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あなたのもう一人のお母さん

作者: 御堂鳴子
掲載日:2018/02/14

 自己評価というものは存外アテになるものではなく、誰よりも自分を理解しているのは自分であるといいながら、精神構造の深層にある自分自身の真実は、肉眼で微生物を観察しているのと同じくらい見えないものである。とかく、他者からの評価という話になると別格の見えづらさであり、他人からどう思われているのかを正確に把握している人間など恐らく世の中には存在していないだろう。もし仮にいたのだとすれば、そんな人間はきっとアイドル向きだ。他人が思い描く自分を作ることなど造作もないことなのだから。

 高校一年最後の学期が始まって、はや一ヶ月も経とうかという頃。数日前から日本を襲った冷気がやっとこさいなくなり、昼間に外に出れば暖かいと思える当たり前の気候が戻ってきた、そんなある日。俺は級友同士の会話を、教室入り口のドアにもたれかかってぼけっとしながら聞いていた。

「い、伊藤(いとう)さんっ。そんな、俺なんかのノートでいいの?」

「いいもなにも、同じ選択授業を受けてるのは立花(たちばな)くんだけじゃない~。他の人はみんな教室にいないし、だから……ね? いいでしょう?」

「う、うう。なんと、なんと光栄なことか! 俺、伊藤さんの役に立てたこと、一生の思い出にしますから!」

「ええ?」

 立花はノートを手渡しながら恍惚とした表情を浮かべていた。幸せそうに緩みきったその顔から察するに、困惑している伊藤のことなど見えていないのだろう。グラマラスでセクシーな天使がお迎えにきたような気分に違いない。

 まあ、こいつの場合、あながち大間違いってわけでもないか。

「ごめんなさい、黒川(くろかわ)くん。付き合ってもらっちゃって」

 ノートを受け取った伊藤は、心配そうに立花のほうを振り返りながら、俺のところにやってきた。俺はひらひら手を振って、

「別にいいよ。どうせ暇だったし、付き添いくらい」

「そう言ってもらえるとありがたいわ~。けど、彼、大丈夫かしら? なんだかふわふわしてて心配……」

「ありゃあいつの持病みたいなもんだ、一生治らない代わりに命に支障をきたすこともない。だから気にしなくていい」

「え、ええ……?」

 伊藤は分かっていないようだったが、無視。いちいち説明するのも面倒だ。

 こいつの名前は伊藤由紀子(いとうゆきこ)。穏やかそうでありながら存在感のある顔、女神のような優しさの溢れる瞳、潤いある蠱惑的な唇、手ですいてみたい髪選手権ナンバーワンのロングヘア、強調こそしないが完璧と評していいボディライン……、と、これはまあ全て立花の野郎からの受け売りだが、一言で表すならば高嶺の花。俺たち男子の憧れの的であり、俺、黒川早人(くろかわはやと)のクラスメイトでもある女子だ。立花の反応は分かりやすすぎて呆れるしかないものがあるが、事実こうして歩いているだけでも、男子はみんな何も言わずに伊藤の進路から外れ、遠巻きに伊藤のことを見つめているのが分かる。誰も彼も頬を赤く染めているあたり、俺からするとやや気持ち悪い。

 黙っていると周りの反応がいやに目について仕方ないので、俺は適当な話題を切り出すことにした。

「それにしても相田(あいだ)のやつ、病欠なんて珍しいな。あの元気バカが風邪引くところなんて想像もできない」

「私もびっくりしたわ~。朝起きたら『風邪引いた。今日は休む』って連絡だけ入っていたんだもの。心配で、慌てて菜種(なたね)ちゃんの家に向かおうとしたら、そんな時間ないでしょってお母さんに止められてね~」

 お母さん。グッジョブ。

「黒川くんがいてくれて助かったわ~。私ったら、菜種ちゃんがいないと人に頼みごともできなくて~……。ダメな子だわ~」

「まあ、普段のお前って相田と常にくっついてる印象があるからなあ。けど、俺以外にも友達くらいいるだろ。他のクラスの男子からノート借りたいから付いてきてくれ、ってくらいさ」

 相田ほどじゃないにしろ、男子にもある程度分け隔てなく接してくれる女子を、俺だって何人か知っている。そいつらに頼めばよかったじゃないかと思ったのだが、伊藤は少し照れくさそうにはにかんで言った。

「そうだけど、一番に目に入ったのが黒川くんで、一番頼みやすかったのも黒川くんだったから……。だから、お願いしたの。駄目だった、かしら?」

「いや、駄目じゃないけど」

 むしろ頼られて嬉しいくらいだ、という言葉は飲み込んで。俺はついと視線を逸らした。

 ちなみに、さっきから相田だ菜種だと言っているのは、相田菜種(あいだなたね)という女子のこと。人類皆友達というくらいフレンドリーなやつで、俺と伊藤の共通の友人であり、かつ俺が伊藤とこんなにも普通に話せるきっかけになったやつでもある。

 そんな相田が今日は病欠、あいつがいないと火が消えたようにおとなしくなっていた伊藤が気がかりで声をかけたら「今日は一緒にいてほしいの~」とか言われ、今こうして並び歩くにいたるわけである。どうやら伊藤は、近くに仲の良いやつがいないと萎縮してしまって身動きがとれなくなるタイプの女子だったらしい。高校生にもなって仕方のないやつだと思いつつ、気持ちは分からんでもない俺なので、素直に伊藤と行動を共にしてやっているのだった。

 ふと携帯がバイブしたので見てみると、立花から『そういやなんでお前が伊藤さんと一緒にいたんだ! バカヤロー! 爆ぜろ!』とメッセージが送られてきていた。鼻で笑ってポケットに戻す。

 自分たちの教室に戻り、俺は相田がいつもそうしているように、伊藤の席までくっついていった。伊藤はさっそく借りたノートを開いて、自分のノートに写し作業を開始する。

「……お前、選択授業なんだったっけ」

「美術よ~」

「美術って板書とか必要あるのか? ぺたぺた絵描いてるだけじゃ?」

「失礼ね、国語に文法や表現作法があるように、絵にも描き方や表現の工夫というものがあるのよ~。全部が全部感性だけで描いている人なんて、いません」

「そういうもんか」

 なんとなく、中学の授業でアルカイックスマイルだか何だか、よく分からないことを学んだ記憶が蘇ってきた俺だったが、肝心の中身はすっかり忘却の彼方だった。

「で、そんな重要な絵画技術の勉強中に、お前は寝ていたわけか」

「あ、また失礼なこと。別に寝てたわけじゃないわよ~。ただね、先生の話を聞いていたらつい別のことを考え始めてしまって、気がついたら机に突っ伏していただけなのよ」

「人はそれを寝ていたという」

「ち、違うわよ~。ただちょっと別の世界に行っていただけよ~」

「旅立ってんじゃねえか、夢の世界に」

 伊藤は納得いかないような顔で首を傾げていた。ちょうどそこでチャイムが鳴り、俺は自分の席へと戻った。教科書を引っ張り出して次の授業の準備をする。

 それにしても、なんだか不思議な感じがすると思ったら、あれだ。相田をはさまないで伊藤と話すのがとても珍しいからだ。いつもは、俺と伊藤で相田のやつをはさんで、何をするにもあいつを介していた。そりゃあ今までただの一度もなかったかと言われれば答えはノーだが、高校生になって知り合ってからそろそろ一年、それだけの時間友達やってた割には機会が少なかったことは否めない。別に避けてたわけでもないんだけどな。

 ひょっとしたらいい機会かもしれない。クラスの男子の憧れの的、高嶺の花こと伊藤由紀子と、もう少し仲良くなるのには。

 ……下心があるわけじゃないぞ。一応断っておくが。


 その日の放課後。相田の見舞いに行くという伊藤と別れ、俺はさっさと帰宅した。本当なら級友どもと合流してどこか寄り道したかったのだが、何やら俺が伊藤と一緒にいたことがずいぶんと気に食わなかったらしく、誰に声をかけても冷たい返事をされてしまったのだ。みんな揃って立花の真似をしなくたっていいだろうに。

 それに、ぶっちゃけ過剰なのは男子のほうだ。伊藤が美人なのは認める。近づきづらい雰囲気があるわけじゃないにしろ、男子から積極的に声をかけやすい部類かと言われれば首を振る。俺だって最初は、相田の横にいるあいつとの接し方がいまいち分からなくて戸惑ったもんさ。なにせほとんど相田のほうを向いて喋っているもんだから、俺のこと嫌いなんじゃねえかと密かに勘ぐっていたくらいだ。二人になっても沈黙することなく会話が繋がるようになったのは、たしか夏ごろとか、そんくらいだった。なるほど伊藤と接するときはツッコミ役に徹すればいいと理解した頃だから、うん、合っているはず。

 伊藤はあの通りおっとりしていて、喋り方も間延びしたのんびりしたもの。立花的属性付けの言葉を使うならおっとり癒し系美人ってところか。しかしその実態は癒し系なんぞとはほど遠いぶっ飛んだ思考回路の持ち主で……、

「ん?」

 などと一人ぼっちの家でぼんやり考えていると、突然携帯が鳴り響いた。通知を見ると伊藤からで、一体どうしたんだろうかと電話に出てみると、

『あ、黒川くん! 大変なのよ~!』

 思わず携帯を耳から遠ざけてしまうような大声でそう言われた。

「どうしたんだよ。相田の見舞いに行ったんじゃなかったのか?」

『そ、そうなんだけど~。お見舞いに行ったら菜種ちゃん、すっごく気分が悪そうで、これからやっと病院に行くって言ってるんだけど、とても動けなさそうで~。私、どうしたらいいか分からなくなって、ええと』

「分かった。分かったから、落ち着け伊藤」

 相田のやつ、そんなに重病だったのか。っていやいや、そうじゃなく。

「見舞いには行ったんだよな? お前今どこから電話かけてきてるんだ?」

『菜種ちゃんの部屋よ~!』

 頭を抱えそうになった。病人のいる部屋から電話かけて、パニクった様子で大声出すやつがあるか。何の見舞いにもなっちゃいない。

 どう言って伊藤を落ち着かせようか考えていると、電話口が急に騒がしくなった。バタバタゴソゴソ、時折伊藤の悲鳴が聞こえたりしていて、どうも携帯を取り合っているようだ。しばらく待っていると伊藤の声が遠ざかり、代わりに咳が聞こえてくる。

『ゴホッ。ああ、黒川?』

「相田か」

 その声はいつもとはかけ離れていて、元気さのかけらも感じられないしんどそうな声だった。さすがの俺も心配になる。

「大丈夫……じゃ、なさそうだな」

『ええ、割と。っていうか、これ多分インフルエンザだわ。私の生存本能がそう告げてる。布団から動くんじゃねえぞコラ、ってね』

「おいおい、お前がインフルエンザってガラかよ。気をしっかり持て」

『そうは言っても引いちゃったもんは、ゲホッ。仕方ないでしょうが』

「つーか、そう思うんなら伊藤を部屋に上げたりすんなよ。伝染(うつ)るぞ」

『由紀子が勝手に上がってきたの。私は絶対入ってくんなって言ったわよ。まあ、そんなわけで病院行くから。私のことなら大丈夫よ、普通に家族いるし、体調崩してもはしゃぐのやめないような馬鹿じゃないわ。それより由紀子のことお願いしていい?』

「はあ? どういう?」

『パニクってるこの子預かって、ちゃんと家まで送ってあげて。私の家知ってるわよね』

 もちろん知っている。が、なぜ俺がそんな役目を負わねばならん。

 ……と、面倒くさがりな自分が吠えはしたものの、喋っている途中にも何度か咳き込む相田の様子や、遠くのほうからどーしましょどーしましょと伊藤の慌てた声が聞こえてくる状況に、あっという間に引っ込んでしまった。他の女子に頼もうにも部活に励むやつらはまだ学校にいる時間だし、そもそも伊藤と仲の良い女子など俺が把握しているわけもない。相田にその余裕はない。となれば、動けるのは俺だけだ。

 制服も脱がずに考え事をしていたかいがあった。出かける準備に手間はかからない。

「分かったよ、今からそっち向かう。10分もあれば着くと思うけど、なるべく早く行くわ」

『ん、ありがと。お願いね』

 それだけ言って、相田はさっさと電話を切った。すぐ携帯をポケットに滑り込ませ、放り出していた鞄をもう一度引っさげて、俺は急いで家を出た。

 話の途中だったが、つまり伊藤とは、こういうやつなのだ。考えてもみろ。見舞いに行った友人の調子が思ったよりも悪そうで不安になったからって、全く関係ないやつに電話をかける理由がどこにある。かけられたほうは何をどうすればいいか分からないし、かけたほうだって何を言えばいいのか困るだけだろう。見たこともないほど体調の悪そうな相田の姿にパニクって、何をすればいいか分からないが何かしようとして、そうだ黒川くんに助けを求めよう、とさらにパニクったに違いない。自分でかついで病院に行こうとしなかっただけまだマシだったりするのかも。

 ともかく、そういうこと。伊藤は真面目そうな見た目でおっとりしているくせに、行動のネジがどこぞに飛んでしまっている残念な女子なのだ。まあ、おかげで相田本人から詳しい事情を聞けて、今俺は走っているわけだから、今回に限って結果オーライではあるが。お騒がせにも限度ってものがあると、俺は思う。

 10分と言ったが、割と急いだおかげでそれほど時間もかからず、相田の家に到着した。ごく普通の一軒屋、その玄関先で、見慣れた制服姿の女子がおたおたしているのが目に入る。

「おい、伊藤」

 近くまで走っていき、息を整えながら声をかけた。従者を見失った姫のように落ち着かない様子の伊藤は、やっぱり落ち着かないまま俺のほうを振り返る。

「く、く、黒川くん! 菜種ちゃんが、菜種ちゃんが死んじゃうわ~!」

「死ぬか。真夏に雪が降るくらいあり得ないこと想像して勝手にパニクってどうすんだ。っていうかそれなんだ、おい」

 それそれ、と俺は指をさす。なぜか伊藤の頭にはヘルメットが乗っかっていた。工事現場の人がよく被っている黄色いアレだ。そして手にはネコジャラシ。へなへなふりふりのネコジャラシ。レベル1の勇者だってもう少しマシな装備をしている。というか純粋に意味が分からない。どこに落ちていたのやら。

 伊藤は自分の頭に乗っているヘルメットをぽこぽこ叩きながら、

「分からないけど、何かしなきゃって思って、でも何もするなしなくていいって言われちゃって、なんだか気づかないうちに被っていたの~! 持っていたのよ~!」

「そうかそうか、おかげでお前は今、とても立派な変人だぞ」

「と、とにかく早く菜種ちゃんについていかないと! こんなところでぼーっとなんてしてられないわよ~!」

「行ってどうすんだ。お前が診察できるわけもあるまいし。落ち着けっての」

 ヘルメットとネコジャラシを強引に俺に押し付け、伊藤は今にも走り始めてしまいそうだった。この暴走は口で何か言っても止まりそうにない、どうにかして落ち着かせる方法はないだろうか。

 ……。そうだ、相田がよくやっていたことを思い出した。伊藤が暴走してわけの分からない状態になったら、あいつは伊藤の頭をぐいっと押して制していたのだ。時にはそのまま撫でるのも有効らしかった。男の俺がやるのは少々気が引けるが、今はそんなことを言っている場合ではないだろう。

 失礼、と心の中で一応謝ってから、俺は伊藤の頭に手を伸ばした。

 そのときだった。

「――――ッ!」

 ばしん、と。頭に触れるより先に、俺の手が伊藤に振り払われた。

 一瞬何が起こったのか分からず、じんと痛む手に視線をやるのも忘れて、俺は固まってしまった。ヘルメットを落としてしまったことを気にかける余裕すらなかった。髪に隠れて表情が見えない伊藤を、ただじっと見つめるだけ。

 少しして、伊藤がはっと顔を上げた。

「…………ごめん、なさい」

 本当に申し訳なさそうに眉をひそめ、消え入るような声でそう言う。何がごめんなのか、俺には全く分からなかった。俺の手を払った自分の手で、いましめるように腕をぎゅっと掴んでいる。ここから動くな、もう二度とするな、そう念じているみたいに見えた。手の震えが見てとれるくらい力が入っているようだ。

 ようやく思考能力が戻ってきた俺は、思いついた限りのことで、伊藤の気持ちを汲んだ。

「いや、こっちこそ、悪かった。軽率だったな」

 頭を触られるのが嫌だった、んだろう。それくらいしか思いつかない。髪の毛にすら触れていないのに、普段からは想像もつかないほどすばやい動きで、俺の手を振り払ったのだ。これ以上の拒絶の意思表示がどこにある。

 ……うん。そうだよな。俺だって気が引けたんだから、当たり前だ。

「…………」

 伊藤は何も言わない。どうやらもうパニックではなくなっているようだ。そのかわり、重力が急に倍増したかのごとく空気が重くなってしまったのだが、あのまま暴走されるよりはよっぽどいいと、俺は自分に言い聞かせた。落としたヘルメットをわざわざ拾ったのは、多分、少しでも場を濁したかったんだと思う。

「…………。…………相田の様子、どうだった?」

 何を言うべきか分からなくて考えに考えた末に、俺が口にしたのはそんな言葉だった。我ながら適応能力の低さというか気の利かなさというか、こういう状態に慣れてなさすぎる情けなさに落胆するところだ。それでも伊藤は気まずい沈黙が破られたことに安堵したのか、大きく深呼吸をしてから顔を上げてくれた。

「……つらそうだったわ。けど、大丈夫だってずっと言ってた」

「そうか。ならまあ、本当に大丈夫なんだろうな、あいつの場合。……インフルエンザってのも本当だろうけど」

「ええ。多分……」

 相田が病院に向かって去っていたのであろう方向を、伊藤は眺める。俺もなんとなくその視線を追いかけ、せめて一言、何か声をかけてやりたかったな、と思った。

 しかし行ってしまったものは仕方がない。相田から伊藤のことを頼まれてもいる。決して元通りの空気になったわけではないが、解決してくれる時間を待てるほどの余裕もない。いっそ何事もなかったかのように振舞うことでお互い忘れてしまえばいいのだ、と俺は自分の中でいくつもの言い訳を繰り返し、精一杯いつも通りを装って言った。

「あいつが病院に行ったんなら、俺たちにできることなんてもうないぜ。こんな寒い中、ぼーっと外に突っ立ってたら今度はこっちが風邪引いちまうし、送ってやるから帰ろう」

「え、あ……」

 伊藤は一瞬戸惑ったように目を見開いたが、すぐに相田が電話で言っていたことを思い出したらしく、静かに頷いた。

「けど、俺、伊藤の家知らないんだよな……」

「あら? そうだったかしら?」

「女子の家に積極的に遊びに行くような付き合い方してねえぞ、俺。相田の家知ってたのは近所だから偶然」

 何のための言い訳だか分からないが早口で付け足した。伊藤は特に気にしたふうでもなく、俺より少し先を歩き始める。俺がいつも通りに話しかけ、伊藤もいつも通りに返してくれたおかげで、気まずい雰囲気は霧散していた。

 ああ、そうとも。雰囲気は確かに消えていた。だが、俺の中で、伊藤に手を振り払われたことへのショックは、伊藤について歩く時間が長くなるにつれ、じくじくと胸の中に広がっていった。

 徹底的に、距離感を間違えたのだ。今日一日一緒にいたせいで、半ば相田と接しているかのような、フレンドリーな立ち位置にいてもいいんだと勘違いしてしまった。あいつとはおふざけで小突き合ったり一方的に軽い暴力を振るわれたりの付き合い方をしている、その癖が伊藤に向かって出てしまったのが悪かったんだ。よりにもよって頭に触れようなどと、普通は嫌がられて当たり前。どこならいいかなんて分かるわけもないが、女子には触れないのが一番だってことを、あの瞬間だけは忘れていた。

「……黒川くん? 黒川くーん?」

「えっ。あ、ああ、なんだ?」

 不意に声をかけられ、無意識に見つめていた手を背中に隠す。そこは、三人で下校するときに伊藤と別れる交差点だった。

「心ここにあらずって感じだったわよ~。私が話しかけても返事してくれないし」

「そ、そうか。悪かった。ちょっと考え事してて」

「菜種ちゃんのこと?」

「……違うけど」

 なぜか素直に、さっきのことが気になる、とは言えない俺だった。

 言葉を続けない俺をどう思ったのか、伊藤は不思議そうに俺の顔を覗き込んできたあと、肩に提げている鞄を背負い直した。

「今日はありがとう。ここまででいいわよ~」

「いや、別に、俺も楽しかったし。お前と二人ってのは珍しいから新鮮だった」

「うふふ、そうね。私もちょっと新鮮な気持ちだったわ~。男の人と一緒にいる時間のほうが長い一日なんて、生まれて初めてだったんじゃないかしら」

 でも……、と伊藤は目を伏せる。

「菜種ちゃんがもしインフルエンザなんだとしたら、しばらく学校には来れないわよね……」

「そうだな……」

 向こう一週間は相田の姿が見れないと思うと、少し寂しい気持ちになる。無論、俺だけではなく、クラスのみんなが同じように感じることだろう。あいつが振りまいている元気の量がどれだけ多いのかを思い知る一週間になりそうだ。

 乾いた溜め息を吐いてしまった俺に、伊藤も同じように溜め息を混ぜながら言った。

「どうしましょう。菜種ちゃんが近くにいない学校生活なんて考えもしなかったから、ちゃんと過ごしていけるのかどうか、今から心配で仕方ないわ~」

「…………は?」

「ああ、どうしましょう。一人ぼっちなんて不安だわ~」

 それはたしかに不安そうな顔と声色ではあるのだが、チラチラチラ、と視線がこっちを向いているせいで、全く真剣味を感じられない言葉だった。溜め息も、息を吐いているのではなくて、明らかに「はあ~」と言っている。もじもじとしている足踏みも、頬に当てた人差し指も、形の良い八の字眉も、全てがわざとらしく俺に向けられていた。

 伊藤の言わんとせんことは分からんでもないが、結局意味が分からないことに変わりはないので、俺は首を傾げた。

「……何のアピールなんだ一体」

「ええ? い、言わせるの?」

「さすがに言ってくれないと分からんだろうよ。多分言ってくれてももう一回同じこと繰り返すけど」

「う、うう~。じゃ、じゃあちゃんと言うわよ?」

 伊藤は照れくさそうに頬を赤くし、しかし真剣な目つきで俺を見て言った。

「その……。菜種ちゃんのいない間だけ、菜種ちゃんのかわりになってくれないかしら? 今日みたいに一緒にいてもらえるだけでいいの、特別なこと何かしようっていうわけではないのだけれど、その、不安だから……」

「……やっぱり、何のアピールなんだ一体」

「何のアピールでもないわよ~! 黒川くんだってお友達多い人なんだから、私の気持ち分かるでしょう~?」

 俺の場合は伊藤みたいに依存してるわけじゃないぞ。確かに一人は嫌いだが。

 ついがしがしと頭を掻く。断る理由は別にない。むしろ友達からのお願いなんだから引き受けてやりたいと思うし、何度も言うように伊藤は美人なんだから、下心とか抜きにしても頼られて嬉しい気持ちはある。

 ただ、俺の中のしこりが全く取れていないままに当の本人からこんなことを言われても、ハイ喜んで、と二つ返事するほど、その嬉しさは素直に表に出てきてくれないわけで。どちらかといえば、伊藤に対する懐疑心が口をついて出てしまいそうな嫌な感情が、喉の奥のほうをうろうろしていて。

 俺がようやく返事をしたのは、伊藤がまた別の意味で不安そうな顔をしかけるくらい時間が経ってからのことだった。

「……分かったよ。まあ、暇ならな」

 そう言うと、伊藤の顔がぱあっと明るくなった。目を細めて笑う表情は、やはり男子の憧れを一身に集める美人の綺麗さだなと、俺はどこか冷めた心で思っていた。

「ありがとう、黒川くん~! ああ、これで明日からも安心だわ~。それじゃ、私もう帰るわね。今日は本当にありがとう~!」

 ばいばい、と手を振る伊藤に、俺も同じように手を振り返す。とりあえず背中が見えなくなるまで見送ってから、伊藤の消えていった曲がり角に向けて、俺はあのとき振り払われた手を行き場を求めるように伸ばしていた。


 予想通り、相田はインフルエンザで一週間の出席停止になった。クラスからはあいつのことを心配する声がいくつも上がり、教師からもぜひあいつの分のノートなどを取っておくようにとの、俺が聞く分には教師的義務感からの通達以上の意味が込められた発言があったほどで、相田が普段から蓄積している信頼の数がみんなの頭の上に数値化されて見えるんじゃないかと思う俺だった。

 まあ、そんなやつとけっこう仲が良く、本人からも親友と思っていると言われたことがある手前、それなりに誇らしい気分にもなっていたが。俺には重大な懸案事項が一つあってそれどころではない。

「黒川くん、お昼食べましょう~?」

「おう」

 言うまでもなく、伊藤由紀子。こいつである。

 有言実行とはかくも。学校にいる間中、伊藤はほぼ俺と行動を共にするようになっていた。四六時中一緒というわけではないにしろ、朝登校すれば挨拶しに来るし、休み時間になれば必ず一言は会話するし、帰るときも例の分かれ道まで必ず一緒に帰っていた。昼休みに同じ机で弁当をつつくなど当たり前。おかげで俺はますます男子連中から白い目で見られるようになってしまい、放課後の寄り道に付き合ってくれるやつもおらず、仕方なしに直帰する毎日を送っている。そしてそれが伊藤と帰り道を同じくする理由になって、また男子に睨まれて、の見事な悪循環。

 別に好きに言ってりゃいいと思っているし、本当に嫌いになられたわけじゃなく彼女ができた野郎を一時的にハブる非モテ男子特有のノリなのは分かりきっているのだが、伊藤は彼女じゃないし俺にも伊藤にもそのつもりはないだろうしで、一体どう弁解したものか頭を悩ませているのである。

「今日もご飯がおいしいわね~」

「…………」

 んで、当の伊藤がこんな調子だから、頭も痛くなるってもんだ。

「あのさ、伊藤」

「なにかしら?」

「別に怒ってるわけじゃないって先に断っておくけどな。お前、今俺たちが周りからどういう目で見られてるか、正しく理解してんのか?」

「え? 仲の良いお友達じゃないの? いつも一緒の菜種ちゃんがいないから黒川くんのこと連れまわしてるんだねーって、この前、新咲(にいさき)さんにも言われたわよ~」

 連れまわしてるっておいこら。表現の仕方ってもんがあるだろ新咲。というかその言われ方で何も思うところないのか伊藤よ。

 どうも伊藤は男女の機微というものをまるで理解していないようで、ついでに年頃の高校生どもがそういう話をどれだけ好んでいるかも知らないらしい。まさかとは思っていたがここまで無頓着とは思わなかった。男子から羨望のまなざしを向けられても意に介さなかったのは、視線の意味をちゃんと理解していなかったからなんだな。

 この件に関しては伊藤に何を言っても無駄であると判断し、俺はもう諦めることにした。どんなデメリットが発生していようとも存在に気づかなければないのと同義。伊藤の能天気さに付き合ってやることにする。

 出来合いの惣菜だらけの弁当をぼそぼそつついていると、伊藤がふと、カレンダーを見ながら言った。

「あら? もうすぐバレンタインだわ。いけない、私ったらすっかり忘れてた」

「ああ、そういえばそうだな」

 週末はさんであと四日ほどでバレンタインデー、男にとっては己の存在価値が決まる一年で一番大切な日といっても過言ではない、紅の日。忘れていたとまでは言えないが意識の外にあったその日を俺も認識して、世間話のつもりで伊藤に聞いた。

「お前もチョコ渡したりするのか、誰かに」

「ええ、毎年手作りのチョコをみんなに配っているわ~」

「……手作り? 友達に?」

「ええ、そうよ?」

「…………」

 俺は信じられないものを見るような目で伊藤を見た。友達に手作りチョコを配るだと? 伊藤ほどの美人からそんなことされてみろ、ただでさえ既にオチてる男子連中が根こそぎ骨抜きになって使いものにならなくなるぞ。こいつは男女の機微どころか、自分が周りからどう見られているかにも全く関心がないというのか? 過ぎた無知は暴力だぞ?

「な、なに? 黒川くん、目が怖いわよ~……?」

「怖くもなるだろ。俺の目の前に数多の男子に死刑宣告してる女がいるんだから」

「し、しけっ……? か、勘違いよ黒川くん。私が手作りチョコを配るのは女の子よ、女の子~」

「はあ? 女子から女子にチョコ渡すのかよ? お前、あれか、実はレズだったのか」

「もっと違うわよ~!」

 伊藤は両手をブンブン振って顔を真っ赤にしていた。

「友達にね、親愛の意味を込めてチョコを渡すのよ~! 友チョコっていうんだったかしら、ともかくそういうのであって、あくまで友情の証を渡すの。断じてレズビアンだとかそういう話じゃないわ~!」

「そ、そうか。すまん」

 なんとそんな文化があったとは、黒川早人、16年とちょっと生きてきて初めてのカルチャーショックだった。バレンタインなんざ女から男にラブいっぱいのチョコレートを渡す恋人同士限定の甘々イベントだと思い込んでいたから、女子同士の間でチョコを渡し合っているだなんて思いもしなかった。なんだか毎年もらえるチョコの量が減っていく理由が分かった気分だ。

 ちなみに、一応言っとくが。俺がもらったことあるのは全部義理だからな。

「どうして目が据わっているの?」

「いや、なんでも」

 俺は気を取り直して話題を掘り下げる。

「けど、友達にあげる分を全部手作りしてんのか? 手間だろ?」

 すると伊藤は頬に手を添えて、ころころと楽しそうに笑った。

「そんなことないわ~。手作りって言っても溶かして固めるだけだし、菜種ちゃんみたいに特別な人以外には小さいやつをあげるだけだもの。それでもみんなとっても嬉しそうに笑ってくれるから、作りがいがあるわよ~」

「ふーん。そういうもんか」

 徳用チョコを男子どもに配り歩く女子なら何人か見たことあるが、それの女子限定かつ手作りバージョンってところらしい。まあ、安っぽさ丸出しのチョコを堂々とばら撒くよりは価値あるもので間違いないだろう。同じ穴のムジナにしか思えなかったことは黙っておくことにしよう。本人は満足しているのだから。それにほら、女子は俺たちには分からない余計な一手間が意外と嬉しく感じたりするもんだって、友達の友達に聞いたこともあるし。

 俺がうんうん頷いていると、手作りチョコへの自己陶酔から帰還した伊藤が、困ったように眉を寄せた。

「けど、うっかりしていたわ、私。チョコを作る準備、全然してなかった」

「おいおい、楽しみにしてたんじゃないのかよ」

「そうなんだけど……。あれかしら、黒川くんと一緒にいるのが楽しくって、つい忘れちゃってたのかしら」

「はあ?」

 なんか、唐突に、デレられた。一瞬固まって、脳みそが言葉の意味を理解するにつれ、自分の顔がどんどん赤くなっていくのが分かる。

 それは伊藤も同じだったようで、少し経ってから自分の失言に気づいたのか、爆発するように耳まで真っ赤になった伊藤は、あたふた手を振って弁当箱をひっくり返しそうになりながら言った。

「ち、ち、違うの違うの! 今のはすっごく言葉通りの意味で! いつも菜種ちゃんが間にいたから一対一っていうのが新鮮で! そういう意味なのよ~!」

「あー、分かった分かった、分かったから落ち着いてくれ。大声出すんじゃない、目立つ」

 いつかみたいに頭を押さえるわけにもいかず、俺はとにかく手でどうどうと伊藤をたしなめた。伊藤のほうも今回はすぐに落ち着いてくれて、なぜか俺と同じようにどうどうのジェスチャーをしながら深呼吸を繰り返し、呼吸を整えてから肩を小さくすぼめて「ごめんなさい……」と呟いた。

 まったく、こいつはいきなり何を言い出すことやら。しかも俺が一方的に照れるだけなら勘違いヤロウの舞い上がりで済ませられたところを、お前まで照れたらなんか変な空気になるだろうが。事実なってるし。伊藤と目を合わせるのすんごい気まずいし。

 しかし、いつまでもお互い牽制し合っているわけにいかないと思ったのか、小さくなっていた伊藤が意を決したように顔を上げて言った。

「そ、それでね黒川くん! 手作りチョコの材料を今度の休日買いに行こうかと思うんだけど、それに付いてきてくれないかしら?」

「ええ? お、俺が?」

「ええ、貴方が!」

 伊藤の鼻息が少し荒い。上気した顔も落ち着いてはいない。

 これは、あれだな。まだちょっと暴走してるな。ネジをなくした暴走列車のごとき思考回路のまま突き進もうとしてるな、こいつ。でないとおかしいだろ、なんで男の俺に休日の買い物に付き合ってくれなんて言うんだ。意味分かってんのか。

「だ……駄目?」

 首を傾げて俺を見てくる。少しだけ目が潤んでいるような気がしなくもない。かなり必死なのは見てとれるが、ええと、俺は一体どうすれば。

 他に頼めるやついるだろ、とか。そういうのは女子同士で行くもんだ、とか。単に恥ずかしいから却下、とか。多分、断ろうと思えば理由には事欠かない。それどころか、男子を気安く休日の買い物に誘ったりするもんじゃないと、こんこんと説教することだって可能だろう。軽く凹むくらいまで言ってやれば、伊藤だって多少は己の行動を顧みるはずだし、男女の距離感というものを理解してもくれる。ああ、そうだろうとも。

 だが、しかし。このときの俺は、なんとも不思議なことに。

 断りたくない。行きたい。そう思ってしまった。

「……仕方ないな、分かったよ。付き合ってやる」

「ほ、本当に?」

 伊藤は嬉しそうに笑顔を作り、両手を合わせて頬に添えていた。

「ありがとう~! 助かるわ~!」

「どうせ大量に買い物するから荷物持ちが欲しいんだろ。まあ、それに付いていくのが男ってのは、やっぱどう考えても変だけど」

「え? ……ああ、うん、そうね。荷物持ち、大事よね~」

 そうねそうよね、と伊藤が同じ言葉を口の中で転がしている。それが少し気になったが、気づかないフリをした。

 それから待ち合わせ場所と時間を詰め、相田インフルエンザ事件から続いている伊藤と一緒の学校生活も終わり、家に帰る頃には携帯の通知が大変なことになっていた。内容に関しては言うまでもないことだと思うのでここには記さないでおく。


 そんなこんなで、休日。バレンタインデーの二日前。

 伊藤との約束の時刻は午前10時で、待ち合わせ場所は大型ショッピングモールの入り口にある噴水の横だった。ただの買い物にしちゃあ早い待ち合わせ時刻だとお思いだろうが俺も同意見。しかし伊藤が「ぜひこの時刻で」と言って聞かないので折れた次第である。

 このモールは俺の住む町の中では比較的大きく、学生の身分でちょっと背伸びした買い物をしようと思ったら一番気楽に寄れるところがここ、という程度には足を伸ばしやすいところだ。学校からほど近い場所というのもあり、放課後の寄り道でゲーセンに行ったりするときには俺もよく利用する。休日なのでさすがに人は多く、5分前に待ち合わせ場所に着いた俺は、すでに若干中に入る気力をなくしかけていた。

 だってそうだろう。そもそも俺の買い物じゃない上に、やらされることといったら恐らく荷物持ちだ。つまり重労働だ。それもボランティアで。歩きづらい人ごみの中を、すいすい気楽に泳ぐ女子の背中を追いかけねばならないのだ。このつらさ、男子諸兄なら分かっていただけると俺は信じる。

 誘っておいて伊藤のやつはやや遅刻している。これは文句の一つも言ってやらねばなるまいと俺が固く決心したとき、遠くのほうから大きく手を振りながら歩いてくるそいつを見つけた。

「おーい。おーーい」

「遅いぞお前……」

 そして。お前の「え」の形で、俺の口が停止した。

 白い息を吐きながらやってきた伊藤は、裾の広がった薄いベージュのPコートを羽織り、中には赤色のセーターを着ていた。下は丸い膝が見える丈のスカートで、首には暖かそうな赤黒チェックのマフラーを巻いており、中にしまいこんだ黒髪がもこっとマフラーに乗っている。走ってきたのか寒いのか鼻の頭が赤くなっている。手にはハンドバッグと、なぜかバスケットを提げていた。

 つまるところ、モデルみたいなえらい美人が現れたのだ。俺のこの状態は、まさしく目を奪われた男ということなのだろう。

「黒川くん? どうかした? あ、まさか、この格好ちょっと変~?」

 目の前で体をよじって自分の格好を確認するこいつは、伊藤由紀子で違いない。普段制服しか見ていないやつの私服を急に見ると、脳の理解が追いつかないらしい。俺の頭の中では、制服の伊藤と私服の伊藤が、もう何度もドッキングに失敗していた。

 というか、とりあえず外に出ておかしくない格好の上に去年買ったジャンバー羽織ってるだけの俺は、自分が無性に恥ずかしくなってきたのだった。傍から見て格好が変なのは明らかに俺のほうだろう。この伊藤の付属品にしては出来が悪すぎる。制服のほうがまだマシなんじゃねえかと思うくらいだ。

「あの……黒川くん? 本当に大丈夫? もしかして体調が悪いとか……」

 おっと、いけない。完全にフリーズしていた。見れば伊藤は不安そうに俺の顔を覗き込んできている。

 とにかくその場を誤魔化すため、俺は口を開いた。

「いや、すまん。お前が伊藤だと認識するのに時間がかかった」

「……ど、どうして? 私はほら、この通り伊藤由紀子のままよ? ほら、にょ~ん」

 とか言いながら自分の顔を引っ張って変な顔になる伊藤。……ああ、うん、オッケー。ようやく脳の処理が終わった。確かに伊藤由紀子だ、こいつは。美人が台無し。

「やめなさい、みっともない」

「そう? ふふっ、分かってもらえたみたいで良かったわ~。まあでも、確かに今日はちょっとおめかし頑張っちゃったのよね~」

「へえ。なんでまた」

「なんでって……。ええと、せっかくだから?」

 せっかくでおめかし頑張るのか、普通。

「っていうかお前、ハンドバッグはいいとして、そっちは何なんだよ。今日の目的は買い物であってピクニックじゃないんだぞ。こんな寒空の下で」

「ああ、これ? これはね~……うふふ。内緒っ」

 手に持ったバスケットを少し掲げながら、伊藤は心底嬉しそうに、しかしどこか悪巧みをしているような顔で笑った。と思ったら、すぐさま頬を膨らませて、

「それより黒川くん、私に何か言うことはないの~?」

「はあ? むしろ5分遅刻してきた謝罪を俺が聞くのが優先じゃないのか」

「あぅ。……ごめんなさい」

 よろしい。

 伊藤の言わんとしていることくらいは、さすがの俺でも分かっている。だから適当に流そうと思って話題を変えたわけだが、誤魔化されてはくれないようだった。面と向かって言うのは少し恥ずかしいので、モールの入り口のほうを向きながら、我ながら情けないと思いつつ早口で告げる。

「似合ってるよ、それ。だからフリーズしたんだし」

「ふふっ。ありがとう~。黒川くんも似合ってるわよ、そのジャンバー」

 褒められても嬉しくなかったが、とりあえずお礼は言っておいた。

 俺たちはモールの中に入る。本屋とCDショップとゲーセンの位置なら把握しているが、チョコの材料を売っているような店を知っているわけもないので、中に入ってからは伊藤が主導権を握ることになった。前に進むだけでも時々人とぶつかるような波の中を、平然な顔で歩いていく伊藤を追いかけるのには骨が折れる。母親と街を歩いてても思うんだが、女性ってのはみんな自分専用の光の道でも見える特殊な目をしているのだろうか。だとしたら実にうらやましい限りだ。アメフトに女子の部ってあったっけ。

 数分歩いてお目当ての店にたどり着いた頃、俺はなんとなく伊藤に聞いてみた。

「そういえば俺、手作りチョコってどう作ってんのかよく知らねえんだけど、今日は何を買うんだよ?」

「ええと、今年はみんなにはチョコチップクッキーを作ろうと思ってるのよ。だからそれの材料と~、あとは菜種ちゃんにあげるチョコレートをどうしようかな~って、実はまだ考え中でね~」

「相田? ……ああ、そういえばあいつの復帰日、バレンタイン当日か」

「偶然にもね~」

 指折り数えて確認してみたが、確かにそうだ。2月14日が相田のインフルエンザ復帰日で間違いない。

「菜種ちゃんね、黒川くんにチョコあげなくちゃなって言ってたから、今年はちょっと残念だったわね~」

「……へえ」

 材料を物色しながら、恐らくは世間話以上の意味はないのであろう伊藤の言葉に、俺は戸惑った。というか、どう反応すればいいのか分からなかった。当人のいないところでチョコ渡したかったと告白されても、じゃあ催促すればいいのかっていうとそうじゃないだろうし、第一なんでくれるのか疑問である。

 俺が黙りこくっていると、ふと、伊藤が俺の顔をじっと眺めてきた。

「……どうしてもらえるのか分からない?」

「えっ。いや、まあ、そうだけど、なんで分かるんだよ……」

「黒川くんってけっこう顔に出るのよ~。菜種ちゃんの言ってた通り、考えてることが分かりやすいわ」

 くすくす。伊藤が楽しそうに笑う。よく分からないが馬鹿にされているような気がしたので、俺は口で反撃することにした。

「ネジの外れたぶっ飛んだことばかり言う伊藤に言われたくはないな。何考えてるのか分からなさすぎてたまに怖いわ」

「あ、酷いわ黒川くんったら。私、これでもけっこう常識的よ~」

 常識的な女子は休日に男と買い物したりしません。

 という言葉が出かかって、寸前で止めた。言ったら俺だけが気にしているみたいでなんかシャクだし、そもそも通じなさそうだったから。

 俺が黙ったのをどう思ったのか、伊藤は目線を材料の棚のほうに移しながら言う。

「菜種ちゃんが言ってたんだけれど、人と人との出会いは一期一会で、かけがえのないものなんですって。でも、普段は照れるし恥ずかしいしで、わざわざ感謝の言葉を口にしたりはしないでしょう? バレンタインとか誕生日とかっていうのは、そういう普段は言いづらい感謝の気持ちを物に乗せて送るために存在する日、ですって。菜種ちゃんらしいと思わない~?」

 伊藤はにこっと笑っていた。なんでそんな話を、と言いかけた口をまた止め、俺は黙って頷いた。確かに相田らしい言葉だ。それに、俺も同じようなことを考えたことがあるから、とても共感できた。

 それからは終始微笑みながら買い物を続ける伊藤に付き合って移動し、二、三軒の店を回ったところで、伊藤の探し求めていた材料は全て揃ったらしかった。量にして大きな紙袋二つ分。当然ながら荷物持ちこと俺の両手に、ずっしりのしかかる感謝の気持ちである。けっこう重いが、文句を垂れるのはやめておこう。

「で、これどうすんだよ伊藤。さすがにあんまり歩き回りたくはないぞ」

 時計を見れば12時ちょうどくらいだ。モール内のお客がぞろぞろと飲食店に吸い込まれていくおかげで、今ならけっこう歩きやすい。俺も腹が減ってきたことだし、目的を達成したんならさっさと帰って飯を食いたい。

 しかし、伊藤は人差し指を唇に当てて、少し考えてからこう言った。

「ねえ、もう少しだけ付き合ってもらえるかしら?」

「はあ? いや、お前、俺さっき歩き回りたくないって言ったよな?」

「大丈夫よ、お買い物に付き合わせるわけじゃないわ~。むしろいいことしてあげるから、ちょっと屋上に行きましょう? ね?」

 言うなりてくてくと屋上に向かうエレベーターへと歩き始めてしまう伊藤を、俺は荷物を引きずらないよう気合を入れて追いかけた。いいこと、と言われてもとんと予想がつかない。そしてこんなときに都合の良い妄想が膨らむほうではない俺は、やや不安な気持ちになりながらも問い詰めることはできず、黙って伊藤についていく。

 このモールの屋上には、子どもが遊べるような小規模な遊園地じみた施設がある。ほとんどがメリーゴーランドみたいに回ったり揺れたりするだけの大人からすれば面白みのない場所だが、休日ということもあり子ども連れが大勢いて、モールの中よりはごった返している印象だ。一応ここの目玉でもある中くらいの大きさの観覧車を横目に、何やら目的地に真っ直ぐ突き進む伊藤を引き続き追いかける。

「はいっ。とうちゃ~く」

「到着って……」

 そこは遊園地内に人工的に作られた芝生の広場だった。はしゃいで遊びまわる子どもたちを見守る親御さんたちに混じって、伊藤がこっちに手を振っている。

 周囲の人々が俺たち……というより伊藤に注目するのを感じて、少し恥ずかしくなった俺は、なぜか小声になる。

「こんなところに何の用事だよ。まさか遊びたいってわけじゃないよな」

「違うわよ~。黒川くん、今くらいの時間になると、お腹が空いてこない~?」

「そりゃ空いてるけど……」

 いや、まさか。そう思いつつも、俺の視線は自然と、伊藤が持っているバスケットに向けられていた。

 嬉しそうに内緒と言っていた伊藤の姿を思い出す。いいことしてあげる、という言葉も耳に反芻される。

「今日はせっかくのおでかけだから、なんと、お昼ご飯を作ってきました~! ちゃんとレジャーシートも持ってきたから、ここに座って一緒に食べましょう~!」

 言いながらバスケットから大きなシートを引っ張り出して、芝生に敷いていた。2月中旬の屋上で、今日はまだ晴れ間が覗いているから暖かいとはいえ、風が冷たくて寒いのには変わりないというのに。伊藤はそんなことなど気にもとめていないようで、まるで子どもみたいに楽しそうだ。

 俺は、正直言葉にならないほどの感動を覚えながら、ゆっくりとシートに腰を下ろした。

「どう? いいことでしょう?」

「……ああ。そうだな」

 きっと、この感動の意味を説明しても、伊藤には理解されないだろう。だから務めて冷静に、いつも通りの俺を装って、そう答えた。

 あぐらをかいてシートに座ると、伊藤がいそいそとバスケットからご飯を取り出した。小さめのランチボックスが3つ、その全てに色とりどりのサンドイッチが詰められている。横には水筒も並べて置かれ、用意のいいことに紙コップまで取り出していた。

「はい、お茶。あったかいわよ~」

 受け取った緑茶からは湯気が立っている。これといいシートといい、本当に用意周到なことだ。

「お昼ご飯って言っても、私そんなにお料理得意じゃないから、簡単なサンドイッチなんだけれど……足りなかったら言ってちょうだいね~」

「んなことないよ。多分」

 俺は一番近くにあったサンドイッチを手に取った。レタスとトマトと、それから玉子が挟み込まれている。みずみずしく、強烈なまでの手作りの感触。

 久しぶり、だった。

 当然、感想を考えるまでもなく、美味かった。口に入れた瞬間にウマイと絶叫して、気づいたときには次の一口を頬張っていた。それが何度も、エンドレス。止まらなかった。伊藤が目を丸くして俺を見ているのを気にする余裕もなく、次から次へとサンドイッチを食していった俺がようやっと一時停止したのは、1つ目のランチボックスが空っぽになったときだった。

 伊藤は、驚いたというよりも申し訳なさそうな顔をしながら言う。

「ご、ごめんなさい。そんなにお腹が空いているとは思わなくて……もう少し早くここに来ればよかったわ~」

「いや、違う。そういうことじゃないんだ」

 伊藤だけじゃなく周りの人までこっちを見ている。今度は伊藤ではなく、俺をだ。だからさすがに恥ずかしかった。がっつきすぎた。

 とりあえず自分を落ち着かせ、疑問に思っていたことを口にする。

「伊藤、なんで昼飯なんて作ってきてくれたんだ? 荷物持ちのお礼か?」

 すると、伊藤はどこか照れくさそうに指を合わせ、視線を逸らしながら言った。

「ええと、それもあるんだけど。……一緒にお昼ご飯を食べてるときにね、黒川くんのお弁当を見ていつも思っていたのよ~。なんだかお惣菜ばっかりだなって。それも毎日。だからね、私の変なお願いを聞いて一緒にいてくれてる感謝も込めて、いつかお弁当を作ってきてあげたかったの~。そうするのにはほら、今日みたいな日はぴったりでしょう?」

「……そっか」

 だから集合時刻も早かったわけだ。全ては今日、こうして俺に、お弁当を作ってご馳走してくれるためだけに。

 俺は多分、伊藤のことを誤解していた。頭のネジが外れたぶっ飛んだ性格の女だとばかり思っていたけど、違った。弁当の中身を見ただけで俺の弁当を作ってあげようだなんて考えるほど、思いやりにあふれた、優しい女の子だったのだ。知らなかったわけじゃない。気づかなかっただけだ。伊藤の優しさがこんなにも暖かいだなんて。

 恐らく感極まってしまったのだろう。俺は無意識に涙を流していた。

「え、ええ!? く、黒川くん、どうしたの? な、なにか、私まずいこと……」

「悪い。そういうのじゃ、ない。嬉し涙だから、気にすんな」

「気にすんな、って言われても……」

 おろおろと伊藤が慌てている。とりあえずハンカチ、とハンドバッグから取り出したそれを、俺は手だけで制した。そこまでのことじゃなかったから。

 それよりも今は、伊藤のくれた優しさに、ちゃんと応えてやりたかった。だって俺はまだ、お礼の一言も言えちゃいない。このままじゃ薄情者だ。もらったものは、ちゃんともらった通りに返さないと。

「なあ。ちょっとだけ身の上話、してもいいか?」

「え?」

 いいか、と聞いたが答えは聞いていない。俺は勝手に喋り始めた。

「俺さ、中学ん時に両親離婚しちまって、母子家庭なんだ。母さんは俺を食わせるためにずっと働きづめで家にいないことが多くて、学校終わって帰ったら寝るまでずっと一人ってのが普通で。メシも、買い置きしてある冷凍食品とか、たまに料理があっても冷蔵庫で冷めてるやつをチンして、って感じで。もちろん弁当もそんなので。だからなんていうか、今みたいにちゃんと作られた弁当を食べたのって、ほんと何年かぶりみたいな感じなんだ」

 伊藤は黙って、真剣に、俺の話を聞いてくれている。

「俺のことを考えて、俺のために作ってきてくれた弁当なんだって、そう思ったら……なんか止まんなくてさ。思い上がりだったら恥ずかしいけど、そうじゃないって分かったらほんと嬉しくって……つい、こう、涙が。あはは、情けないよな」

「ううん。そんなことないわ」

「伊藤……」

 強く否定してくれた、その言葉が、その表情が、とても優しい。こいつの優しさは、なぜか分からないが、すごく安心できる。

「……だから。弁当作ってきてくれて、本当にありがとう。すごく美味かった」

 恥ずかしがらずに素直に言えたのも、多分、そのおかげだ。

「……ええ。どういたしまして。作ってきたかいがあったわ~」

 目を細めて、伊藤が笑う。幸せそうなその表情に、俺もつられて笑った。

 それから他愛もない世間話をしながら、俺は伊藤の持ってきてくれた弁当を全部平らげた。伊藤も少しは食べていたがほとんど俺が食ってしまった。

「なんか、ごめんな。俺ばっかり」

「謝らないで、黒川くんのために作ってきたんだから、これでいいの」

 空になったボックスを手早く片付けながら伊藤が言う。気づけば辺りの寒さや視線など気にならなくなっていた。今はとにかく、満腹の幸福感と伊藤への感謝で胸がいっぱいのようだ。気持ちよさに任せて仰向けに寝転がると、ご機嫌そうな太陽が暖かい日差しを俺に送ってくれていた。

 遠くから聞こえる子どもの喧騒。親御さんたちの談笑の声。そんな音まで心地よく感じられる。満腹程度でここまで幸せになるとは、俺は意外と現金な性格なのかもしれない。

「ねえ、黒川くん」

「ん?」

 伸びまでして幸せを満喫していると、伊藤が不意に俺を呼んだ。体を起こすと、伊藤はバスケットに視線を落としたまま微笑んでいる。

「私もね、少しカミングアウトしていいかしら?」

「ああ、もちろん」

「ありがとう」

 姿勢を変えないで続ける。

「私ね~、今日こうやって黒川くんとお出かけするの、とっても楽しみにしてたのよ」

「え?」

「だって、男の人と二人っきりで休日に出かける、なんて。これって、デートってやつでしょう?」

「なっ」

 伊藤の口から予想だにしなかった単語が飛び出し、俺はまた顔が赤くなるのを感じた。しかし伊藤は止まらない。ころころ楽しそうに笑っている。

「黒川くんに恥ずかしくないようにお洋服は厳選したし、お弁当作るためにちょっと早起きもしたし、忘れ物しないために何度も確認してたら出発が遅れちゃったりもして。でもね、どれもすごく楽しかったの~。自分でも不思議に思うくらい、黒川くんとデートするのが楽しみで仕方なかったのよ~」

「お、おう、そうか」

 デート、という言葉をうまく飲み込めない。いや、まあ、考えはしたが、まさかこいつから言われると思ってなかったせいで、喉につっかえてしまっている。恥ずかしげもなくあっさり言いやがって。結局こいつ、男女の機微が分かっているのかいないのかどっちなんだ? 分かったフリして実は分かってないタイプか?

「お昼が黒川くんのお口に合うかどうか。買い物している最中に飽きて帰ってしまわれないか。そもそもちゃんとお話しできるのか。どれもこれも不安で、ちょっと緊張もしてて、ドキドキしてね~。なのに、それが楽しかった。だからね、お礼を言うのは私のほうなのよ~。こんなに楽しく過ごせた休日は初めてだったわ。私の知らなかった黒川くんのことも知れた。ううん、知ってあげることができた。だから……本当にありがとう」

 少しだけ顔を赤くしながらも、それよりはずっと楽しそうに。伊藤はそう言って笑っていた。

 正直、何をどう返せばいいかなんて全く分からず、今朝伊藤と出会ったときのようにフリーズするしかない俺だったが、続けて伊藤は、まさかの追い討ちをしかけてきた。

「それでね、今思いついたことなんだけれど~。バレンタインのチョコ、黒川くんにあげてもいいかしら?」

「え? ちょ、チョコ?」

「ええ、チョコ。もちろん手作りよ~。その、実は男の人にチョコを渡すのなんて初めてなんだけれど……もらってくれないかしら?」

 やめろ。そう小首をかしげるんじゃない。断れなくなるだろうが。

 いや、でも、ここは俺も引き下がれないところだ。手作りチョコなんてとてももらうわけにはいかない。俺は毅然と立ち向かった。

「ま、待て。もらえるのは嬉しいけど、手作りはダメだ。市販のにしてくれないか」

「どうして?」

「えっと、これもまた母親の話になるんだけど。ウチの母親は、恩とか義理とかを重んじるタイプで、もらい物とかするといつも過剰にお返ししようとするんだ。相手より良いものを渡そうとするっていうのか? ともかくそんな感じで、いつも頭を悩ませてるんだ。でもよく考えてみろよ。相手からもらったものより良いものを返す決まりなんてどこにもないだろ。そんなこと法律でも条例でも決まってないし、完全に個人の気持ちの問題だよな」

 話が見えない、というふうに伊藤はきょとんとしている。俺はごほんと咳払いをして、結論を告げた。

「そういうわけで。俺は、もらったものに対等の価値を感じるものしか返さないようにしてるんだ。んで、到底返せそうにない価値あるものは、最初から受け取らないようにしてる。手作りチョコなんてもらったら手作りのものをホワイトデーに返さなきゃならなくなるだろ? でも俺は菓子作りなんてできない。つまりはそういうことだ」

「…………なるほど。黒川くんはお返しのことを考えているわけね~」

 その通り。もらったものは等倍で返す、これは子どもの頃からの俺のポリシーだ。バレンタインのチョコだって例外ではない。返せないものは受け取らない。至極理にかなったポリシーだろう。

 しかし、伊藤はおかしそうに笑いながら言った。

「なら、何も問題ないわね~。だって私、お返しなんていらないもの」

「え?」

「だから、お返ししなくていいの~。私は、私が黒川くんにあげたいから、チョコを作ってあげるだけ。受け取ってくれさえすればそれでいいのよ~」

「い、いや、だからそういうわけには……」

「ダ~メ。私、もう決心がついちゃったんだから。何を言われたって気持ちは変わらないわよ~」

 そーれ、といきなりシートを引っこ抜きにかかられ、俺は慌てて飛び退いた。ご機嫌そうに鼻歌を歌いながらシートをまとめる伊藤を手伝うでもなく俺は食い下がったが、もう何を言っても聞き入れてもらえない。あげる気になってしまった、らしかった。それ以上の理由など存在しないらしかった。

 そりゃあ、もらえるんならもらうさ。だって嬉しいに決まっている。俺だって今日の、ええと、デートが楽しくなかったわけじゃない。伊藤の新たな一面を知れた日でもあるのだから、一生の思い出になるだろう。こんな良い日はそうそうあるもんじゃない。だが、だからってポリシーまで曲げてしまうのはいかがなものか。世間的に変なことを言っているのは俺だという自覚こそあるが、ポリシーってのは貫き通してこそ意味のあるものだろう。伊藤の気まぐれに揺さぶられてどうする。

 しかし、ここでもやはり、伊藤の反撃が飛んできた。

「そんなに言うなら、ちゃんと等倍のものを返してもらわなくちゃならないわ~。……物じゃなくて、いいから」

 それは、さすがの伊藤も恥ずかしそうに、耳を赤くして言った一言。これを聞いた俺は白旗を揚げて降参するしかないのであった。

 伊藤の新たな一面を知れた日。少なくとも高校からの友人には一人も言っていなかった、俺の家庭の事情。俺と伊藤由紀子は、その日確かに仲良くなったのだろう。結局、まだもう少し遊びたいという伊藤に付き合って、荷物を簡易ロッカーに預けたあと、日が暮れるまでモールの中にいた俺たちだった。


 そして、きたるバレンタインデー当日。

 俺は、緊張すればいいのか期待すればいいのか分からず一週回って不安になるという奇妙な心境のまま夜を明かし、若干の寝不足だった。デートの日よりもご機嫌そうな太陽がさんさんと暖かな日差しを振りまき、まるで男子どもの浮かれた心情が気温にまで影響しているかのような心地よい日だというのに、俺の頭上を旋回する睡魔は容赦してくれない。一時間目は確実に夢の世界で受けることになりそうだ。

 そうやってフラフラ歩いていると、背後から誰かが駆け寄ってくる足音が聞こえた。

「おっはよー! そして久しぶりー!」

「おはよう、黒川くん~」

「……おう、相田と伊藤か。おはよう」

 一週間ぶりに見る底抜け笑顔の相田。そして、やけに大きな紙袋を手に持っている伊藤。いつもの二人の登場だった。あくびをかみ殺しながら振り返る。

「もうずいぶん元気そうだな。これでも一応、心配してたんだぞ」

「ごめんごめん、私もインフルエンザなんか小学校以来だからびっくりしたわよ。まあ、今はこの通り完全復活の菜種ちゃんだから、安心なさい」

「それは何より。……ふぁ」

 いけない。相田の弾けるような声を聞いても眠気が飛んでいかない。思っていたよりもしつこそうだ、こいつめ。

 ぐしぐしと目をこすっていると、伊藤が紙袋を蹴らないように気をつけながら、とてとて隣に並んできた。ぐっと身をかがめて俺の顔を覗きこむ。

「あら、ずいぶん眠そうな顔してるわね~。ふふっ、もしかして、今日が楽しみで寝付けなかったのかしら~?」

 妙に鋭いことを言いやがる。俺はついと顔を逸らした。

「夜更かししてゲームしてただけだ。つまりはただの不健康。……伊藤こそ、なんだよその大荷物。一体何人に配り歩く気なんだ」

「それは秘密~」

 ああ、そう。別に知りたくもないからいいけど。

 ぴゅい、っと急に冷たい風が吹き、身を震わせた。ほう、と吐いた白い息が風に流されて俺の背後へ消えていく。

「…………」

 ふと、相田が立ち止まっていることに気がついた。何やら呆けたような顔をしている。きょとん、とか、ぼけーっ、というよりは……なんだあれ。がーん、か? そういう顔だ。

「おーい、何やってんだ。置いてくぞ」

「あ、う、うん。ごめん」

 声をかけると、思い出したように駆け寄ってきた。様子がおかしいように感じるがなんだろうか、伊藤に目配せしてみるも、伊藤のほうも分かっていないようで不思議そうに首を傾げるばかりだった。

 それから学校に着き、いつも通りの日々が始まった。バレンタインムードで一部男子が盛り上がっていたことは盛り上がっていたのだが、俺と一緒に入った相田の復帰のほうがクラス的話題の優先度が高かったようで、あいつは次々に声をかけられるわ休んでいた分のノートのまとめを複数人から渡されるわなぜか泣き出す輩もいるわの大騒ぎの中心になってしまっていた。休んだときに垣間見えた信頼の数値が、そのまま相田にぶつけられている。多少は手加減してやれよと思いつつ、クラス全員悪気のないことなので止めるのもはばかられ、何より当の相田本人が嬉しそうだったので、俺は傍観することにした。

 そして当然ながら、相田の復帰により、俺と伊藤が一緒に行動する必要はなくなった。伊藤のほうも自ら俺に話しかけてくるようなことはなく、相田と一緒に行動して、昼飯も相田と一緒に食っていた。おかげで俺のほうにも、久方ぶりに男子の友達が戻ってきてくれたわけだが、なぜか揃いも揃って「ご愁傷様」な態度だったので、全員脳天にチョップを入れておいた。

 ……そりゃあ、な。ちょっと寂しかったりは、するさ。結局俺は相田の代わりでしかなかったのか、と思ったりもするけど。

 ただまあ、なんていうか、そこまで悲観的にならないでいられるのは……伊藤に、チョコをあげるって宣言されているおかげなんだろうな。きっと、放課後にでも渡してくれるつもりなんだろう。

 それよりも。ぶっちゃけご愁傷様なのは男子どものほうだ。少なくとも俺の周りにいる男子は全員、たった一つの戦利品も得ることができず、みんな死んだ魚の目で寄り集まって、もらえたやつへの呪詛を吐いていた。どこから湧いて出たのやら、隣のクラスのはずの立花まで輪に加わっている。かくいう俺も、徳用チョコのばら撒きすら受け取っていない始末で、現時点では敗者側の人間だった。これも友チョコとやらの横行のせいだろうか。

 ハッピーとアンハッピーの対比が激しい一日を終え、ようやく放課後を迎える。最後の授業の途中から、意識しすぎたのか緊張してきてしまい、無意味に伊藤のほうを見ては視線がバッティングして逸らす、という恥ずかしい行為を繰り返していた俺は、いっそ早く殺してくれと祈りながらホームルームを聞き流していた。終わってほしいのやら終わってほしくないのやら、渡す側でもないのに馬鹿じゃねーのと自分でも思うのだが、こうなっては止められない。太鼓みたいにドンドコうるさい心臓の音を意識の外にどかすので精一杯だった。

「起立。礼」

 学級委員の一言で頭を下げるのも機械的。ええいくそ、いっそ伊藤に突撃でもしてやろうか、と半ばヤケになって鞄を持ち上げようとしたところで、

「黒川、ちょっと」

「え?」

 いつのまにか俺のすぐ近くに来ていた相田に、がしっと腕を掴まれた。驚いたのもつかの間、驚異的な力でそのまま引っ張られ、鞄を拾うこともできずに引きずられるように、教室から連れ出される。

「由紀子! ごめん、ちょっと教室で待っててくれる?」

「え? ええ……」

 出がけにそれを言ったきり、相田はつかつかと早足で、俺をどこかへと連れて行く。

「おい、なんだよ、なんで引きずるんだよ」

「…………」

「あー、もう、分かった分かった、ついていってやるから、せめて腕離せ。痛い」

「…………」

「おーい? 相田さーん?」

「…………」

 返事をするつもりはないらしい。振り払ってやるという手もあったが、ここはされるがままに任せることにした。

 そうして相田につれてこられたのは、校舎の外に飛び出している非常階段だった。無骨な鉄製の階段で、非常時でもないのに利用するやつなどいるわけがない。つまりは、人気のないところ。その踊り場で俺の腕を離した相田は、くるりと俺のほうを向いた。

 怒っている。そう感じる顔だった。

「……あんた。私がいない間に、由紀子と何があったの?」

「はあ?」

「とぼけないで答えて。絶対なんかあったでしょ」

 きっ、と目を見据えられている。元々目が大きくて目力のあるやつだから、こう真っ直ぐ見られると少し居心地が悪い。俺は無意識に視線を逸らしていた。

「……なんでそう思うんだよ」

「そんな質問返しがくるってことは、心当たり大アリってことでいいのよね。でもいいわ、教えてあげる。由紀子の様子がね、明らかにおかしいのよ」

「伊藤の?」

「ええ、そう。聞いてもないのに、黒川のことばーっかり話すの。全然関係ない話をしてても、すぐ黒川が出てくるの。すごく楽しそうに嬉しそうに、黒川くんがね~だの、黒川くんだったらね~だの、今日一日中そればっかり。聞いてるこっちが呆れるくらい、二言目には黒川くん、ってね。……おかしいわよね?」

 ああ、そうだな。おかしい。あいつどんだけ俺に懐いてるんだ。

 ……じゃ、ないけどさ。ああ、分かってるけどさ。うるさい黙ってろ、恥ずかしいんだ。ちょっと照れる間くらいくれ。

 俺は、相田がインフルエンザで倒れてから起こったことを、全部説明した。相田の代わりを頼まれたこと、本当にずっと一緒に行動していたこと、チョコの材料を買いに行く名目で休日にデートをしたこと、バレンタインのチョコを渡すと宣言されたこと。全部。

「…………。って、感じで、今にいたるけど」

「…………」

 俺が話している間、じっと黙って聞いていた相田は、話が終わったと見るや否や、俺の両肩をがっしり掴んで、

「あんた、馬ッ鹿じゃないの!?」

 怒鳴った。

「あんた、私とすら二人で出かけたことないってのに、由紀子とは平然とデートしたわけ!? しかも何よ、そのおかげでちょっといい雰囲気になったって? あー、やだやだ、鬼の居ぬ間に何とやらってやつかしら、すぐ側にいる番犬が伏せったから今がチャンスだと思ってアタックしたって寸法ね、そうなんでしょ?」

「いや、そういうわけじゃなくてだな」

「いいえ、そういうわけに決まっているわ! 由紀子ったらぼんやりしてるから、悪い虫がつかないようにつかないようにって気を配ってたのに、こんな近くに伏兵がいるだなんて思いもしなかったわ、まったく!」

「おい。俺は悪い虫かよ」

「悪いわよ! おとなしく私が邪魔だったって言いなさいよ!」

「はあ? なんでだよ……」

 わけが分からずそう言った瞬間、俺は思わず口をつぐんだ。

「そうでないと……私がみじめじゃないのよ……」

 どこから取り出したのか、綺麗にラッピングされた長方形の箱を、俺の胸に押し付けてきていたからだ。

 口の中が急速に乾燥していくのを感じ、多分このときの俺は、焦ったんだと思う。まさか自分にそんな日が来るとは夢にも思っていなかったから、あらかじめ用意した答えなんてどこにもなくて、今この場で、適切な答えを作らなければならなかった。けど、時間をかけてはいられない。そう本能が直感していた。

 俺は、相田の涙を拭うでもなく、肩に手を置くでもなく、ましてや抱きしめるなんてするわけもなく。ただ、押し付けられているチョコに手を添えた。受け取ってはいない。添えただけ。

「相田。確認するけどさ」

「…………何よ」

 俺は今から、相田の心を傷つける。深々と。もう治らないほどに。

 そのための覚悟を決めてから、なるべくきっぱりと、言った。

「これは……義理チョコだよな」

「ッ!」

「それなら受け取るぞ、喜んで。そうじゃないなら……これは受け取れない」

 だって、俺の等倍は、もう決まっている。何人にも平等に振りまくわけにはいかない、超特級の気持ち。それは、多分、相田が本当に込めた気持ちと、一緒のはず。

 相田は震えていた。これ以上の涙を流すわけにはいかないと、必死に堪えているようだ。胸に押し付けてくる力も、弱まるどころかどんどん強くなっていく。その葛藤が終わるまで、俺はただ、じっと待ち続けた。

 しばらくして、相田はようやく顔を上げた。

 涙で目元は腫れ、無理に作った笑顔もほとんど笑顔ではなくて、痛々しいまでの酷い顔だったけれど。そのとき相田は、確かに、笑っていた。

「……当ったり前でしょうが! なーに勘違いしちゃってんのよ、おばかさん!」

「……へっ。だよな。それ聞いて安心した。ありがたくもらうぜ、ありがとな、相田」

 ぼすっ、と腹を殴られた。まあ、それくらいは、仕方ない。

 俺たちは無言で教室へと向かった。相田と話しているうちにほとんどの生徒は帰ってしまったようで、廊下は全くの無人だった。二人分の足音が妙に重苦しく響き渡り、これほど心臓によろしくないツレもそうそういないだろうと、俺は密かに嘆息した。

 そして教室に着くなり、相田は俺のケツを蹴り、文字通り中に蹴り入れた。

「いてっ。おまっ」

「んじゃーね、お二人さん! 邪魔者は退散しまーっす!」

 ドバンッ! と扉から鳴ってはいけない音がした。退散するったって、あいつ鞄置きっぱなしなんだがどうするつもりだ。

 と思っていたら扉がまた開いた。恥ずかしそうに真っ赤な顔で、鞄をよこせとジェスチャーしてくる。位置的に近いのは俺だったので相田の鞄を拾ってやって渡すと、今度こそ風のようなスピードで走り去っていった。山びこのように小さくなっていく相田の足音を追いかけてつい廊下に出てしまった俺は、去っていったほうを眺めながら呟く。

「俺が二人いてやれりゃ良かったのかもな……」

 そんな簡単な話でもないだろう。分かっていても、思わずにはいられない。生々しい相田の心の傷は、俺の手の中でずしりと存在感を放っている。

 俺は教室に戻り、改めて、中にいた伊藤を見た。すでに無人になった教室で、伊藤は自分の席に座って、俺が帰ってくるのを何もしないで待っていたようだ。ここからだと夕日が逆光になって伊藤の顔が見えづらい。

「何の話をしていたの~?」

「まあ、色々と。それと、義理チョコもらった」

 日差しに邪魔されない位置に移動して、もらったチョコをひらひらと見せる。

「あら、まあ。ずいぶんと手の込んだ義理チョコね~」

「俺もそう思う」

 言いながら自分の鞄にしまう。食べるべきかどうかすでに決めかねていたが、後でいいかと開き直った。

 伊藤は席に座ったまま動かない。立ったまま話すのも何なので、前の席の椅子を拝借して、伊藤と向かい合うように座った。俺が腰を落ち着けたのを見た伊藤が、ゆっくりと口を開く。

「……実はね。ちょっとわざとだったのよ」

「ん?」

「黒川くんの話ばかりしていたこと。わざと、やってました」

「……お前、まさか聞いてたのか?」

「あ、それは違うわよ~」

 えらく神妙に言うから付き合ってやったら、急にいつも通りののんびりした口調で言われ、俺は己のテンションを掴み損なった。

「ただ、菜種ちゃんのことだから、きっとそういう話をしたんだろうなって思っただけ~。私は世界で一番菜種ちゃんに詳しいって自負してるのよ~? 菜種ちゃんクイズ大会があったら絶対優勝できるくらいに」

「……ってことは、気づいてもいたんだよな」

 何が、とは言わなかったが、伊藤には通じたらしかった。静かにこくんと頷く。

「私の中での黒川くんってね、ほとんど菜種ちゃんから教えてもらったことで構成されていたのよ~。性格とか、好き嫌いとか、ちょっとした表情のクセとか、興味を持つ話題の傾向とか。それはもう菜種ちゃんってば、詳しかったわよ~」

 やめてくれ。今その話は俺の精神衛生上よろしくない。

「あ、やめてほしいって思ってる?」

「……心を読むな」

「ふふっ、ごめんなさい。でも、これも菜種ちゃんに教えてもらったこと。黒川って意外と顔に出やすくって分かりやすいのよ、ってね~」

 相田の真似はヘタクソだったが、俺の脳みそはしっかり相田の声を再生しやがる。これじゃあ未練があるみたいで俺自身あまり気持ちよくない。すっぱり気持ちの整理をするってのは難しいもんだな、やっぱ。

 そして、またその顔を読まれたのだろう。伊藤は少し頬を赤らめて言った。

「本当に、私たちの間にはずーっと菜種ちゃんがいた。でも、これからは……そうじゃないわよね」

 嬉しそうにそれを言うのは、なんとなく、伊藤らしくない気がした。俺はあえて突っ込んで聞いてみる。

「罪悪感とかないのか。相田のことを分かった上で、っていうんなら……いない隙を狙ったのはお前のほうってことになるんだぞ」

 そう。俺は本当にそんなつもりはなかった。ついでに言えば相田にも、それらしい感情は抱いていなかった。伊藤に言われるがままなされるがまま、言い方は悪いが流され続けた結果、俺は今、ここでこうして伊藤と二人っきりで話している。この状態を望んだのは俺の本心だが、きっかけを作ったのは間違いなく伊藤だ。

 伊藤は少しうつむいて、考えをまとめてから口を開いた。

「覚えてるかしら。菜種ちゃんがインフルエンザを引いて、私がびっくりして、黒川くんを呼び出してしまった日のこと」

 もちろん覚えている。忘れるわけもない。思えばあの日が、全ての始まりだった気すらするのだ。

 伊藤は俺の手のほうを気にしながら続ける。

「あの日ね。私、黒川くんの手を振り払ってしまったでしょう」

「ああ……」

 俺も自分の手を持ち上げた。あのとき、伊藤を落ち着かせるために頭に触れようとして、拒絶された手。友達だと思っていたやつに触れることすら許されず、虚しく空を切った手。伊藤はその手を、自分の両手できゅっと包み込む。

 俺が緊張する暇も与えてくれず、伊藤は言った。

「ねえ、貴方のその手で、私の頭を撫でてもらえないかしら?」

「はあ?」

「お願い」

「……いいのか?」

「そうじゃなきゃお願いなんてしないわ」

 自分のほうに引っ張ってみせる伊藤。俺はおずおずと手を伸ばし、対面に座る彼女の頭に、割れ物を触るように慎重に、その手を乗せた。さらりと、その髪を撫でた。

「ふふっ。気持ちいい~」

 伊藤は幸せそうに目を細めている。俺は俺で、あまりにも撫でやすいその髪の感触に夢中になって、撫でる手を止められない。綺麗だとは思っていたが、実際に触れてみるとよく分かった。手入れの行き届いたきめの細かい、美人の証のような黒髪。

「……私、本当は、男の人が少し苦手だったの。話しかけてもまともに会話が成り立たなくて、遠くからはいつも視線を感じていて、どう接すればいいのか全然分からなかった。なんというか、その……気味の悪い目を向けられることも、あったし」

 いわゆる色目というやつだろう。男の側からしてみれば、美人すぎる伊藤にどう接していいか分からず、話しかけられればテンパり、遠くからは尊敬のまなざしを向け、自分たちには手の届かない高嶺の花だとあがめていただけの話だが……当人には、それらは全て逆の意味にしか映っていなかったわけだ。

 でもね、と伊藤は嬉しそうに続ける。

「でも、貴方だけは……黒川くんだけは、別だったの。菜種ちゃんと仲良くなって、よく近くにいた貴方ともすぐ仲良くなって……本当は男の人とも仲良くしたかったから、私、すごく嬉しかった。初めてできた男の人の友達、それが、貴方」

「最初の頃はずーっと相田に向かって話してたくせに、よく言う」

「あら? そ、そうだった~?」

 そうだったそうだった。俺は何度も頷いてみせる。

「で、そんな生まれて初めての男友達の手を、お前が拒否したのはどうしてなんだ?」

 ずっと伊藤に会話の主導権を握られているのもシャクだったので、今度は俺から先を促してみた。もちろん頭は撫で続けている。

 伊藤は少しだけ目を伏せた。

「私も、本当はそんなつもりじゃなかったの。ただ、あのときはパニックになっていて、自分が今何をしているのかも分からない状態でね。そんなとき、不意に手が伸びてきたものだから……なんだか、それがとても恐ろしいもののように思えてしまって。とっさに振り払ってしまったの」

 なるほど。男性恐怖症……というのとはまた違うだろうが、男に対して不信感みたいなものを抱いていた伊藤にとって、パニック状態に伸ばされた男の手は安心できるものとはほど遠いものだったってわけか。見たこともない剣幕で振り払われたのにも、これでようやく納得がいった。

 ……っていうか。悪いのやっぱ俺じゃねえか。

「ごめんな。そんなこととは知らずに」

「ううん、いいの。それに、私もすぐ気づいたのよ。黒川くんは私を落ち着かせるために手を伸ばしてくれたんだって。なのに振り払ってしまって……拒絶してしまって、私ったら何てことをしてしまったんだろうって、すぐ後悔したわ。貴方の優しさは知っていたはずなのに、受け取ってあげられなかったことが、本当に申し訳なかった。だから、せめて恩返しがしたくて。一緒にいてくださいってお願いしたの」

「ってことはお前、もしかして相田の代わりだとかいうのは全部建前で、最初から俺のために一緒にいたってことか?」

「ええ、そうよ。やっと気づいた?」

 だったら素直にそう言えばよかっただろうとか、ずいぶん回りくどいことをしてくれたもんだとか、口にしようと思えばいくらでも文句を垂れることはできたんだと思う。だが俺は一言も言葉にはせず、ただ教室の天井を見上げただけだった。今の感情をどう説明しようか、ああ、そうだ、きっとこの言葉が一番しっくりくる。

 参った。そんな感じ。

「私の、今の気持ちの始まりは、きっとそこだったと思うの」

 言いたいことを全部言えてすっきりしたのだろう。伊藤は紙袋の中に入れていた、もっと小さい紙袋を取り出しながら言う。

「二人でいるうちにどんどん膨らんでいって、形になって、はっきりと自覚できるようになったのは、モールの屋上で貴方の話を聞いたとき。こんなこと言うの、ちょっとおかしいかもしれないけど……貴方の、もう一人のお母さんになってあげたいって、そう思った。誰よりも自分をさらけ出せて、誰よりも安心して接することができる人に、私がなりたいって思った。貴方の一番近くに、いたくなった」

 紙袋から取り出したのは、赤い包装紙に緑のリボンでラッピングされた、正方形の箱。恐らくだが店で包んでもらったのではなく、自分で作業したのであろう手作り感がどことなく漂う、特別な箱。

 受け取る前に、俺からも言うべきことがあった。頭を撫でていた手を引っ込める。不思議なことに緊張なんか全然していなくて、驚くほどあっさりと、その言葉は滑り出る。

「俺も、多分、そのとき。話を聞いてくれた伊藤の顔がすごく優しくて、情けなくないって言ってくれた言葉が優しくて。嬉しかったんだ」

「うふふ。気が合うわね、私たち~」

「そうだな」

「まあ、そのあと、チョコを受け取る受け取らないの一悶着があったわけだけど~?」

「……それはできれば忘れてくれ。いや、本当のことではあるんだけどさ」

「分かってるわ、大丈夫。……これは絶対に受け取ってくれるでしょう?」

 伊藤が、大事そうに両手で箱を包む。いや、もう、ぼかさなくてもいいか。

 俺は、チョコだけ受け取るのはなんだかもったいない気がして、伊藤の手ごとチョコを包み込むように手を伸ばした。

「はい。お待ちかねの本命チョコレート」

 嬉しそうに伊藤がはにかむ。

「貴方のことが、大好きです。黒川早人くん」

「俺も、お前のことが大好きだ。伊藤由紀子」

 包み込んだ手に力がこもる。

 俺は由紀子の手をしっかりと握ったまま、由紀子もチョコを持ったまま、どちらともなく体を伸ばした俺たちは、まるでそうするのが当たり前だというみたいに、そっと、唇を重ねた。

「…………」

「…………」

「…………由紀子、お前、ちょっと照れてる?」

「……さすがに、これで照れないのは、無理よ~。っていうか早人くんに言われたくな~い」

「まあ、そうだろうな……」

 そのときの俺の体は、二人の間にあるチョコが熱すぎて溶けてしまうんじゃないかと思うくらい、心臓が張り裂けて血を吹くんじゃないかと思うくらい、熱かった。きっとこの熱はこれから先、一生冷めることはないんだろう。由紀子の手からも同じような熱が伝わってくる。

 自然に。もう一度。俺は由紀子の唇を求めた。

こんなに重くなると思わんかった。

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