7 花、知るや
定信義市と古室由香里が帰った後、縁側で連絡帳を見ていた桂木美鈴の目が、廊下の隅に落ちているハンカチ見つけた。
春の日差しがゆるゆる差し込む縁側。
まだ冷たい風がカーテンの裾がヒラヒラとなびかせた。
美鈴の白い手がそれを拾い上げた。
ハンカチにはサダノブギイチ、4月11日とカタカナで名前と誕生日が書いてあった。
漫画のヒーローが悪人をやっつけている絵が描いてある、まだ真新しいハンカチだった。
桂木美鈴は定信義市のニィーと笑う顔を目に浮かべた。
定信義一くんが、このヒーローのように私の病気を退治してくれないだろうかとハンカチを前にそう願った。
「定信くん……いつも有難う。本当にやさしい人ね」
本当は本人を前で言いたかった。……でも言えなかったから、心につぶやいた。
定信義市の顔を思い浮かべて、そんな心の中には切なさが充満した。
その切なさゆえに、美鈴の胸を締め付ける忘れられない言葉がよみがえってくる。
かすかに涙が頬をつたう。
美鈴は定信義一のハンカチをそっと顔に近づけた。
……それを、涙で濡れた頬に当てた。
小さな美鈴の手が、そのハンカチを強く握った。
その震える手に、聞きたくない言葉が繰り返される。
(三年は無理でしょう。うまくいっても一年、二年もてば‥‥)
それは5日前のことだった。
入院していた病院で美鈴と母は診察室いた。
診察がすんで美鈴が先に青いカーテンで仕切られた向こうに姿を消した。
母は医者となにやら話をしている様子に、美鈴はカーテンで隔てられた診察室の隅で上着を着替えていた。
半分開けられた窓から庭の花壇が見える。
手入れされた色とりどりの春の花が心を癒してくれる。
花が大好きな美鈴は指差しながら花の名前を言った。
パンジー、すずらん、スイセン、あやめ……。
「美鈴ちゃん、花の名前をたくさん知ってるね」
近くにいた看護師の女の人が優しい笑顔を向けて話しかけてきた。
「家の庭に咲いてるの」
嬉しそうに美鈴は微笑んだ。
「ここから見るのが一番きれいね」
看護師はそう言って忙しそうにその場を離れていった。
美鈴は花壇を見ようと窓の近くに行った。
背伸びをして半身外に身を出そうとした時……突然、その声が聞こえてきたのだ。
美鈴の体は押し戻されるように診察室の真ん中まで戻っていた。
かすかに聞こえてきた声に、美鈴の小さな胸は締め付けられるような苦しさを感じた。
「三年は無理でしょう。うまくいっても一年、二年もてば‥‥」
その声は断片的に美鈴の耳に聞こえてきた。
あまりの驚きと恐怖感に頭がくらくらした。
朦朧としたまま美鈴は診察室を足早に出て行った。
「あら、娘は部屋に帰ったみたい」
母はそういうとカーテンに手を置いて一言だけ残して出て行った。
「そうですか? ペットを飼うのも大変ですね」
「私も好きで飼ってますけど、二年生きるのは、珍しいですよ」
したり顔で医者は言った。
美鈴はどうして病室に戻ったのかさえ覚えていなかった。
病院の個室のベッドで、流れる涙で枕を濡らした美鈴は、戻ってきた母を素直に見ることが出来なかった。
笑っている母がぎこちなく美鈴には見えた。
「泣いてるの?」
母は笑顔だった。
美鈴といるときはいつも笑顔を絶やさなかった。
そんな母の声にも顔を上げることが出来ない美鈴だった。
「どうしちゃったんですか……さっきまで花の名前を言って笑ってたのに」
そんな母の声も虚ろにしか聞こえてこなかった。
(三年は無理でしょう。うまくいっても一年、二年もてば‥‥)
幼い美鈴でも、その意味することが何か分からないはずがなかった。
「私……死ぬの? 死ぬのなんか嫌だよ」
泣きながら小さな声が聞こえた。
「何でそんなこと言うの。私の大事な娘が死ぬわけ無いわ」
母は駄々っ子のように泣き続ける、小さな美鈴の手を両手で握った。
その小さな手が助けを求めるように力を入れた。
「ほんとに? 私……死なないの」
母の手のぬくもりを感じた美鈴は安心したのか涙で濡れた顔を上げた。
「ほんとだって。美ちゃんが死んだら、お母さんが一番に泣いちゃうよ」
涙目の向こうで母の顔を見た美鈴は、母の思いに答えようと、ぎこちなく微笑んだ。
「おかしな子ね‥もうすぐお家に帰れるって先生言ってたでしょう。めそめそしてたら一日伸ばしてもらうわよ」
母の声は嘘のない綺麗な澄んだ声だった。
美鈴ははっとした。
「身体が冷えるから、そろそろお部屋に入りなさい」
綺麗な澄んだ声が響いた。
縁側の陽だまりには母が座っていた。
美鈴はにっこり笑った。その手には定信義市のハンカチが握られていた
そんな医者おらんやろ! とと、突っ込み無用(大汗)
読んでくださってありがとうございます。