#20
震次郎は蓮花が学園のプールに行っている間に、スーパーまごやに向かった。
真っ青な夏空、牡鹿半島上空に高々と入道雲が伸び上がる。しかし大気が不安定で局地的に豪雨となると朝のJBNで伝えていた。
震次郎は真っ青な空の下、頭上から燦々と降り注ぐ太陽に追い立てられるようにゆるい坂道を田代学園の方向に上った。
スーパーまごや前の空き地に、見慣れた銀のスクーターが止まっている。ベスパという五〇〇年前のモスボール物だ。
周りには猫、猫、猫。何をやっているのかと小さな子猫が集まり、その外側をお姉さん猫、さらに遠巻きにお母さん猫、と同心円状に群れている。
「いけるで!」
関西弁とともに、軽快なエンジン音が響き、猫の同心円が崩れた。
「どや! うちのテクを見たか!」
「おー凄なや!」
拍手しているのは筋骨隆々な後ろ姿。日に焼けた首筋、金色に染めた短髪。ピチピチのTシャツの背中には2518川開きのロゴ。つい半月前、無事に終わった石巻の夏祭りの公式Tシャツだ。
「ん? 阿部司令、どないしたん?」
スクーターの後ろ側からひょいと顔をのぞかせたのは、つなぎ姿の青木アサミ、いやもう阿部アサミ。先月、結婚パーティーをやったばかりだ。石巻市のグランドホテルで盛大に。
DGクルーで一番背が低かったはずが、今ではまごやの若旦那と肩を並べるほどすらりと伸びた。あの日以来伸ばしている長い髪を後ろで無造作にポニーテールに結んでいるが、つなぎと眼鏡だけは昔から変わっていない。
「蓮花のケーキ取さ来たんだでばー。」
「をを、蓮花ちゃん誕生日がー。何歳なったの?」
若旦那が振り返った。人懐っこそうな顔はこのところふっくらしている。アサミの関西式ダブル炭水化物レシピのせいともっぱらの噂だ。
「五歳だー。生意気盛りで困ってってばー。」
震次郎が笑った。
「でも可愛いぞー。アサミも早く子供作れ。早い方いいどー。しずえがどんだげ大変だっだがー。」
アサミが若旦那の背中に隠れるようにしてまだ早いやんと小さく恥ずかしそうに答えた。
「あ、ケーキは冷蔵庫さ入ってっがら、店番さ言ってけらいん。」
まごやの若旦那もどぎまぎしながら震次郎を店へと促した。
田代島でプールと言えば、田代学園の開放プールのこと。
お盆にもなるとポケットビーチにもクラゲが寄ってきて、海で遊んじゃならんと年寄りたちも叱る。それでも夏休みも終盤戦の子供たちは時間を惜しんで泳ぎたい。なのでこの時期はどうしても学園のプールで泳ぐしかなかった。
しずえも蓮花に朝からせがまれてここまで連れては来たが、四十路を迎えて夏の日差しとは仲良くしたくなかった。泳がずにプールサイドの日よけの下、大騒ぎして水と戯れる蓮花をただ心配そうに見つめるしかなかった。
褐色の髪はさらさらに伸ばされ、肩の上で無邪気に跳ね上がって踊っている。この癖毛を隠すために短く切りそろえ、整髪料で固めていたが、蓮花の育児を機会に気にしないことにしたのだった。
かつての宝塚OCの名男役を思わせる凜々しさはなりを潜めたが、隙のあるそのラフさ加減がそれはそれで素敵と未だにファンが多い。
「しずえさん。」
声をかけられ、顔を上げると、赤いワンピースの水着が目に入った。
「キャシー、どうしたの?」
肩までの金髪はかつてのゲルトルーデに似ている。そもそもスタイルはDGクルーで一番良かったが、今やその胸は水着の下で弾けそうで、さらにそのお腹もすっかり大きい。もう妊娠三八週を過ぎている。
「運動不足で、マタニティスイミング勧められたんです。ウォーキングだけですけど。」
「あ、副司令……。」
キャシーの後ろの方から本郷が大荷物を抱えてやってきた。クーラーバッグにサマーベッド二人分。
「蓮花ちゃんと来てたんですか?」
五〇メートルプールを見回して本郷が聞いた。相変わらずの寝癖と無精ひげ。
「お盆に泳ぐなんて、罰当たりだわ。」
しずえが不機嫌そうに言い、キャシーも本郷も苦笑して顔を見合わせた。
「ご先祖様が帰ってくる日よ。」
キャシーは聞かない振りをして消毒槽に向かい、本郷はベッドを展開し始めた。
五〇メートル六レーンのプールは、レーン一本分ウォーキングコースになっており、よく見ると、お盆に泳ぐなんて罰当たりだと叱る側のお年寄りの姿もちらほら見える。時代は変わっていくのだろう。
キャシーは命一つ分以上重くなった体が、水の浮力を借りてふわりと浮かぶ感覚を楽しく思った。水は温み、涼しいというには不十分だったが、それでも十分快適だった。水圧がお腹の赤ちゃんに負担にならないことは医師からもお墨付きをもらっていた。ゆっくりとコースを歩く。一歩一歩。
「キャシー姉ちゃん!」
コースロープの向こう側から、激しい水柱を上げながら何かが急接近してきた。
「きゃ!」
水を頭から浴びせられたようなもので、キャシーは驚き顔を覆った。
「こんにちわー。お腹の赤ちゃん元気ですかー。」
コースロープに、真っ黒に日焼けした女の子がぶら下がっていた。腕には赤い浮。
「蓮花ちゃん、凄い上手に泳ぐのねー。」
キャシーが褒めると、女の子はにーっと歯を見せて笑った。前歯の右側一本がもう無い。
しずえさんに似て、涼しげな目元だったが、鼻と口は表情豊かな阿部司令似だと思う。
こうして見ると、サクラは誰にも似ていなかったんだと思う。
そんなことを考えて黙り込んでいると、蓮花も笑顔を凍らせ表情を暗くした。
「キャシーお姉ちゃん、どうしてサクラ姉ちゃんは帰ってこないの?」
ふいの問いに、キャシーははっと驚き答えに詰まった。
「おかあさん、サクラ姉ちゃんのお部屋に蓮花が入ると、もの凄く怒るんだ。サクラ姉ちゃんのお部屋、可愛い服や縫いぐるみとか一杯あるんだよ。」
「知ってるよ。お姉ちゃんも何度も行ったから……。」
「でも、それ見に行くの、おかあさんが凄く怒るんだ。」
「ほら、大切なものだから……サクラお姉ちゃんが帰ってくるまで、大切にしまっておかないといけないから……。」
「でもな、潮観館の正宗がいつも言うんだ……。」
潮観館の正宗くんは幼稚園年中にして田代随一の番長にまで上りつめた悪ガキ、キャシーの一年先輩の一人息子のことだ。
「サクラお姉ちゃんは本当はもう死んでるって……。」
蓮花の言葉に、キャシーははっとした。
「サクラは死んでないわ!」
思わず叫んでしまい、その声に蓮花はびくりと驚き、やがて、表情を歪め大声で泣き出した。
「あ、ああ、蓮花ちゃん……ごめんなさい、ごめんなさい……。」
キャシーはコースロープ越しに小さな蓮花を抱きしめた。
「ごめんね、ごめんね、ごめんね。」
やがて蓮花は泣き止み、鼻水が垂れているのも気にせずキャシーの顔を間近で見つめた。
「……キャシーお姉ちゃん、お母さんみたい。赤ちゃんの頃、おかあさん蓮花だっこして暗いところにいて、大きな丸い玉の前で、泣きながらごめんなさいごめんなさい言ってたのおぼえてるんだ。暗い大きな部屋で、大きな丸い玉で、それで、それでね……。」
キャシーは蓮花の言葉を待った。
あの日のことはキャシーも覚えている。
時間が止まったえんしゅうの一室。
「わたしが目印になる。キャシー、この光を撃ってって知らせて。みんなは部屋を出て。」
サクラから放たれるその白い光は、部屋を構成する素材を浸透し外まで漏れているのだろう。疑問に思う余裕もなかった。
「アサミ! えんしゅうの背中、光ってる所に天沼矛撃ち込んで!」
キャシーは叫んだ。
【ど真ん中やーーー!】
続く激しい衝撃。TFPの膨大なエネルギーが自然界に還元される閃光、轟き。
白い光がかき消えた時、オゾン臭で満たされた暗い部屋の中には、光を失ったサクラ一人。
「……帰って行ったわ。」
サクラが言った。
「……どこへ? 葛城はどこに帰って行ったの?」
しずえがすがりつく。その時、蓮花はすでに胎内に宿っていた。
「国津神の国へ。死んだんじゃないよ、神さまになって、あっちの世界に戻っていっただけ。」
サクラがしずえを抱きしめて言った。
「サクラ、サクラ、あなたは一体誰なの?」
「ごめんね。お母さん。ちょっと無茶しすぎたみたい。……いつかみたいに戻ってこれそうにないよ。少し休まないと……。」
「サクラ!」
膝から崩れ落ちるサクラに、震次郎が、キャシーが駆け寄る。
「ごめんね。わたしの抜け殻は、どこか暗い、完全密閉できるところにしまっておいて。でないと、蒸発して消えちゃうと思うから……。」
サクラの体から揮発性の何かが漏れているのがわかった。
「サクラ! サクラ! 必ず戻ってくるんだぞ!」
震次郎が叫び、その体を揺さぶるたびに、サクラの体はどんどん軽くなってゆく。
「お父さん、お母さんを離しちゃ駄目だよ。」
震次郎の腕の中でサクラはどんどん収縮していく。
そしてやがて赤ん坊ほどになった。重さも同じくらい。
かつて猫神社で保護された時ほどの大きさ、その時は元気に泣いていたと聞くが、今はすっかり眠ってしまっている。正確には、呼吸すらしていない。
「サクラ!」
震次郎は赤子まで収縮したサクラを胸に抱きしめ、絶叫した。
「わたしおぼえてる。」
蓮花が言葉を見つけ出した。
「大きな黒い玉の中にはね、白い光があったの。雲みたいにふわふわして、その中に、女の人が浮かんでたわ。」
見える訳はない。
蓮花の覚えている黒い玉は、ФНАの海震爆弾が発する先進波を観測するためのマイスナーセンサーの核を納めていた五メートルほどの二一重の非晶質反磁性体の球状殻で、タシロアイランドの船内奥深く、強磁性体の多面体フレームで包み込まれ文字通り浮かんでいる。
二一枚の球状殻は、素材の厚み分、直径が二センチずつ異なり、論理的には隙間なくぴったりと重なり合っている。各層にはそれぞれに直径一メートルほどの開放孔があり、この位置が少しずつオフセットされることでその内部は完全に外気と遮断される。
そんな中で、サクラは眠っているのだから。
「……そうね、そうね、それがあなたのお姉さんよ。今は休んでいるの、長いこと休んでいるの。」
しかしキャシーは、否定することなくサクラの妹・蓮花を抱きしめた。
「いつ帰ってくるの? 蓮花が大人になったら? 蓮花がお利口にしてたら?」
蓮花が尋ねた。
「そうね、きっとそうね。お姉ちゃんも待ってるんだ。サクラ姉ちゃんが早く帰ってくるの、待ってるんだ。」
蓮花はやっと笑顔になった。
それもほんの一瞬、だった。
次の瞬間、再び火がついたように泣き出したのだった。
震次郎は冷たい誕生ケーキを手に、仁斗田の街へ降りていった。
午後の強い日差しを抜け、再び石段を登ると我が家。
「ただいま。」
玄関のスライドドアを開けるが、誰も答えない。
震次郎はケーキを冷蔵庫に入れ、居間のローテーブルに座るとふうと一息ついた。
思い出して親子三人が使っている寝室に入り、蓮花の五歳の誕生プレゼントを確認した。赤い新しい靴。サクラに負けず劣らず活発な蓮花のためにやっとのこと探してきた幼児用のランニングシューズ。これならしばらくはどんなに駆け回っても大丈夫だろう。
【阿部司令!】
不意にQWが開いた。上半身裸の本郷。
「どうした? 今日は嫁さん連れてプールに行くって……あ、しずえと会ったのか?」
【今ここにいます。】
後ろの方で聞こえる大きな泣き声。こんな大声で泣くのは、田代島ではただ一人。
「ん? 蓮花? 蓮花がどうかしたのか?」
QWのアングルが変わって、プールサイドで泣きじゃくる幼い娘、心配そうに見つめる身重のキャシー、そしてしずえ。
【山が崩れるの、山が崩れるの。街が山にのまれるの。こわい、こわい……。】
泣きじゃくる蓮花。
震次郎はとっさに同報QWを開いた。
「ナスターシャ! 報告!」
【トロイカMBは足が速くていいです。】
トロイカというのは、つい最近、極東地域のTFP処置用の機体として熊の爪から貸与されたMB機。鋭く尖ったステルス性皆無の前時代的可変翼機で、四〇メートルを越えるその白い機体には、一昨年からスポンサーとなっているBRHMNのロゴが大きく描かれている。
二〇世紀末の超音速ジェット爆撃機が原型で、エンジンをアルコール駆動の可逆熱行程ジェネレーター一体型RRドライブに換装し、最高速はマッハ1強程度だが、ビューグルズよりは低燃費で、熊さんよりは高速で展開できる。
主に巨人の尾オペレーター兼対露国ネゴシエーターのナスターシャとパイロットの宝田のペアで運用する予定だが、天沼矛アデネピアテラの射出ルーチン・アサミランチャー2の慣らしがまだだったため、今日はゲルトルーデもついて行っていた。
【予定通りカムチャッカ半島、赤六角上で待機中。まだ前兆無し。】
QWに映るナスターシャの姿は、五年前とそれほど変わっていない。
アサミには追い越されたが背もそこそこ伸び、体つきも大人びていたが、美少年のような中性的な雰囲気は消えていない。しずえさんが髪を伸ばした今は、名男役の座はナスターシャに移る勢いだった。強いて言えば、右の耳の上、髪の毛が耳にかからないように止めている自然石の髪留めは女の子らしい。
「山だ、山が崩れて街が土石流に呑まれる。場所の特定を!」
震次郎は説明を省いてそれだけ伝えた。
【タ インファラマンセニ タクリ? 】
ナスターシャがその 情報は正しい のか?と返した。
「蓮花がTFPを予知した! 山が崩れて街が呑まれると泣いてるんだ! 該当する場所があるはずだ!」
震次郎はさらにきっぱりと、何の疑いもなく言い切った。
【ヤ! ヤ ポニマヨ! 】
ナスターシャは震次郎の指示をすぐに了解した。
【……久しぶりに非科学的だ。】
思わず微笑んでしまった。
赤六角内で、山に隣接した街は一カ所。カムチャッカ最大の街・ペトロパブロフスクカムチャッキー、街の南に高級ホテルや観光施設の連なる小高い山がある。その裾野に市街地が広がっている。
【ナスターシャ! 山が!】
トロイカMBとランデブーしていたゲルトルーデが叫んだ。
金の髪は腰近くまで伸びて風で激しくなびき、まるで金の航跡を伸ばす流れ星のよう。体格も大人のそれになり、手足はかつてのそれと比べても長く太い。その小脇には天沼矛1/5。
本人の意向で、手足はあえて人工物であることを強調する意匠、そして素材に替えられていた。結果、脚のデザインの自由度が上がり、今では車椅子無しでも生活出来るようになっている。
確かに剥き出しのRRドライブの噴射口や実用本位の歩行脚は、あまりに人工的意匠だったが、それでも十分にゲルトルーデの肢体は美しかった。特に空を飛ぶ姿は、例えようも無く美しく、今でもファンが多い。
今年の川開きでも松島基地のブルーインパルスと飛行展示で共演し、DG—TP広報に多大に貢献したところだ。もちろん愛称はゴルデナインポイザ・金色の衝撃だ。
【こっちも探知した! 歪度メーター水準突破、TFP!】
宝田がトロイカに新設された光学歪度センサーの表示を読み取り、No Imageの同報QWの向こうから知らせた。
「頼むぞ!」
【ゲルトルーデ行きます!】
ゲルトルーデは天沼矛1/5を抱えたまま山に向かって急降下した。
【ネイルダウン!】
山塊に激突する刹那、天沼矛1/5を地面目がけて放り投げ、自身は両足のコンボドライブを最大に吹かし、退避する。TFP処置の際に発生する過大な雷光、高荷電の光の柱から逃れるためだ。
山を少し揺り動かした程度のTFPは見る間に中和され、プロパ・伝播は最小限度に押さえられた。
【処置終了。巨人の尾情報更新、次の赤六角は明日以降。トロイカMB、熊の巣に帰投します。】
ナスターシャが報告し、震次郎はほっとした。
【司令、蓮花ちゃんも……処置終了。】
本郷のほっとしたような声。
QWに、しずえの胸に抱かれてすやすや眠る娘の姿が映った。しずえの白いブラウスは蓮花の水着の水で濡れ、下に着ていた紫のビキニの色がすっかり透けて見えていた。
【……震次郎?】
しずえが潤んだ瞳でQWを、震次郎を見つめた。その面差しは、不安と戸惑いに満ちていた。
【蓮花、普通の娘だよね……? サクラみたいに、いなくなったりしないよね?】
二五一八年八月一四日(日) 阿部家次女・阿部蓮花が初めてTFPを察知した。五歳の誕生日のことだった。
(第一シーズン了)




