幻影の勇者
午後のまどろみの中行われる倫理の授業はまさに地獄である。運命の美少女といちゃいちゃする夢を見ようとする頭を必死に覚醒させようとしながら、偉人たちが愛がどうとかを語っている説明を聞かなければならないのだ。
ああもう無理だ…ごめん、テスト中の俺…。
眠りに落ちたと思ったら、目の前に広がる光景に一気に目が覚めた。
教室で授業をうけていたはずなのに、俺が見ているものはいったいなんだ?
闇がのぞく暗い不気味な森で、静寂の中に空気は現実感のないほど澄み切っている。そして目の前には剣を持った洋風の鎧兵。上段に構えた鈍く光る剣をそのまま俺に向かって振り下ろした。しかし兵士の剣は俺の体をすり抜け、地面を強く打ち付けた。あたりに鈍い音が響く。
驚きと混乱で汗が流れ、とっさに周囲を見渡した。
力が抜けて、後ろを振り向くときに尻もちをついてしまった。
ローブに身を包んだ金色の長髪をもった少女が、きれいな碧色の瞳で兵士をにらんでいた。彼女の周りには血だまりができていて、ローブの形から察するにおそらく左腕がない。それに、どうやら足にも怪我を負っているようで、ブーツごとズボンが破られていて、そこからも出血している。
それなのに、彼女のまなざしから見られるのは諦めや恐怖ではなく、強い意志だった。彼女の大きな目には希望が映っていた。
「君は、霊体だ。攻撃は食らわない。安心していい」と、少女が絞り出すように言った。
そんな重傷の人に言われて何を安心すればいいのか何もわからないが、ひとまず彼女を手当てしないと死んでしまう。わけがわからない状況だが、自分よりあきらかに危ない状態の人を見たからか、意外と冷静になってしまった。まずは止血しなければ。
彼女の方に近寄ろうとしたところ、俺の体に剣が振り下ろされた。先ほどと同じように、すり抜けて地面を打ち付けるだけだが、反射的に体がすくむ。
「ははっあたらないくせにビビってんじゃねーか。臆病者はどいてろ。その女は逆賊なんだ。ここで殺さないといけないんだよ」
兵士は剣をまっすぐにもち、その切っ先を俺に見せつける。霊体だとか、さっき確かにすりぬけたとか、頭では理解していても本能が動くことを拒否した。体がこわばり、背筋に冷や汗がたれた。
そのとき、左手の小指に何かが触れる。しかし体は動かず、いったい何なのか確認することもできない。
1ミリも動けない俺をよそに、兵士は一歩前に出て剣の間合いに少女をいれる。
そのまま剣を振りかぶり、じゃあなとつぶやいた。そのまま勢いよく振り下ろしたが、謎の見えない壁によってはじかれる。
「なっ⁉バリアを張る魔力なんて残ってなかったはずだろ‼」
兵士は何度も剣を打ち付けるがすべて見えない壁によってはじかれている。
何もない空間で止まっているのでまるで素振りでもしているかのようだ。
「悪いな。私は往生際が悪いんだ」と少女がつぶやくと、彼女は光に包まれた。
足の傷はみるみるうちに治っていき、そのまま立ち上がった。しかし左腕は失くしたままだった。背はあまり高くないのに、その姿は凛として威厳に満ちていて、神々しさすら感じられた。
「じゃあな」
彼女がそうつぶやくと、彼女から光る弾が発せられ、兵士は後ろに倒れた。目をやると、胸にぽっかり穴があいている。突然の出来事に、俺はそこで気を失った。
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風の音が聞こえる。いったい俺は何をしていたっけ・・・?
「起きたか?さっきは助かった。名前は?」
「タクトです。佐々木拓斗」
声のした方に目を向けると、ローブの美少女がいる。彼女はまるで魔女のように杖にまたがり、そして俺は蔓でぐるぐる巻きにされて杖に固定されていた。謎の状況に放り込まれていたことを思い出し、やけに周りが静かなことに気が付いた。周囲の景色はまるで車窓を覗いているかのように過ぎ去っていくのに、いっさい風の音も木々の音もしない。道が開けているわけでもなく、目前に木が迫るとぎりぎりで避けるので、体がどうにかなりそうだ。不気味な暗い森とファンタジーのようなローブの少女が相まって、無声映画でもみているみたいだった。
「私はリリス。この間まで宮廷魔法使いをしていたんだが、革命が起きて王女の亡命を助けているところだ。最後の手段として左腕を使って君を召喚したんだが、おかげで窮地を脱したよ。なにか質問は?」
彼女の言葉はやけに早口で淡々としていた。難解な授業をする先生のような話し方をする彼女の言葉に俺の思考はついていかない。
「魔法…使い?え?」
「君は勇者召喚の儀によって呼び出された。この世界には魔法がある。君はひとまずこの魔導書の解析を手伝ってくれ」
リリスがそう言って一冊の本…というか俺の倫理の教科書だ、それを渡してきた。
リリスは亡命の手伝いしてて、俺はリリスというこの少女に召喚されて、俺は勇者で、なぜか一緒に倫理の教科書もついてきたからそれを読んでくれと?
「なぜ?」
「この世界では魔法を浴びた書物には魔法が宿るとされている。中身の記述は変わっていないがその本のどこかが呪文として効力を発揮するはずだ。その文章の量だ。複数の呪文が見つかるはずだ」
「え、でもこれただの教科書ですよ・・?」
少女はむっとした表情をするが、正直とても愛らしいと思ってしまった。
「ただのとはなんだ!書物に対する敬意が足りないぞ!教科書ということは学生が読む本なのか?それにしては君はなんというか普通だよな?教育が行き届いているということだろうか、そうだろう!」
「普通って…そりゃそうですけど、大体18くらいまではみんな学校通ってますよ。そっから先学校行くかは半々くらいですけど。それより、今どこに向かっているんですか?それと亡命の手助けなんてできませんから帰してください!血とか無理なんで!」
「みんなっていうのは生まれた子供全員ってことか⁉すごいな、恵まれた国だ。我が国もかくあるべきを望むものだ。いやもう滅んでしまったのだが」
まるで国のことを全く大事にしていなそうな軽口なのに、この移動の目的は王女の亡命の手助けだという。この先の山脈を越えた先にある隣国まで王女を送り届けたいそうだ。先ほどの兵士の隊に見つかったので殿を務めて王女を先に送ったそうだが、人数が多く危なくなったため一か八か勇者召喚を試したとのこと。
勇者召喚は本来人間一人分の贄を必要としているのに、それを彼女の左腕だけで行ったため俺は霊体という不完全な状態でよびだされたそうだ。完全体でよびだされていたら召喚された瞬間に剣が突き刺さっていたため本当に良かった。
彼女は腕を失くしたことをとくに気にする様子もなく今は傷口もふさがったところをみせてくれた。なんでも、このように治せたのは俺の魔力を杖を介して吸収し、利用したらしい。
あの時何か触れたと思ったのは彼女の杖だったのか…。
「帰してほしいとのことだが、できたら山越えまでは協力してほしい。ちょっと君の魔力が必要そうだ。どうしても無理だというなら今私をここで殺すといい。私が死ねば不完全な状態で召喚された君は元の世界に戻れる」
やはり淡々とした口調でそういった彼女は、冗談のように言った。先ほど兵士を殺しているところから察するに、おそらく半分は本気で、半分は絶対に勝ち目などないからやれるもんならやってみろ、ということなのだろう。
殺すどころか叩くことすらできる気がしない俺には、もはや選択肢などなかった。
というか蔓でぐるぐるにまかれているので何もしなければただただこのまま巻き込まれていくのみである。
「それより文字だ!君の本に使われている文字を教えてくれ!4種類くらいあるよな!?」
そういってどこからともなく現れた紙とペンをつかって、ひらがな、カタカナの50音と数字、あとは教科書に載っているなかでも簡単な漢字を何個かかいた。
「あの、このごちゃごちゃしているタイプの字は全部で1万個以上あってとうていかけないんですけど」
「1万⁉それはすごいな。きっとそれだけあるなら法則もあるだろう。よく使われているものを何個か教えてくれたらあとはこっちでなんとかしよう。助かるよ。君はこの本には目を通しているのか?」
倫理の授業中は今日に限らず昼寝の時間であった俺は、ほとんど読んでいなかった。せいぜい学期始まりに目次に目を通したくらいだ。
それ以降はテストの時ですら後回しにしてほとんど勉強していなかった。
「きっと概論式で難解なのだろう。そういう時はパッと目を引いた項目を、別の簡単な書物で読んでみるといいぞ。どんなに優れた城であっても、一つ穴があれば崩れるように、一つ理解できる項目があれば、意外と残りもなんとかなるものだ」
本当に先生みたいだなあ。宮廷魔法使いという話だったしきっと相当に頭がいいのだろう。
俺も頭が良ければもっとすごいことできてたのかな…。こんな初対面で普通って言われるような奴じゃなくて。
「さあ、君にも魔力は宿っている。この本に眠る呪文を発見するのだ!なに、すでに本の複製はとり、私の方でも解析を進めている。さあ一緒に魔道の道を歩もうじゃないか!」
「なんというか、元気ですね。あんな目にもあったのに。俺みたいなやつにとってはリリスさんは雲の上っつーか」
「何を言う!この貴重な本をもたらしたのは君だぞ君!それにそんなに自分を卑下するものじゃない。私にとっては命の恩人の勇者様だぞ。魔法は想いが重要なんだ。想いが強くなければ発動する魔法も発動しない。自分を大切にしろ」
卑下しているつもりはなかったが、たしかにすごい人と比べて自分はと嘆くなんて、なんだかそれすら弱くてしょぼい自分があらわになったようで、妙に恥ずかしかった。
リリスさんはそんなことを気にも留めないように楽しそうに空中に文字を書いている。
漢字の解読中らしい。どう解読するのかは皆目見当もつかないが、パズルみたいに動かして遊んでいるようにしか見えない。
とりあえずリリスさんは漢字に夢中なので、倫理の教科書を読むことにした。開いてみるものの、こんなわけのわからない状況ですら眠気を誘う文字が羅列している。
第一章は青年期、つまり高校生が何を考えるのかという話、第二章は哲学とは何か、第三章はグローバルとかなんとか、第四章に至っては余った項目全部のっけた?みたいな項目がつらつらとならんでいる。
ひとまず彼女が言ってた通り、目に留まったところから始めようと「哲学とは何か」っていうページを読み進めてみることにした。
そんなこんなで爆速でとんでいた俺たちは先に進んでいた王女と騎士の二人のもとにたどりついた。
王女はとても幼く、騎士の背中でねむっていた。見たところ3、4歳くらいだ。こんなに幼い子を兵士は追いかけていたのか…?ひどい話だと思うが、リリスさんいわく国とはそういうものらしい。ただ思うところがないわけでもないみたいで、今回王女の亡命を助けることにしたそうだ。
騎士も怪我を負っていたようだが、すぐにリリスさんが回復魔法をかけていた。
そして再び杖を横に倒して蔓をのばし、僕ら3人を固定すると森の中を爆速で飛び始めた。あまりにも障害物をよけるたびにがくがくと体が横にちぎれそうになるので森の上を飛べないのかと聞いたところ、上には革命軍の魔法使いがいるらしく耐えるしかないそうだ。
いままでも追われてきていて、結構な数の仲間が囮や盾として犠牲になったという。リリスさんのように足止めをしたのだろう。自分の想像以上に、この旅には多くの人の思いと命がかかっていることに、ぐっとつばを飲み込んだ。
さてこの先は、このまま山を登り樹海を抜ければ追手は来なくなるという。なんでもカセルドラク山脈の頂にはその名をそのまま地名とした氷龍カセルドラクがいるため、革命軍でも近寄れないとのこと。
そんなものがいるのに通って大丈夫なのか聞いてみたら、霊体の君は死なないから大丈夫と言われた。
それは俺以外は大丈夫じゃないやつじゃないか…?
このあとも、ひとまず俺はただいるだけでいいし、もし自分たちが失敗して命を落としても俺は元の世界に帰れるといっていた。それに霊体ならばすぐに元の世界に帰すこともできるから、危険が迫っても心配しないでいいと。
それでも何かできることはないかと、しかしやはりやれることというのは一つしかなく、倫理の教科書を読み込むことにした。
理屈はよくわからないが、魔法書として使えるらしいしどこかに役立つ一文が載っているかもしれない。
そのままとんでいると、木々が少なくなり、障害物をよけることもほとんどなくなるくらい開けてきた。おそらく高度があがり植物が少なくなったのだろう。龍の領域が近いのかもしれない。
「それじゃあここからは別行動で。殿下を頼みます」
リリスさんはそういって二人を杖に縛り付けていたツタをほどいて、改めて王女を騎士の背中に括り付ける。そして騎士はスーパーヒーローがするように、背筋を伸ばして空を飛んで行った。
「あれは…?」
「遠隔飛行魔法だ。多少危険は伴うが、まあここは障害物もないしあの人は頑丈だ。きっと殿下を隣国までつれていってくれる。さて、私たちはここからが本番だぞ」
「囮になるんですよね?俺は大丈夫って話でしたけど、リリスさんは大丈夫なんですか?」
「ふっふっふ。よくきいてくれた。この先はびっくり大博打だ。そもそも龍というのは魔力を好んで食べるのさ。つまりあの二人よりもはるかに魔力量の多い私を狙いに来るわけだ。それに君も相当な魔力を宿している。間違いなくこちらに龍はとびついてくれるだろう。現に歴史が証明してくれている。過去龍に出会った人間で生きて帰ったものはいるが、その中に魔法使いは存在しない。魔力があれば龍に食われるのさ」
彼女は平気そうな顔で、淡々とそう話す。雄弁な口振りは初めからそうだったが、今の彼女はまるで本心を隠すために口を動かしているようだ。
龍と遭遇して生還した魔法使いはいない。その事実は彼女の未来にも訪れようとしている。
「私は殿下のために命を捧げられるなら本望だ。むしろ名誉の死といってもいい」
嘘だ。手が震えている。彼女は森の中では移動しながらも空中に文字を書いて新たな知識に心躍らせていたのに、今ではただまっすぐ前を見ていた。
「ねえ、リリスさん。俺にリリスさんの魔力を移して俺が囮になることってできない?」
彼女はその問いにすぐには答えなかった。
「龍は危険だし、君をそんな怖い目にはあわせられない。召喚したときも兵士に驚いていただろう。平和な世界で育った君には無理だ」
「大丈夫。俺傷つかないから痛くないんでしょ?それにもし本当に危なくなったら死ぬ前に元の世界に帰してよ。リリスさんならできるはずだ」
龍は魔力を食べる。それはつまり、霊体の俺も吸収されてしまうということだ。しかし吸収される前に元の世界に帰してくれれば問題ないはずだし、今まで特に何の役にも立っていない俺が何かするより、彼女の行動に任せた方が安全なように思う。
「たしかに、できる。できるけどそれは…」
リリスさんは飛行をやめ、俺たちは地面に降り立った。ツタにまかれた状態じゃかっこつかないのでありがたい。
「任せてよ!俺、何か役に立ちたいんだ。リリスさんのために」
リリスさんから魔力を移してもらい、さっきの騎士さんのように遠隔飛行魔法でとばしてもらった。ルートは俺がより王女たちから離れるように迂回しながら高度をあげていく。ほとんど垂直のような斜面もあったが、低空をとんでいるので特に支障はなかった。
任せてといいつつ、結局移動も最後の撤退もすべてはリリスさん次第だ。少しだけ残した魔力を使って操作してくれている。
【タクト!これはテレパシーだ。龍がこちらにむかっている。どうしようもなさそうだ。最後に君の勇気に元気をもらったよ。ありがとう。私は死ぬが目的は達成できそうだ。】
衝撃的な言葉が脳内に流れた。そんな状況で説明しながらこちらに感謝なんて。
どうして俺がこの世界に呼び出されたのか、ずっと考えていた。
何も力を持たない俺が、どうしてと。
もっと勉強していたら役に立てたかもしれないし、武道をやっていたら兵士のいる道を通る選択もできたかもしれない。
なのにどうしてこんな俺がここにきたのか。
それは運命の人に呼ばれたからだ。
美しい黄金の髪に強い意志を持った瞳、凛としているのに喋ると止まらず、好奇心にあふれた彼女の魅力に、もう俺はとことんおちていた。
一目ぼれした女性をここで死なせるわけにはいかない!
生きて山を越えて、そして告白するんだ!!
国のことなんか何もわからないけど、俺は彼女をもっと知りたい、もっと色んな顔を見たい。
「考えがあるからそっちに俺をよんでくれ!」
というと、ぎゅんっと方向がかわる。
「いいんだ、タクト。無理をするな。目的は果たせる。私は大義のために死ねるなら本望だ。」
「じゃあどうして俺を向かわせているんだ!まだ希望を手放したくないってことだろ!」
返答はなかった。そうこうしているうちに、リリスの姿が見えてきた。
開けているからまだ距離はある。
そんなとき、上空に暗い影が見えた。
とてつもなく巨大で、はじめは雲だと思った。
けれどそんな考えを吹き飛ばすかのような咆哮があたりに響き渡った。
――龍だ。
氷龍カセルドラク。リリスによるとこの地に国ができるずっと昔からこの木も育たない極寒の山を住みかとし、ひとたび龍の庭に踏み入れば命をとられるとして人々に恐れられている。
震えあがり体が固まったが、幸い移動はリリスが代わりに担ってくれている。
「一応聞いておく。何をするつもりだ?」
彼女から着た返答によってはっとする。固まってる場合じゃない。俺がなんとかしないと。
「残っている魔力を全部俺に移して離れてくれ!さすがに魔力が空っぽなら狙われないはずだ!」
「しかし、移せる魔力をすべて移しても龍はおそらく私を狙うぞ。おそらく、魔法に使う分だけでなく肉体に宿る魔力が引き寄せてしまうみたいだ」
「うまくいくかはわからない、だけどやってみる!リリスがいうにはこの教科書のどっかに魔法があるんだろ!?俺が思う通りなら、できるはずだ」
そうこうするうちにリリスのもとへとたどり着いた。
「何をするかはわからないが、賭けてみるのも悪くない。頼んだぞ、私の勇者。」
リリスから大量の魔力が送られてきた。体に力がみなぎってくる感じだ。
「まかせてくれ。絶対に君を死なせない」
ふたたびリリスと別方向に飛び始める。龍が近づいたからか、あたりは吹雪に包まれた。
俺は教科書の23ページを開いた。
~「人間は考える葦である。たとえ全世界がそんな小さな物であるといえ、人間はまだ自然の中でもっともすぐれたものであるといえる。たとえ彼がそんなとても弱い物であるといえ、彼はそれでも考える葦である。」 - ブレーズ・パスカル、『パンセ』第6章~
想いが魔法になると言っていた。このパスカルの言葉は、人間は弱い存在だが、「考える」ことで自然を生き抜く力を得るということだ。
そして考えることができるという俺は、霊体ではあるが精霊などとは違う、れっきとした肉体をもった人間であると
想いは形になり、俺の肉体が頭から足の先まで実体として生成された。
「肉体を作ったのか!?いや、まさかタクト!囮になるつもりか!肉体をもってしまったお前をすぐにあちらの世界に戻すことはできない!霊体とはちがう、死んでしまうぞ!」
「大丈夫だ、俺にはリリスみたいに死ぬ覚悟なんてできないし、そのつもりもない。」
「龍が、向きをかえた。」
格好つけていったが、正直なんにも策はない。俺には何にも浮かばなかった。
何にもできない俺の代わりに、リリスが魔法で着々と俺を山頂へと運んでくれる。
この高さまで俺が来ているということは、少なくとも王女たちは峰を超えられただろうか。
リリスが越えられるまで時間を稼がなければ。
何か使えるものはないかと教科書に目を通すが焦ってしまい情報が頭に入らない。
つるっと手が滑り教科書を落とすが、地面に衝突したら謎の力で手元にかえってきた。こんなことにまでリリスは手をまわしていたみたいだ。もはや自分が情けなくなってくる。
と、もはや現実逃避し始めている自分がいた。もう無理なんだろうか。
何も努力せず、何も為せず、その場しのぎで生きてきた結果がこれだ。ある意味名誉の死かもしれない。
――グオオオオオ‼
あたりに龍の咆哮が響き渡った。
血の気が引く。ちゃんと囮にはなれたみたいだけど、やっぱ怖すぎるなあ。
その時、リリスによってかけられていたはずの飛行魔法がとぎれ、その場に降り立った。着地もゆっくりで、防寒用の魔法までかけてくれていたみたいで寒さもない。
「リリス。あったばかりで迷惑かもしれないけど、一目ぼれしました。俺は君のためにこの世界にやってきたんだ。」
テレパシーでそう伝えた。
返答がなかったので、ちゃんと伝わっているかわからない。伝わっているといいな。
あたりは吹雪で一面真っ白で何も見えないが、龍の気配は恐ろしいほどに感じた。一思いにやってくれ。
「――タクト。ありがとう。私は君を呼んで正解だった。」
テレパシーではなく、声だ。
「どうしてここに!?龍から逃げないと!」
「問題ない。それに君に貸したものを返してもらわないといけなくなってな。」
体の力ががくっとぬけた。そういうと俺がもっていた魔力をリリスが全て吸収したみたいだ。
「さあ、タクト。これがお前のくれた力だ」
吹雪がおさまり、ついに上空に龍の姿があらわになった。
リリスは杖を構えると、空中に文字が現れる。
"Ignis draconis, natura est. Natura et homines concordant, se commiscent. Hominibus timorem dracones habent, etiam carnes potentes magicas. Dracones homines non vincunt, necessitas et fata inevitabilia sunt. Sed homines suam vitam mutare possunt.
Dracones, iam pars sum tua, tu pars mea es.
Si me vorare velis, non resistam. Sed et ego te vorabo. Coniuncti sumus."
龍がリリスに突進する。リリスは逃げるどころか龍に向かって飛び出した。
一瞬だった。
龍は一口でリリスを食べてしまった。
「そんな・・・」
俺は体に力も入らない。龍は再び上空に戻り、旋回している。
地面にうずくまるだけの俺の小ささを強く感じた。
なんにもできなかった。
俺が囮にとは言ったけれど、覚悟は決まらず、おそらくそんな俺の代わりになってくれたのだろう。
「リリス・・・ごめん」
「謝ることはない。この通り無事だ」
「リリス!?」
声のした方を見上げると、そこには美しい角と翼、尾を持つ女性が立っていた。その姿はまるで幻想的でありながら、不思議な安らぎをもたらしてくれた。
その女性は、銀の髪を風になびかせ、水晶色の鱗に覆われた柔らかな肌を持っていた。その目は深い知恵と理解を湛え、強い意志を秘めているように見えた。その角は高くそびえ立ち、自然の中で生まれた偉大な力と誇りを象徴していた。
俺はただ、その美しさに見とれ、感動に打たれた。この龍の女性は、自然の一部として完璧に調和しており、その姿はまさに自然の神秘の一端を示しているように感じられた。
「龍と合体したんだ。すごいだろう」
驚きとともに、俺はリリスに見とれていた。リリスは微笑みながら、優しく頷いた。
「もう大丈夫。さあ、二人と合流しよう」とリリスが言った。
彼女の言葉に安心感が込められていた。俺は彼女の無事を実感し、心からの安堵を感じた。
そして、やはり俺は何もせず、彼女の魔法によって山を越えた。
リリスの飛行魔法によってその後は快適な空の旅となった。風音はするが結界によって守られ、寒さも感じず、呼吸も問題ない。荒涼とした高地を抜けると、標高が下がるしたがって木々が増えてきた。あまりにも高速で木々の間をすりぬけていくので、まるでジェットコースターにでも乗っているかのようだ。俺の腕の中にはリリスがいて、ちょうど俺の目線の位置に角がある。
バランスをとるように左右に傾くさまがかわいらしい。
「ということでな、タクトの持ってきた本の解析をしたら龍を取り込めることに気が付いたんだ!」
ということで、俺の腕の中にいる天才魔女、リリスは倫理の教科書を読み込んだ結果世界の真理に気が付き、龍と一体化することで問題を解決することにしたらしい。
本当に何を言っているのか全然わからなかった。龍は自然そのものであり、人は自然を利用するものである。龍は人を食らうが、人も龍を食らうことができる。だからそうしたのだと。
「俺、もっとがんばんないとなあ」
「私がこの結論に至れたのはタクトのおかげだ。本はもちろんだが、私は最後にあきらめてしまっていた。自分一人が犠牲になればいいと。だけどそれではだめだったんだ。タクトに恩を返せなくなってしまうからな。」
「恩?俺結局なんにもできてないよ」
「できていたさ。私は君のおかげで自分を大事にしないといけないと気づけたからな。私は今まで魔法を極めるために生きて、宮廷魔法使いになってからは王族のために尽くしてきた。そのうちに自分というものの価値を忘れてしまっていたんだろう。自分の命くらいならばがんばって拾わなくてもいいかと。だけど君にとって私は大事な命なんだろう?」
冷たく澄んだ空気が心地よく俺たちを包み込む。白銀の神秘的な森の中はやけに静かで、神秘的な木漏れ日が差している。雪は深く、どこまでも白い。
やがて、二人は止まり、雪に覆われた地面の上に立った。彼らの顔は赤らんでおり、寒さと興奮がその身を駆け巡る。そんな中、彼らの唇がふれあった。最初は軽く触れ合うだけだったが、次第に情熱が高まり、熱いキスへと変わっていく。
彼らの心は一つになり、雪山の森の中で愛と喜びが溢れ出す。その瞬間、時間は止まり、世界は彼らだけのものとなった。
キスの余韻がまだ心に残る中、二人は山のふもとに向かって飛び始めた。木々の間を抜けると、次第に景色が変わり、雪山の厳しさから解放された平地が広がっていた。陽光がやわらかく降り注ぎ、雪解け水が流れる小川の音が聞こえる。
やがて、仲間たちとの合流点に到着した。彼らは笑顔で迎え入れ、喜びと安堵が空気を満たした。騎士は、二人の変化を尋ね、彼らの冒険の物語を興味津々で聞いた。
山のふもとでの再会は、新たな旅の始まりを示していた。
これから王女たちは、身分を隠して新たな人生を歩んでいくことになる。騎士やほかの仲間たちはそれを支えていくのだろう。そしてもちろんリリスも。
俺は、ここにいたい。
まだ始まったばかりなのに、リリスと離れ離れになるなんていやだ。リリスだってきっと一緒にいたいといってくれる。魔法を教えてもらって、一緒に冒険なんてするのもいいだろう。幸せな未来への希望と勇気が湧き上がってくる。
「タクト。ここでお別れだ。本当に世話になった。ありがとう。」
唐突なリリスからの言葉に気が動転する。たしかに最初はそういう約束だった。山を越えたら元の世界に帰すと。だけど二人の関係はその時とはちがうじゃないか。もしかしたら俺が元の世界に残してきたものを心配してくれているのかもしれない。たしかに家族や友人は悲しむだろうが、それ以上に俺はリリスをあきらめられない。俺の中で唯一なんだ。リリスのいない世界になど戻りたくない。
「俺は、ここに残ってリリスと生きていきたい」
そのとき、強い風が吹いた。その風は仲間たちの緩んだ空気を流し去り、刺すような冷たい空気を運んでくる。リリスは翼を広げ、俺を抱えると空中に飛びあがった。
猛烈な勢いで高度をあげ、葉の間を抜けて中空に浮かぶ。森の上から見た世界は、静寂と広がりに満ちていて、どこまでも続いている。
リリスはその強いまなざしで俺をみつめている。
「タクトはここに残るべきではないと私は思う。」
「元の世界のことは気にしなくていい!こっちでもなんとかやってくよ!リリスと離れたくないんだ」
「話をきけ。私はお前と離れるとは言っていない。私がお前の世界に行くんだ。」
「・・・は?」
「お前の本は世界のことをなんでも教えてくれたぞ。私は世界を渡る魔法を作れたんだ。今までは偶然つながった世界から人を連れてきて戻すことしかできなかったが、こちらから世界を指定して送りたいものを自由に移動できるようになった。もちろん私自身もな。しかも龍の魔力のおかげで自由自在だ。しかし私も龍と一体化したことでこの山の管理をしないといけなくなったからな。こちらにもたびたび帰ってくることはあるだろう。まあそれも問題ない。それにタクトの世界にはほかにもたくさんの本があるのだろう?楽しみで仕方がないよ」
えーと?つまり地球の、日本に?リリスがくるの?
「まじ?」
リリスは誇らしげに胸をはり、風に白銀の髪をなびかせる。その姿はまるで世界を掌握した自然の王者のようだった。もともとのかわいらしい顔立ちに龍が混ざりさらに美しくなったリリスは、神々しさにあふれていた。彼女がそういうならばきっと何の問題もなくできるのであろうと感じさせる。
「だからその、みんなに聞かれると…恥ずかしいだろう。私もタクトと生きていきたい。ついていってもいいか?」
リリスの顔は耳まで真っ赤にそまり、それでも強いまなざしでこちらを見つめてくる。
急に仲間たちから離れて宙にとびあがったのは照れていたからだったらしい。
「なんだよそれ、かわいいなあ。こちらこそよろしくおねがいします」
抱き合い、キスをした。
その後、俺はリリスの魔法によって元の世界に戻された。
起きたらまだ倫理の授業中で、体がガクンっとなり大きな音を立てたことでみんなに笑われた。
寝ていたことは寝ていたけどさあ・・・。
体も何も変化がないから、まさか夢だったなんてことないよな・・?
と思った瞬間、目の前に魔法陣が現れた。
ものすごい光を放つそれに、周囲の生徒も先生もちょっとしたパニックになっている。
さすがに本気で思っていたわけじゃないけど、一瞬の心配をはじけ飛ばすにはちょうどいい騒ぎだ。むしろこの異様な光景に、安堵すら覚えた。
「タクト!全部片づけてきたぞ!さあ本を読ませてくれ!」
白銀の髪、水晶色の角に、同じく水晶色の鱗に覆われた左腕に翼と尾、あまりにも神々しい存在感を放つその人は、もう我慢できないとばかりにまるで子犬のように俺に飛びついた。
「おつかれさま。図書室いこっか。」
みんながあっけにとられる中、思えば初めて、俺とリリスは手をつないで並んで歩きだした。