前で、時田くんも涙していた。無言で、表情も変えず、ただただ涙を頬に伝わせて。
わたしは時田くんにすがりつき、彼の胸に顔をうずめた。
そして息を整え、呟いた。
「時田くん。わたしは、あなたを刑務所に送りたいなんて思ってない。罪を償ってほしいとも思ってない」
これは本心だ。第一彼は、自分では何の罪も犯していないのだ。真紀ちゃんをどこかへ呼び出した訳でもなく、田代くんに真紀ちゃんを殺すよう言った訳でも、協力した訳でもない。
殺人罪も共謀罪も、彼には当てはまらない。
「だけどね、時田くん。一つだけ、お願いがあるんだ」
わたしは時田くんの胸元を静かに湿らせながら、言った。
「時田くん、一緒に死のう」
自然と、涙がこみ上げてきた。大粒の涙が、ぼろぼろと零れ落ちる。
わたしは無言の彼に、聴いてくれていると信じて、言葉を紡ぐ。
「一緒に死のう。天国に行こうよ。真紀ちゃんに会いに行くんだ。そして二人で謝って、そしたらきっと、許してくれる」
そして、また三人でお泊りするんだ。時田くんと真紀ちゃんは、天国で一緒になればいいよ。時田くんと付き合いたいなんて、そんな贅沢なことはもう言わない。二人が幸せそうにしているのを眺めているだけで、もうそれだけでいい。
胸が苦しくなって、わたしは彼の胸でもう一度、声をあげて泣いた。