おかしな人たち 10
開陽丸は、かもめ島と呼ばれる場所の入口に設置されている。
実剛と絵梨佳は、幕末最強の軍艦内部を満喫していた。
といっても、完全に忠実に復元されているわけでもない。
あくまでこれは展示館なのだ。
ふたりで艦内をまわりながら、海中から引き揚げられた展示品や、当時の様相を模したアトラクションを体験する。
なかでも絵梨佳が気に入ったのは、大砲を撃つ(気分になれる)体験だ。
指示に従ってボタンを押していくだけなのだが、少し面白い。
「炸薬を砲身に詰めたかっ」
実剛の声が飛ぶ。
「炸薬を砲身につめましたっ」
絵梨佳が復唱する。
「照準を合わせっ」
「照準を合わせましたっ」
「撃てっ!」
「はいっ!」
どーん、と、発射音が響き、照明が一瞬明るくなる。
これだけの遊びだ。
だが、大砲の周囲をちょろちょろと走り回る絵梨佳のかわいらしさは、積載されている十六センチクルップ砲の破壊力を軽く凌ぐ。
絵梨佳ちゃんに撃たれたい。
埒もないことを考えるくらいに。
「おもしろいですねー!」
「まあ当時は、こんな簡単なものじゃなかったんだろうけどね」
砲術士官がいて、砲兵が一門に対して何人も付いて扱っていた。
開陽には備え付けられていたのは全部で三十五門の火砲である。運用するだけでも大変だったろう。
ガラスケースに収められた展示品を見つつ順路を進む。
「あ、これ美味しそう」
「美味しそう? へえ、榎本たちの送別会で出たメニューかー」
オランダで開陽が完成し、日本に帰国する際に開かれた晩餐会。
そのときのメニューが復元されている。
「けっこうモダンな感じですね。興味深いです」
どうせなら食べてみたい。
そう思って絵梨佳がスタッフに、同じメニューを出している食堂とかはないのかと訊ねたが、答えは否であった。
「残念ですね」
苦笑を交わし、甲板へと昇る。
潮風が、ふたりの髪をまきあげた。
「良い風……」
「晴れて良かったよ」
舵輪を握った実剛が笑う。
向かい合わせに立った絵梨佳も舵輪をもった。
「どうしてふたつあるんでしょう?」
素朴な疑問である。
「前進用とバック用じゃないかな?」
答えも素朴だった。
まあ、自動車ではないのだから、七十二メートルもある艦を後ろを見ながら操作するというわけにもいくまい。
「でも、あらためてかっこいいですよねー」
「そうだね。当時の日本にはなかった最新鋭戦艦だし。でも結局、開陽は明治政府軍と戦うことなく沈没しちゃったんだよね」
この江差沖で暴風雨に見舞われ、座礁して沈没した。
いま彼らが乗っている船は再現されたものであって実物ではない。
「戦って死ねなかった、ということですよね。戦うために生まれてきたのに……」
死に場所を得られなかった、ということだ。
少しだけ寂しそうに呟く絵梨佳。
軍事や戦史に詳しくない彼女でも、なんとなく思うところがあった。
実剛は髪をかき上げる。
「絵梨佳ちゃん。開陽の名前の由来ってしってる?」
やや唐突に話題を変える。
もちろん少女は知らない。
「フォールリヒター。オランダ語で夜明け前って意味だよ。開陽ってのは、そこからきてる名前なんだ」
名付けたのは榎本だ。
三百年続いた徳川幕府。自ら国を閉ざし、永遠に続く夜の中に埋没していた日本。
永遠の夜を開き、太陽を呼び込む暁の女王。
「フォールリヒター、フォールリヒター! すてきな名前ですっ」
愛おしそうに絵梨佳が舵輪を撫でる。
少女の肩に、実剛が手を置いた。
「座礁して身動きが取れなくなって沈没するまでの間に、乗組員は全員脱出できたんだ。一人の犠牲者も出さなかった。最後の一人が離脱するまで、彼女は頑張って持ち堪えてくれたんだと、僕は勝手に思ってるよ」
敵を屠るのではなく、味方を助けるために最後の瞬間を使った。
開けない夜を切り開こうとした暁の女王の矜持だったんじゃないかな。
そういって照れくさそうに笑う。
もちろん船に意思などない。
ただの無機物の集合体なのだから。
こんなものは、少年の勝手な思いこみにすぎない。
絵梨佳が寄り添った。
「ロマンチストですね」
優しげに微笑する。
「……センチメンタリストだよ。強いていうならね」
みゃあみゃあと、海鳥たちが騒いでいた。
手をつないで散策するふたり。
やや火照った頬を春の潮風が撫でてゆく。
「ちょっとだけ照れくさいですねっ! こういうのってっ!」
絵梨佳が言った。
万事に積極的な彼女にしては珍しい。
とはいえ、実剛も同感だったので、照れた笑みを返す。
観光地を手に手を取ってそぞろ歩く。
恋人ならではのシチュエーションである。
「わたしは妄想族ですから、実戦経験はないんですよねっ」
「僕だってないさ」
妄想族とは何か、とは問わなかった。
普段の言動を見ていれば、だいたい判るというものである。
「あ! 神社がありますよ。お参りしていきましょう!」
手を引いて駆け出す少女。
まぶしい。
陽光に踊るさらさらの黒髪。
ミニスカートからすらりと伸びた足。
均整の取れた身体。
美鶴に勝るとも劣らない可憐さだ。
さすがは女神の血を引いている、と、そこまで考えて、実剛は気づいた。
澪の血族と称される人々。女性陣は総じて美しい。ひるがえって男衆はどうだろう。
実剛、光則、准吾あたりは十人並み。
凪兄弟はアレ。
となると、光くらいであろうか。かろうじて美形といえるようなものは。
「女神さまは、すいぶんとえこひいきだよね……」
埒もないことを言って苦笑する。
と、その耳に、
「リア充爆発しろ」
聞こえる声。
誰に言われた?
思わず周囲を見まわす。
いた。
十歳くらいの子供だ。
こちらにむかって、あっかんべーをしている。
そしてそのまま、落ちていた石を拾って、投げた。
何気ない仕草。
ゆえに、実剛は危機感を抱くことができなかった。
事態の異常さを悟ったのは、小石が彼の予測よりも遙かに速く顔面に迫ってからである。
本来であれば、十六年の人生はそこで終わっていたことだろう。
そうはならなかった。
ありえない速度で振るわれた絵梨佳の左手が、石を払い落とす。
きゅど! という、これまたありえない音を立てて地面を穿つ小石。
一瞬の出来事である。
気が付いたとき、実剛は絵梨佳の背後に庇われていた。
「なんのつもり?」
氷点下の声で少女が訊ねる。
「何者っていう質問じゃないんだね」
子供の声が楽しそうに笑っている。
甲高い声から、おそらく女の子だろうと実剛は予測した。
なにしろ服装で判断することができなかったから。
目深にかぶった帽子とクロップドパンツ。だぶついた上着。
「意味のない質問はしない主義なの」
「つまり、ボクが何者か知っている、と」
「は? 知るわけないじゃない。バカなの?」
勘違いを鼻で笑う絵梨佳。
何者かなど知る必要もないことだ。
「実剛さんに害をなした。あなたは敵よ」
見事なまでに言い切って突撃。
居合い抜きのような右回し蹴り。
体勢を崩しながらも、咄嗟に腕を交差させてはじき返す子供。
スケート選手のように宙を舞った絵梨佳が、くるくると横回転しながら実剛の前に着地する。
かつて佐緒里と戦ったときにも見せた動きだ。
つまり、この子は萩の次期当主と互角程度の強さがあるということか。
実剛が戦慄する。
萩の戦闘員か。
休戦協定を破るつもりか。
「判りやすくて素敵だね。お姉さんにとって世界はとてもシンプルにできているらしい」
「複雑な問題なんて、簡単な問題をクリアしてから考えればいいのよ。あなたを倒した後、素性についてはじっくりきいてあげる」
「それは困る。ボクが名乗る機会がなくなっちゃうからね」
だって倒されるのはお姉さんだもの。
と、付け加える。
「だから先に名乗っておくよ。ボクは深雪。寒河江深雪さ」
聞いたことのない名だ。
にもかかわらず、実剛は背中に氷塊が滑り落ちるのを感じていた。




