殴る
和希が食事を終えても、冬牙は帰って来ない。
「十一時か…。」
いったいこんな時間まで何をしているのだろうかと、和希は溜息を零す。
予習も復習も終わり、和希は食卓机の上に伏せる。
「遅いな……。」
和希は溜息をもう一度吐き、諦めて明日のお弁当の下ごしらえでもしようと立ち上がろうとした時。
ようやく和希が待ち望んでいた物音がした。
カチャンという物音がして、和希は慌てて玄関に向かう。
そして、そこには案の定冬牙がそこにいた。
「お帰りなさい。」
「……。」
横をよぎる時、冬牙からお酒の匂いとたばこのにおいがした。
和希は少し顔を顰める。
「あの……。」
「……。」
まるで自分をいないモノかのようにしている冬牙に和希は段々腹が立ってきた。
「日向さん…。」
「……。」
自室に逃げるように手を掛ける冬牙にとうとう和希の中の何かが切れた。
それはもう見事にブチリと音を立てていただろう。
しかし、その音は誰の耳には届かなかった。
「いい加減…話を聞いてください。」
冬牙の服を掴み、投げる。
「――っ!」
行き成りの事で受け身も取れず、冬牙は尻餅をつく。
「何をする。」
苛立った声音に和希は艶然と微笑む。
「あら、ずっと無視していた方はどちらですか?」
「……。」
「都合が悪くなると黙り込む、本当に子どもですか?」
「……。」
「約束しましたよね。私の今回のテストの成績がよければ一緒に食事をとるって約束。」
「考慮すると言っただけだ。」
「あら、そうだったかしら?」
「ああ。」
「なら、そちらは考慮するでも構いませんが、こっちの願いは聞いてくださりません?」
「……。」
「大丈夫すよ、とーっても簡単な事ですから。」
ニッコリと微笑んでいる和希は普段ではありえない色香があったが、残念ながらここにいる人でそんな事を気づく人はいなかった。
「一日三回、私に連絡を入れる事。」
「…何だそれは。」
「簡単な事でしょ?」
「……この家には電話もないぞ。」
「ええ。」
「それに、お前は携帯を持っていないと言っていなかったか?」
「あら、覚えていてくださったんですね。」
和希は意外だった、冬牙が和希の言葉をすべて忘れている、もしくは聞いていないと思っていた。
しかし、和希の予想に反して冬牙は一輝の言葉を覚えてくれていた。
「それがどうした。」
「いえ。」
和希は頭を振った、そして、その眼がまた厳しいものに変わる。
「少し意外だっただけですよ。」
「……。」
「今日、私思ったんです。」
「何がだ。」
「この家には家電がないので、色々と不便が生じます、なので、母にお願いして携帯を買って貰おうと思っております。」
「……。」
「そうすれば、連絡は簡単につきますよね。」
「面倒。」
「あら、帰る時間を知らせる、晩御飯の有無、そして、明日起きる時間を送っていただくだけで、三回連絡入れる、というミッションはコンプリートされますよね?」
「……何でそんな事をしなくてはいけないんだ。」
「そんな事をしなくてはならない事態を引き起こしているのは貴方の行いですから。」
「……。」
「面倒だと思うんなら、生活態度を改めてください。」
「……お前が諦めればいいだろうが。」
「私は諦めるつもりはサラサラありません。」
「金でもつかまされたのか?」
「……。」
冬牙の言葉に再び和希の中の何かが切れた。
ニッコリと和希は笑い、そして、冬牙の頬を思いっきりぶった。
「――っ!」
「痛いですか?」
「……。」
「貴方の痛みなんかよりも、ずっと私の胸の方が痛いです。」
和希は右手を自分の胸に持っていく。
「貴方が私を嫌って拒絶するのなら、いくらでも受け入れます。」
でも、と和希は続ける。
「貴方は私の何を知って嫌っているの、生理的嫌悪?私を見ていないのに、そんな言葉で片づけないで、貴方は何がしたい訳なの。」
「……。」
「自分の殻に籠った子どもじゃない、いい加減二十歳なんでしょう、大人なんでしょう。」
「……。」
「ちゃんと、貴方の目で、耳で、周りを見なさい、そうじゃないと、私は離れてあげられないっ!」
最後に和希は冬牙の胸を叩く。
「私を追い出したいんなら、私と向き合って、それが一番の近道よ。」
「……。」
「夕飯作ってたけど、外で食べたのならいらないわよね、でも、もし、お腹が空いたのなら冷蔵庫にお蕎麦があるし、サラダもあるから、食べてもいいです。」
和希は言いたい事を言って少しすっきりしたのか、先ほどよりも穏やかな笑みを浮かべる。
「それじゃ、おやすみなさい。」
「……。」
冬牙は去っていく和希の後姿をどこか睨むように、でも、どこか懐かしそうにそんな目で彼女を見ていた。
しかし、その事に当の本には気づいていなかった。




