8 まだ、弾きも見ぬ
定信義市の母はその夜ハンカチを探していた。
「義一、どこへやったの、ハンカチ?」
明日のイチゴ狩りのために、早めに寝ようとしている義市に母が言った。
「ハンカチ?‥‥」義市が欲しいとねだって買ってもらったものだった。
「ないわよ。あなたが誕生日を間違えて書いたハンカチよ。どこかで落としたんじゃないの」
「4月1日を4月11日って書いたあれか? あれならポケットに入れといたよ」
義一が自信なさ気に布団から起きだしてきた。
「でも、無いから言ってるんでしょう。あんなに欲しがってたのに、大切にしないから」
母の声に今にも泣きそうな義一だった。
「まぁ‥‥明日探そう。無かったらお父さんが又買ってやるよ」
父の一声が助け舟になって、義一は泣く泣く布団の中にもぐりこんだ。
「子供には、本当に甘いんだから‥‥」
あきれたような母の声が義一の耳に響いていた。
(きっと美鈴の家で落としたのかも知れないな‥‥明日聞いてみよう。……それと、桂木さんから貰った金の折り鶴どうしたっけ? 上着のポケットに入れたままかな……)
起き出して上着のポケットを見れば無いのが分かったけど、すっかり睡魔に取り付かれていた義一は寝返りを一度うっただけで、気持ちよさそうに寝息を立てていた。
次の日、定信義市が約束のイチゴを買って美鈴の家のベルを鳴らした。
野良猫が桂木家のブロック塀から飛び出てきただけで、中からは返事がない。
病院にでも行っているのかと定信義市は思った。前にもそんなことがあったからだ。
仕方なく、その足で古室由加利の家に向かうことにした。
由香里の家は義市が歩いて十分ほどの距離にあった。
洋風の大きな建物で周りは高い塀に囲まれていた。赤い屋根がひときわ目についた。
入り口の門は鉄製で格子模様が施され黒く塗装されていた。その中には高級そうな車が二台止まっていた。
玄関口には色とりどりの花が散りばめられていて、鉄製の門の冷たさを少しは和らげていた。
コンクリートの門柱に呼び出しのボタンがあったのでそれを押した。
すぐに上品そうな声が聞こえた。
定信義市が名前を言うと飛び跳ねるように由香里が玄関から出てきた。
「イチゴ狩りに行ってきたから、イチゴを持ってきた」
相変わらずの愛想のなさだ。
「貰って言いの……有難う、うれしいわ」
そう言うと由香里はイチゴの入った箱を、胸の前で抱えてる定信義市の顔を突然、両手で挟んだ。
「冷たい!」
定信義市はその手の冷たさに驚いた。
「これで温かくなったから、ピアノの練習が出来るわ」
きょとんしている定信義市の前で、由香里の表情が和らいだ。
「桂木さんの家が留守だったんだけど、どこへ行ったか知っているか」
定信義市が聞いても由香里は首をふるばかりで何も知らなかった。
「私、今からピアノの練習するんだ。新しい奇麗な先生だよ」
義一は、少し前、若い奇麗な女性に由香里の家の道を聞かれたことを思い出した。
「そうだ! 紹介してあげる」
まさかこんな展開なるとは思わなかった。
由香里はイチゴの入った箱を持っている定信義市の服を引っ張った。
「イチゴを持ってきただけだから、いいって!」
由香里はそれでも強引に義一の服を引っ張った。新しい服を破かれたら母ちゃんに怒られるとばかり、仕方なく引かれるままついて行った。
隙があれば脱出しようという思いはバタリとしまった玄関のドアの音で儚くも崩れてしまった。
こうなれば仕方がない。
定信義市は由香里以外誰もいない広い玄関で大きな声で挨拶をした。
「おじゃまします。定信です」
今まで気がつかなかったから、ピアノの音は鳴っていなかったはずだ。
今、定信義市の耳は小さなピアノの音をとらえていた。
「こっちよ」
由香里が玄関を上がった左側にあるドアのノブに手をやった。
この部屋から聞こえているのか……そう定信義市は思った。
同時に、もしかしたらこのピアノを弾いているのは、あの道を聞かれた若い女性かもしれない。
何となく気になって、胸がドキドキした。
年上の女性に憧れる少年のトキメキ。
そんな時代は遠い彼方です。
読んでいただいてありがとうございました。