三
俺は一つ息を吐いてから、じっと腕を組んだ。ふすまのほうに聞き耳を立てつつ、しばらくそうやって動かずにいたのだが、押し入れの中で何かが起こるような気配はなかった。俺は色褪せたふすまの表面を睨みつけながら、思いがけず低い声で唸っていた。
紙には確かに埋めると書いてあった。しかし、気が変わったという可能性があるし、また一度は試してみたものの、何らかの理由により、別の手段をとらざるをえなくなったということもありうる。一つの考えに固執しすぎて他の選択肢が見えなくなったのでは、もともこもなくなってしまう。
俺は疑念の渦の中に放り込まれたまま、口の中でじっくりとりんごの風味を噛みしめていた。
ふと、おそらくは血走った目で、部屋の中をすばやく見渡してみたが、別段、異常のようなものが起こっているようには感じられなかった。そこには、古びた室内の景色と、わずかに置かれた自分の家財道具とがあるだけだった。
どこか違う場所、例えば空き地や川岸であるとか、あるいは林の中であるとかに埋められているとは考えられなかった。紙切れに書かれた内容のうち、残り二日目に突如として現れた壺。そして、ただ日付けだけが記されていた最後の一日。それらは、のちにこの部屋に住むことになる者に対して、何か行動の足枷をはめるかのような書き方に思われるのだった。たとえ、俺がこの部屋に住み始める以前に誰かが間に入り、あの紙の内容を見ていたのだったとしても、俺にとって、それはもはやどうでもよいことになっていた。
紙は依然、畳の下に隠されていた。それは要するに……。俺が見つけることのできる場所にあるということなのだ。
考え込みながらも、再び俺は、横目で押し入れのふすまをちらとのぞき見た。くたびれた感じをしたふすまが、今にも開いてしまうのではないかという不安にかられた。おそらくそんなことは起こらないはずにもかかわらずだ。
どうも自分自身が、何かにとらわれてしまっているように感じた。今このひなびた部屋にいるのは俺一人だけだ。
手につかんだグラスを持ち上げジュースをわずかに口の中に含むと、唇に触れるグラスが奇妙に固くて冷たかった。ついさっき冷蔵庫から取り出したばかりのはずなのだが、ジュースのほうはもう生ぬるくなっていた。
まだ見つけていない。何者であるかは知らないが、この段階で、そうそう、うかつには手を出してこないはずだ。特に根拠も無いままに、そう思っていた。
しかしそれと同時に、自分が既に蜘蛛の巣にでも引っ掛かってしまったかのような感触もある。まるで自分の能力外にある存在によって体を組みふせられでもしたかのような、無性に不愉快さを生じさせる感覚だった。
あの紙切れを見つけてからというもの、俺の意識をとりまく世界が一変してしまった。これといったものもない取るに足りぬ存在の俺だが、現実にやらなければならないことというのは数多くかかえている。それらは実生活の中において、一つ一つ着実に解決する必要性のある事柄だ。だというのに、今俺の頭に浮かんでくることときたら、現実ばなれをした明らかな妄想のたぐいばかりときている。これはいったい、どうしたということなのか。俺は自分の内側に、何か意味不明な怒りがふつふつと沸くのを感じていた。知らずのうちに、手には力が入っている。こわばった手を下にふり降ろすと、握っていたグラスの底がテーブルの表面に当たり、ごとりという大きな音を立てた。テレビの横に置いてある時計を見てみれば、時刻は既に午後八時過ぎを示していた。作業を始めた頃はまだ外に明るさが残っていた。しかし今はすっかり暗くなっているはずだ。窓に吊されたカーテンの色合いを視界におさめながら、俺はぼんやりとそう考えていた。
こうしていつまでも座視してはいられなかった。事態を打開するにはどうしても前に進む必要がある。俺は特に意味もなく立ち上がり、たいして広くもない部屋を行ったり来たりした。そしてとりとめもなく考えていた。
もし紙切れに記された内容が全て真実とするならば、Wという人間は既に死んでいることになる。そして一方でこの俺はといえば、自分自身を世界につなぎとめておく何かを痛切に欲していた。先の見えない暗がりの中を歩くなどは、はっきり言ってごめんだった。だが、そのうえでこう考えたのだ。
では、その世界とは、いったいなんだ?
俺は自ら進んで森の深部へと踏み込んでいくような錯覚にとらわれていた。うろうろと畳を踏みしめながら何度もふすまを眺めてみたが、その先からはなんの気配も感じられない。