#7 潜航 Tauchen
「アマノヌボコ着底。TFP中和は確認できず。」
キャシーがつぶやき、ナスターシャは舌打ちした。
「サクラの間違いだわ。そこじゃない。ずれてる。」
黒板に示されたワイヤーボール、そこに描かれたTFP発現確定を示す赤六角の一つ手前に、アマノヌボコを示す光点が点っていた。
「TFP処置、失敗! TFPの衝撃に備えろ!」
ナスターシャがサクラに向かって叫んだ瞬間、それは始まった。
海の水が沸き返る。大気中で発現した時は空震を伴うTFPであるが、深海で発現した時には、海の水が文字通り沸き返る。
RATに覆われた綿津見がぎゅっと胸一杯海の水を吸い込んだような真空感とともに、高圧の海水が気泡化し、概念的に水圧が減少する。次いで欠乏した水圧を補うように、海が凹み、海の底、TFP中心が軋み始める。
「TFP発現!」
サクラが叫んだ声は、8キロヘルツの音響信号に変換され、ヤタガラスに伝わるまで相当な時間を要した。
そのタイムラグは、ヤタガラスを恐慌させるに余りあるタイムラグだった。サクラの通信を傍受する前に、眼下の海が凹んだのだから。
【TFP! TFP発現! 津波が発生する見込み!】
本郷の報告にサブDCも恐慌を来たし、ナスターシャは巨人の尾の試算結果の誤りに首を振り、キャシーは事務所に津波情報を伝えるべく、同報QWを開いた。
【南海トラフは無事?】
事務所からしずえが照会してきた。
「不明。津波は発生する模様。規模は未確認。」
キャシーの声は冷静さを保とうと必死な調子だった。別のDWを次々開き情報を収集しようとするが、答えは見つからない。
ナスターシャは巨人の尾の補正に掛かり切りで、キャシーをフォローする余裕はなさそうだった。
「サクラ……抑えて!」
キャシーは祈るようにつぶやき、次々、DWを閉じては開いた。
サクラは水深二八〇〇メートルの海底、ふいに始まったTFPのただ中、途方に暮れた。
天沼矛が、TFPを中和しない。
海底で起き上がりつつある綿津見、RATにまとわりつかれ身悶う綿津見の背中で、激しく巻き起こった攪拌流に翻弄されながら、いつものようにTFPを吸収し、そのエネルギーを電気に置き換える天沼矛が、動作しない。
「ど、どうして!」
RATを身にまとった綿津見は、深海底に半身をもたげ、アマノヌボコは払い落とされそうになった。
「どうして止められないの!」
がたがたと振り回されるコクピットの中、サクラは叫んだ。
TFPではない?
脳裏に浮かぶのは、巨人の足跡ではなく、巨人そのもの。巨人そのもの。
この、誰にも見えない巨人は、これまで中和無効化してきたTFPと違うのかもしれない。柱で止められない、新種のTFP、あるいは巨人そのものなのかも知れない。
深海底で起き上がった綿津見は、背中に突き立ったアマノヌボコを振り払うように身悶え、サクラは激しく翻弄されながらも、RATたちの動きを再び見極めた。
違う。
RATたちの動き、TFPの発現の仕方を冷静になって分析した時、赤い耳がピクリと何かを見つけ、お尻で渦巻く光の尾がそれを指し示す、そんなイメージが浮かんだ。
このTFPは、相が違うだけなのかも知れない。
これまでアマノヌボコで中和してきたTFPは、言わば地殻内を中心とした負の点だと、サクラはイメージした。
空を軋ませ大地を毀ち正の場を食らい、現実世界に巨大な陥没を招く、そんなイメージ。
天沼矛は、その食われた正の場を高エネルギーの光の形で還元し、プロパ・次のTFPの発現を招き、そして食らった正の場をGDEDに伝播する流れを阻害する、そんなイメージ。
しかし今まさに発現しつつあるTFPは、地殻外に露出し形を定めない負の場。正の場との境界面がRATに覆われ、あたかも巨大な生き物・綿津見のようなものを形成しているが、いつものような中心核としての点が無いため、アマノヌボコでは還元できない、そんなイメージ。
「だったら……。」
サクラががくがくと揺れるアマノヌボコのコクピット内、DWを次々と呼び出し、細かな操作を行った。
「地中にもう一度お帰り。」
サクラは羽衣を起動し、アマノヌボコの表面に量子力学的な流れを作った。深海水が激しく指向性を与えられ、アマノヌボコはRATに覆われた綿津見の背中を、ぐいぐいと押した。あくまでイメージ的に。
立ち上がろうとしている綿津見を押し倒す、どこまでもどこまでも。やがて地殻外に露出している綿津見は地下に押し込められる。一点に集中させていけば、やがて、食らいつつある正の場に触れるはず。そこが中心、相を半強制的に変更させる。
DWに浮かぶキャパシタ残量の数値が見る間に減っていく。それでもサクラはアマノヌボコを前進させた。
「大人しく地中にお帰りったら!」
サクラは思わず叫び、その声がヤタガラスまで届いた。間をおき、本郷はサクラが何をしているか、察した。
『サクラ? 処置に失敗したら電源を確保できなくなるんだぞ? 浮上できなくなるんだぞ? TFP処置を中止して浮上するんだ! 次の、次の地上のTFPで止めればいい! これはあきらめろ!』
本郷の声が8キロヘルツの音響信号に変換されアマノヌボコに送られた。
その通信の時間差、減衰率の高い海中を走る音響信号に乗せた悠長なデータが行き来し、音声に再編成されるまでの長い時間差の間に、アマノヌボコに搭載されたキャパシタは空になった。サクラは予備電源分も引き続き羽衣に使い、やがてすべて使い果たした。
アマノヌボコは、海底に綿津見様の、RATに覆われた巨大な負の場を押しつけたまま、鹿島神社の要石が日本の地底に潜む大ナマズの頭を押さえている風情で、沈黙した。
綿津見も沈黙した。
しかしTFPは消えていない。
そこにとどまり、いつ何時、再び正の場を食らい、巨大な地殻変動を起こし、プロパを走らせるかわからない。
「……止まった?」
機能停止したアマノヌボコのコクピットでサクラはふうと息をついた。深海底の冷たい水温がひしひしと狭いコクピットの中にまで染み入ってきた。
「止めた? でも、でも綿津見は生きてる……。」
サクラは震える肩を抱き抱えた。
相は変えられなかった。天沼矛は起動しなかった。
サクラは挫折感に身体を震わせた。失敗したのだ。TFP処置に失敗したのだ。
RATたちは未だ綿津見の体表に群がり、そのきれいな弧を描く背中が無数に走り回っているのがわかる。いつもはTFPが終わるとどこかに消えてしまうはずのRATがまだいる。
つまり、まだ終わってない。
アマノヌボコのDWを呼び出す。しかしアマノヌボコのシステムはすでに沈黙し、深海はQCOMの圏外。開いた窓は、ただの虚無のDW。予備電源もなく8キロヘルツ音響通信機も作動しない。
サクラは震えた。
深海のただ中、綿津見を海底に釘付けにしたものの、もうどこにもいけないのだ。
このまま酸素が切れて死ぬか、綿津見が再び暴れ出し、弾き飛ばされて死ぬ。それしかない。
サクラは肩を抱いて泣いた。
「おかあさん、おかあさん、おかあさん……。」
捨て猫が空虚な空にニャーニャー泣き続けるように、サクラは泣いた。
「おかあさん、おかあさん……。」
サクラの母、しずえは実の母ではない。
サクラが五歳の頃、田代島にやってきて一緒に暮らすようになった。
父もサクラの本当の父ではない。田代学園園長の弟で、長いこと国軍に勤めていた。
サクラは一七年前、田代島の猫神社で保護された捨て子。
人口増加政策の一環で、田代島全体で養育する『島の子』の一人として、田代総合病院内の乳児院で育てられていたという。
物心ついた時には父の実家で祖父と暮らし、父が田代島に帰ってきて、やがてしずえもやってきた。祖父はしずえが来る前に亡くなったが、今でも覚えている。
今、サクラが不安の果てに呼び続ける母は、しずえのことではない。まだ見ぬ、本当の母親の方だった。
「おかあさん……。」
サクラの咽び泣く声に反応したように、虚無のDWに変化が現れた。
光る線が一本。やがて線は波を描き、見慣れた形になった。
RAT。
RATの丸い背中の線が、虚無のDWに右から左に流れて過ぎた。
「え? どうして?」
サクラは虚無のDWを信じがたく見つめた。
【天沼矛沈黙。アマノヌボコロスト。キャパシタ残量、推定ゼロ。予備電源まで使った模様……。】
ヤタガラスから本郷が悲痛な報告をし、サブDC、事務所、阿部家の居間そしてNBL操舵室にも、重い沈黙が流れた。
【TFP処置に伴う高荷電粒子検出せず。処置終わっていません。】
サブDCからキャシーが沈痛な口調で伝えた。
【でも、でもサクラは生きてます。アマノヌボコのサルベージを! すぐにサルベージを!】
最後は懇願の口調になった。
【残存酸素量、キャパシタ残量ゼロなら、あと三〇分や。】
アサミがヤタガラスから報告した。
【サルベージできるタイムリミットは、たったの三〇分。】
宝田の No Image 同報QWの声はいつものように冷めていた。
だから処置に反対したのです、そう言わんがばかりの無言の叱責が、見えないQCOMデータのように辺りを満たした。
「三〇分以内にサルベージできる機材は、GD-TPには無い。」
阿部家の居間、たくさんの同報QWを開いたまま、震次郎はゆっくりと答えた。「水深二八〇〇メートルの深海から、三〇分以内にアマノヌボコをサルベージできる機材は……。」
がくりと首をうなだれ。また目を上げると、そこに昨夜のサクラの画像。
オトウサンダイスキ、とキスしようと突進してくるキス魔の画像。
もう一枚の画像は、ぐっすりと眠る横顔。
震次郎は、溢れ出そうな涙を堪えるのに必死になった。
【わたしなら行けます!】
同報QWにゲルトルーデの顔が浮かんだ。
【わたしは、深海でも真空でも活動出来るよう設計されています!】
すでに五分経過。二五分以内にアマノヌボコを回収する。
そして、TFPは活動停止しているが、これがいつ再び発現するか不明。
そのような状況下、アサミはゲルトルーデに黄色いDGスーツを着せてやりながら、芸術的なそのボディに惚れ惚れと見とれた。
出会った時から妙な違和感を感じていた。その身体が機械だと知った時にも、おぞましいと感じた。独国語で言うならば、機械人間・メンシマシーナ、いや化け物・ウングホイヤーだとさえ思えた。
しかし、その細部に至るまで、ゲルトルーデの体は科学技術の賜物だということがわかった。
その美しさは例えようがないほどで、嘆息が漏れるばかりの完成度だった。
人形を思わす両手は触れない限り人工物とは思えないが、金属製の骨格と高規格の小型アクチュエータの集合体で、数トンの重量物も軽々と持ち上げることができる。
腕がつながる胸元、小さめだが形のよい乳房の周りは生身だが、首から下、肩から背中にかけては人工物で、そこから腰そしてコンボドライブ兼ランディングギアの両脚まで、強固な複合素材で出来ている。
数少ない生身の顔、頭、胸もナノサイズの特殊加工が施され、高温高圧低温低圧、高放射線量への耐性を持つ。
アサミには、その機械の体を動かす動力源が曖昧な以外、その素晴らしい人工の体のすべてが理解できた。
ほどなく着替えを終え、ヤタガラスの機内格納庫内、ゲルトルーデは多目的可動梁《MBM》につかまった。
黄色いDGスーツとヘルメット、そのすらりと伸びた脚はそれ自体が強力な推進装置のため、インナーの丈を短く切り取り、白いももをむき出しにしている。
一〇分経過。潜水及び浮上に残された時間は二〇分。
【ゲルトルーデ出ます。】
【サクラを頼む!】
本郷はハッチを開放した。
ヤタガラスは、機体表面に量子隔壁が展開し、機内の気圧や気温が量子力学的に保たれている。高空でハッチが開放されても、気圧が激変することはない。
【了解。】
ゲルトルーデは空に身を投げ出した。目に見えない気圧差の壁・量子隔壁を突き抜ける瞬間だけ、苦痛に表情を曇らせたが、そのまま一直線に未だざわめく水面に向け自由落下で落ち、やがて巨大な水柱を上げて着水した。
生身の人間なら衝撃で死んでいるはず。しかしゲルトルーデの人工のボディは容易く水の壁を押し開き、一直線に海底目がけて潜行を開始した。
最初は両足のコンボドライブは利用せず、生身の人間よりも重い体を錘にぐんぐんと深度を下げていった。
コンボドライブは電源を食う。最後の最後、アマノヌボコをサルベージするまで、電源は温存しなければならないと、ゲルトルーデは考えた。
浮力があるとはいえ、相手は全長一二メートルの特殊機、総重量は一〇トンは越えているはず。これを二八〇〇メートルの深海から持ち上げる、あと一七分以内に。
間に合うか? ゲルトルーデは心臓も肺も機械式で、数時間の無酸素活動が可能だが、サクラに残された時間はあと、一六分。
一五分。一四分……。自然沈降のスピードが、ゲルトルーデの予想より遅い。海流で流されている感覚もある。時間のロスはサクラの命取り。距離のロスもそうだ。
もう時間が無い。ゲルトルーデはコンボドライブを稼働させた。ゲルトルーデの小柄な体の中核を占めるキャパシタ容量が徐々に減っていくのがわかる。それでも潜行速度は飛躍的に上がり、真っ暗な水の中、目指すサクラに一気に接近した。
高規格複合センサーとなっている目が、超長波の走査線を照射して照らし出した深海の闇の向こうを、モノクロの立体画像としてゲルトルーデに仮想的に見せていた。本来あるはずの時間差は予想補正してあるので、実際の視界と寸分違いが無いという前提だった。
やがてその視野に映ったのは、海底のとある一点に凍りついたように止まる金属の棒、対TFP急降下突撃機アマノヌボコ。
「サクラ!」
声に出して叫んだが、声は耐圧性に富むヘルメットの狭い空間にこだましただけ。
海底よりわずかに上、見えない何かに乗りかかるようにして、アマノヌボコは微動だにせず、停止していた。
ゲルトルーデはコンボドライブを止め、惰性でアマノヌボコにとりつき、機体上面に並んだ耐圧窓からコクピットの中を覗き込んだ。
近距離暗視用の遠赤外線センサーで走査し、コクピット内にサクラの姿を見つけた。
シートの上、肩を抱えて震えているのがわかった。
あと一〇分。ゲルトルーデはサクラを勇気づける暇もなく、アマノヌボコの小さな垂直尾翼を両手で挟み込んだ。
時間がない。
ゲルトルーデはコンボドライブをフルで稼働させ、激しい水流で気化した水が泡となって激しく弾け渦巻いた。
キャビテーション。
ゲルトルーデの足にその衝撃がまとわりつき、擬似的な痛みがびりびりと走った。
一〇トンはあるアマノヌボコがぐらりと揺れた。
しかし、水中に浮かんでいるだけに見えたアマノヌボコはそれ以上動かない。
あと9分。ゲルトルーデは焦ったが、アマノヌボコは何かに囚われたように、動かない。
丸い耐圧窓の向こうにサクラの顔が見えた。何か叫んでいる。
ゲルトルーデはコンボドライブを止め、窓に張り付き、黄色いヘルメットを押し着けた。
『ゲルトルーデ! なんでここにいるの? 死んじゃうよ!』
この暗がりの中、ヘルメットの中のゲルトルーデの顔が見えるのか? 丸い耐圧窓の向こうから微かに伝わるサクラの声。この期に及んで、サクラはゲルトルーデの心配をしている。
ゲルトルーデは微笑み、指を海面に向けて見せた。
「みんなのところに帰ろう。」
『駄目、駄目なの。天沼矛が……綿津見、巨人の背中に刺さって抜けないの。』
ゲルトルーデは信じがたかった。彼女の高規格複合センサーは、アマノヌボコはただ単に水中の一点に止まっているようにしか認識できなかった。
巨人・綿津見など信じがたかった。
あと8分、時間が無い。ゲルトルーデは首を横に振り、再びコンボドライブを作動させてアマノヌボコを引き揚げようとした。しかし動かない。
もう間に合わない!
ゲルトルーデは焦った。キャビテーションが激しく脚を痛めつけ、キャパシタの残量は見る間に減り、人工心肺を駆動する電源が不足気味になって苦しくなってきた。このまま吹かせば、彼女の生命を維持している人工心肺が機能停止する。彼女の身体に隠された小型の発電機の発電量が人工心肺作動必要量に達するまでの刹那ではあるが、瞬間的にゲルトルーデの心臓は止まる可能性がある。
7分。全速力で浮上してもぎりぎり。
ゲルトルーデは諦めた。もう時間がない。コンボドライブを止め、再び耐圧窓の向こうのサクラに会いに行った。
出会ってまだ二日。車椅子を押そうとしてゲルトルーデの作り物の身体の重さに首を傾げたサクラ。その作り物の手を握ろうとして振り払われたサクラ。歓迎会、何度もキスをしてきたサクラ。タシロアイランドまでのランデブー、空を飛べる仲間が出来て最高だと言ってくれたサクラ。助けに来たゲルトルーデを逆に心配してくれるサクラ。反対勢力の独国から来たゲルトルーデの全てを受け入れてくれたサクラ。
胸の中で小さな発電機がちりちりぱちぱちはぜるほど、ゲルトルーデは切なく愛しく感じた。
出会ったばかりなのに。
『ゲル、もう帰って! あなたの方が死んじゃうよ!』
サクラが言い、ゲルトルーデは深海の暗がりの中、ヘルメットの中、溢れる涙を止められなくなった。
『大丈夫、この綿津見は、もう少ししたらもう一度起き上がる。その時、天沼矛は役目を果たすわ。海全体にもの凄い電気が放出される。あなたの方がその電気で死んじゃうわ。』
もう少し?
ゲルトルーデは驚き、サクラの顔を見つめた。
『RATが教えてくれたのよ。今、RATたちが一生懸命、この綿津見の核をほじくり出そうとしてるんだわ。天沼矛がそこに届くように。』
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