#1 朝礼 Wecken
#1 朝礼
音は聞こえない。
聞こえたとしても、それは自分の胸の奥、高鳴り続ける鼓動。
しかし見えている。その音が見えている。いや正確には波。
眼下の見えもしない闇の底、大きく固い黒々とした密度の表面を走る波。光にも見えるが、それは波、音にもやはり近い。
一番近いのは、ネズミが走る様子だ。
黒々とした眼下を走るネズミが、徐々にその数を増やす。
それが見える。見えるはずがないのに、見えてしまう。
【サクラ、赤六角に入った。リリース予定ポイントまであと一〇マイル。このままいいか?】
暗闇に小さな窓が開き、若い男の顔が浮かんだ。無精ひげと寝癖に見える特徴のある癖毛。
「ほぼ一緒。右に五度、RATは左回り。」
言いながら黒々とした窓を開き、そこに指で何かの絵を書いた。光る線が、黒い窓、夜の大地と空の画像の上に、左回りの渦巻きとなって重なって表示された。
【確認した。リリースポイント確定。】
サクラは鼓動がさらに高まるのを感じた。左回りはあまり良い思い出がない。北半球でRATが左回りの時は、TFPが南東方向に偏心し、収拾がつかないことが多い。
広大な黒い密度の表面を走る波でも音でも光でもないそれ、彼女がネズミと呼ぶそれが向かうその中心は、広大な無人の原野の予定だった。
しかし、渦巻きの絵の代わりに映し出された、今から向かうその中心を示す地形の詳細画像、黒い夜の底で見えないはずの地形を細かな等高線で示すその画像の南東部部分に、さっきまで確かにそれが見えていた。
小さな灯り、猟師小屋か何か。
「ねぇ! 露国にはちゃんと通告したよね? 赤六角には避難勧告出てるよね?」
【いいえ。】
新しい窓が開き、浮かんだのは少女の顔。銀色の短髪、少年めいた整った顔は冷たく澄んでいた。
【露国は都市圏以外、TFP情報は流さない。】
【リリースポイント間近! サクラこのままでいいか?】
さっきの若い男。
「見、見えてるよ! そのままでいい! でも、でもあそこにいるわ!」
サクラは叫ぶように答え、目の前の宙空でグリーンに輝く別の窓をさっと一瞥した。そこに表示された数値はいつも通り。本郷の腕は間違いないとわかる。
サクラが今いるのは狭いトンネルの中のような空間。
一文字ハンドルにしがみつき、狭苦しいシートに半ば寝そべるように座っている。身体はがっちりとした樹脂製のベルトで固定され、身動き出来ない。足元の頑丈なステップだけ、ゆっくりと揺れて、彼女の足をぐいぐいと押す感じがする。
しかしよく見れば、狭いトンネルの天井、夜空の闇で満たされた小さな丸い窓が並んだ金属製の壁の方が動いて見える。ゆらゆら動いているのはサクラを縛り付けるシートの方、シートは前後にふわふわと揺れていた。
【カウントダウン3から。】
と、凄腕パイロットの本郷。
「ねぇ! あそこに誰かいるわ! 小さな小屋に……」
サクラは不安げに訴えた。
しかし、その訴えに答える者は誰もいなかった。
【2、1、投下!】
次の瞬間、サクラは激しく弾き出された。ぎゅうっと息が詰まる。丸窓越しに、露国の夜とそれより黒い原野が小さく見えた。
空からまっすぐに落ちている。彼女は大空の只中に弾き出されたのだった。
緑に薄光る窓に映る情報数値、どんどん減って行く高度、どんどん上がって行く落下速度、自由落下とはいえ、一七歳の少女が体験するには十分過ぎる落下速度。
急激な降下Gに目を閉じれば、視界は一転して開ける。
地表面を示す暗がりとその表面を無数に走り、左回りに渦を巻くRATたちの群れ。
光にも音にも波にも感じられるそれは、ある一点目掛けて渦を巻くように集まり、サクラの体は真っ逆さまにその渦の中心目掛けて落下する。
【ヤ ストパヤナ ギガンスカム。】
とさっきの少女の声。
【……巨人が踏むわよ。】
いつも聞いている露国の言葉。言い直さなくてもサクラにはわかっていた。
「回してみる!」
一瞬の判断。
左回りに収束しつつある、サクラにしか見えないRAT・不規則移動痕跡 の中心核に向かって落下しながら、サクラは一文字型操縦桿をぐいとひねった。
落下Gに、さらに回転の遠心力と横Gが加わった。
【サクラ! 何やってるんだ!】
本郷が窓の中で慌てた。【着地シークエンスが狂っちまうぞ……】
【サクラ! ネイルダウン! ネイルダウンよ!】
と別の少女の顔が窓に浮かんだ。金色の髪、蒼い瞳。
「キャシーわかってるわ!」
サクラは一文字操縦桿をぐいと手前に引き寄せ、自転車によく似たブレーキレバーを力一杯握りしめた。
「止まって!」
RATの渦の中心、露国の夜の底のその一点に向かって、激しく右回りにロールしながら自由落下しつつ、サクラは一文字操縦桿に付いている沢山のトグルスイッチを、正しいタイミング、正しい順序で跳ね上げた。
「TFP中心ロックオン! ピラーズ電界ロックオフスイッチOK! 羽衣電圧十分!」
波、音、そして光にも見えるRATの渦。これはサクラにしか感じられない。
「行くわよ!」
しかし近くにいたならば、今、まさにその瞬間は、空と大地が軋む音が聞こえたはずだった。
巨人の足跡、スレッドノギギガンタ 、英語で巨人の足跡とは、よく考えた名前である。
文字通り、見えない巨人、あるいは巨人が大きな足で大地を踏みつけたかのよう。
激しく軋んだ大気、見る間に窪んでいく露国の原野。
その窪みゆく大地の中心に、夜空から落ちてくる一本の棒、長さ一二メートルほどの葉巻型の金属の棒。
右回りに回転しつつ落ちてくるその棒は、大地に突き当たらんとするその刹那、四枚の羽を広げ、青白い光を発しながら全体から風を逆巻き、同時に激しく減速した。
気体液体を問わず触れている媒質に指向性のある量子力学的な運動を励起する羽衣・表面推進が起動したのだ。
そして、減速した棒のさらに内部から、何かが飛び出し、大地に突き立った。
まるで巨人の足の裏に釘を突き刺したかのよう。
間髪を入れず、今やわずかに地表から浮いたまま停止している棒、巨人の足の裏に突き刺さった釘のその上端から、激しい雷にも似た衝撃と光の柱が夜空を焦がすように沸き起こった。
窪みゆく大地が、その雷の柱と同調するように、隆起、復元し始める。それに抗うように一部が再び陥没し、そのせめぎ合う隆起と陥没はまさに左回りの渦のように大地を激しく震わせた。
足跡の中心に突き立った釘から夜空に放たれた雷の柱は、蠢く渦が止まるまで夜空を焦がし、やがて静まり、静寂と闇が帰った。
暗闇の底に、左回りの崩れかけた渦の形に崩壊し陥没と隆起をさらした原野。
その中心に突き立った釘に見えたものは、明らかに、葉巻型のミサイル然とした航空機、いや、それらしい翼もなくわずかに燐光を帯びて漂う、まるで夜釣りに使う光る浮子。
その銀無垢のボディの横腹には、日の丸のマーク。
そして漢字で『公益特殊法人タシロ計画災害防衛隊』と書かれていた。漢字の下には小さく英語で『Disaster Guard-Tashiro Program』の表示。小さな垂直尾翼にある機体記号はJA17TPで、特殊航空機登録である。
垂直尾翼直前、のっぺりとした機体上面には丸い小さな窓がいくつも開いていて、ネコの可愛いイラストと『SAKURA RH+O female』という表示も見える。
【……ラ、サクラ……TFP処置完了、プロパ阻止……】
サクラはノイズで切れ切れの声に我に帰った。
窓はまだ映像を映し出さず、声だけが切れ切れに届く。
「こ、小屋は?」
狭いトンネルの中、サクラを守る衝撃緩衝シートが生き物の呻き声のようなガス音を響かせた。
トンネルの最奥から、先端まで、落下のショックを吸収するそのシートは深く深く沈み込み、そしてガス音とともにゆっくりと伸び上がった。首筋を両側から固定していた大きなエアピロー状のプロテクターが外れ、首も自由に動くようになった。
急速な減速Gによる脳貧血で目の前はチカチカと明滅していたが、丸い耐圧ガラスのはまった小さな窓越しに、露国の夜の底が見渡せた。
サクラは呻き、頭を振りながら、あの想定外の灯り、TFPのすぐそばに灯っていた猟師小屋らしいあの灯りの方角を探した。
【お疲れサクラ、さぁ家に帰ろう、ピックアップするぞ、羽衣を起動して……。】
窓に本郷の顔が映った。ほっとして笑顔がこぼれている。
夜空を焦がした激しい光の柱が起こした強烈なイオン・荷電粒子の嵐を避け、一時退避していたアマノヌボコ母機が、サクラを迎えに戻ってきた。
露国の夜よりも黒々として怪鳥めいた巨大な黒い翼の下面に探照灯が灯り、サクラの乗ったアマノヌボコを照らし出す。その巨大な腹部が開き、巨大な一本の脚が迫り出す。ヤタガラスの名の由来である第三の足・多目的可動 梁 が、サクラのアマノヌボコを回収する準備を整えた。
しかしサクラは本郷の声を無視し、羽衣を起動し、二本の確保爪を広げた多目的可動梁から逃れるように、南東方向に飛び去った。
【サクラどこに行くんだよ!キャパシタが空になったら帰れなくなるぞ!】
本郷の制止を振り切り、夜の底をサクラは飛んだ。
あんなにたくさん走っていたRATたちはどこかにかき消え、ズタズタに切り刻まれた大地が、アマノヌボコの灯す着陸灯のわずかな明かりの輪の中を、風のように過ぎ去った。
そして歪んだ光の円弧の中を、違和感のある何かの影が過ぎた。
半径数百メートルにもわたるTFPの渦巻き状の地殻崩壊の外れ、偏心し伸び出た一部の陥没が、小さな小屋をくしゃくしゃに潰し、大地に鋤き込んでいた。
オモチャの家のように、くちゃくちゃに……。
「ーーー!」
サクラは心臓が破裂しそうになって飛び起きた。毛布を蹴り飛ばして身を起こすと、流れた汗でパジャマがぴったりと背中に張り付いていた。
ぶるっと身震いをした後で、北欧製のお洒落な学習机の上にあるはずのアナログ風目覚まし時計がいつもの定位置になく、枕元にアラーム停止状態で転がっていることに気づいた。
丸い数字板に長短それぞれ時針が回る古典タイプの時計で、針は非情にも七時五〇分を指していた。
「やだ〜! 遅刻遅刻遅刻〜!」
飛び起き、壁に掛けたハンガーからピンク色の制服を引き剥がすと、袖を通しながらどたどたと階段を駆け下り、居間に飛び込んだ。
ももの前側が三角に伸びたセーラー服風の上着は白とピンクの複雑な切り返しを基本にして、袖口には臙脂色の切り返し、前身頃には三つボタン二列に挟まれるように薄いピンクの切り返し。
エッジがピンクで菱形のワンポイントが左右に入ったセーラーカラーは臙脂色。そこに文字通りリボン結びされた前リボン、プリーツの入った短めのスカートも臙脂色で、腰の部分に長く垂れる蝶々結びのリボンも臙脂色。
セーラーカラーの後端とジャケットのももに垂れた三角のすそには、三角のワンポイントが猫の耳のようについている。
「サクラ、パジャマは脱いでいきなさいよ〜。」
若い母は振り返りもせず、古風に手で食器を洗いながら言った。
「え〜何〜? あぁ〜!」
震災前風なローテーブルの上に準備済のいつもの遅刻食、筋子のオニギリを口に押し込んだところで、臙脂色のプリーツスカートの下にまだパジャマの下を履いているのに気づいた。
「も〜しずえさんなんで起こしてくれなかったの〜?」
オニギリをほおばりながら、洗面所に駆け込み、パジャマの下を脱ぎ捨て、ももまである純白のニーハイソックスを履き、同時に器用に寝癖のついた褐色の髪にイオンブラシを入れた。
「可愛い娘が泣きながら夜遅くに帰って来たのよ、露国から。そりゃ声もかけにくいわよ」
「そういう気の使い方はいらないよ〜! 今朝は転校生が来るって、朝礼なのよ〜。」
オニギリを飲み込んですぐに歯ブラシをくわえ、二度三度と歯をなぞっただけでぺっと吐き出し、顔に冷たい水をぺちゃぺちゃ浴びせた。
「虫歯になっても知らないわよ。」
母の声を背に、サクラは顔を拭きながらばたばたときつい段差のある玄関に走り出し、茶革のローファーのかかとに指を引っ掛けて三和土の上をぴょんぴょん跳ね、半ば無理矢理足先を押し込むと、がらりと建て付けの悪いスライドドアを開けた。
「歯だけは丈夫〜!」
わっと五月の朝日が寝不足の目を刺し、目をすがめると三和土から小さなRATが走り出たのがわかった。
きれいな弧を描く背中を持った『波のような』もの。
サクラにしか見えないもの。
しかし普段は何の害もない、ただ気まぐれに地表を走るだけの『波のような』もの。
「を〜サクラ、今日も重役出勤か〜?」
足形に刺さった矢印を模した『DG-TP』ロゴのついたキャップをかぶった父が、バケツを下げて石段を上がってきた。
「RNF漁研から養殖試験のウニ、こんなにもらって来たぞ。今夜はウニ丼な……わわ危ないって!」
父親の足元を駆け下りるRATを追うように、狭い石段を駆け下りた。
「ごめんね〜急いでるのよ〜!」
ウニのバケツを大事そうに抱え、何か怒鳴っている父を適当にあしらいつつ、サクラは細い石段をメインストリートまで駆け下った。その後ろ姿を見ると、セーラーカラーの後ろ側の三角のデザインは猫耳、腰の長いリボンは猫の尾のように見えた。
メインストリートと言っても、センターラインもない小道。ここ、田代島には広い道路がほとんどない。
新漁業改革入植者・大網人が住む白い蜂の巣みたいな複合居住区・大網人長屋が並ぶ中を伸びる一本道を左に折れ、サクラの家のような昔ながらの非モジュール住宅が多く残る仁斗田の街を背に、坂道を駆け上がっていく。
もう通学の生徒の姿も無い閑散としたメインストリートの五月の陽だまりの中、スーパーまごや前にはネコたちがゴロゴロと寝転がっていた。ゆうに三〇匹。
ここ田代島は『猫の島』で、これが有名な『猫溜まり』だ。
車が来たらひかれるだろうにお構いなし。そんなことはいつものこと。
あの震災とそれに続く電力飢饉、発電燃料の枯渇から始まった長い自家用車禁止政策で、日本では自家用車の使用が制限されている。
この田代島には、RNF漁研所有のシェア軽トラが数台と田代総合病院の小型救急車がある以外、世界最大生産量を誇る鈴鹿重工の原付・ナーティや老人用のシニアカートがある程度だった。
だから猫たちは安心しきっているのだ。
スーパーまごや前の猫溜まりのネコたちは、必死に駆け上がってくるサクラを耳の動きだけで無関心に出迎え、小さな子猫たちだけは「遊んで遊んで」と、サクラの足元をぴょんぴょん追いかけた。
「ごめ〜ん! 今日は遊べない〜!」
子猫たちの群れを飛び越えるようにさらに坂を駆け上る。
坂道は、白い蜂の巣みたいに見える大網人長屋に沿って延々と続き、それが途切れた後、大きく二度ヘアピンカーブを描きつつさらに延びていく。
やっとのこと坂が平坦になった頃、田代総合病院の白い建物が左手、学園の赤い大きな双峰の三角屋根が右手に見えて来た。窓の形を含め、猫の顔にそっくりだった。
「サクラ〜遅刻〜?」
すっとぼけた内燃機関の排気音を立て、震災前のスクーターがサクラを追い越していった。
今時の原付・ナーティは、フレームと車輪が物理的に接しないフローティングリム形式が主流だが、そのスクーターは、自転車同様に車輪の中心軸が頑強な車軸で固定されているタイプ。
確かベスパという名前だったとサクラはおぼえている。
電力飢饉で、多くの化石燃料を使用する機械はその役割を失った。しかし世界的な温存運動が起き、多くの五百年級の機械遺産は数多く温存施設で動態保存されている。
そして近年、バクテリアによって合成されたSFF・合成化石燃料 の普及で、これら遺産はモスボールから発掘され、一部の愛好家の手によって走り出すようになっていた。
「阿部ちゃ〜ん! 乗せてって〜!」
サクラは息を弾ませ、ベスパに乗ったジャージ姿の若い女性の背中に呼びかけた。
「原付だから二人乗りは駄目ー。」
スクーターはサクラの前で止まり、乗っていた茶髪の女はおどけて舌を見せた。「近々一二五CCに積み替えるから、そしたらいいよ!」
「今よ今、教師が困ってる生徒を助けるのは当然でしょ〜が〜!」
息を整えて膨れて言った。
その瞬間、ゴロニャンゴロニャンとしか聞こえない鐘が鳴った。田代学園始業一〇分前の猫鐘。朝礼のある日は、さらにその五分前に鳴る鐘。
「やべやべ! ボクもピーンチ!」
阿部ちゃんという、茶髪・ジャージ・震災前のベスパといった、教諭らしからぬ風体の女性教諭は、サクラを置き去りに走り出し、ほどなく右に折れて大きな校門をくぐって消えた。震災前の内燃機関独特の音と匂いをたなびかせて。
サクラは再び走り出し、ほぼ全校生徒が並び終わっている校庭に走り込み、ほとんど何も入っていないカバンを校庭南、古い旧校舎側の植え込みに投げ入れると、自分のクラスの列に走り込んだ。
「こら阿部サクラさん!」
メガネにお下げがトレードマークの河原田先生がサクラの遅刻を見咎めて小声で注意した。背が小さく一見して中学生、それも副委員長か書記か図書委員という風情の可愛らしい教師だったが、本人曰くもう三十路なのだそうだ。
「サクラ大丈夫?」
頭一つ高いところから蒼い目の級友が覗き込んだ。後頭部に丸めた金髪、そのまとまりに入り損ねた柔らかな後れ毛がさらっと垂れて光った。
「だ、だ、だ……大丈夫よキャシー。」
サクラは息を整えながら級友を見上げ、微笑んで見せた。五月の青空が睡眠不足を思い知らせ、その目はほとんど開けていられないほど潤んだ。
ニャンニャンニャンニャン・ニャンニャンニャンニャン
またしても猫の声。始業の猫鐘だ。
田代学園全校生徒、小中高一二学年各一クラス総勢三〇〇人余の少女たちは号令を待たずに整列し、それを満足そうに見回しながら学園長が登壇した。
「みなさんおはようございます。」
少しハウリングしながら校庭の四隅のスピーカーから学園長の声が響き渡った。
「おはよーございまーす。」
甲高い少女たちの挨拶に、学園長の阿部龍太郎は満足げに大きな太鼓っ腹の横に手を置き、可愛い自慢の生徒らを見渡した。
「今日から新しいおともだちが増えます。」
朝礼台の横、並んだ教師陣の間から、そろそろと進み出たのは、北欧風の可愛い椅子に座った少女。いや椅子は滑らかに動く最新型の車椅子のようだった。
肩まで伸びた金色の髪、色白、いやむしろ蒼白な面差しに光る青い瞳、緊張に結ばれた唇だけがやや花びらめいて薄紅に濡れ光っている。
「独国から来た、ゲルトルーデさんです。」
「……シュン ツ アフラン。マイン ナム イス ゲルトルーデ。」
はじめまして。ゲルトルーデと申します。
少女の声のその透明感に、女生徒たちは皆ざわめいた。その西洋人形を思わす姿にまったく似合い過ぎの声色で、年下の少女たちは頬を赤らめ、先輩少女の中には、ふいの強敵登場にやや不本意そうな面持ちも垣間見れた。
「タシロ計画災害防衛隊に、TFP処置の勉強に来ました。」
「え〜! 嘘〜!」
サクラは思わず素っ頓狂な声を上げ、周りの女生徒たちは驚きサクラに視線を向けた。
「お父さんが言ってた今度来る新人さんって、あなただったの〜?」
田代学園は、日本東北州の洋上、宮城圏石巻市の田代島にある、小中高一貫の私立女子学園。
その教育方針は今時の学校と違い、書込以上に団体生活や実体験を重んじている。
少子化、就学児童人口の激減から普及した遠隔地在宅教育。
そこから発展した学習情報直接移植技術。
その後の人口増加政策・移民受入政策で就学児童は激増したものの、在宅で随時学習可能なインフラがあることから、あえて拘束時間を求めて学校へ通う子供たちは増えず、教育施設としての学校は滅びたと言えた。
にも関わらず、こんなローカルの、本土から離れた小島にある田代学園という施設に入学する生徒が跡を絶たないのは、その教育方針によるところが大きい。
午前中はインプリンティングデバイスによる学習データの直接書込授業であるが、午後は体験教育。
実態はサークル活動で、生徒の創意を尊重して、音楽、美術、演劇等、知識の書込みでは開花し得ない芸術的な才能を導き出すことを主眼とし、又、田代島の自然の中で好き勝手にやりたい放題をすることで『生物としての人間性』を成長させることも重要視する。
今時、なかなかお目にかかれない学校で、本土から定期便で通学する者、そのために田代島に移住した者、そして日本国籍以外の者もおり、親元を離れて寮で暮らす者も少なくなかった。
「わたしが寮長のナスターシャ」
一五歳のナスターシャも、露国から来ているが、彼女の場合はちょっと訳が違う。
一時間目の授業時間、すでに本国で履修済みの量子力学だったので書込を免除され、転入生に学生寮の案内をしているところだった。
新校舎の北側、一階から三階までワンルームの個室が並んでいる。細長い部屋で、ドアの脇には小さなシンクとレンジ、冷蔵庫が一つになったユーティリティセット、その奥にクローゼットが一つ、小さなシャワーカプセルがあって、ベッドの向こうの窓際に学習机がある。
「毎週金曜日までに翌週の食事の予約を予約QRで入れること。予約QRは学食で入手できる。今週末までの分はDG-TP事務局で勝手に予約してたから、食べないと損する、支払元が。車椅子用のトイレは廊下の隅のあそこだけ。シャワーは部屋には一つカプセルがあるけれど、わたしに声をかけて。内線二〇二、二階。もっともっと大きなお風呂場に連れて行くわ。」
銀の短髪はまるで少年のようで、露国人の先入観とは異なり小さく痩せている。
一言でいえば天才美少年風。下級生より上級生にファンが多いが、キャーキャー騒がれるのは大の苦手だった。
「ダンケ。……今、次の授業の準備します。書込機を持ってくるので、教室まで案内して下さいますか?」
独国から来た美少女ははにかんだように笑みを浮かべた。
「ダー。」
ナスターシャもはにかんだ笑顔で答えた。
「ねぇねぇねぇねぇ!ナスタっちょ!」
ナスターシャの背後からふいにサクラが顔を出した。「今日、ゲルの歓迎会しよ〜よ〜、父さんがいっぱい試験ウニもらってきたんだよ〜!」
「ヤ!」
ナスターシャは美少年らしさを吹っ飛ばす勢いで取り乱し、ゲルトルーデは突然のサクラの登場に目を丸くした。
「わたしサクラ!同じ二年生なのよろしく!わたしが車椅子押したげる!」
「サクラ、授業はどうしたの?」
ナスターシャが口を尖らせて問い詰めた。この二年先輩ときたら、まったく勉強をやる気が無い。
「いいのいいの。阿部ちゃんの科学史だから、ネコとかヒモとかの話ばっかで、全然わからないから!」
サクラは悪びれもせず、耳に掛けた小さな装置を見せた。
デコレーションシールでギラギラに飾られたIPD・学習情報書込機の書き込みモードスイッチがミュートになっているのが、インジケーターランプの色でわかった。
「サクラ、それって校則違反……。」
サクラはナスターシャが諌めるのを無視し、そのまま猫並の素早さと図々しさでゲルトルーデの部屋に上がり込み、その車椅子らしくない可愛い椅子をグイと押して小首を傾げた。
「あれれ? ベアリング壊れてる? 重くない?」
「ダ、ダンケ。大丈夫です……。」
ゲルトルーデは慌てて自分で車椅子を動かし、器用にくるりとターンするとサクラを興味津々な様子で見上げた。
「あなたがFräuleinサクラ?」
「風呂いらんだか古いラインだかわからないんだけど、DGクルーのサクラはわたしで〜す。よろしくね。」
サクラは笑顔で答え、ゲルトルーデの手をさっと握ろうとした。
「やめて!」
しかしふいにゲルトルーデは小さく叫び、サクラの手を振りほどいた。
「ど、どうしたの〜?」
サクラは驚き、ゲルトルーデを見つめた。
その拒否感に満ちた仕草とは裏腹に、サクラを見つめるゲルトルーデの青い瞳は熱く潤み、白い頬は朱に染まっていた。
昼食時間が終われば、午後はおまちかね体験教育の時間。
「ゲル、可愛いから凄い人気だね〜。後輩が見逃してくれないよね〜。」
学食でたくさんの下級生に囲まれて当惑気味だったゲルトルーデを救い出したサクラは、学園の長い回廊、校庭を囲む庭園を抜ける渡り廊下を二人並んで歩きながら、感心し切った様子で言った。
午前中にあんなことがあったのに、サクラはへこたれていない。他人に触られるのが嫌な、すごい恥ずかしがり屋さんなのだと思った程度だった。
「そんなことありません。」
ゲルトルーデはかしこまったように小声でつぶやき、うつむいた。サクラは恥ずかしがり屋のゲルトルーデを微笑み見つめた。
ゲルトルーデの車椅子は、一見して洒落た北欧デザインのインテリアチェア。
それでも滑らかに動く。
実は、椅子の足先は指向性を持ったナノサイズのベアリングでみっしりと被われ、なめらかな滑走機能を持つ、つまりはよく滑るソリになっている。
さらにバナナ型の可愛い肘掛けをぎゅっと握るだけで、ナノベアリングは無数のモーターとなって回り、車椅子は音もなく進む仕組みだった。
加えて、椅子の名に恥じないしっかりした四本の足は、しっかりとゲルトルーデを支えつつ、適宜伸び縮みして障害物をバリアフリーに乗り越える優れもの。
まるで『ひとりでに歩く魔法の椅子』のよう。
何ヶ所か段差を超え、学園の校舎の真向かい、校庭を挟んで南側の旧校舎に着いた。
旧校舎は、鬱蒼たる木立と薔薇の生垣で囲まれた古い建物で、宮城圏の重要文化財指定も受けている。築五〇〇年近い震災前様式の建築だったが、光触媒珪藻土による白い壁は多少破れてはいるものの、十分立派だった。
白い壁、猫耳を思わす赤い双峰の三角屋根のデザインは、新校舎と同等だが、こちらは二階建でずっと小さい。
「震災前にね、この島から子供たちが消えた時代があったんだって」
サクラが言った。
「でも震災後、しばらくしてこの学園が出来て、子供たちが帰ってきた。そこから島は変わったんだってさ。」
旧校舎の大きな玄関、ピロティーは天窓からの明かりに満たされて明るかったが、その奥、立ち並ぶ下駄箱はがらんと虚ろで、子供たちの名残はない。
「今は、午後のサークル活動用に使ってるの。」
サクラは土足のまま、ゲルトルーデを先導して旧校舎の奥に進んだ。耳をすませば、確かに女生徒たちのさざめく声、様々な音楽、歌声、あるいは雑音がどこからか漏れ聞こえている。
「それでね、わたしたちDG-TPのサブDCもあるんだわ〜。」
サクラが言って、教室の一室の引き戸をからりと開いた。
四〇人ほどは入れる震災前然とした教室。
アンティークな木製の机と椅子がきちんと並んではいるが、床には固定されておらず、机の上には筆記入力端末もついていない。
すでに三人、先客がいた。
「お〜つかれ〜っす。」
サクラは片手を上げておどけた挨拶をした。「学園一番の美少女をご案内したよ〜!」
「サクラ遅いわ。」
開口一番口を開いたのは銀髪短髪のナスターシャ。「ブリーフィングが始められない。」
「ナスタっちょだって学食で見てたじゃない? ゲルを後輩女子の魔の手から救うのに時間食ったのよ〜。」
ナスターシャ自身も、いつものように先輩女子の手作り弁当攻撃にさらされ余裕など無かったのだが、そうとも言えず黙り込んだ。
「サブDCって……?」
ゲルトルーデの戸惑いをよそに、ナスターシャは照れ隠しする様子で黙って教壇に向かい、何か小さなデバイスを準備し始めた。
「わたしキャシーよ。同じ二年生なのにまだ挨拶してなかったわね、ごめんなさい。日直でばたばたしてたの。」
同じく金髪蒼瞳の少女が、サクラに代わってゲルトルーデを定位置にいざなった。最初から椅子が外された木の机が準備されていた。
「国籍は米国、でもほぼ日本育ちでサクラと幼なじみなの。一応、DCクルーのリーダーよ。」
キャシーは少女たちの中で一番長身で、セーラー服を着ていなければ、まるで一人大人の女性が混じっているようにも見えた。身長だけでなく、その身体の線も少女たちの中では一際大人びて見えた。
もう一人、黒いおかっぱの小柄な少女もいたが、メガネの奥からゲルトルーデを値踏みするように睨めつけるだけで挨拶はしなかった。
「改めまして、ようこそ『タシロ計画災害防衛隊』へ。阿部司令からあなたのこと聞いてたわ。ここはメインDCに詰められない時、つまりは授業のある日の午後のサークルの時間なんかに、TFPに対応するサブの災害対処 ルームなのよ。」
DCクルーリーダーのキャシーは改めて説明した。
「でもいつもはだらだらだべってるだけなんだけどね〜。」
サクラがすぐに茶々を入れた。
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