74 われに思ひ、の
その声に二人は一斉に目を凝らした。三平は眼鏡がずり落ちそうになり、あわててそれに手をやり、一二歩前に歩きかけたくらいだ。
確かに由香里が指差す彼方にオレンジ色の服を着て、こちらを見ている女性らしい人影はあった。
定信の視神経は光速度に迫る速さで前方の人影に焦点を合わせる。目を閉じる事なく口が開いた。
「ほんとに桂木美鈴なのか」
「直ぐに分かるわ」
傍らの由香里はニヤニヤ笑っていた。
その女性は微かな光を纏ってゆっくり近づいてきた。三平は目を凝らして見ていた。定信は近づく影に幼い桂木美鈴を重ね合わせていたが、その目が少しずつ吊り上がり、口が開いたままになった。
「冗談きついよ」
「やられた。いつの間にこんな話しが出来あがってたんだ」
定信と三平の精根尽きた声が上ずる。
「そうよ」由香里はニヤニヤ笑っているだけだった。
「まじかよ! なんでお前がここにいるんだ」
今度は声が沈む。
素知らぬ振りして近づいてくる女性の思わせぶりな声が、沈みかけた定信の後頭部を粉砕する。
「あなたの初恋記念日に参加できて、うれしいわ」
どこから見ても高校の同級生だった桂木麻奈美だった。
「ロスポワールを出たところで別れたはずだろう」
三平が不思議な表情をすれば、定信は由香里と麻奈美を見比べながら粉砕された後頭部を修復する。
「桂木麻奈美と桂木美鈴が同一人物というのは、無しにしよう」
「さあ、それはどうでしょう。この際だから、そう思っても良いんじゃない」
由香里の顔には意味ありげな頬笑みが張り付いていた。
麻奈美は驚いている二人を興味深く眺めていた。定信と三平もお互い見合いながら不思議な表情を崩さなかった。
「それに、今日は美鈴とつながる日でしょう」
そう言われれば、そうかも知れないと定信は由香里の声を聞き流し川面に視線を移した。
冗談が過ぎたと思ったのか、由香里が定信の肩を叩いて言った。
「今日は不思議な日だったわ。待ち合わせの場所に青柳君が桂木さんを連れて現れたんだもの。青柳君が女性を連れて来るなんてありえないことでしょう」
確かにそうだと定信は三平を見た。その言葉の意味を問うつもりだった。
「それが、たまたま偶然にロスポワールに行く途中に出会ったんだ。それで無理に……」
麻奈美は三平の言葉に重ねて言う。
「青柳君に聞いたら定信と会うって言うから連れてきてもらったのよ。私は四月から北海道へ行くからお別れの意味も込めて、今日は会いたかったの」
定信と三平は続けて起こる奇妙な出来事に頭を抱え込みたくなった。
「それはいいんだ。ただ、桂木麻奈美は桂木美鈴とはどういう関係なんだ。それを教えてくれよ」
「だから、私はその子をしらない。勿論その子も私を知らない。全くの赤の他人よ」
「今日は偶然に君が紛れ込んだってことなんだ」
「まぁ、そうね。青柳君がトイレに言っている間に、二人で考えたサプライズってこと」
嬉しそうに笑顔を浮かべる麻奈美は由香里を見た。由香里は少々微妙な笑みを浮かべて肯定した。
「じゃ、曲がりなりにも面子は揃ったってわけだから、折鶴を読むなり、川に流すなりしよう」
定信は少々投げやりな物言いで目の前の小さな折り鶴を見た。
三平はただ黙っていた。その沈黙は記憶の彼方の一人の少女が目の前に居る桂木麻奈美に似ている、その事実への戸惑いだった。ただ、それを素直には認めたくない捻じられた何かがどこかにあった。
確かな事は何が起こっても、状況は何も変わらないだろうと言うことだった。今、桂木美鈴が姿を現したとしても、三平はきっと無口な男になって黙ってしまうだろう。去っていった桂木美鈴に思いを寄せたのなら、それは幻なんだと気付いたからだ。
「美鈴が、何を私のためにお願いしてくれたのか、それを知るために……」
由香里が金の折り鶴に手をやり、それを右手の指先でつまんで左の手平の上に乗せた。それをしばらく眺めていた。静かな空気が川のせせらぎの音さえ止めてしまいそうだ。
「ちょっと、待ってくれ。今、思いついたんだ。桂木麻奈美が来たから言うんじゃないけど、俺はこの折り鶴の願い事を読まない。川に流すことも止める」
突然、定信は言った。
「どうして?」
由香里は不思議そうに定信を見た。
「この十年の間、この折り鶴は俺の元には無かった。だから俺はこれからの十年間、この折り鶴を大切に持っていなければいけない。そんな気がするんだ。別に何が書いてあるかそんな事はいい。これは俺が持っていなければいけないものだって今、気付いたんだ」
その言葉を聞いて三平は罰の悪そうな顔をした。
「そうだな。本当はそれにもっと早く気付くべきだった。そして僕は定信にこれを返すべきだったんだ」
すまなさそうに謝る三平に定信は言った。
「違うよ。あの時じゃ駄目だったんだ。きっと……」
言い終わった定信の顔に少し赤みがさし、遠い眼差しが少年のようだった。
「私は何が書いてあるか読みたいから、読んでもいいでしょう?」そう言って返答を待たずに由香里は折り鶴を一枚の金色の折り紙に戻した。それを裏返して覗き込んで小さな声で何かを呟いているのが聞こえた。その声はあまりにも小さすぎて耳を澄ましても聞こえてはこなかった。黙読を終わった由香里はニッコリほほ笑んで一言だけ呟いた。
「有難う……美鈴」
由香里の声は興味深けに聞いていた三人に軽い響きで聞こえてきた。それから書いてある一言、一言を小学生が教科書を読むみたいに読み上げた。別に驚くようなことは書いてはいなかった。小学生の少女が一生懸命書いたたどたどしい文字に、美鈴を思い出したのか由香里の目から涙が流れた。
前回は不覚にも、あとがきを書くのを忘れてしまいました。www
忘却とは忘れ去ることなり、我、忘却の彼方に問うりゃんせ。
エンジンの音は青春の金属音。
それはせせらぎのようでもあり、人の笑い声のようでもあった
読んで頂いて有難うございました。