虚構の補題①
星の終わり。人類最後の日。
それは酷く、馬鹿げた光景だった。
空を埋め尽くすほどに巨大な女が、嘲笑いながら、地上を見下ろす。よく知っている顔をした女だった。
その目は足元で這う蟻を見る子どものように、無邪気で残酷なものだった。
否が応でも、彼女の目を見てしまった人間は自分たちの末路を察してしまう。
「初めまして!微生物諸君!ボクの名前はエックス!キミたちを駆除しにはるばるやってきた女神様さ!歓迎してくれていいぞ?」
見知った顔の女が、聞き慣れた名前を名乗って、吐き気がするほどにふざけたことを宣言する。
「けれどいきなり終わらせるなんて無粋はしないとも。……まずは。女神さまの吐息を吹きかけてあげるだけにしようか?」
ああ……。
「……ぷっ。ぷははははは!弱っちいね!ふうってしただけで町ごと吹き飛んじゃうんだ!」
ああ……!
その姿は、とても。とても不愉快だった。
手を出す気はなかったんだけどな。そう思いながら、魔法を解く
「──えっ。なんだ、お前。その顔、は……。う、わっ」
光と共に醜い虚像が消滅する。
……まだボクはこれが無意味な行為であることを認識していなかった。
こんなことをしても、過去は変わらないということをボクが知るのは、もう少し後のことである。
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「はあっ!疲れたあ!」
玄関から真っすぐに寝室へ。着替えもせずに布団へ飛び込む。まだ枕の上で眠っている公平が、ボクが倒れ込んだ衝撃で浮かんで落ちて、「なんだなんだ」と言いながら目を覚ました。
「あっ。エックス。帰ってきたのか。朝からどこ行ってたんだよ。もう昼過ぎだぞ」
「んー。疲れた。公平。足マッサージして?」
「はいはい……」
「あっ。靴下も脱がしてくれると嬉しいな」
「それは自分でやれ!」
「やだ!」
「やだって……」
渋々公平はボクの靴下と格闘し始めた。ボクが「やだ」と言ったらてこでも動かないことを公平は知っている。
……そもそも、てこの原理で10000トンを優に超える重さであるボクを物理的に動かすのは難しいというのはおいておくとして。
「リインの世界を見に行くだけで随分大変だったんだな」
「んー。それだけではないというか。ちょっとした実験もやってきたんだけど」
「は?実験?」
「後で話すよ。取り敢えずボクちょっと寝るね……」
「ええ……」
公平の戸惑いの声が聞こえる。戸惑いながらも頑張ってくれていることを、少しずつ靴下が脱げる感覚で理解する。目を閉じて、足の感覚だけで公平の存在を確かめる。
言いようのない心地よさに浸りながら、ボクは眠りについた。
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目を開けた。顔を窓へと向けると陽が落ちていた。ずいぶんと眠ってしまっていたらしい。
身体を起こすと、何かがボクの足の裏を転がり落ちる感覚がある。
体を起こして見てみるとそれは公平であった。靴下は脱がされていて素足。その上に公平がいたらしい。ぼんやりした様子で何が起きたのかときょろきょろしている。
「公平、ボクの足の上で寝ていたなあ?」
「えっ。俺寝てた?寝てたかな?」
「すっとぼけちゃって」
公平に手を伸ばす。無意識に口角が上がってしまう。
巨人の足の裏をベッドの代わりにして眠ってしまえるのは公平くらいだろう。眠ることが出来るということはボクの身体の上をリラックスできる場所として認識してくれているということだ。
指先に摘まんだ公平の身体はとても小さく、ボクに比べれば酷く弱い。ほんの少し力を入れれば弾け散ってしまうくらいの力の差がある。そのことは公平だって感じているはずだけれど、彼は一切抵抗することなくボクの指先を受け入れてくれる。
そういった公平の在り方がボクには嬉しいことなのだと思う。そうでなければ、ついにやけてしまうなんてみっともないことはしない。
手のひらの上に乗せて、寝ぼけたフリをして唇を押し当てる。決して潰してしまわないように。けれど精一杯力強く。その分だけ、ボクは公平の存在を感じ取ることが出来た。
唇を離すと、公平は「なんだよ急に」と可愛げのないことを言ってくる。照れちゃって。
「別にぃ?」と返して、公平を手の上に乗せたまま、ボクはぐぐっと背伸びをした。眠ったことで多少凝った身体がほぐれるのを感じる。
「……よしっ。ええと。寝る前って何の話してたっけ?」
「えー……忘れるなよなあ。……で何の話だっけ?」
「公平も忘れてるじゃないか」
可笑しくてボクは笑って、「エックスもだろ」と手のひらの上の公平も笑う。
それからボクは公平に話したいことを思い出した。『実験』についてだ。
「そうそう実験。実験って何の話だよ」
「数学ってさ。机上の仮定から導き出される法則や定理を読み解く学問でしょ?」
「実験の話は……?」
「まあまあ」
初等的な数学は現実を数式で表現し読み解く学問である。簡単なことを言うと100円のりんごを5個買うと幾らになりますかとかそういう話。
しかし学びが深まるにつれて方向性が変わってくる。
より抽象的に。
より一般的に。
それが世界を読み解く道なのだと信じている。
故にある段階に数学は現実の在り方を抽象化した世界を設定し、その世界の上での法則を導くのだ。そうした仮定の世界が現実と一致すれば、導かれた法則は現実でも成り立つ。
「でさ。昨日の話覚えてる?」
「あえ?あー……リインが世界五分前仮説の世界から来たんじゃないかなって話?」
「それから公平の友だちが考えた数式の話」
「アルバのあれ?」
「そうそれ」
アルバとは公平の友だちであるイタリアからの留学生だ。世界五分前仮説に対する一つの考察としてある数式を考案した。
数式の意味を言葉で説明すると、世界五分前仮説によって考察される世界は、五分前よりももっと前には虚数空間上に存在というモノである。
「その数式……というか考え方が正しかったら面白いなーと思って、見てきたんだ。リインの星もそれを内包する世界も昨日見つけたからしね」
アルバくんの数式は世界五分前仮説をある方向性で抽象化したものだ。もしも現実の世界が彼の数式に基づく構成をしていれば、あの数式を読み解くことで色々なことが分かるのである。
「世界が生まれるよりも前の時間に遡って、虚数空間上に侵入してみて同じものがないかなーって探しに行ったんだよね」
「探しに行ったんだよね、って。そんな簡単に虚数空間に入っていいの?」
「いいの。ボクはいいの」
ボクはだいたい何でもできる魔女だから。虚数空間に入ることも朝飯前なのである。
……実際朝ごはんを食べていないことをボクは今思い出した。思いついたらすぐ行動に移してしまうのは悪いところかもしれない。
「つまり、アルバの数式は机上の空論じゃなくて、本当の話だってことを確認しに行ったってこと?」
「そ。それがボクの実験。そして、どうやらアルバくんの考えは正しかったらしい!」
手の上で公平を軽く転がしながら会話を続ける。公平の方は慣れた様子で「おっと」とか「あぶないっ」とか言っているけれど落ちる様子はなかった。
虚数空間上には確かに世界が存在したのだ。どうやらその世界はリインがボクに匹敵する魔女になった瞬間に現実に露出するようになっていたらしかった。
「そこでボクは閃いた。もっともーっと過去に戻ってみればリインの世界に何が起きたか分かるじゃん!ってね」
「ああ。確かに。……いっそのことリインの敵もやっつけちゃえば因縁も無くなるんじゃないか?」
「それも考えたんだけどさー……。というか実際やったんだけどさー……」
「やったの!?」
「やった。だって、むかーってなっちゃって……」
「……えっ?でも何も変わった感じしないけど?」
「そうなんだよねー。何も変わらなかったんだよねー」
「は?」
公平は意味が分からないという様子であった。
「え……どういうこと……?」
「うーん……実はそれがよく分からなくてさ……。それで状況を整理しながら、公平と色々考えたいなって」
「それはいいけど……」
公平は何か言いたげな顔をした。ボクは彼の意図を察して、思わず笑ってしまった。
「そうだね。お腹空いたし、何か食べてから考えようか?」