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朝露のころ

作者: せいいち
掲載日:2018/04/30

如是我聞

言葉が彷徨っている。

右上、左下、ふらふらと、右下から左上、そして真ん中へと。銀色に枠取られたフレームの中を言葉が彷徨っている。

黒い背の中を、白い光を帯びた「如是我聞」という言葉の行き交う様は、どこか遥か遠く宇宙の虚空を想わせる。

 初めの言葉が彷徨った虚空の中に、今度はこんな言葉が立ち上がって来た。


   爾時王舎大城有一太子名

   阿闍世随順調達悪友之教

   収執父王頻婆娑羅幽閉置

   於七重室内制諸群臣一不

   得往


 この言葉は、お経か? いったいこんなお経を、おれはいつ、どこで知ったんだ!

 あ、炎が上がった! 燃えている! 紅蓮の焔がお経の中心から輪のように広がっていって、お経ぜんたいが燃やし尽くされていく――。


 今、水しぶきをあげて、車が行った。手前では、足早に行き交う靴の音たち。ヒールがかけてゆく乾いた音が、ひときわ高い。

 雨か? 今日は、雨の予報だったか。遠くで、微かに電車のゆき過ぎる音がする。今朝は、あれに乗らなくてもいいんだな……。

 ――夢か。さっきのお経は、夢だったのか。それにしても、たとえ夢の中でも、どうしてあんなお経らしき言葉の数々を、おれは知っているのか?

 ふっ、今朝もあの仔たちが鳴いている、あの家の犬たち。時計の刻む音が頭のさきに還って来た。冷蔵庫の唸る音が聞こえている。いままた、飛沫をあげて車が行った。

 外では、さらに雨の落ちる音。小雨かな? 雨音に混ざって、烏の鳴き声。こんな休みの朝には、烏の鳴く声さえ心地いいな。あれは、百舌鳥か?

 幼いあの日、トカゲが梅の木に刺さって死んでいた。百舌鳥のしわざらしかった。おじいちゃんが言っていた。臓腑も血もぜんぶ流れおちてひからびたように死んでいた。かたむいた顔から、眼だけが、うらめしそうに地の果てを見つめていた。

 ――この冬の雪の高さは、このトカゲほどにはならないよ。

そうおじいちゃんがそう言った。百舌鳥がトカゲを木に刺す高さで、その冬の雪の量

がわかるらしい。

 子供のころ、うちの生け垣のカラタチの棘にも、蛙が刺されて死んでいたっけ。あれは、白い蛙だった……。

 あっ、遠くからサイレンの音がやって来る。すぐそこで、止んだ。こんな朝にも、誰かが死んでゆくのか。俺はまだ、暖い蒲団の中で、今日の朝を微睡んでいるというのに。


 ドッ、ドッ、ドッ――。靴音がやって来る。暗闇の向うから、高く、重たい靴音が行進して来る。

 怖かった、あの長い廊下。おじいちゃんの家の廊下は長かった。トイレがその廊下の端にあって、夜寝る前、もう一方の端にあった父の部屋から、そのトイレに行くのが怖かった。父の部屋の敷居の上に立って、なん度か足踏みをしたあと。眼をつぶって思い切りそのトイレの把手にまで駆けていき、中へ飛び込んで固くドアを閉めた日のことを思い出す。

 ――いま靴音は、その廊下のずっと奥からやって来る。

 甲高く重たい靴の音が近づいて来るブーツの音か? それも、一人やふたりではない! 音は隊列を組んでやって来る。あっ、先頭の靴のさきが見えた。カッ、カッ、カッ――。何人もの、いや、何百人もの黒光りした爪先がやって来る。

 ――一九一〇年、日本軍は半島に侵攻した。本土防衛の生命線である満州経営を盤石とするため、帝國日本はこの年、朝鮮半島を併合した。

 でも、今どうしてこんな事がおれの意識の中に昇って来るの? あっ、そうか、今年がちょうど二〇一〇年だからか? 

 それにしても、ここはどこだろう? どこかの農場の泥濘のなかを、黒光りした踵の隊列がゆく。その踵が飛び散らかしてゆく泥のさきには、韓服をまとった若い女たちが列を成して脇の畦道に跪いて、黒い隊を見送っている。兵隊たちがあげる泥を受けて、その女たちの膝頭は真っ黒だ。あっ、しかし、見ろ、見ろ、跪く女たちの左手の薬指の先が、そろって無い!

 さらに陸続と向うの丘を越えて兵たちがやって来る。何百人、いや、何千人か。――どっ、どっ、どっ。兵隊たちの跫音がやって来る。

 あっ、ああっ、燃えている! 兵隊たちがゆく道の先でお寺の門のようなものが燃えている。二階部分から、真っ赤な炎を両翼に広げて、夕闇の空のなかを燃えている。噴き上げる黒い煙のなかでは、日の丸を掲げた兵隊たちが猛り狂っている、刀を振り上げて、口々に同じ言葉を連呼しながら……。

 ビュッ、ビュッ、ビュッ――。これは、竹刀の音だ! 西岡か。あいつ、いまどうしてるのかな? あいつとは、たしか小六のとき同じクラスで、たまにいっしょに遊んだな……。あのとき、おれはあの西岡から二百円ぐらい借りていて、ずっと借りていて、返さなくちゃいけないけれど、そのままにして――。返すときに、おれの家の裏の空き地に西岡を呼び出して、金を返してから、おれは竹刀で西岡を叩きのめした。

 あのとき、おれは剣道部で、だから竹刀を持っていた、あのとき、西岡を叩いた理由はよく覚えてないけれど、理由なんて、はじめからなかったかもしれない……。

「金を返すからちょっと来てくれ」と言って、西岡をおれの家の裏の空き地にまで呼び出して、空き地の隅に呼び寄せて閉じ込めて、金を返したあとで、隠しておいた竹刀を持ち出し、「はした金を返せってか、はした金を返せってか」と何度も叫びながら、おれは西岡を撲りつけた。

 でも、おれ、なんであのとき、あんな事をしたのか、西岡に……。

 西岡――。あいつ、特にいじめってわけでもなかったけれど、クラスのなかでも周りからみくびられていて、いいように使われていた。人が足りていたら、放課後のみんなの野球には入れてもらえず、人が足りないときだけ駆り出されていた。それでも、あいつ、なんにも言わずに笑っていた。そして、ただみんなの言う通りにしていた。おれも、一緒に遊ぶ友だちが見つからないときだけ、そのときだけ最後に、西岡を誘った……。

 でも、おれ、なんであのとき、あんな事をしたのかな、西岡に……。その理由が思い出せない。でも、本当は、理由なんて、何もなかったのかな。


台所から、幸惠のスリッパの音――。出勤する前に、俺の朝飯を作ってくれている。その幸惠の足音に重なって、時計の秒を刻む音と水沫をあげてゆき過ぎる車の音……。それらすべての音の背に、静かに降る朝の雨おと……。

 あっ、烏が鳴いた、これは一羽か……。

 いつか、幸惠から訊かれたっけ。あんなことをした理由を……。でも、あの事にも、そんな理由なんて、なんにも……。

 あれは、小学校二年のときだったか。おれは近所の子供たちのなかではちょっとした兄貴分で、夏休みなんかにはよく四、五人の子供らを引きつれて近所の原っぱで遊んだものだ。そんな子供らのなかでも、とくに稔とは二人してよく連れ立って遊んだ。

 あのころ、おれと稔は、蛙獲りに熱中した。蛙をつかまえては、口やおしりから爆竹を差し込んで、身体ごと破裂させていた。そのほかにも、いろんないたぶり方をした。幼なかったあの夏の日、二人して原っぱに蛙を見つけに行っては、どの蛙にしようかと色や大きさ、それからどいつが死に値する顔付きをしているかなんて、おれはそんなふうに蛙たちのことを物色していた。

 おれがあのころ、あんな蛙いじめに熱中していたことに、別に理由なんてなかった…。あれはただ、自分が王のように振る舞える、自分より立場の弱い相手を苛めていただけだ。蛙は、おれに向けて抵抗なんかしやしない。だから、蛙だったんだ。自分が専制君主のように振る舞えるから、おれの思うように勝手に裁きが下せるから、相手は蛙だったんだ……。

 あれから三十年――。今でもときどき痛むことがあるこの頭の傷。この傷が疼くと思い出す、あの夏の日の昼下がりの白い蛙の事を……。

 それは、まっ白な蛙だった。稔がその蛙を摑えてきたとき、これだ、と思った。おれが裁きを下すのはこの蛙だ と思った。それは、不思議な蛙だった。一点の濁りもない、まっ白な蛙。いや、手や足の先など、どこかに模様はあったのかもしれない。自然の蛙なんだから、それはそうなのだろう。だが、今のおれの記憶のなかのその蛙の姿は、どこまでもまっ白だ。だから、あのとき、この蛙に裁きを下すのはこのおれしかいない、と思ったんだ。それは稔ではなく、このおれの裁きこそぴったりの蛙だ、そう思った。

 あとは、どうやってその蛙に裁きをくわえてやろうかということだ。稔にその蛙を持たせたまま、おれはあたりを見廻した。俺たちが遊んでいた場所は、近所にあった会社の寮が建っていた跡地で、蛙を圧し潰すのに適当なブロックの欠けぐらいなら、あたりにごろごろしていた。前方には、一段下がって、まだ水が引かれていない苗代が広がっている。

 重さもちょうどほどよい煉瓦を一つ手に取ると、おれは稔に、蛙をその下の苗代に投げつけるよう指示した。おれの命に従って、稔が田に蛙を投げつけると、おれは手にした煉瓦を頭上に振り上げて、その真白い蛙に狙いを定めた。

 振りおろす。狙いが外れた。すぐさま跳び下りて、もう一度煉瓦を手にして、さらに上げた。その白い蛙は、今度はこのおれの足下にいる。もう狙いを外すことはない。おれは狙いすますと、いま一度その蛙を上から見下ろした。その白い蛙の周りに紅い血の輪の広がってゆく様子をイメージした。――その時だ。おれの左がわ頭頂部に鋭い痛みがはしったのは……。

 おれは頭を押えてその場にしゃがみ込んだ。手を見た。真っ赤だった。血に汚れたおれの掌は真っ赤だった。自分の血に穢れたそのおれのもろ手には、いっぱいの皺が纏わり付いていた。あとで冷静に見れば、それは髪の毛だったのだが、その時、おれは思わず自分の脳が飛び出して来たのだと思った。これはえらい事になってしまった――。

 家中を右往左往する父と母の顔がおれの脳裡を駆け巡った。

 膝さきには、角に血しぶきの散った跡のある煉瓦が転がっていた。おれは、自らの背を振り仰いだ。するとそこには、稔が仁王立ちになってまっ青な顔をしておれを見下していた。そのときに稔が振り絞るように発した声の調子は、今でもこの耳の奥に残っている。淳ちゃん、大丈夫か……、ごめんよ、ごめんよ、おれ、あの蛙をな……、ひざまずいて、どんどん泣き顔になって崩れてゆく稔の向う側で、あのとき輝いていた丸い太陽は、とても眩しかった……。

 あっ、今また烏が鳴いて飛んで行った。これで、二羽か。

 でも、おれはあのころ、どうしてあんなことをしたんだろう、あんな事を、どうして。ごめんよ、ほんとうにごめんよ、心から……。

あっ、幸惠が来る。俺を起こしに来る――。

ちぇっ、こんなに濡れちまった頬、どうしたらいいんだよ!

                                  (了)


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