76 これをこの世、の
鮮明な記憶ほど移ろいやすい。十年の歳月は忘れ去るに十分な長さではある。それでも朧な記憶が定信義市の脳細胞にぶら下がっていて、桂木美鈴の後ろ姿と無造作に重ね合わせようとする。
定信はゆっくり歩いていく若い女性が、道の角を曲がって見えなくなるまで、山田の案山子みたいに動かずに見ていた。
道を曲がって見えなくなったとき、強風に飛ばされた案山子が田んぼの上を滑空するみたいに角道に向かって歩き出した。
黒いカーテンで仕切られている向こう側を見るように、尋常ではない胸騒ぎは大きな謎を含んで定信の前にそびえていた。それが桂木美鈴だと教えているのだ。
多少の後悔をひきずり、それを確かめるために、どうしても家に戻らなければいけなかった。曲がっていった角に定信は立った。女性の姿が無いのを確かめると、ひとまず家に帰えろうと歩を早めた。
家の前の見慣れた通りに戻っても、年老いた男女二人が寄りそうように歩いているのが見えているだけだった。がっかり肩を落した定信は家の中に入っていった。
台所にいた母のところに行くと「誰か来た?」と聞いた。
「ずいぶん早いご帰還ね。誰も来なかったわよ。」
母の気の無い返事が聞こえてきた。別に、誰かが訪ねて来た様子もなかった。階段を上って部屋に入ると胸騒ぎは静まることなく、重い身体をベッドに投げだした。しばらくぼんやりしてから枕元の小さな本箱に手を伸ばして一冊の文庫本を取り出した。シュトルムのみずうみという小説だった。小学生だった桂木美鈴が読んでいた本だった。それをパラパラめくってすぐに閉じるとベッドから起きて窓を開けた。開けた窓には今歩いてきた道が左右に伸びているのが見える。住宅街のそれほど広くない道。そこをさっきの女性が通るのをあてもなく待っていた。
定信にとって見慣れている景色であった。
何かがおかしい。
目がそう感じたのは、景色の中に漠然とした違った何かが存在していたからである。
窓から見える景色は日に日に変化を繰り返しても、何年も見続けてきたものだ。遠くに古室由香里の家の大きな赤い屋根が朝の陽光を受け、向かいの家の楢の木が葉を茂らせている。引っ越していった桂木美鈴の家が電信柱の向こうに見える。それほど高くない垣根があり、ガラスをはめた木戸があった。定信は小学生の時連絡帳を持って行くたびに開けた木戸だった。
何かが変だ。身体中を血が駈けまわっていた。
定信の見開いた目が訝しげに動くと、桂木美鈴の家を眺めた。垣根の緑が連なり、木戸が懐かしい姿を見せていた。
桂木美鈴が引っ越してから垣根はブロック塀に造りかえられ、重々しい鉄の門扉に閉ざされているはずなのに。
昨日まではそうだった。眼をこすって、耳を引っ張った。しかし定信の見ているのは昔の木戸であった。
夢では無い。慌てて一階に駆け降りて玄関を乱暴に開けると、表に飛び出していた。その眼には懐かしい垣根と木戸が映っていた。あの時に戻ったみたいに定信はその場所までゆっくり歩いて行った。しばらく歩いて立ち止ると驚いたように半歩あとずさった。
木戸の傍らに佇んでいる一人の少女が定信の仕草をじっと見ていた。あの頃の少女のようであり、大人の女のようであり、それは定信を感動させ動揺させた。
「お久しぶりです……」
木戸の横にいる女性は定信に向かって言った。
昨日、別れて再会したみたいに、あっけないほど短い言葉だった。
青い空が広がり、一筋の雲が東から西に伸びていた。
閑散とした部屋の中央のデスクの上は綺麗に片づけられ、一人ポツンと作業服姿の男が座っている。
ギィーと音が鳴った。
ドアが開くと、お盆にコーヒーを乗せたミリタリージャケットを着た若い男が入ってきた。
作業服姿の男は振り返ると「ここが今日で終わりとは感無量だな」と感慨深く言った。
若い男はその男の前に湯気を立てているコーヒーカップを置いた。
「これは田中副所長代理補佐主任が、ここに勤務していた時に使っていたロイヤルコペンハーゲンのコーヒーカップです。暖房が止められているので、これで身体を温めて下さい」
「ロイヤルコペンハーゲン……そんな高価なものを平気で使っていたのか。税金の無駄遣いの極みだな……それにしても、いつまでも田中副所長代理補佐主任はないだろう」
「失礼しました。それじゃ、何と呼べばいいのですか」
「田中さんでいい。もうお前の上司ではないのだから」
田中副所長代理補佐主任改め作業服姿の田中はコーヒーを飲んだ。その姿を若い男がじっと見つめる。
「作業服姿の田中さんを見るのって初めてです。シルクのスーツはどうされたんですか」
「スーツは無用の長物だ。もう、あそこはお払い箱になったのさ」
「えぇ、お辞めになったのですか」
「退職勧奨とかいう、首きりだ」
言葉とは裏腹に、その表情に無念さは無い。
「それはなぜですか」
「己の利益に反することをする奴が目障りな連中がいるってことだ。今じゃ民間の部品工場で三十面の連中と一緒に五十面下げてアルバイトだ。俺はバイトだが、お前はまだ恐れ多い正社員様ってわけだ」
「そんな事だけで人の値打ちが決まるものではありませんから」
「それで値打ちを決める輩らも多い。非正規労働者は好きでそれをやってるわけじゃない。仕方なくもがきながら必死で働いている。俺は今までそれに目を瞑っていたが」
「同じ仕事をして、賃金が違うっておかしいはなしですよね」
「それも時代の綾だ」
田中は何かを見ているような視線を宙に投げた。若い男はその意味を考えた。
「田中副所長代理補佐主任」
「田中さんでいい」
「田中さんがお辞めになったのは、まさか、金の折り鶴が原因なのでは?」
「理由は一つじゃない」
「でも……」
「まぁ、運が尽きたってことだ……」
「田中さんも変わりましたね」
「そうでもないさ」
「似合ってますよ。作業服姿。格好いいです」
「褒めても何にも出んぞ」
田中は作業服をじっと見つめた。洗濯しても取れないのか胸のところに勲章のように油の染みがついていた。
「それで、あれはどうしたんだ」
「あれですか……もう大丈夫です。金の鶴は飛びたちました」
「そうか、飛びたった、か……詳しくは聞かないが、そりゃ良かった。ところで今度、結婚するらしいじゃないか」
「ありがとうございます。四月に結婚します」
「相手は幾つだ」
「今度二十歳になります」
「ずいぶん若い娘を射止めたな。うらやましいぞ。とにかく最近は結婚をしない、できない若い連中が多いらしい。倉廩実ちて則ち礼節を知り、衣食足りて則ち栄辱を知る。も、眉唾ものだ。しかし、仕事ばかりが能じゃない……やはり男は結婚して家庭を持ってこそだ。新婚旅行はどこへ行く?」
「それは、まだ考えてませんけど、下界へいこうかなと思っています」
「下界か……」
「どうしたんですか」
「いや、好きっこのんで下界に行く奴はおらん。下手したら戻ってこれないかもしれんぞ」
「それなら、それでもいいと思っています。泣いてくれる親兄弟がいるわけでもないので」
「何で、誰もがいやがるところにわざわざ出向く。欲の皮のつっぱった連中が目をギラつかせ、国民の利益に反することでも利害が絡めば平気で実行する一部の権力者にいいように支配されている。人と人との争いごとが耐えないし、町はうるさく、凶器のような車が人と肩を並べて走り回り、目に見えない魔物に身体をむしばまれて行く。転勤先でも下界支局は左遷中の左遷だからな。まぁ、何事も経験だ。機会があれば一度会わせろよ」
「はい、色々教えてほしいこともありますから、はっきり決まったら連絡します。その時は時間を開けてください」
「四月の何時だ?」
「はい、四月十一日です」
そんな空の上の会話など当然、二人には聞こえてはいない。
真っ直ぐに白い道が伸びていた。
ゴールまじかで、まさかの息切れ……。
ああわれダンテの 奇才なく
バイロン、ハイネの 熱なきも
石を抱( いだ)きて 野にうたう
芭蕉のさびを よろこばず (人を恋ふる歌(三高寮歌))
読んで頂きありがとうございました。