8話「昼時」
昼休みが近付くにつれ、清水彩は己の心が浮足立っていくのを感じていた。四時間目の数学、いつもはあまり悩まずとも解けるはずの問題がなかなか頭に入らず、ペンを持つ手は止まりがちだった。わからないわけではない、別のことで頭がいっぱいになっていて、考えることができないのだ。
今朝、偶然に早く登校してきた彩は、偶然に想い人である西東真夏と出会うことができた。彼は今、人を捜していて、そのために情報を集めているらしいことを知った。そこまではいい。だが、その捜している相手というのが女性であることを知って、平静を装うのが精一杯なほどに動揺した。
どういう目的があって、なんのために。どんな心境で。なぜその女性を捜しているのか。なにも知らない彩は、妙な焦燥感だけを残して去ろうとする彼を、つい引き留めてしまったのだ。なにか困っている様子であったので、協力したいという気持ちも、もちろんある。だがそれ以上に、その事情が気になってしまうのだ。
きっと彼には、彩がただの善意で、積極的に協力してくれるのだと思っただろう。しかしそれは半分は間違いなのだ。彩は自分の欲で、かすかな嫉妬からきた好奇心という邪な欲で、強引に気を惹いたにすぎない。昼休みにもう一度会うと約束はしたものの、ともに食事を摂るのではなく、昼食のあとで待ち合わせをする――という形になったのは、これ以上の下心を出してしまえば、彩の邪さが露見してしまう。それを恐れてのことだった。
いや、厳密には、はっきりとそう約束したわけではない。昼にもう一度会う、それだけだ。口に出したときはもちろん、一緒に昼食を――と思ったが、不意に沸き上がった不安から思い留まったのだ。アプローチをかけるのは大切だが、押しすぎては引かれてしまうかもしれない。彼にきらわれるのは絶対に避けたいことなのだ。
せっかく。
そう、せっかく、出会えたのだ。
彩は東阪中学の出身だ。そして、西東真夏もまた、同じ中学の出で、彩が真夏の存在を知ったのも、中学のころが最初なのだ。きっかけは本当に些細なことだったと思う。彩自身、覚えているのが不思議なくらい、本当に些細なできごとだ。なので、彼が彩を覚えていないのも無理はない。名前もクラスも学年すらも知らないような、一個人のことなど、覚えていないのが当たり前だ。
ややつり目がちで、目の下の隈が濃く、よく見るとまつ毛が長い。前髪が長いため目元に影が落ちていて、それもあってか、少し目元に怖い印象を受ける。顔がよく見えないせいもあるだろう。あまりクラスの中心にいるようなタイプの人には見えない。慣れないうちは人見知りしてしまうのだとメールで話すうちに教えてくれた。他人への警戒心が強い面があるのだろう。
彩はもともとデコレーションを施したようなメールは作らないのだが、彼からのメッセージも淡々としていた。記号も絵文字も一切使わないため、一見すると冷たく感じられる。だがその文面からも、実際に会って話したときの表情や態度からも、隠しきれていないやさしさがにじみ出ていると、彩は感じていた。
ずっと好きだった。中学一年生のころから、ずっと、ずっと、彼が卒業したあとも。なぜそこまで彼に執着するのか自分でもわからないが、長い間ひっそりと彼を想っていた。連絡先も知らない、進学先も知らない相手を。彼のいなくなった中学で一年間、あきらめようと、もう忘れようと、彼のことを考えないように日々を過ごしていたのに。この東阪で。親友と離れたくないという理由で進学した、この高校で、あろうことか再び彼の姿を見つけてしまったのだ。
あの胸の高鳴りを、彩はこの先も忘れないだろう。まさか同じ高校にいたとは夢にも思わなかった。そして、いてもたってもいられなくなり、後先のことなど考えず、呼び止めて、気持ちを伝えてしまったのだ。もちろん、うまくいくとは思っていなかった。彼とどうなりたいなど、そんなことも期待していなかった。だから今のこの関係は奇跡としか言いようがない。
かつては話しかけることすらできないで、ただ遠くで見ているだけだった彼と、今、当然のように話ができる。名前を呼んでもらえる。あの声を、あの目を、自分のために向けてもらえる。それだけで望外の喜びなのだ。会話ができた。想いを伝えられた。友達になることを承諾してもらえたばかりか、彼を好きでいることを、それを前提で接することを許してもらえた。
それだけで天にも昇る思いだったはずなのに、人間とはやはり欲深い生き物だ。彩の心にも次の欲が現れた。知りたい。彼のことをもっとよく知りたい。私のことも知ってほしい。もっといろいろな話がしたい。もっと仲良くなって、いつか恋人にしてもらいたい。もっと彼と一緒にいたい。もっと、もっと――と、求めるに連れて、そんなあさましい心を彼に知られたくないと、臆病にもなった。
ああ、どうか、どうか私をきらいにならないで。
授業終了のチャイムが鳴り、周囲の生徒たちは次々と席をたつ。食堂へ行く者、仲間のもとへ向かう者、たちまちあたりは賑やかになり、少しの間ぼんやりしていた彩も自分の弁当を出した。親友でもある幼馴染のもとへ向かおうと立ち上がろうとしたとき、教室の扉の前で遠慮がちになかを覗き込む人影に気付いた。
――西東真夏。
どき、と鼓動が昂ぶった。彩がその姿に釘付けになっていると、すぐに彼もこちらに気付いて手を振る。あわてて駆け寄り、彩はなぜか声をひそめて、そのおどろきを言葉にする。
「せ、先輩、どうしてここに」
彩の抱いた当然の疑問に、彼は一瞬、きょとんとした。
「え、だって、昼に会うって言っ――」
そこまで言って、彼ははっと青ざめる。
「……あっ!? うわ、えっ、あ、うそ、俺もしかして今めちゃくちゃ恥ずかしい? 昼に会うって言ってたからてっきり、一緒に食べるってことかと。うわあー、やってしまったかこれ」
真夏は頭を抱えてずるずるとうずくまる。彩も咄嗟にしゃがもうとする。近い。曲げかかった膝を再び伸ばし、今度は彼を立たせようと手を伸ばす。触れる? どこに? 背中? 肩? そもそも気安く触れていいのだろうか? あわあわと手を出したり引っ込めたりしたのち、彼の腕に触れるか触れないかの位置に手を添えた。
「せ、先輩、あの、いえ、そうじゃなくて、ただ、びっくりしたというか。中庭のほうで待ち合わせだったので、まさか迎えに来てくださるとは思っていなくて」
「本当に? ま、も、……ああー、俺、とんだ勘違い野郎じゃない?」
「大丈夫ですよ、そんなことないですって。え、えっと、とりあえず行きましょう! お昼休み終わっちゃいますよ」
「はぁ……うん、よし、行こう」
ぱっと唐突に真夏が立ち上がる。軽く屈んでいた彩の指先に彼の肩がかすった。立ち上がったときの風を感じられるほどの距離にいたことに改めて気付き身を退く。最近は男性用の香水なども増えたと聞くが、彼からはなんのにおいもしない。彩のクラスには香水やワックスを使っている男子が何人かいるが、彩はどちらもあまり好ましく思えずにいたので、彼の無臭に少しほっとした。
「先輩は……ワックスとか、男性用の香水とか、どう思います?」
移動中の無言を機に尋ねてみると、彼はわずかに上を見上げて、うーんとうなった。
「ワックス? それで似合ってるならいいんじゃない? 俺は自分から好き好んで使ったりはしないなあ。べたべたしてるのってきらいだし。においもするし。使い方もいまいちわからないし。女子ってやっぱ、ああいうきっちりセットしてる髪のほうがいいの?」
「え……っと、私はあまり。でも、私の友達には、使ってるほうがいいって言う子もいます」
「まあ、そこは好みによりけり、って感じよな。香水、香水は……うん、女子でも男子でも、自分に合った香りを適度にまとうなら、良いものなんだと思うよ。俺は使わないけど。香水って高いし。彩ちゃんは使ってるの?」
「一応、持ってはいるんですけど。友達が新しい香水がほしいって言うので、ついでに私も買ってみて……でも、まだほとんど使ってないです。香りは好きなんですけど」
「それはそれでもったいないような……ああ、そうか。俺はあれだな、香水が苦手というより、香水をつけてる女子にいい思い出がないから苦手意識があるだけかもしれない。お店でサンプルを嗅いで、これいいねーとかやって選んでるのはたのしいし」
「珍しいですね、男の人でそういう……それって女の子の香水の、ですよね? えっと、お姉さんとか、妹さんとか、いらっしゃるんですか?」
「千秋――同じグループの友達がさ、最近よく使うようになってきて。気に入った香りを集めるのがたのしいらしく、俺もそれに付き合って一緒にね。休みの日とか放課後に……ほら、三月ごろに駅前にできた店、あそこによく」
「行くん、ですか? その人と……二人で?」
彼のグループに女子生徒が二人いることは知っている。今、話に出たその人がどちらのことなのかはわからないが、二人きりでショッピング、とはつまり、それはデートなのではないか。仮に、真夏にその気がなかったとしても、相手がそのつもりであったら? 彩の心配はしかし、杞憂に終わった。
「うん。実はその子、付き合ってる彼氏がいるんだけど、香水とかが……全部が全部ってわけじゃないけど、どちらかというと苦手なタイプでさ。でも彼女のほうは、たまには香水つけてオシャレもしたい。だから、そいつが拒絶反応を起こさない香りを一緒に選んでほしいと。もう最初から彼氏に一緒に選んでもらえって話だよね。たのしいからいいけど」
「あ、ああ……次のデートにつけていく、新しい香水を――とか、そういう」
「そうそう。店員さんに『彼氏さんもいかがですか』とか言われたときの気まずさったらないよ。姉妹だったなら、まだいいんだけど。あいにく姉も妹もおりません。兄はいるけどね、おかげで男ばっかりです西東家は」
真相を聞いて、悟られないよう安堵する。
「ご兄弟がいるんですね。私は一人っ子なので、兄弟ってちょっとうらやましいです。私も、お兄ちゃんか妹がほしかったなあ」
「一人っ子はみんなそう言うけどね、いたらいたで邪魔なだけよ。姉妹はどうか知らないけど男の兄弟は特に。うちは喧嘩とかしないけど、かといって仲がいいわけでもなし。下は肩身が狭いのなんの」
「先輩は末っ子なんですか?」
「そう末の子、つまり一番下の子、それすなわち家族内のカースト最底辺。いいように使われるばかりの人生。ただ救いとして、それぞれ自分の部屋はあるし、兄上様はバイトと大学と遊びで忙しくて帰りが遅いから、一日のうちに顔を合わせる機会もそんなにないんだけどね」
「そ、そんなに怖い人なんですか? 先輩のお兄さん」
「怖くはないけど、ガラは悪いよ。もし家族じゃなかったら、絶対に関わらないようにするかな。……っと、うちのお兄様の話はどうでもいいんだよ。至極どうでもいい。シャーペンのうしろについてる消しゴムの話をしているほうがよっぽど有意義なくらいどうでもいい」
話しているうちに食堂に到着するが、やはり混雑していて騒がしい。食事はともかく、話をするにはあまり向かない場所だ。もう少し静かなところにしましょうか、と入口で引き返した。真夏も頷いてあたりを見回しながら再び歩く。結局、中庭のベンチが空いていたので、そこに座った。膝の上に弁当を広げ、そろって手を合わせる。彩は箸を手に持ったまま、隣の真夏の様子をうかがった。彼が一番に箸を伸ばしたのは卵焼きだ。今日はいつもよりきれいに焼けている。
「おいしい」
「あ、ありがとうございます」
三切れあったうちのひとつを咀嚼し、白ご飯をひとくち。おかずとのバランスを取りながら、几帳面に食べ進めていく。それを横目に彩も自分の弁当を食べ始めた。味付けにおかしな部分はないと思う。彼はなにが好きで、なにが苦手なのだろう。今日のおかずのなかに、きらいなものは入っていなかったかしら。そのあたりも、いずれ聞いておくべきだ。
食事とは生きるために必要不可欠な栄養補給の手段ではあるが、それと同時に、舌で、鼻で、目でたのしむもの。食事の場で、食事をたのしむ。その際、人はいつもより無防備になると思う。箸の使い方、食べ物の扱い、食べる順番やペース、周囲への気遣い――会話のうちから判断しづらい、その人の性格が出やすい場だ。
箸の運び、食べ方はていねいだ。口に含む間は無言を貫くため、食べ始めてからは各段に口数が減った。ひとくちが大きいためか、食べるペースはやや速いが、定期的に彩の手元を見てペースを合わせている気がする。箸と弁当箱がぶつかるのはどうあっても避けられないが、それによって立つ音は非常に静かだ。
ただひとつ、箸の持ち方が微妙に間違っているのがおしい。だが、この程度なら矯正は容易いはず。むしろ、きれいに食べているのにそこだけひとつ間違っている、というところが、なんだかかわいらしく思えてしまった。惚れた弱みというものだろうか。
卵焼きを二切れ残しておいて、最後にそれを食べたのを見て、自覚があるのかないのかはともかく、この人はきっと卵焼きが好きなのだと気付いた。一切れではあまりにさびしい。二切れは入れておきたい、いや、もう少し多いほうがいいかもしれない。そう思っての三切れだったのだが、ある意味正解だったようだ。
「ごちそうさまです」
「お、おそまつさまです」
結局、食べ終えたのはほとんど同時だった。米粒ひとつに至るまできれいに残さず平らげ、真夏は空の弁当箱を包みなおす。洗って返すと彼は言ったが、せっかく一緒にいるのだから、ついでに持って帰ると言って、彩は彼の弁当箱を預かった。真夏は今朝に買ったらしいペットボトルの水を飲んで喉を潤す。
「はあ、さて、本題だね。……なんか急に恥ずかしくなってきたなあ」
「似顔絵、でしたよね。先輩が描いたんですか?」
「まあ、うん、写真を参考に――っていっても、ちょっと……見づらい写り方というか。だから、絵も完璧に正確かと言われると頷けない。でも、雰囲気は再現できてるはず。これなんだけど」
ポケットから二つ折りの紙を取り出す。ノートのページを半分に割いたような大きさだ。というより、実際にそうして用意した紙だろう。描かれていたのは今朝も聞いたとおり、髪を耳よりわずかに高いような位置で結った少女だった。目はやや吊り上がっているがぱっちりしている。どちらかというとおとなしそうな雰囲気だ。かわいい、というよりはきれい、可憐、儚げ、といった表現のほうが近い。
「どう? 知り合いとか、中学のクラスメイトとか、こういう感じの子いなかった?」
「うーん……誰、というふうには思い当たらない、です」
「仮に知っていたとしても、髪型を変えた説も消えてはいないからなあ」
「他になにか、ないですか?」
「他……推測にすぎないけど、最近は学校を休みがちなはず。少なくとも、ここ一ヶ月ほどはね。無断欠席なのか、あれこれ理由をつけて休んでいるのかは知らないけど」
「わかりました。北校の友達にも聞いてみます」
「ありがとう、助かるよ」
「その人が見つかったら――どうするんですか? なんのために、こうして?」
「どう、って……ああ、あまり深く考えてなかった。うーん、とりあえず……話したいことがある、ってところかな。どこの誰なのかをまず知りたい」
質問に答えてはくれるものの、いまいち会話がかみ合わない。言葉の意味が伝わらない。聞きたいのはそんなことではないのだ。依然として、彼がその少女を捜す理由がわからない。どうして、名前も知らない女の子を? 自分のものではない写真だけが手がかりだと言っていたが、なぜ、そうまでしてその子を捜し出したいのだろう。
なにか個人的な興味が? どうして、その子を知りたいの?
二人の会話が妙にすれ違っているのは、彼がそうしているからなのでは? この行動の真意を悟られまいと、深くは探らせまいと、なにかを隠して。
もし、そうだとしたら。私は。
私は、どうすれば。
「あの」
彩が口を開いたとき、真夏が急にポケットを押さえたかと思うと、携帯電話を取り出した。マナーモードにしているのか、低く震えているばかりで、音楽などは鳴らない。
「ごめん、電話だ」
「あ、どうぞ、お気になさらず」
真夏はベンチを立ち、彩から三歩、四歩ほど離れたところで通話ボタンを押した。周囲に人がいないため、話し声はここまで聞こえる。
「マキ? 俺。……ああ、うん。うん、そう。え? いや、そうじゃないけど、ああ、ああ」
まき――真希、真紀、マキ? 彼の口からまた女の名前が出たので、どきりとした。いや、彼なら女子の友達くらい、何人かいて当然だ。あまり男女の分け隔てない付き合いをしているのは、普段から一緒にいる人々を見ればわかる。なにもおかしなことはない。彩が心配することも、不安に思うことも、きっとない。
「……そうか。知らないか。ああ、いや、いいんだ。いきなり悪いな。ありがとう」
電話を切った真夏がベンチに戻ってくる。通話相手のことを尋ねたい気持ちはあったが、今、似顔絵の少女のことを尋ねたばかりだ。それだけではない。その前に既に、香水を一緒に選んだという女友達のことを探っている。彼の交友関係について、とくに女性の知り合いのことについてばかり、立て続けに問い詰めるのは、あまりにはしたない。
今の彩は彼にとって、ただの後輩でしかないのだ。ひとつ下の友達だ。いや、友達と思ってくれているのかすら不明である。まだその程度の間柄でしかない彩が、出過ぎた真似をするわけにもいかないだろう。独占欲が強くて嫉妬深い、めんどうな女だと思われてしまう。
「そういえば」
真夏が思い出したようにそう切り出した。
「前に、俺が昼はいつもコンビニ弁当とかばかりだって聞いたって言ってたけど、誰に聞いたの?」
「あ、えと、それは私の友達が」
「友達?」
「はい。部活の先輩から聞いたと――たぶん、聞き出した、のほうが正しいと思いますけど」
「部活の先輩……ははあ、さては夏目だな。俺のまわりで部活やってるのはあいつだけだし」
「たしか、田中先輩――と言ってた、ような気がします」
下の名前まではわからない。
「なら夏目だ。あれは警戒心が足りてないな。友人の情報をいとも簡単に抜き取られるとは」
「す、すみません。勝手に、裏でこそこそと……これじゃ、なんか、ストーカーみたいですよね」
「いやいや、知られて困るようなことじゃないし、全然いいんだけどね。ちょっと気になっただけだよ」
「そう、ですか?」
「それより、時間は大丈夫? 次の五時間目、体育じゃないの?」
「はい。……あれ、えっ、どうしてそれを?」
「さっき教室で見たから。あんまり引き留めてちゃ悪いし、そろそろ戻ろうか。ありがとうね、変な話に付き合ってくれて」
「あ、いえ、こちらこそ、お役に立てず……」
それじゃあ、と別れて西館のほうへ歩いていく真夏。少しずつ遠ざかっていくその背中を見つめながら、彩は言い様のないさびしさを感じていた。明日か、運が良ければ今日の放課後にでも、会おうとすればまた会える。それでも、別れが惜しい。
彼の人捜しに協力したいと言って、似顔絵まで持ってきてもらったのは、その事情が気になったからだというのはもちろんだが、その根底にある気持ちはまた少し違う。彼に会いたい、そして話がしたい、一秒でも長く、一度でも多く、そのキッカケがほしかっただけにすぎない。ずるい女だと自分でも思う。そうしてだましたような真似をしてまで、こうして会うことができたのに、結局なにも進展がない。なにも。
それは、あのころとなにが違うのだろう。ただ見ているだけだった。話しかけるキッカケがなかった。そうしてなにも出来ず、結果的に再会できたからよかったものの、中学時代は本当になにもしなかった。これでは、あのころと同じなのではなかろうか。
「せ――先輩!」
彩の呼びかけに真夏は振り返る。そうやって呼び止める権利が、話しかける権利が今の彩にはあるのだ。彼はもう彩の気持ちを知っている。認知している。そのうえで一緒にいてくれるのだ。
「あの……香水、私にも選んでもらえませんか。先輩がいいと思う、先輩が好きな香りを」
見てるだけ、うらやむだけ。そんなあのころと同じにならないように。そうならないために、この縁をつないだのだ。もとより、この縁はそういうものなのだから。
もう少し、踏み出したとて、バチはあたらないはずだ。