7話「会話」
「俺が調べておきたかったことっていうのは、撮影者の姿が写りこんでいる写真がまぎれていないか、という点についてだ」
翌朝、朝食の後片付けを終えた山吹に、真夏はそう切り出した。昨夜、すべての写真に目を通した真夏は、気になっていたという事柄についてはなにも言わず、ただ消灯を促したのだ。
「撮影者が写る?」
「いろんな時間、いろんな場所での写真がたくさん。母数が多ければそのぶん確率は上がる。カーブミラーとかショーウィンドウとか、そういうのに写真を撮っている本人の姿が写っているかもしれないだろう? ただ……撮影者本人もそこに気を付けて撮っている可能性が高い。だから、あまり期待できないって言ったんだ」
「それで……どうだったんだ? やっぱり、だめだったか」
「いや、一枚だけな。俺の期待通りだった」
「じゃあ、なんで昨日はなにも言わなかったんだ?」
「おいおい、俺はお前に休んでほしいんだって言っただろ? お前、寝る前にこんなこと聞いて、それでちゃんと寝れるのかよ。犯人の容姿がわかったと知ったら、目が冴えて眠れないとか言い出すんじゃないのか?」
「言われてみると……たしかに、そうだな。お前は眠れたのか? 何度もごそごそ寝返りを打っていただろう」
「さてなあ。元来の睡眠障害か、神経が昂ぶっていたせいなのかは、判断しかねる」
真夏はもともと寝つきが悪く、また、眠りも浅い。布団に入ってから何時間も寝つけず、せっかく寝ついたとしてもちょっとした物音ですぐに目が覚めるので、あまりぐっすり眠れたことがない。目の下の隈はそうした夜を送っているうちに、いつの間にかこさえたものだ。
「それで、その……どういうやつだった?」
「簡潔に特徴を挙げると、髪の長い女。北桐の制服だろうな、あれは」
「……顔は写っていたか?」
「ああ。とはいえ、そこまで大きく写っているわけじゃない。だから本人も気付かなかったんだろう。ただ、セーラー服に校章が入っているのであろうピンバッジらしい物がついているのはわかった。あとはネクタイの色だな。このあたりで緑のネクタイは北だけだ」
「よくそれが北桐の制服だってわかったな」
「知り合いがいるんだよ、北校には。だからあそこの制服がどんななのか知ってた」
「なるほど。なんか今のお前、探偵みたいだな。刑事とか探偵とか、意外とそういうのに向いてるんじゃないか?」
「なに言ってる。俺に接客業はだめだ」
「別に接客業ではないだろ。……で、その先はどうやって調べるんだ? 写真には顔が写っているとはいえ、それを持ってあちこち聞いてまわるのか?」
「いや、あまりおおごとにしたくないんだろ? 写真は持って行かないさ。ちょっと待ってろ」
真夏は一度、山吹の部屋に戻ると、写真の入った箱からひとつの封筒を取り出し、山吹のもとへ戻った。一枚の写真と、ノートのページを半分に割いたサイズの紙を渡す。
「どうだ。これが例の写真だ。ここに薄ピンクの携帯を持ったツインテールの女が写ってる。で、こっちが、それを見て描いた似顔絵。細かい部分は脳内補完してるところもあるけど、それにしたって上出来だろ?」
写真と似顔絵を二度ほど見比べた山吹が、おお、を小さく歓声をあげた。
「たしかに……これなら似た人を知っている相手には伝わるはずだ。こんなのいつ描いたんだよ」
「お前が起きる前に。とりあえず、まずは北校の知り合いから当たってみるけど、相手の学年もなにもわからないからな。あんまり期待はしないでくれ」
「ああ、俺も、調べられそうなことは調べてみる」
山吹の家を出て一度、自宅に帰った真夏は、服を着替えてカバンを取り、そのまま学校へ向かった。いつもより三十分ほど早い時間なので、蒼も千秋もまだ来ていない。窓を開けて換気しながら、メールを作成する。例の似顔絵を写真に撮り、その画像を添付し、本文を打つ。しばらく文面に悩みはしたものの、五分ほどで送信完了に至った。
他になにか打っておく手はないか、自分にできることはあとどれほどのことか。そうだ、蒼の相談のことも放っておけない。それについても対策を考えなくては。しかし。
ああ。しかし、だ。気をつけなくては。この体はおそらく、自分で思っている以上に頼りないのだから。そもそも、頭だってそう丈夫ではない。こう一度にあれこれと考えて、あれこれ動き回っていては、すぐに疲れてしまうだろう。身体が、ではなく、精神が。
今は少し、眠い。
*
扉の音で目が覚めた。いつの間にか机に伏したまま寝ていたようだ。顔を上げると、蒼と千秋が登校してきたところだった。腕を伸ばして伸びをする。時計を見ると、どうやらニ十分ほど眠っていたらしい。ほんの少しの仮眠ではあったが、先ほどまでよりすっきりした気分だ。
「真夏、おはよう」
「おはよう。あー、帰って寝たい」
「もう、起きたばっかりでしょ?」
「起きたばっかりだからだよ。眠い眠い、はあ、お茶持ってくるの忘れたし、今日はもうだめだ」
「買っておいでよ。水分補給は大事だよ。暑くなるたびに熱中症にかかっては保健室送りになる真夏にとって、飲み物がないのは死活問題でしょ」
「まだその季節には早いんじゃないか。五月だぜ? 六月下旬以降ならまだしも」
「そういう、まだ飲まなくていい、まだ平気、っていう思い込みが熱中症や脱水症状の原因になるんだよ、きっと。それに、よく言うでしょ? 喉がかわいたって思ってからなにか飲むんじゃ遅いって」
「脱水症状と熱中症と日射病ってどう違うわけ? あと、熱射病とかも」
蒼が唐突に口をはさむ。千秋が答えに詰まったので、真夏がその問いに答えた。
「熱中症の症状のひとつに脱水症状があって、脱水症状に陥る原因のひとつとして熱中症が挙げられる、というところだな。だから、熱中症にかかって脱水症状を引き起こすことはあるけど、脱水症状を起こしているからといって熱中症が原因とは限らない。熱中症とは長時間、高温多湿の環境下に身をおいたことで起こる体調不良の総称だ。日射病も熱射病も、熱中症に含まれる」
「じゃあ、その日射病と熱射病の違いって?」
「日射病は直射日光を浴び続けることで起こる熱中症のことで、発症の原因からついた名前だ。熱射病は……そうだな。熱中症は、軽度なものから重度なものにかけて、一度、二度、三度の三段階に分けられる。今どれくらいヤバイのかっていう目安みたいなものだな。熱射病は、そのなかで最も重症の三度に分類されて、つまり、今すぐ救急車を呼んで入院しないとまずいくらい重度の熱中症のことさ」
「真夏がいつもかかっているのはどれ?」
「いつも、っていうほど頻繁じゃないだろ……なったことがあるのは一度までのはずだ。素人の応急処置でなんとかなるのは軽度である一度のうちだけなんだ。症状はめまい、発汗、立ちくらみとかだな。症状が進んで二度の状態になると、頭痛や意識障害が起きて、その時点で救急車を呼ばないと危ない」
「お前、ほんとよくわからんことは知ってるよな。そんなん知ってて使い道あんの?」
「使い道ならたった今、あっただろ? それに、これに関しては知っておいて損はないし、むしろ知っておいたほうがいい情報だ。自分が、あるいは他の誰かがそうなったとき、状態をみて今どれくらい重症なのかがわからないと、正しく対処できないだろ。というかな、そうやってあーあー、またあいつ熱中症でぶっ倒れてやがるぜ――とか言って油断してると、お前もうっかり発症するかもよ。それくらい身近なものだ」
「まあ、お前にとっちゃ身近も身近、風邪や花粉症よりよっぽど身近だろうけど」
「たしかに詳しく知っておくのは大事だけど、それで予防対策ができてないなら、あんまり意味ないと思うけどな、私」
「俺だってなりたくてなってるわけじゃない。できることなら今後一生なりたくない。苦しいのは嫌だからな。これでも気を付けてるつもりではあるんだよ。……そんじゃ、適当に飲み物買ってくるわ」
席を立って教室を出る。東阪高校は、二年生や三年生の教室がある西館、職員室や生徒玄関のある中館、一年生や空き教室などがある東館が、上空から見るとカタカナのコのような形に並んでおり、食堂は西館と東館の間、つまり中館の真後ろに広がる中庭にある。食堂の前には自動販売機が設置されていて、放課後には売り切れになっていることの多い水やお茶も、朝のこの時間だと安心してのんびり購入できる。
ペットボトルの水を一本、手に取って教室へ戻ろうと振り返る。中館から東館へ続く渡り廊下を誰かが歩いていた。それが清水彩であることに気が付くまでにそう時間はかからない。やけに早いな――とは思ったものの、真夏の気にするようなことではないと、気に留めず歩き出したとき、彩がこちらに気付いた。
「先輩、おはようございます」
「おはよう。早いね。いつもはもう少し遅めに来るんだと思ってたけど」
「あ、はい。今日はいつもより早いです。たまたま、早く目が覚めちゃって。先輩はいつも、これくらいの時間に来られるんでしたよね」
「うん、寝坊しない限りは。こうやって教室から出てるのは珍しいけど……まあ、飲み物を調達するには出ないとね」
「じゃあ本当に偶然――それも、滅多にないようなことだったんですね、今日ここでお会いできたのは」
「そうなるかなあ。いや、滅多にないと言うほど滅多にないことかはわからないけど、あんまりないのはたしかだと思う」
「……ふふ、それなら、早く来た甲斐がありました」
目を細めてうれしそうに笑う彩に、不意にどきりとする。おとなしいばかりの少女のような見た目をしているが、それに反して行動的というか、ときどき大胆なことを言う。これがいわゆる、恋心からのときめきであれば話は簡単だったのだが、別段そういうわけでもない。誰だって、彼女のような見目のいい少女に、このようなことを言われては緊張もするだろう。真夏とてそうだ。
だが今のは、意味合いとしてはそんな淡く甘いものではなく、感覚としても、ただおどろいただけに近いような気がする。ぎょっとしただけだ。調子を狂わされる、とはこういう心持ちを言うのだろうか。いや、それは少し違うか。よくわからない。
「先輩、どうかしましたか?」
「ああ、いや、なんか大胆なことを言うなあと思って」
「は、わ、あの、す、すいません。はしたない、ですよね」
真夏の言葉を聞いた途端に、彩は顔を赤くして照れる。照れるようなことを口にしていた自覚が湧いたらしい。
「そういうんじゃないけど。慣れないこと言われてびっくりしただけだから、気にしないで」
「は、はい。あ、そうだ。今のうちにお弁当、渡しておきますね」
「ありがとう。本当に、毎日じゃなくてもいいからね? めんどくさくなったらやめてもいいし」
ときどきならまだしも、毎日となればやはり大変だろう。真夏も去年、高校一年のころは自分で弁当を用意していた――といっても冷凍食品を詰めただけだ――が、それでも毎日ではなかったし、冬になり朝がつらくなっていくにつれてやめてしまった。そもそも、相手になにかしてもらってばかり、というのもしのびない。現状、それに見合う見返りを真夏は用意できていないのだ。
「いえ、好きでやってることなので……あ、や、その、好きというのはこの場合、料理のことで……」
「わ、わかってるって。……そうだ。彩ちゃん、北校に知り合いとかっている?」
「え、北校、ですか? はい、中学のときの友達とか、クラスメイトが何人かは」
「じゃあ、そのなかで……ああ、持ってきてないんだった。えっと、黒髪で、これくらいの髪の長さで、ツインテールにしてる女の子って知らない?」
例の盗撮少女のことだ。唯一の手がかりである似顔絵は教室にあるので、特徴などは言葉で説明するほかないのだが、こうして言ってみると個人を特定するにはあまりに大雑把だ。どこにでもありふれている。彩はやや困った顔で考え込む。
「えっと……私の友達にはいなかったはずですけど」
「……だろうな。珍しい髪型でもないし」
「あの、なんでそんなことを?」
「いやなに、個人的に調べ――捜している人がいるってだけだよ」
すんでのところで言いなおす。調べ事をしている、などと口にすれば余計な詮索が入る危険があるからだ。
「それって女の子……ですよね」
「男がツインテールにしてたら怖いよ」
「そ、そうですけど」
「実は名前も住所も連絡先もわからない相手なんだ。知っているのは顔と、北校の生徒で、薄ピンクの携帯を使ってるってことだけで、どこの誰かはわからない」
「どうして、そんな見ず知らずの人を?」
「え? あー、えー……なんというか、うーん。たいした理由はないんだけど。ただちょっと、その人に用があるというか。でも知らないならしょうがない。この話はもう――」
情報は得られそうにない、そろそろ話を切り上げて立ち去るべきだと判断するが、それを悟った彩が身を乗り出した。
「あっ、ま、待ってください。私、他校に行った友達とは最近あまり会っていなくて、今すぐ思い出せないだけかもしれないです。それに、もしかすると、中学のころと今とで髪型を変えた子がいる、かも、しれませんし」
「髪型を変え……ああ、そういうこともあるか」
そうだとすれば、大変にややこしいことになる。真夏にとって、女子などは五人いても髪型が同じなら全員同じに、同一人物でも髪型を変えてしまえば別人に見える生き物なのだから。人の顔を覚えるのが苦手な真夏にとって、髪型の変化というのはただそれだけでも個人の認識に支障が出てしまう。
「顔を知っている、というのは、その人の写真があるとか、そういうことですか?」
「うん、写真がある。というか写真しかない。でもそれは、俺が持ってるわけじゃなくて……代わりと言っちゃなんだけど、似顔絵ならある」
「似顔絵、ですか?」
「カバンに入れたままだから、今この場にはないけど」
今朝はそれを頼りに情報を集めるつもりで似顔絵を製作したが、これからそれを、あらゆる人に見せてまわるのだと考えると、急に嫌になってきた。少なくとも、こんなところでこんなふうに冷静になるべきではなかっただろう。真夏の憂いをよそに、彩は提案する。
「でしたら、またあとで……そうだ、お昼! お昼にでも会えませんか? 先輩のご迷惑でなければ、ですけど」
「迷惑ってことはないけど」
「なら、そのときに見せてください。髪型が違っても、顔の雰囲気とかで、もしかしたら思い当たる人がいるかもしれませんし」
妙に協力的だ。情報を得られる可能性が広がると考えれば、そのほうが都合はいいのだが。やはり詳しい事情を探りたいという好奇心があるのだろうか。
「そう? なんか悪いね、変に気を遣わせたみたいで」
「いえ、そんなこと……すみません、私のほうこそ」
「なんで彩ちゃんが謝るの?」
「な、なんでもないです。それじゃあ、お昼に」
失礼します、と彩は会話を切り上げて去っていく。彼女はたしか一年一組だと言っていた。ならば教室は東館の二階だ。真夏も去年は彼女と同じ一組だったので、忘れるはずもない。彩の存在、彩との関係には慣れたとは言い難く、まだ人見知りをしているが、さすがに会ったばかりのその日よりは自然に接することができるようになってきた。
だが、あのようなかわいらしい少女が真夏などに恋をしているなど、やはり信じられない。いや、疑っているわけではない。疑っているわけではないが、その気持ちを信じていいのかがわからないのだ。すんなりと、ああこの子は自分を好いているのだなと、受け入れるだけの寛容さがない。余裕がない、ともいうのだろうか。
先輩。
だが、そう。先輩と、真夏をそう呼ぶのは今のところ彼女だけなのだ。真夏が誰かの先輩になり、誰かが真夏の後輩である、という関係は、今までの人生にはなかった。ずっと、同じ学年の同じメンバーと閉鎖的に過ごすばかりで、他の学年の生徒と関わったことなど一度もなかったからだ。先輩と呼ばれるのも、後輩と意識するのも、真夏にとっては初めてのことである。
しかし、だからといって、彩が真夏に敬語を使う義務も、気を遣う必要もないのだし、真夏とて、たかだか一年早く生まれただけのポンコツなのだから、えらそうに先輩風を吹かすつもりもない。なにも気負うことなく、普通に他の友達と接するときのように楽にしてくれていいのだ。そうしないのは、彩が律儀な性格であるからなのだろう。
それでも、なんと言えばいいのだろうか。今までになかったことだから、というのも理由のうちではあるのだとは思うが。
先輩――と、そう呼ばれるのは不思議と、悪い気分ではなかった。