四
自分はいつまでこうしているつもりなんだと思い至るには、結局のところ少し時間が必要だった。
再度腰を下ろし、ひざを立てて座りこむ。右足を無気力に前に放り出した。背中の後ろに両腕を持ってきて、畳に手の平を付け上体を支えた。
その姿勢のまま部屋の中に視線を泳がせていると、この狭くてひなびた空間が、あたかも新たな姿に再構築されていくかのようにして、目の前に立ち現れてくる。
使い古してケバだった畳や相当にくたびれた感じのあるふすまや、そしてすすけたような色をして無数の細かい傷が見えている柱など。そのどれもが、長いとし月の経過を匂わせてくるものばかりだったが、同時にそれらは、誰かがこの場所で、確かな生活を営んでいたという証拠にもなりうるような気がしてきた。
今でこそ、まるで化石であるかのように変貌してしまったとはいえ、それらは最も過去において、つまり始まりの時においては、真新しくピカピカとした住居であったに違いない。
初めての居住人は、はたして誰であったのだろうか。そう考えたときに思い起こされるのは、まさしく清新の気分というものに他ならなかった。
この部屋から輝かしい新生活を始めようとする一家が居たのかもしれなかったし、あるいは地方から都市へとやって来た一人者が住んでいたのかもしれなかった。または、このアパートが会社の寮として使用されており、社会人の初歩を踏み始めた若者が入居していたかもしれない。いずれにしろ、その時この部屋に居た者が見た風景というのは、今ここで俺が体感している部屋の様子とは、相当に異なったものであったろうことはかたくない。
時間は止まることがない。俺自身は今日見てしまったし、既に何事かを感じてしまっている。それらはいつか忘却の彼方へと霞み消えていくのかもしれないが、だからと言って軽くあしらえる気にはなれなかった。今はまだ、明らかにそのときではなかった。俺はもう一度、天井裏を確かめてみなければならなかった。ため息を吐きたくなってくるが、そういうことなんだ。
なんとか自分を納得させた俺は静かに腰を上げていた。自身の体の重みを強く感じながらだった。そして、ちょうどその時だった。外の世界の遠くから、救急車のサイレン音が唐突に鳴り響いてきた。嫌なタイミングだとは思いつつも、俺はそれに耳を傾けた。
子供の頃は無邪気に救急車の車体を眺めていた気がする。しかし大人になってからその音というのは、決して歓迎されえないものへと変貌していった。くだらない理由で救急車を呼び付ける不届きな連中もいるらしいが、たいていの場合は、喫緊の症状によって運ばれていく者達であるはずだ。俺は何かを思い起こそうとしていた。
サイレンの響きは徐々に大きくなっていった後、いつからか音の質を変え、次第に薄れ、消えていった。
立ち上がったまま、しばらくは意識を傾けていたが、サイレン音が止むとテーブルに手を伸ばし、上に置いておいた懐中電灯を手につかんだ。
さきほど天井裏を覗いたときには、人ではないと思った。だが、人であるのかもしれない。断言はできなかった。相手の姿を目視したわけではなかったし、実際に何か物音を聞いたわけでもない。自分の動揺が引き起こした幻覚の類いという可能性は十分にある。気にしすぎなのかもしれない。だがそうは言っても、やはり現実にこの場所で暮らしている以上は、確認をしなければならなかった。不審者が屋根裏に潜んでいるなどとなれば、これは実際的な意味において問題になる。
俺は再びふすまの前まで行くと、手にしていた懐中電灯のスイッチを入れた。やはり確認はしなければならないのだ。
ふすまに懐中電灯の光が当たって、明るい球体がぼおっと浮かんでいる。まるで朧月のようだ。懐中電灯を左手に持ちかえると、意を決して、ふすまを開いた。
薄暗い押し入れの中に部屋の光が差し込んだ。暗闇が、開け放たれた部分ではゆるやかに退き、そして懐中電灯の光が照射された部分では飛び散るようにして四方へ去っていった。と、俺にはそう思えた。ふいに開かれ静まり返っている狭い押し入れには、それ以外に何も異変はなかった。普段から使っているふとんが上段の右側に置いてある。そして小さな収納ケースと、雑多にしまい込んである物達が下段に置かれているだけだった。
俺は多少緊張しつつも、用心しながら、きょろきょろと押し入れの中に探りを入れてみた。懐中電灯の丸い光りがそれに合わせてゆっくりと移動し、押し入れの端までくると、暗がりのすき間をポンポンと跳ねるようにしながら左右を照らしている。
ねっちりとその作業を繰り返してみた。押し入れの中は先ほどふすまを開いた時と変わらないままの姿だった。ここまでは問題が無かった。だが、当然ながらまだ安心をすることはできなかった。ここからが本番ということになる。それまでなるべく見ないようにしていたが、ゆっくりと天井に視線を移してみた。
四角い穴がある。この天井への入口というのは、しかるべき用途のために、すえ付けられているはずだった。それを別の理由で、例えば悪用しようなどというならば、それはけしからぬ行為と言わざるをえないだろう。断じて許せんことだ。と、そんな考えを頭に反芻させていた。
俺は自分自身を鼓舞していたのかもしれない。ことさら常識論を持ち出して、乱れた心を落ち着かせようとするというのはよくあることだ。臨機応変に果敢な判断を要する場合においては、そういったやり方というのは優柔不断の謗りを受けるに値するような、必ずしも良い結果を生み出す行為ではないのかもしれない。しかし、この時の俺に限って言えば、これは間違いなかったのだと断言できる。今の事態がいたずらだとか真実だとかの判断を通過していく前の段階においては、何らかの気持ちの指針を俺自身が定めておかなければ、とうていその困難に立ち向かうことなどできなかった。これはこのとき、追いつめられた状態に立つ俺の全てだった。
俺は物音を立てないようにして、慎重に押し入れの台に足をかけた。何か起きたらすぐに後ろに跳びのけられるようにして、なるべく態勢に余裕を持たせながら押し入れの上段に上がった。上段で膝を曲げ、しゃがんだ姿勢のまま耳をそばだてた。コチ、コチ、という時計の針の音が、なぜか耳元のそばで聞こえるような気がした。他にはなにも音がしなかった。まるで無限が集約しているかのような一瞬の中で、時計の針が時を刻み続けていた。